表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
16/92

正法眼蔵 生死

「生死の中に仏が存在すれば、生死は存在しない」

 また、「生死の中に仏が存在しなければ、生死に(まど)わない」と言える。

 二つの言葉の意味は、定山と、夾山の圜悟克勤という、二人の禅師の言葉である。

 (

 定山は「生死の中に仏が存在しなければ、生死ではない」と言った。

 夾山の圜悟克勤は「生死の中に仏が存在すれば、生死に迷わない」と言った。

 )

 「道」、「真理」を会得した人達である、定山と、夾山の圜悟克勤の言葉なので、決して虚しく(もう)けられた言葉ではない。

 生死を離れようと思う人は、まさに、この二つの言葉の主旨を明らめるべきである。

 もし人が生死の外に仏を求めれば、進む方向を決める長柄(ながえ)を北にして南の国の越に向かおうと思う様な物であるし、顔を南に向けて北の北斗七星を見ようとする様な物である。かえって、ますます生死の原因を集めてしまうし、さらに、解脱の道を失ってしまう。

 ただ、「生死は『涅槃』、『煩悩を寂滅する事』である」と心得るべきである。

 そして、「生死は『涅槃』、『煩悩の寂滅』ではない生死である」として嫌うべきではないし、「生死は『涅槃』、『煩悩の寂滅』である」として願い求めるべきではない。

 こうした時、初めて、生死を離れる可能性が生じる。


 「生から死へ移る」と心得るのは、誤りである。

 (肉体は生きている一方で徐々に死んでいっている。)

 生は一時の位であり、既に前の生が存在するし、後の生が存在する。

 このため、仏法の中では、「生即不生」、「生とは生じる事ではない」と言う。

 (生とは変化である。)

 死も一時の位であり、既に前の死が存在するし、後の死が存在する。

 このため、仏法の中では、「滅即不滅」、「死とは消滅ではない」と言う。

 (死とは変化である。)


 生きている時には生きるより他に無いし、死ぬ時には死ぬより他に無い。

 このため、生まれたら生と向き合うべきであるし、死が来たら死と向き合うべきである。

 生死に仕えるべきであると言う事なかれ。願い求める事なかれ。


 生死は仏の命である。

 (

 神は大事な理由が有って人、生死、この世を創造している。

 人には、生死で煩悩を寂滅する、神からの使命である大いなる務めが有る。

 )

 生死を嫌い捨てようとすれば、仏の命を失おうとしてしまう事に成ってしまうのである。

 生死に留まって生死に執着すれば、仏の命を失ってしまうのである。


 仏の有様(ありよう)を心に留めるのである。

 生死を嫌う事が無いし、慕う事が無い時、初めて、仏の心に入る。

 ただし、仏を心で思い(はか)る事なかれ。仏を言葉で言い表す事なかれ。

 ただ、自分の身心をも放り忘れて仏の家である仏教に投げ入れて、仏の(ほう)から働きかけが行われて、仏の導きに従って行く時、力をも入れずに、心をも費やさずに、生死を離れ、仏と成る。

 そのため、人の誰が自分の心に停滞しているべきであろうか? いいえ!

 仏と成るのに、とても簡単な道が有る。

 諸々の悪を作らないし、生死に執着する心が無いし、一切の全ての生者のために思いやりを深くするし、(知と徳が自分より)上の者を敬うし下の者を思いやるし、全てを嫌う心が無いし、全てを願い求める心が無いし、心に「思う所が無い」し(うれ)う事が無い者を仏と呼ぶ。

 この他に仏をたずね求める事なかれ。


 正法眼蔵 生死

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ