「傷跡」
左手の親指の付け根を14針、右の首筋を23針、左の側頭部から額にかけて39針。
結局、三週間入院していた。
指は神経が切れてしまって今は動かない。
医者には神経は繋いではいるので、希望は捨てないでリハビリを頑張るように言われた。
側頭部から額にかけての傷は、包丁の刃が頭蓋骨で止まってくれていたようで、首筋同様に目に見える傷は残ってしまうけど、後遺症が残るほどの怪我ではなかった。
病院に運び込まれた時は、多量出血を心配されたようだけど幸運にも事なきを得た。
もう少し遅れていたら本当に危なかったらしい。
搬送される前に警官が止血してくれたのも大きかったようだ。
とにかく僕は助かった。
意識が戻った時は悪夢を見ていたのかと思った。
しかしそれも一瞬で、すぐに身体の痛みと目に入った点滴や白いカーテンで、自分の置かれている状況を理解した。
そしてあれが現実に起こった事だと思った途端、恐ろしさと言うよりも悲しくて涙が溢れた。
キヨシおじさんにアキおばさん。
もうあの二人がいないのだと思うと涙が止まらなかった。
キヨシおじさんは年が近くなって来た事もあり、最近では「見えない友達」の中でも一番の話し相手だった。
時代は違えど同じ男同士、話は尽きない。
異性の話や男の生き方なんかを、失敗談を交えながら面白おかしく聞かせてくれた。
アキおばさんもやはり年が近くなって来たせいか、昔よりも良く話すようになっていた。
それにアキおばさんは格好こそ割烹着姿だけど、大人になってから見ると、39歳なだけあって意外と若くて綺麗なのだ。
子供の頃の印象とは随分と変わって見えている。
話す内容もそうで、相変わらずお母さん的な事も言うけど、最近では「その歳で女を知らないのも可哀想だから、おばちゃんで良かったら相手してあげるよ?」なんて事も言ったりしていた。
僕が顔を赤らめるのを見て楽しんでいたのだ。
初体験が幽霊なんて有り得ない。
しかし、何処かでアキおばさんを女として意識してしまっているのは確かで、それが余計に恥ずかしかった。
もう二人とは、そんな他愛のない会話も出来ない。
僕が歳を重ねるつれ、おじさんやおばさんだった二人が友人のようになっていった。
出来ればこれからも歳を重ね、僕が二人の年齢を追い越して、また違う心境で話をしたかった。
それももう出来ない。
僕にとって二人は掛け替えのない家族。
「見えない友達」は、みんな僕の掛け替えのない家族だ。
そして、この家族との別れは僕が死ぬ時だと思っていた。
その別れがまさかこんな唐突に訪れるとは、夢にも思わなかった。
入院中に警察の取り調べも受けた。
その中でゆきのちゃんの死を知らされた。
彼女は警官を斬りつけて逃走し、大通りに出たところで車にはねられたそうだ。
即死だったらしい。
警察は逃亡を諦めての自殺だとみているようだ。
その警官はゆきのちゃんが死亡した経緯を簡潔に語り終えると、彼女の事よりも車を運転していた人を気の毒がっていた。
ゆきのちゃんの事は、気が狂った女としかみていない話ぶりだった。
確かにあの常軌を逸した表情しか知らなければ、そう取られてもおかしくはない。
おかしくはないが、ゆきのちゃんにはもっと違う顔があった……。
僕は警官の話を複雑な気持ちで聞いていた。
そして話がゆきのちゃんへと戻り、警官は彼女について僕に聞いてきた。
それと言うのも、彼女は身元がわかるものを携帯していなかったようで、身元確認が出来ていなかったのだ。
まずゆきのちゃんが僕の彼女だと話すと、警官は気まずそうに悔やみの言葉を口にし、珍奇と憐れみが綯い交ぜになった目で僕を見るようになった。
今の今まで気狂いした女だと話していただけに、彼女とまでは思っていなかったみたいだった。
そうして改めてゆきのちゃんの名前や連絡先などを聞かれたが、考えてみたら携帯電話は家に置きっ放しで、彼女の名前以外は即答出来るものがなかった。
ただ、その名前すら本名なのかどうかはわからない。
あの時のゆきのちゃんは自分の事を『サキ』と言っていたからだ。
警官には一応その事も添えて名前を教えた。
今となっては本名かどうかわからない名前。
そう考えてみると、僕はゆきのちゃんの情報をあまり持っていない。
何回か家の前まで送った事があるので、家の場所はわかるけど正確な住所は知らない。
携帯電話に頼り切りで電話番号も記憶していない。
大抵はそんなものなのかも知れないけど、もし名前が違うのだとしたら、架空の恋愛をしていたような気にもなってくる。
この半年の間、僕はゆきのちゃんの事を知ろうといていたのだろうか。
浮かれて何も見えてなかったのではないか?
ゆきのちゃんはどんな事を考えて僕とつき合っていたのだろう。
そもそも最初の出会いも偶然ではなかったのだろうか?
昔のように僕をストーキングしていたのだろうか……。
今でもあのストーカーの子がゆきのちゃんだなんて信じられない。
しかしあの時のゆきのちゃんの言動は、ストーカーの子がゆきのちゃんだと、確信せざるを得ないものがあった。
あの頃の恨みをずっと抱えていたのだとしたら、半年前に声をかけて来た時からずっと僕を殺そうと思っていたのだろうか……。
もしそうならば、やはり僕は何も見えてなかったのだろう。
もっとゆきのちゃんを知ろうとすれば、もしかしたら気づけていたのかも知れない。
そしてもっと違う答えを見つけられたかも知れない。
何より、ゆきのちゃんが死ぬ事もなかったのかも知れない……。
僕は真剣に相手の事を考えていなかったのだ。
ただ浮かれてるだけで、相手の気持ちに甘えていたのだ。
これはゆきのちゃんがどうこうではない気がする。
好きならば尚更、もっと相手を知りたくなるものだし、もっと相手の気持ちを考えてあげるべきだ。
それが人を好きになるって事ではないのだろうか。
ゆきのちゃんがあのストーカーの子だったとしても……。
結局、警官にはストーカーの話はしなかった。
とにかく急に豹変したとだけ……。
警官はもっと話を聞きたそうだったけど、僕の体力も限界に近く、何より携帯電話のない僕からは、これ以上引き出す情報がないと判断したようで、退院後に改めて詳しい話を聞かせて欲しいと言い、病室を後にしたのだった。
今日がその退院の日だ。
久々にみんなとも会える。
とは言え、みんなは一度だけ病院に顔を見せていた。
ただ、言葉を交わすことはなかった。
みんなと話をしているところを病院にいる霊に見られると、その霊達が僕に興味を持ってついて来てしまうからだ。
みんな心配そうな顔で僕を見ていた。
でも、そこにキヨシおじさんとアキおばさんの顔はない。
みんなの顔を見て安心した反面、厳しい現実を突きつけられた瞬間でもあった。
帰ったら何も変わらずに二人がいたりしないだろうか?
そんな事を願いながら玄関の前に立った。
「ただいまー」
僕は極力いつものように玄関のドアを開けた。