「彼女」
何か飲もうと冷蔵庫を開けた時、携帯電話の着信音が鳴り響いた。
携帯電話の画面には『ゆきの』。
31年間生きて来て、初めて出来た僕の彼女だ。
「どうした?」
「うん。何してるかなぁって……」
電話口からしなだれかかるような彼女の声。
これがリア充と言うヤツが耳にする音声なのだろう。
「家にいるだけで、別に何もしてなかったよ…」
寂しいけどこれが事実だ。
「見えない友達」と揉めてる最中、とは言えないし。
「うん。そう思って近くに来ちゃったんだけど……」
「そうなの!?」
確かに電話の向こうからは雨音や車の音が聞こえてくる。
彼女が外にいることは間違いないだろう。
「じゃあウチに……って、これからそっち行くよ。今どこにいるの?」
「ごめんね急に…。今駅前のコンビニの前にいるの」
「じゃあ5分で行くからそこで待ってて」
僕は彼女の返事も聞かずに携帯電話をオフにすると、財布を手に取り大急ぎで家を出た。
本当だったらウチに呼んであげたい。
だが、そうもいかない事情がある。
彼女にとってのウチは、完全にお化け屋敷だからだ。
誰もいないはずなのに、イスが動く、皿が落ちる、階段が軋む、電気が点いたり消えたりするなど、「見えない友達」の悪戯が過ぎて完全に怖がっている。
「古い家だから……」
と、あの時は訳の分からない言い訳をして、早々に家を出たのだった。
全くみんなにはがっかりしたよ。
友達だったら、もっと応援してくれてもいいと思う。
「ごめん、待った?」
「あ、そのシャツ久しぶりだね?」
「そ、そう? なんか急いでたから部屋着で来ちゃったんだけど……。
こんなの着てるとこ、見られたことあったっけ?」
「そうなの? なんか見た事ある気がしたから……」
可愛らしく首を傾げる彼女。
彼女はこんな風に少し惚けたところがある。
それもまた可愛いところだ。
このシャツは高校生の時に良く着ていたもので、今はもっぱら部屋着に成り下がっている。
コンビニに行くにも着替えるくらいボロなので、彼女は絶対に初見のはずだ。
今も家を出てからこのシャツを着てた事に気づき、戻って着替えようか迷ったくらいだ。
「それにしてもこんな雨の中、急にどうしたの?」
「顔が見たくなっちゃった…」
くぅーっ。可愛い事言ってくれるねー!
いや、顔も可愛いんだよね、彼女。
本当、なんで僕なんかを好きになってくれたのか不思議なくらい可愛い。
歳は三つ下だけど、何処か大人っぽい雰囲気もあって、最初は小悪魔的に僕を弄んでるのかと、密かに構えていたくらいなのだ。
だってこんな可愛い子に街で声をかけられたんだよ?
自分もそこまでブサイクではないとは思うけど、こんな可愛い子に声をかけられたのは初めてだったし、しかもそんな子に一目惚れだなんて言われたのだ。
あの時は思わずキョロキョロ周りを見回してしまった。
何処かからテレビクルーが出てきて「ドッキリですー」なんて言われても、なんらおかしくない状況だった。
「ご飯食べた?」
「まだだよ?」
「じゃあ、そこの中華屋で食べよっか?」
「わぁ嬉しい! あのお店、玲士くんと一緒に入ってみたかったの!
私、レバニラ炒めが食べたい!」
「本当! あそこのレバニラ炒め、すっごい美味しいよ?
僕の大好物なんだよね。あの店では昔っからレバニラばっか食べてんだよ」
目をキラキラさせて僕の言葉に頷く彼女。
それにしてもレバニラ炒めが好物とは、やっぱり気が合う。
食の好みが一緒って、付き合う上で大事だよね。
家でカップラーメンとか食べてなくて良かったよ。
「美味しー!」
「でしょ! ここのレバニラは山椒が効いててクセがあるけど、これがまたご飯が進んで美味しいんだよね…って、ゆきのちゃん!」
「な、なに玲士くん…」
彼女がチョロリとレバニラ炒めにラー油を垂らしたのだ。
僕が長年にわたりやってきた食べ方だ。
「そう! いいねぇ、ゆきのちゃん。
僕もいつもラー油かけて食べてるんだよね。
美味しいよねー!
三分の一はそのまま食べて、残りはラー油で楽しむ。
これ、ここのレバニラの鉄板の食べ方ねっ!」
「フフフ、そうなんだ?
玲士くんって面白いこだわりがあるのね?」
彼女は肩をすくめて笑う。可愛い。なんだよこの幸せな食事は!
しかし食べ方の趣味までガチに合うとは、ますます運命的な気がしてきたよ。
僕は久々のレバニラ炒めの美味しさも手伝って、この日の夕食は、人生で一番と言うくらいの幸福な時間を過ごした。
「こ、今度はウチに来て……ね?」
「…………うん……」
改札口での別れ際、頬にキスされた。
彼女と知り合って半年ほど経つが、彼女とはまだそう言う仲にはなっていない。
31年間のプライドが…いや、童貞の足枷が邪魔して一歩が踏み込めなかった。
正直に話して気持ち悪いとか思われたらアレだし、隠してたら隠してたで、いざ本番と言う時に上手く出来なかったら恥ずかしい。
それで嫌いになられた日には目も当てられない。
正直言って怖かったのだ。
何度も振り向きながら手を振る彼女。
そんな彼女を、僕はただ茫然と眺めていた。