正法眼蔵 道得
【抜粋】
真覚大師と呼ばれる雪峰義存の会に一人の僧がいて、山の辺に行って、草を結んで、草の屋根の小さな質素な庵を建てた。
庵の僧は、年月を重ねたが、髪を剃らなかった。
庵の僧は、自ら一つの木の杓を作って、谷の辺に行って川から水を汲んで飲んだ。
月日が経つにつれて、庵の僧の家風は密かに漏れ出た。そのため、
ある時、別の僧が来て、庵の僧に「『祖師西来』、『達磨が西のインドから中国へ来た事』の意図は、どういう物であろうか?」と質問した。
庵の僧は、「谷が深いので、谷の川の水を汲む杓の柄も長く成る様な物である」と言った。
質問した僧は臆して、庵の僧に礼拝せず、庵の僧に教えを請わず、山に昇って庵の僧の事を雪峰義存に話した。
雪峰義存は、庵の僧の話を聞いて、「とても不思議な人である。しかし、老いた僧である私、雪峰義存が、自ら庵の僧の所に行って、見抜いて、初めて納得するべきである」と言った。
ある日、雪峰義存は、突然、そばに仕えている侍者の僧に剃刀を持たせて庵の僧の所に引き連れて行った。
直ぐに庵に至った。
雪峰義存は、庵の僧に会うとすぐに、「道である真理を会得していて言い得たならば、あなたの頭を剃らない」と言った。
庵の僧は、(無言で、)頭を洗って来て、雪峰義存の前に来た。
雪峰義存は、庵の僧の髪を剃ってあげた。
【全文】
諸々の仏祖は、道を会得して言い得るのである。
このため、仏祖が仏祖を選ぶには、必ず、「道を会得して言い得るか、それとも未だなのか?」と質問して理解して取るのである。
「道を会得して言い得るか、それとも未だなのか?」と質問して理解して取るのは、
心でも、質問して理解して取るし、
身でも、質問して理解して取るし、
杖や害虫を払うための毛がついた棒である払子でも、質問して理解して取るし、
柱や灯籠でも、質問して理解して取る。
仏祖でなければ、質問して理解して取れないし、道を会得して言い得ない。なぜなら、仏祖でなければ、理解、会得が無いからである。
道を会得して言い得る事は、他人によって得る訳ではないし、自分の力の技能によって得る訳ではないが、ただ、正に、仏祖をわきまえて究めていけば、仏祖の道を会得して言い得るのである。
仏祖の道を会得して言い得る中で、昔も修行して証して究めていき、今も鍛錬して道をわきまえる。
仏祖が仏祖を鍛錬して、仏祖が言い得た言葉をわきまえて聞き入れる時、仏祖の道の会得は自然と三年、八年、三十年、四十年の鍛錬と成って、尽力して仏祖の道を会得して言い得るのである。
(
三十年、二十年は、皆、道を会得して言い得る様に成れるまでの年月である。
道を会得して言い得る様に成れるまでの年月が、力を合わせて、道を会得して言い得る様にさせてくれるのである。
)
鍛錬の三十年、四十年は、何十年間も、道の会得に、時間の隙間が無かったのである。
そのため、証して究めた時に、見て会得した真理は、真実である。
そのため、今、道を会得して言い得る事は、疑えない、間違い無い。
そのため、今、道を会得して言い得る真理は、証して究めた時に、見て会得した真理を備えているし、
証して究めた時に、見て会得した真理は、今、道を会得して言い得る真理を備えている。
そのため、今、道を会得して言い得る真理が有るし、今、見て会得した真理が有る。
今、道を会得して言い得る真理と、証して究めた時に、見て会得した真理は、一つであるし、永遠に鍛錬して行く道である。
今の鍛錬は、道を会得して言い得る真理と、見て会得した真理に、鍛錬させられて行くのである。
鍛錬での、全ての誤った考えの否定は、年月が深く多く重なって、更に従来の年月の鍛錬を脱ぎ落とす。
鍛錬を脱ぎ落とす時、「皮肉骨髄」、「理解」も、(古い理解を)脱ぎ落とす事をわきまえて受け入れるし、国土も、山河も、(古いものを)脱ぎ落とす事をわきまえて受け入れる。
鍛錬を脱ぎ落とす時、鍛錬を脱ぎ落とす事を究極の「宝が存在する所」、「悟り」として至ろうと思考して行くが、究極の悟りである、鍛錬を脱ぎ落とす事に至ろうという思考が、出現しているので、まさに、鍛錬を脱ぎ落とした時に、期せずして、道を会得して言い得る真理が形成されて現されるのである。
心の力ではないし、身の力ではないが、自然と、道を会得して言い得る真理が存在するのである。
すでに、道を会得して言い得ると、道を会得して言い得る事を珍しく思わないし、不思議に思わない。
けれども、会得している道を言い得る時には、言い得ない真理を言わないのである。
(真理を理解して言い表せる様に成った時、厳密には真理は言い表せないので、言い表せない真理を言わなく成る。)
言い得る様に道を会得していると認め得ても、言い得ない真理の奥底を徹底して言い得ないと未だ証して究めないのは、仏祖の「面目」、「有様」ではないし、仏祖の「骨髄」、「理解」ではない。
そのため、二十八祖の達磨と門人達と二十九祖の慧可の「皮肉骨髄」の話で、慧可が無言で三回礼拝して戻った時に会得していた道である真理の奥底が、どうして、「皮肉骨髄」で門人達が無言ではなかった時に会得していた真理の奥底と同じだろうか? いいえ! 「皮肉骨髄」の話で、慧可が無言であった時に会得していた真理の奥底と、門人達が無言ではなかった時に会得していた真理の奥底は、異なる!
「皮肉骨髄」の話で、門人達が無言ではなかった時に会得していた道である真理の奥底は、慧可が無言で三回礼拝して戻った時に会得していた真理の奥底と接していないし、慧可が無言で三回礼拝して戻った時に会得していた真理の奥底を備えていない。
今、私が、他の人達と、色々な手段で悟りへ導こうと、見えている時は、今、他の人が、私達と、色々な手段で悟りへ導こうと、見えているのである。
私には、言い得る道である真理の奥底が有るし、言い得ない道である真理の奥底が有るし、他人にも、言い得る道である真理の奥底が有るし、言い得ない道である真理の奥底が有る。
言っている道である真理の奥底には、私や他人が存在する、と言えるし、言っていない道である真理の奥底には、私や他人が存在する、と言える。
趙州真際大師は、僧達に示して「あなたが、もし一生、寺や林を離れず、こつこつと坐禅して、五年間、十年間、無言でも、あなたが『言えない人』であると人々は呼ぶ事ができないし、諸仏も、あなたをどうにもできない」と言った。
そのため、五年間、十年間、寺や林にいて坐禅して秋の霜から春の華までの一年間を何度も経験して、一生、寺や林を離れず坐禅して鍛錬して道をわきまえる事を想像すると、坐禅し切っている、こつこつと坐禅している人は、いくらかの道を会得して言い得ているのである。
寺や林を離れず坐禅し坐禅の合間に歩く人は、人々が「言えない人」であると呼ぶ事ができない人にいくらか成っているのである。
人は厳密には「一生の従来の所」、「今まで」、「前世」を知らないが、人が一生、寺や林を離れず坐禅すれば、一生は寺や林を離れない坐禅と成る。
一生には、寺や林の坐禅には、どんな天へ通じる道が有るのか?
ただ、こつこつと坐禅する事をわきまえて受け入れるべきである。
言わない事を嫌う事なかれ。
言わない事は、道を会得して言い得る事による、最初から最後まで正しい事なのである。
こつこつと坐禅する事は、今世の一生と、来世の二生に成る。一時、二時ではない。
こつこつと坐禅して言わない五年間、十年間があれば、諸仏も、あなたをないがしろにする事は無い。
なぜなら、実に、こつこつと坐禅して言わない人を、仏の眼でも見れず、仏の力でも牽引できず、諸仏も、どうにもできない。
趙州真際大師の言葉の真意は、こつこつと坐禅して言わない人が選び取っている道である真理によって、諸仏も「(真理を)言えない人」であると呼ぶ事ができないし、(言い表せない真理を言い表せないとしている人なので)諸仏も「言える人」であると呼ぶ事ができない。
そのため、一生、寺や林を離れず坐禅するとは、一生、会得している道を離れず坐禅する事である。
こつこつと坐禅して言わない五年間、十年間とは、道を会得している五年間、十年間なのであるし、
こつこつと坐禅して言わない五年間、十年間とは、一生、言い得ない道である真理を離れない事であるし、
こつこつと坐禅して言わない五年間、十年間とは、言い得ない道である真理による五年間、十年間であるし、
こつこつと坐禅して言わない五年間、十年間とは、百、千の諸仏を坐禅し切る事であるし、
こつこつと坐禅して言わない五年間、十年間とは、百、千の諸仏が、あなたを坐禅し切る事である。
そのため、仏祖の会得している道である真理の奥底とは、一生、寺や林を離れず坐禅する事である。
たとえ「(真理を今は)言えない人」でも、(一生、寺や林を離れず坐禅する人には、)会得している道である真理の奥底が存在する。
「(真理を今は)言えない人」には会得している道である真理は無い、と学ぶ事なかれ。
道を会得して言い得る人が、「(言い得ない真理を)言えない人」に成る場合が有る。
「一生、寺や林を離れず坐禅しているが真理を今は言えない人」、「言い得ない真理を言えない人」には会得している道である真理がある。
「一生、寺や林を離れず坐禅しているが真理を今は言えない人」、「言い得ない真理を言えない人」の言葉は、聞く事ができるし、聞くべきである。
「一生、寺や林を離れず坐禅しているが真理を今は言えない人」、「言い得ない真理を言えない人」でなければ、「一生、寺や林を離れず坐禅しているが真理を今は言えない人」、「言い得ない真理を言えない人」と、どうして真の意味で出会えるであろうか? どうして話し合えるであろうか?
「一生、寺や林を離れず坐禅しているが真理を今は言えない人」、「言い得ない真理を言えない人」と、真の意味で出会えた人、話し合えた人は、既に、「一生、寺や林を離れず坐禅しているが真理を今は言えない人」、「言い得ない真理を言えない人」である。
「一生、寺や林を離れず坐禅しているが真理を今は言えない人」、「言い得ない真理を言えない人」と、「どの様にしたら真の意味で出会えるか?」、「どの様にしたら話し合えるか?」と思考して、学に参入して、「一生、寺や林を離れず坐禅しているが真理を今は言えない人」、「言い得ない真理を言えない人」をわきまえて究めるべきである。
真覚大師と呼ばれる雪峰義存の会に一人の僧がいて、山の辺に行って、草を結んで、草の屋根の小さな質素な庵を建てた。
庵の僧は、年月を重ねたが、髪を剃らなかった。
庵の僧の草の屋根の小さな質素な庵での生活を誰が知るであろうか?
庵の僧の山の中での動静は静かである。
庵の僧は、自ら一つの木の杓を作って、谷の辺に行って川から水を汲んで飲んだ。
実に、庵の僧は、「飲溪」、「谷で川から水を飲む人」の種類の人である。
月日が経つにつれて、庵の僧の家風は密かに漏れ出た。そのため、
ある時、別の僧が来て、庵の僧に「『祖師西来』、『達磨が西のインドから中国へ来た事』の意図は、どういう物であろうか?」と質問した。
庵の僧は、「谷が深いので、谷の川の水を汲む杓の柄も長く成る様な物である」と言った。
質問した僧は臆して、庵の僧に礼拝せず、庵の僧に教えを請わず、山に昇って庵の僧の事を雪峰義存に話した。
雪峰義存は、庵の僧の話を聞いて、「とても不思議な人である。しかし、老いた僧である私、雪峰義存が、自ら庵の僧の所に行って、見抜いて、初めて納得するべきである」と言った。
雪峰義存の言葉の真意は、「庵の僧の言葉の善さは、不思議なほどに善い。けれども、老いた僧である私、雪峰義存が、自ら庵の僧の所に行って、考えてみるべきである」という事である。
ある日、雪峰義存は、突然、そばに仕えている侍者の僧に剃刀を持たせて庵の僧の所に引き連れて行った。
直ぐに庵に至った。
雪峰義存は、庵の僧に会うとすぐに、「道である真理を会得していて言い得たならば、あなたの頭を剃らない」と言った。
雪峰義存の言葉を理解するべきである。
「道である真理を会得していて言い得たならば、あなたの頭を剃らない」という言葉は、「頭を剃っていない人は、道である真理を会得していて言い得る」と誤って聞こえてしまう。
どうだ?
「道である真理を会得していて言い得たならば、あなたの頭を剃らない」という言葉を「頭を剃っていない人は、道である真理を会得していて言い得る」と誤って会得してしまって言い得てしまった人の頭は、最終的に、剃ってもらえない。
雪峰義存の「道である真理を会得していて言い得たならば、あなたの頭を剃らない」という言葉を会得するには、「聞く耳を持つ」力が有る人が聞くべきである。
雪峰義存の「道である真理を会得していて言い得たならば、あなたの頭を剃らない」という言葉は、「聞ける耳を持つ」力が有る者のために開演するべきである。
庵の僧は、(無言で、)頭を洗って来て、雪峰義存の前に来た。
庵の僧は、道である真理を会得していて言い得るから、(厳密には真理は言い表せないので、言い表せない真理を言わないために、)無言で頭を洗って来たのか? 道である真理を会得していなくて言い得ないから、無言で頭を洗って来たのか?
雪峰義存は、庵の僧の髪を剃ってあげた。
この雪峰義存の逸話は、実に、優曇華が三千年に一度、現れる様な物である。出会い難いだけではなく、聞く事が難しいであろう。
七聖や十聖の未熟な境界ではないし、三賢や七賢の未熟な見解ではない。
霊感が無い文字だけの経典の似非学者の輩や、超常現象を起こせるだけの輩には、どう考えても、思い量る事ができない。
「仏の『この世』への出現に出会う」と言うのは、この雪峰義存の逸話の様な話を聞く事を言うのである。
少し考えて欲しい。雪峰義存の「道である真理を会得していて言い得たならば、あなたの頭を剃らない」という言葉は、どういう事だろうか?
雪峰義存の「道である真理を会得していて言い得たならば、あなたの頭を剃らない」という言葉を、道である真理を未だ会得していない人が聞くと、力が有る人は驚き疑うであろうし、力が無い人は茫然と成るであろう。
雪峰義存は、仏について明らかに質問せず、道である真理について詳細に質問せず、「三昧」、「定」について明らかに質問せず、「陀羅尼」、「真理の保持」について詳細に質問せず、「道である真理を会得していて言い得たならば、あなたの頭を剃らない」と明らかに質問した。
雪峰義存の「道である真理を会得していて言い得たならば、あなたの頭を剃らない」という言葉は、質問している様ではあるが、教えている様でもある。
明確に詳細に学に参入するべきである。
庵の僧は、真の心が有るので、会得している道である真理に助けられて茫然と成らなかった。
庵の僧は、家風が隠れず、頭を洗って来た。
庵の僧が頭を洗って来たのは、仏、自らの智慧も、辺を得る事ができない、法である。
庵の僧が頭を洗って来たのは、仏が身を「この世」に出現させる事であるし、法を説く事に成るし、生者を仏土に渡す事に成るし、頭を洗って来る事自体である。
庵の僧が頭を洗って来た時、もし雪峰義存が仏祖でなければ、剃刀を放り下ろして「ハハ」と大笑いするであろう。
しかし、雪峰義存には真理を見抜く力が有り、雪峰義存は仏祖であるので、雪峰義存は、庵の僧の髪を剃ってあげた。
実に、雪峰義存と庵の僧が、仏と仏でなければ、こう成らなかった。
雪峰義存と庵の僧が、一つの仏でなければ、二人の仏でなければ、こう成らなかった。
雪峰義存と庵の僧が、竜の様な高徳の僧と高徳の僧でなければ、こう成らなかった。
黒竜の宝玉は、黒竜の惜しむ心が飽きて怠らないといえども、自然と、黒竜の宝玉を収める事ができる理解が有る人の手に入るのである。
知るべきである。
雪峰義存は庵の僧を見抜き、庵の僧は雪峰義存を見た。
言い得ない道である真理を会得しているので、庵の僧は髪を剃ってもらったし、雪峰義存は髪を剃ってあげたのである。
雪峰義存という、道を会得している良き友は、期せずして、訪ねてくる、道である真理が存在する。
庵の僧という、言い得ない道である真理を会得している良き友は、期せずして、自己を知る所が有ったのである。
自己を知る学に参入していれば、道である真理の会得が形成されて現れるのである。
正法眼蔵 道得(道である真理を会得して言い得る事)(「道」には「言う」という意味が有る。)
千二百四十二年、観音導利興聖宝林寺で書いて僧達に話した。