「恐怖」
僕は翌日から仕事を休み、ゆきのちゃんとも具合が悪いとの理由で連絡は控えていた。
それも今日で三日が過ぎようとしている。
とにかく、ゆっくりと考えたかったのだ。
ゆきのちゃんにはあの夜に電話した。
風邪をひいてしまって寝込んでいるので、しばらく応答できないかも知れない、と。
一緒に晩御飯を食べた数時間後だと言うのに……。
それでも彼女は、泣きそうな声で心配してくれていた。
ウチに来て僕の看病をしたそうだったけど、幽霊屋敷を匂わせて遠慮してもらった。
僕はそんな幽霊屋敷、「見えない友達」のいる自室にこもり、まんじりともしない夜を過ごしている。
やはりどう考えてもあのストーカーとゆきのちゃんが繋がらない。
ただ、今日になって彼女のラインがおかしくなっている。
「大丈夫?」「会いたいよ」「声が聞きたいよ」「これから行っていい?」「迷惑かな?」「本当に大丈夫?」「会いたいよ」「声が聞きたいよ」「これから行っていい?」「迷惑かな?」「嫌いになっちゃった?」「もしかして他に好きな人がいるの」「絶対に許さない」「見つけ出す」「大丈夫?」「会いたいよ」「声が聞きたいよ」「これから行っていい?」「もしかして他の女の子の家にいるの」「そんなの絶対に許さない」「絶対に見つけ出す」「本当に大丈夫?」「会いたいよ」………
途中から怖くなって返事を返せなくなった。
今はラインのアイコンには800を超える未読メッセージ。
少し異常な気もする反面、こんな事で彼女を不安にさせてしまい、追い詰めてしまっているのかとも思うと、なんとも遣る瀬無い気持ちになって来る。
『レイちゃん、やっぱりこのままだと危ないわ』
サキちゃんが不安げな声を上げた。
サキちゃんは今までずっと同じ部屋にいたけど、ずっと会話する事なく黙っていた。
他のみんなも同様だ。
時折目を合わせるくらいで、そっと僕を見守ってくれていた。
「な、何が危ないの?」
言いながらも例の壁に目が行ってしまう。
相変わらず壁掛け時計が時を刻んでいるだけだ。
『私たちだけでは抑えきれなくなってる……』
「え?」
もう一度壁を見て目を疑った。
ほんの一瞬だが、壁掛け時計のすぐ下から黒い手が伸びるのが見えたのだ。
「今の……」
霊と言う存在は物心ついた時から慣れ親しんできたはずなのに、このほんの一瞬で全身が恐怖で粟立った。
黒い手。
暗黒のような黒。
一瞬の間だけでも、その暗黒の中で何かが蠢いてるように見えた。
その蠢く何かが僕を暗黒の中へと引きずり込む。
そんな錯覚に襲われた。
得も言われぬ絶望的な恐怖だった。
『やっと見えたんだな?
俺たちがどんなに心配してたか、これでお前もわかったろ?』
キヨシおじさんがそう言いながら、僕を庇うように壁との間に立ちはだかった。
その横にはアキおばさんの後ろ姿。
『レイちゃん、もうこの部屋から出た方がいいわ』
「もうアレは抑え切れないって事?」
『そう。私たちの存在だけだと……もう限界まで来てる。
私たちで出来るだけ食い止めるから、レイちゃんはなるべく遠くに逃げて!』
「でも、みんなはどうなるんだよ?!」
『大丈夫だ坊主!
野暮な心配などせず、お前は言われた通り逃げろ』
僕は知っている。
ミノルじいさんは無理している時に限って僕を坊主と呼ぶ事を。
みんな、消滅したりしないよな?
こんなの成仏でもなんでもない。
こんなんで消滅なんかさせたくない。
さっきからずっと携帯電話が震え続け、その振動音が耳障りに机を鳴らしている。
それに呼応してラインの未読通知が恐ろしい速さで増えている。
ん?
携帯電話を見た視界の端に違和感を覚えた。
携帯電話の延長線上。
部屋の隅にある本棚。
いつもなら目が行かないところだ。
本棚の一番下の漫画がヤケに前に迫り出している。
綺麗に揃って迫り出しているので一見わからない感じだが、上の段の漫画との差を見れば一目瞭然だ。
僕はこんな仕舞方をした覚えはない。
すぐさま本棚へ駆け寄り、下の段の漫画を外にぶちまけた。
「な……」
思わず息をのむ。
「なんでこんな物がここに……」
漫画を退けた本棚には、いつの日か焼き払ったぬいぐるみがあったのだ。
白いフェルト生地で手作りされたクマだ。
鼻は黒い生地でパッチワークされ、目には赤い釦が髪の毛で縫い付けられている。
きっとこの中にも髪の毛が詰まっているのだろう。
まさにあの時に何度も送られて来たぬいぐるみだ。
忘れはしない。
この三日、ずっと記憶を手繰って見ていたものと同じものだ。
「なんでここにあるんだよ……」
『彼女が隠したに違いないわ』
「…………」
『だって……』
思わずサキちゃんを睨みつけてしまった。
でも確かに考えられる……。
ゆきのちゃんが来た日は、みんなには部屋から出てもらっていた。
そのせいで皿を落としたり、階段を軋ませたり色々やられたんだった。
僕が飲み物を取りに行っている間とか、やろうと思えば簡単に出来ただろう。
ただ、全くの別人なんだよ、あの子とは……。
『玲士! もう時間がねぇ。お前は早くこの部屋から出ろ!』
キヨシおじさんの声と同時に、ガタガタガタガタガタガタと物凄い音がした。
部屋の窓ガラスが割れそうなくらい震え出したのだ。
『早く出て行きなさい!』
「でも……」
アキおばさんの鬼気迫る声。
出て行けと言われたって、みんなを置いて一人で出て行くなんて無理だ。
『坊主、その人形を外に出したら此奴の力も弱まるかも知れん!
さっさとそいつを持って出て行け!』
『そうよレイちゃん、お願いだから早く逃げて!』
『来たぞ! 早く出てけっ!』
ミノルじいさんにサキちゃん、そして最後にキヨシおじさんが叫ぶ。
壁を見ると、黒い手が二本、むくむくと伸びて来ていた。
壁から抜け出すように暗黒の顔が浮き出て来る。
うじゃうじゃ暗黒の中で何かが蠢きながら、胴体、足と、ゆっくりと全貌を露わにしていく。
「ひっ……」
暗黒の顔が僕を見た。
暗黒の中で蠢く何かが僕を誘っている。
恐怖で全身の毛穴が一瞬にして粟立つ。
しかし絶望的な恐怖はその一瞬で、不思議と安心感を覚えて何もかも委ねたくなってくる。
『玲士、てめー何やってやがんだ!』
キヨシおじさんの声がした瞬間、ガシッと背中から抱え込まれ、そのまま後方へ投げ飛ばされた。
僕は無意識に生霊に近づいていたようだ。
『坊主、早く逃げろ! キヨシの死を無駄にするでないっ!』
え?
ミノルじいさんの声で生霊に目を向けると、ジジ、ジジ、ジジっと電子音のような音を立てながら、キヨシおじさんが暗黒の中へ吸い込まれていくところだった。
もう既に上半身は暗黒の、生霊の中だ。
「キヨシおじさんっ!」
『いいからあんたは逃げるのよ!』
キヨシおじさんを引っ張り出そうと足を掴んだところで、アキおばさんに思いっきり突き飛ばされた。
アキおばさんはその勢いで暗黒の手に頭を掴まれ、同じように電子音を上げながら吸い込まれていく。
「ア、アキおばさん……」
『あ、あんたは早く……』
アキおばさんの顔が首が、どんどん吸い込まれていく。
『レイちゃんお願い! 早く逃げて!』
『坊主、まだわからんか!』
『行け! 玲士が逃げ切ったら俺たちも逃げるから早く行け!』
みんなの叫び声が重なる。
「本当だなタケゾー!」
『嘘じゃねー! いいから早く行け!』
タケゾーが笑うのを見て、僕は走った。
あいつ、絶対に嘘だ。
転がるように階段を下りる。
あの笑みは嘘をついた後に浮かべる笑みだ。
キッチンに駆け込み棚の引き出しを開け、ライターを手に取る。
僕は嘘だと思った瞬間、これしかないと思った。
このぬいぐるみを外に出せば生霊の力が弱まるかも知れない。
ミノルじいさんが言った事だ。
嘘かも知れないけど、それしか考えられなかった。
ライターを手に玄関へ走り、裸足のままドアを開けて外へ出る。
「ゆ……きのちゃん……?」
ゆきのちゃんが門の外に立っていた。