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オルフェウス号の伝説  作者: 梶 一誠
9/22

追撃のUーX09

 「一番発射管(ローア・アインス)準備いいか?(フェアティッヒ?)

ドイツ海軍特務潜水艦U-X09艦長アルベルト・キュヒナーは攻撃用潜望鏡で測敵を完了させて、魚雷発射の最終確認のために、艦内通話ラインを使い前部発射管室へと下令した。

一番発射管(ローア・アインス)準備よろし!(フェアティッヒ)」発令所内のスピーカーから、発射管室の返答が届く。

 キュヒナー艦長は潜望鏡をのぞいたままで

「何してる!ズーデルマン少尉。早く脱出しろ感づかれるぞ」と、気忙(きぜわ)しくして小声でうなっていた。

今、海上を覗く彼の円形に切り取られた視界の中では、現時点からちょうど3日前にスウェーデン海軍の外交的配慮に基づかない、あくまで現場における自発的な有志の協力によって鹵獲、拿捕(だほ)したポーランド海軍の潜水艦レイス号が浮かんでいた。 

 そしてそこから臨検と保護拘禁の目的で乗り込ませていた自分の部下達が退避したのを確認すると、キュヒナーは雷撃を開始した。

一番(ローア・アインス)発射(ロース!)!」次の瞬間、Uボートが微かに揺れた。

二番発射管(ローア・ツヴァイス)準備よろし!(フェアティッヒ)」と、立続けに発射管室からの報告がよせられ、キュヒナーはすぐさま

二番(ローア・ツヴァイス)発射(ロース!)!」と、二発目も射出した。

 潜望鏡に集中するキュヒナーのすぐ背後で、この艦の正規乗組員ではない客員扱いのナチス親衛隊、武装SS大尉であるシュテルンベルガーが腕を組みつつ事の成り行きを見守っていたが

「とんだ不手際ですなぁ!……レイス号をエサにしてオルフェウス号を浮上させてからこのUボートで強襲して接舷。その後にあの潜水艦に乗り組む手はずだったんですが」と、残念そうに愚痴っぽくこぼした。

「……ズーデルマンの青二才め!あの程度の人数すら抑えられんとはな……正式に報告書に記載してもかまわんぞ!シュテルンベルガー君」U-X09艦長は潜望鏡に顔をつけたままだが、声だけには客人に向けての(とげ)があった。

 スウェーデン海軍の駆逐艦による追跡と爆雷攻撃によって浮上させられたレイス号は、まず最初にスウェーデン側の臨検(りんけん)を受けた。

 臨検隊はレイス号に乗り込むや否や先ず食料と真水を投棄して、書類関係と無線機、通信機材、ポーランド海軍用の暗号解読機等はその土台から撤去され、彼らによって回収されてしまった。最終的には艦長と一部の士官と水兵合わせて4、5名を残し、残りの乗組員はその駆逐艦に拘禁されてその海域を去ったのだ。

 駆逐艦は(あらかじ)め申し送りされていたかのようにわざとドイツ海軍用の無線バンド帯に近い周波数を使って、放置したレイス号の正確な位置を自分たちの海軍基地へと報告を入れたのだ。『傍受してもかまわないぞ』といわんばかりにである。

 スウェーデン政府、及び中立国海軍の上層部にしてみれば、第二次大戦の勃発という対岸の大火事もさることながら、そこから焼け出され、指揮系統をほぼ失ったポーランドの潜水艦隊のほうが、ドイツ海軍のUボートよりよっぽど危険で迷惑な存在として映った。

 復讐に燃えた彼ら鋼鉄の鮫どもはまかり間違えば、ドイツ船籍の輸送船と誤認してスウェーデンの輸送船を襲う可能性が高い。そうなれば自国のシーレーンの安全の脅威となるのは明白であった。故に、表立っての協力表明はせずとも、現場サイドの権限と判断にまかせる形でのドイツへの協力を匂わせたのだ。彼らは決して、ドイツのUボートとの直接的な接触を持とうとはしなかった。あくまで偶然を演出してみせたに過ぎない。

 海上に放置されたレイス号に残された、艦長と士官数名はその間に何とかこの海域からの脱出を試みたが果たせず、その後に現われたドイツ海軍のUボートに再度、拿捕された。その際に残りの乗組員たちの命を保障させることを確約した上で、レイス号艦長ツェザーリ・ドプチェクは止む無くオルフェウス号が受け取った”共同作戦を行なうべし”との通信をバルト海に潜伏している味方艦に放ったのだった。

 その呼びかけに応じたのはオルフェウス号のみ。クナイゼル中佐の返信を受け取ったレイス号はその場で浮上して、囮のえさとしての姿をさらし続けていた。

 そこまではキュヒナーとシュテルンベルガーの思惑どおりであったのだが、実際に味方艦がおびき寄せられたと知ったレイス号の士官たちは、銃を構えている臨検隊の目を盗んでマリアが聞き取った例のモールスまがいの信号を送った。命がけで……。そして全員が艦内で銃撃されたのだった。

「一番魚雷、着弾まで30秒です」キュヒナーを挟んだ位置にある海図台の脇に立っている先任士官のハルトマン中尉がストップウオッチを片手に報告を入れた。

 しばし艦内に沈黙が下りた後、爆発音が水中を伝わり、そのあと爆発で発生した大波の衝撃が艦をぐらりと揺らした。

「よし!レイス号は片付いたが……くそっ!二発目はダメか……オルフェウスは潜ったようだ」ここでキュヒナー艦長は潜望鏡を乱暴に収納してから

「オルフェウスを追うぞ!両舷前進全速!40まで潜れ。針路左10度へ!ソナー員は奴のモーター音のトレース開始!」と、矢継ぎ早に指示を飛ばして、発令所内に苛立つ声を響かせたのだった。

 シュテルンベルガーの不満げな様子を視界にとらえたキュヒナーはおもむろに

「……オルフェウスへの襲撃はあきらめろ!シュテルンベルガー。頃合いがよければあの潜水艦をこの海で沈める……いいな!」と、叩きつけるようにいった。

「こうなっては、仕方ありません。お仕事に口は挟みません。ご存分に」

シュテルンベルガーの返答にキュヒナーは黙って頷いた。

「ズーデルマン少尉のチームは置き去りですか?」と、レイス号に残っていたポーランドの士官連中を拘禁していた臨検隊の処遇に関するシュテルンベルガーの問いにキュヒナーは

「回収はしてやるさ。だがな、たった4,5名の生き残りをも抑えられずに、あんな原始的な方法で、こっちの意図を出し抜かれたんだぞ。あの若造と残りの水兵たちも連帯責任だよ。水なし、飯なしで日が暮れるまで洋上で反省会だ」

 この艦長の決定にはシュテルンベルガーも口をへの字に曲げて

「少尉君……気の毒に」と、同情の意を示した。

「艦長殿、例のポーランド海軍の潜水艦の音をキャッチしました。ダッヂ製(オランダ人のこと)のモーターはずいぶん低い音なんですなぁ」

 Uボートの発令所の一番船首側の一画にソナー員が詰める聴音室がある。その部署からひときわ野太い大声が豪快に伝わってきた。

「とらえたな!フリッツ・ブランドル上等兵曹。状況知らせ」と、キュヒナー。

「はい、オルフェウスは現在、左舷10時方向をおよそ6ノットで、推定深度は70を航走中であります」

 シュテルンベルガーは声の主をよく見ようと、聴音室が見える位置に移動した。そこには狭い潜水艦の乗組員としてはいささか不便ではないかと思われる屈強な大男が手狭な空間にその巨躯(きょく)を無理やり収めていた。

 まったくのつるっぱげにヘッドセットを付け、四角い顔の下半分は剛毛なヒゲに覆われており赤ら顔したフリッツ・ブランドルは慣れた手付きで方位ハンドルを操っている。

 (あの金庫みたいに大きな聴音機器が子供の玩具みたいに見えるよ)シュテルンベルガーはそんな感想を持ってその人物の動きを眺めた。

「……雷撃戦…用意」乗組員が息をひそめている発令所で、キュヒナー艦長の声だけが不気味に反響した。


 「敵、Uボートはこちらを追尾中。速度変わらずです……。方位1-5-0、右舷側後方……からです」

マリアのいささか物怖じしたような報告に副長アレクサンデル・コヴァルスキ少佐はいささか不服げに、

「Uボートは、俺たちより深く潜っているのか?大体でいい測深結果、知らせ」と、まるでベテランソナー員に下令するように少女にいったのだ。

「は、はい……」マリアは手探りで聴音機の方位版、フランツがカバーを外して、盲目のマリアでも触診して方位が読めるようにしてあるその周囲を触ってはみたが、聴音装置の縦方向、潜水艦の水中での高低差まで判別する方法までは相棒から教わってはいなかったのだ。

 フランツ・ヴァノックがレイス号撃沈の影響で昏倒してから、一度は腹を決めてその場でふんばってみようと誓ったマリアではあったが、やはりまだ素人であるし、経験者でも水中の敵潜水艦を探るのは至難の技だ。

 どこをどう触ったら、今、自分が聞こうとしている水中から発せられる音源を特定できるか…判らない!このままでは敵のUボートに翻弄され攻撃を受ければ、先に沈んだレイス号と同じ運命が待ち受けている。マリアの呼吸は荒くなり、心の焦りに手が震えた。

 いきなりマリアの震える右手をつかむ大きな手の感触を彼女は得た。

「ここだよ!マリア。このスイッチを右へ、切り替えて」この声を聞いて、マリアは一気に心が安堵した。自分の相棒にして先輩格のフランツだった。

「いいか!マリア。戦闘に入ったならソナー員は交代できない。瞬時の判断が生死をわけるからだ。それに俺の耳はまだ使い物にならない。君がやるんだ」

「フランツ、耳が聞こえなくなってしまったの?」とのマリアの声にもフランツは

「ああ……?ダメだ!耳の中が”わんわん”鳴っていて、まだよく聞こえないんだよ!でも…大丈夫。二人でやろう……な!」と、いうと彼の膝をぽんとたたく者がある。マリアの左隣に座っていたモニカだった。モニカはフランツにいつもの親指をぐいっと立てる仕草を見せてから、自分の席を彼にゆずった。

”兄さん頼むでぇ”とモニカは明るいにこにこ顔で、フランツの肩をバンバンと叩いた。

 「どうした?ヴァノック一等兵曹、いけるのか?」副長の問いに

「いけます!マリアに方位測定と敵の位置を、自分は速度計と大まかな距離を読み上げます!」フランツの伸びのある声が発令所に満ちるとアレクサンデルは一言「いいコンビだ」とつぶやいてから

「少し、暴れたくなったよ。オレは。ヤン」と、すぐ脇に佇んでいた次席士官に率直な自分の気持ちを発露した。

「グジニャを出てから、逃げっぱなしのやられっぱなしだったからなぁ……フンッ!いいねえ、付き合おう」

「レイス号の連中の無念をはらす!」

 二人の士官は互いの胸板を拳で”ドン”と叩きあったあと

「戦闘配置につけ!雷撃戦……用意」と、アレクサンデルは号令を発した。


 Uボート側のソナー員であるフリッツ・ブランドル上等兵曹は、ヘッドセット内から伝わってくるオルフェウスのスクリュー音が微妙に上がったのと、相手の潜水艦がこちらのケツに付こうとしていることを感知してヒゲだらけの顔を(ほころ)ばせた。

「艦長殿、奴らやる気ですぜ!こっちに深度を合わせて来てます。速度は今、8ノットに上昇しました。方位は左舷側から回り込もうとしています。距離はざっと500メートル」

 ベテランソナー員の的確な報告に満足気に頷いたキュヒナー艦長は

「ポーランドのド素人どもが!ドイツ海軍に喧嘩を売るなんざ、百年早いことを教えてやる」と、だが楽しげににやにやしながら次の指示をとばした。

「レンプ!モーター両舷停止!バラスト補正、深度を維持せよ」

 この指示を受けた、これもヒゲ面の小男、神経質そうで目がギョロリとして、街の怪しい占い師のような風体の機関長ユリウス・レンプはただ無言で頷き

「艦首5上げ、艦尾はそのまま」と、自分の前の操舵員席に座る二人の部下の肩に手をおいて艦のツリムの調整させるのに余念がない。

「奴さんはそのままの速度と方位を変えません……今のところは」艦長の下には逐一、フリッツの連絡が入る。

 Uボートにせよ、オルフェウスにせよ今、外の水中の世界を推し量れるのはソナーしかない。確かな情報は敵潜水艦のモーターの駆動音、あるいはスクリューが海中を攪拌する音でしかないのが実状。この時代の潜水艦が多用しているのはパッシブ(受動型)ソナーという物で、相手の発する音を聞き取るのが主たる目的の機器である。船首下部にセンサーが集中して搭載されていて、音源を的確に拾えるのは左右横からの音で、正面はあまり良好とはいえなかった。まして真後ろは自分がだすエンジン、モーター音にかき消されて役に立たず、死角となった。

 ソナーにはもう一種類あって、レーダーのように自ら音波を発信してその反射音で、目標の存在や位置を観測するアクティヴ(探針型)ソナーがあったが、音波を発信する際に同時に自分の位置も敵艦艇(主に対潜部隊の水上艦艇)に察知されるので大戦末期に到るまで、Uボートには搭載されてはいなかった。

 「レンプ…左舷後進半速、右舷前進半速……。物音をたてるな……」キュヒナーは自分のU‐X09を水中での深度を維持させたまま、船尾のスクリューを相互いに正、逆転させることでそこを中心に人間が”回れ右”をするようにUボートの船首を、今、自分たちの船尾方向、ソナーの死角に入ろうとしているオルフェウスの予想針路上に振り向けようとしていた。

「三番、四番発射管開け……。合図と共に撃つ!」


 オルフェウスは深度40mをほぼ水中では全速に近い8ノット(約15km/h)で大きく反時計回りで旋回中であった。後方に追随するUボートのさらに後方、パッシブソナーの死角に避退して攻勢に転ずるためだった。

「航海長、この海域の深度は?」アレクサンデルが問うとレフ・パイセッキー中尉は

「約100~150メートルといった所と思われます。水圧による圧壊の可能性は低いでしょうが、ダメージの受け方ではどうなるか微妙です」と、海図上の情報から深度の予測と専門的なアドヴァイスを彼に行なった。

「海底に潜んでやり過ごすつもりか?それだけでは連中から逃れきれるとは限らんぞ」と、言ったのはヤン大尉。

「副長!Uボートの航跡が消えました!最終確認位置……方位2-1-0、深度45m、距離550mです」聴音室からフランツの報告がきた。

「針路、速度ともに維持せよ!マリアへ、聴音注意!索敵急げ」アレクサンデルの声にマリアは素早く反応して

「チーフ・オレク、Uボートをロストしたポイント付近で、不審音です。……二回です。重い物を引き摺るような音です」と、答えたあと

「魚雷発射音!……1回……2回、左舷、方位2-5-0、距離550、雷跡2!接近します」マリアは今回は見事に敵潜が放った魚雷の航跡を正確に言い当てた。アレクサンデルは

「両舷モーター停止!舵そのまま……」と、言ったきり次の行動を指示しない。彼はそーっと片手を上げて、自分の視線を操舵員の後ろで控えているハスハーゲン機関長に向けた。機関長のほうも次の副長の指示を息を呑むようにして待機している。オルフェウスもまたモーター推進を止めて惰性のまま航行していることになる。

「オレク!何してる回避しろぉ。潜るんだ!」ヤンが接近して来る魚雷の甲高いスクリュー音が近づくのを感じて堪らず声をあげた。

「機関長!急速回頭用意……ボナパルト(左回り)ターンだ……5秒」一拍おいた後、アレクサンデルは機関長に向けてさっと手を振り下ろす。

「モーター左舷後進全速、右舷前進全速!取りかーじ」機関長が後方の機関区へ大声で下令。モーターが唸り鋼鉄の船体がぐいっと大回りに左方向に傾く。きっかり5秒間モーター稼動のあと、潜水艦オルフェウスは魚雷を放ったUボートと正面に相対する位置に回頭を終えた。彼我の距離は直線で約600メートル。

「両舷前進全速!深度80へ、奴の腹の下へ潜れ!」アレクサンドルが号令をかけた時、オルフェウスの舳先から船尾に向けてU‐X09の放った二本の魚雷がすぐ脇を高速で走り去った。

 

 「この距離で魚雷をかわしただと!オルフェウスはどこに向かってる!フリッツゥー!」

「……お待ちを!すぐ……です」艦長の命を受けたU‐X09のベテランソナー員であるフリッツ・ブランドルはその丸い頭に汗をかきつつ、必死に聴音機のハンドルを左右に動かし音源を消したオルフェウスの動向を探った。

 フリッツのヘッドセットの内部ではポーランド海軍の潜水艦オルフェウスが出すオランダ製のモーターの駆動音が再び鳴りはじめ、その音が顕著に感知できる方位を探り当てた彼は方位版を確認して血相を変えた。

「艦長殿!正面です。こちらに直進してきます!」

このソナー員の報告にシュテルンベルガーは

「潜水艦同士の”チキンレース”ですか!いやはや……やりますなぁ」と、余裕があるように発言したが、表情は強張ってしまっている。

「……少し揺れるぞ!舌を噛むなよ。SS大尉殿」キュヒナーは、フリッツの報告にもいまだ動ぜず

「艦首5上げ!面かじ一杯。両舷前進全速!奴は潜るのか?」と、問う。

「ハイ!そのようです…うわぁ!く、来る」フリッツはその屈強な体躯に似合わぬ悲鳴じみた声をあげるとヘッドセットを外して、思いっきり体を縮めて聴音ハンドルにしがみ付いた。

 次の瞬間、ドイツ海軍Uボートの船首部がオルフェウス号の船体と接触。大きくUボートは揺さぶられ船体同士が(こす)れあう不気味な音がする中、シュテルンベルガーたちは発令所内に身体を投げ出された。

照明が一斉に落ちて闇が支配してその中をオルフェウスのスクリュー音が、聴音機なしでもUボート内部に反響した。まるで”ざまあみろ”と言わんばかりに残響音をのこして、それは彼らの床下の方向へと消え失せた。

「各部損害状況知らせーッ!クソッ素人連中にしてはいい度胸だよ」歯噛みしながら唸るキュヒナー艦長の下に次々と今のニアミスによる損傷がほとんど無いとの報告がよせられると

「奴を探れ!ここの海底は確か、150メートルほどしかなかったな?ハルトマン中尉」

「ハイ、確かそのようです。バルト海には500メートルを越す深海はありません」態勢を立て直しつつ艦長に問われた先任士官が答えた。そのすぐ隣では、床に転がっていたシュテルンベルガーがようやく起き上がって激しく痛打した腕をさすっている。

「オルフェウスの真後ろに着け!モーターはフルパワーだ。奴を海底に押し付けてやる」

 そういいながら、不適に笑みを浮かべているキュヒナーの様子にシュテルンベルガーは背中にうすら寒いものを感じた。


 「だいぶ激しくやったみたいだが、損傷がないなんてウソみたいだぜ。こいつは頑丈だね」ヤン・レヴァンドフスキィ大尉が満足気に発令所内の潜望鏡収納塔を片手でコンコンと叩いた。

「現在の深度は?」と、アレクサンデル。

「たった今、100メートルを越えた。水平に戻すかね?」機関長のヤロスロフ・ハスハーゲンが彼の前に座っている二人の操舵員の肩に両手を置きながら振り返った。

「いや、海底近くまで潜る。レフ、ここいらの海底の深度は?」

「ざっと130から150くらいまでと推察されますが、正確に測りませんと頭から突っ込むことになりますよ」と、返答した航海長のレフ・パイセッキー中尉は不安げにメガネの端をいじって掛かり具合を気にしている。

「深度120を越えたら艦を水平に戻せ!」

「了解です。副長」ハスハーゲンが応答すると、アレクサンデルは次に

「マリア……Uボートはどこだ?」と、聞いた。

「敵のUボートは、現在、オルフェウスの真後ろに入ろうとしています。スピードを上げてるようです!モーターが(うな)っていますよ……ああ、ダメ今真後ろ、死角に入ってしまいました」

「距離は約300メートル。深度は100を越えていました。こちらの頭を抑えようっていう腹かもしれません」マリアに続いてフランツが各々が担当するセンサーの探索結果の報告を入れた。

「……いいだろう。そのまま追って来い!針路、速度はそのまま」

「深度125!艦を水平に戻すぞ。艦首7上げ、艦尾5下げ」と、機関長。

 聴音室ではマリアが方位ハンドルを操るが、やはりUボートはオルフェウスが攪拌する水流のむこうに姿を隠してしまっている。

「まったく……悔しいけどあっちも上手いわね!……ねえフランツ、さっきチーフ・オレクの言ってた”ボナパルト・ターン”って何をしたの?」と、少し不安と緊張を紛らわせたいのか、隣の相棒に語りかけた。

「ああ、あれか。あれはな水上の対潜装備を持つ艦艇からこっちの行き先をごまかす手段の一種さ……」

 フランツは自分の計器類を読みながらマリアに敵Uボートと相対した位置に瞬時に向きを変えた行動の説明を始めた。

 ボナパルト・ターンとは、潜航中に、敵の駆逐艦、装甲コルベット艦など対潜艦艇に追尾された場合、それらが放つ探針音波、アクティヴ・ソナーの索敵範囲から逃れるために、敵が予想しているこちらの針路から急速回頭して全く別の針路に転進して欺瞞行動(ぎまんこうどう)をとることを指す。

 ボナパルト・ターンは左に急速回頭をすることを意味する。これはナポレオン戦争時代にフランス皇帝ナポレオン一世は戦場にて変幻自在に己が軍団を指揮する際には、自分が乗るロバ(極端に背の低いナポレオンは馬に乗れずに、ロバを常用していたのは有名な話)を常に左回りにして操っていたことに由来するものである。因みに右回りの急速回頭は”ネルソン・ターン”という。

「……という訳よ。ん?どうした、怖いのか」フランツの話を聞きながらも身体を硬直させている隣のマリアを気遣うフランツではあったが、マリアは

「…あたりまえよ。さっきから船体そのものが何かギシギシいってるのよ。空気も絞られているようで苦しいの。これが水圧なの?」と、声を震わせている。

「現在、深度135メートル!」航海長の声がここまで届く。

「大丈夫!このオルフェウス号の潜航能力は100メートルだけど、別に圧壊深度(あっかいしんど)ってのがあってそっちは250メートルだから」とさらっと言ってから、フランツはマリアが装着しているヘッドセットの片側を持ち上げてからそーっと彼女に

「君なら大丈夫!ここまでできたんだ。きっと切り抜けられる。それと……」ここで彼は一拍おいて

「今日のマリアは……とってもキレイだ……」とささやいた。

「!!おおおーっ!な、何言ってんのぉ。あ、あんたはぁー」マリアはいきなり女心をくすぐられるような事を言われて、赤面してしまいどぎまぎしている所へ

「アクティヴ(探針儀)・ソナーを使う。フランツ、ピンガー用意!海底までの距離を測定せよ」副長の指示が二人の間に飛び込んできた。

「アクティヴ……を、ですか?できますが……Uボートにこっちの位置をわざわざ教えることになりますけど」と、言うと、アレクサンデルはにやっと笑って

「教えてやるのさ……わざとね」と、いった後は手の仕草だけで”早くしろ”と促した。

「参ったぜ!うちの副長はこんな海底でUボートをしとめようってのかよ」フランツは聴音機のいつもは使わない側面部のスイッチ、ダイアル類をいじりながら、その部位に電流を通し始めた。音波発信を行なう準備が整うと今度はマリアに

「いいかよく聞け、オレがこのスイッチを切り替えたら、音波が発信される。君のヘッドセットにも一回大きな鐘の音みたいな音が届く。そしたらこの目盛り……そう、触ってみて、ここだよ。これが海底までの距離になる。この目盛りを触診して副長に報告しろ。正念場だぞ!しっかりな」と、伝えるとマリアはコクッと頷いて、了解の言の代わりにフランツの膝を強く握った。

「音波発信ヨロシ!」フランツの声は発令所のアレクサンデルのもとに届き、彼はゆっくりと

「フランツ、打て!」この指示を受けて、フランツは機器を操作し、潜水艦の進行方向に”ティコーン”と一発音波が発せられ、すぐさまその反響音が海底から戻ってきた。

「チーフ・オレク!海底まで7メートルです!」マリアが叫ぶ。

「よし!海底にソフトランディングする。モーター両舷停止!バラスト注入200ガロン。機関長、上手に頼むぞ!全員、衝撃に備えろ!何かにつかまれ」この号令一過、皆が手近な物にしがみ付いた。

「勝手なことを言うなよ!知らんぞぉ」機関長が喚いた。

 今まで、聴音室の奥、隔壁側で座をしめてずーっと口を閉じていたアンナはマリアの右腕にしがみつく。反対側の通路側で立ちんぼしていたモニカは、とっさにフランツの(もも)の上を踏んづけてやはりマリアの左隣にとびこんだのだ。その時に、フランツの大事な部分も踏んづけたことなど気付かずに。

「……このバカッ、お、オレを踏み台にしたなぁーしかも……おれのムスコまでもぉ」苦悶の表情をつくるフランツなぞお構いないしに、モニカもマリア姉にしがみついた。

 只一人、発令所で腕を組んで悠然とした姿勢のままでアレクサンデルは次の行動を指示した。

「さあ、勝負だUボート。魚雷…発射用意」


 「アクティヴ・ソナーを打ったぞ!バカめ!連中やはり素人だ。自分の位置を(さら)すとはな」このキュヒナー艦長の言を受けたソナー員フリッツは、すぐさま音源を探知。

「オルフェウスはこちらの射線上にあります。距離は300です。深度は140!」との報告を入れたが

「……待ってください!」

「どうしたか?」

「うおっ!敵潜水艦は海底に突っ込みました。すごい土砂が舞い上がってしまって……聴音が機能しない……クソッ!位置をロストしました」と、ヘッドセットを装着したままフリッツ・ブランドルはその場で立ち上がった。

「慌てなくていいぞ。フリッツ……身動きが取れなくなったカモだ!ゆっくり距離をとって今度こそ、沈めるぞ!海底に突っ込んだポイントだけ押さえればいい」キュヒナーは白い艦長帽を脱ぐと、手の甲で額の汗をぬぐってから、大きく息をついた。そして、彼のすぐ隣でいささか青白い顔をしているシュテルンベルガーに

「やっと、大人しくさせたよ。ケリをつけよう」そういった後、艦長帽を被り直しながら魚雷発射用意を下令したとき

「一度、モーターを止めて下さい……変です。後ろに何かいるような……」ソナー員のフリッツが憔悴した顔をキュヒナーの方に向けてきた。

「……両舷前進微速……」キュヒナーも声を潜めて機関長のレンプに指示。その後はU-X09の発令所を沈黙が支配し、それをまた破ったのはフリッツの声であった。

「クソォー!真後ろにいやがったぁ……魚雷発射音です!雷跡1!ちくしょう近すぎる」

「両舷前進全速!メインタンクブローッ!海上まで退避ぃー!緊急浮上ーッ急げぇ」キュヒナーが喚きたてる中、普段は小声でボソボソ話すのが常のユリウス・レンプ機関長が

「このポンコツ!根性見せろぉー。上がれぇぇ」と自分の前で配置についている操舵員の肩を思いっきりつかんだまま別人のように()えた。

 オルフェウス号の放った必殺の魚雷が繰り出す、水中を掻き分けてくる甲高い航走音が容赦なくUボートに迫る。

「……ダメか」と、キュヒナーが小声でつぶやいた時、シュテルンベルガーは無意識に自分のシャツの胸ポケットに収めていた例の小瓶をぎゅっと握ると

「レイチェル……まだ、オレを愛してくれているなら……助けてくれ。まだオレは君の処には行く訳にはいかないんだ」と、祈るようにして(こうべ)を垂れた、その刹那だった。迫り来る魚雷の航走音がピタリと止んで、暫くすると自分たちの足下の海底で爆発音が起き、その衝撃がUボートの船体をぐいっと上へ押し上げた。

「助かった!魚雷の不具合か?まあいい、このまま上がるぞ!仕切りなおしだ」キュヒナーが気勢をあげた。


 「え…!?何がおきたの?魚雷が急に失速しました。海底で爆発を……」マリアが信じられないといった顔つきで首を振っている中でも、副長は矢継ぎ早に次の行動を指示し始めていた。

「機雷射出塔……開閉扉を開放しろ。合図したら最初の6基を一斉に射出する……用意を」

「オレク……魚雷の不良品かよ!ついてないな!」ヤン・レヴァンドフスキィ大尉が彼の隣で忌々しくいうのを尻目に

「今はいい!とにかくもてる物全てを投入して、この場を撤退するぞ!その前にUボートを追っ払うんだ!こっちが深度100を切ったら、このオルフェウスに積んである機雷を放出するからな。ヤン、搭載機雷の時限信管の設定時間を5分、自滅感応深度を40メートルに設定しろ!」と、いった。

「ご、5分だって?危険だぞ、射出してから5分で感応機構を目覚めさせればUボートと一緒にこっちも爆発に巻き込まれる可能性もある!」

「承知の上だ!でなければ奴を振り切れん!命令だ。53a型負水圧機雷を指示通り設定せよ。大尉」

 ヤンは無言でアレクサンデルに敬礼して発令所の一画、アンナがオレンジ色に塗られていると発見した機雷射出塔の中央に設置されている配電盤に酷似したボックスを開けると、その中の機器を操作、ダイヤル表示されている設定項目を、アレクサンデルの指示通りに数値を変更、最後に大きなグリーンのボタンをおした。

「設定完了!もう変更は利かんぜ!」ヤンの最終報告に大きく頷いたアレクサンデルは、そのまま機関長の深度計の連絡を待った。

「深度115!」、「機雷第一陣、射出用意」

「深度100!」、「射出塔1番から6番、射出開始!」アレクサンデルの号令でヤンが配電盤のキースイッチを『射出』に合わせると、オレンジ色の筒から重量のある物体が擦れて上に上がっていく音がした。

自分の腕時計の秒針を慎重に見ながら、アレクサンデルはきっかり30秒後に

「第二陣、射出開始!」更に同じような音が艦内に伝播していく。これで、オルフェウス号は手持ちの感応式機雷12基を使い果たした事になる。

「……Uボートが更に速度を上げました。海上に向かっています……」マリアがヘッドセットの中に聞き慣れない音を感知して首を傾げたのを見越したフランツは、彼女のヘッドセットをずらして自分もその音に聞き入った。

「Uボート、メインタンクをブローしています。こっちが機雷を放ったことに勘付いたようです」と副長に結果を報告すると、アレクサンデル・コヴァルスキ少佐は

「こちらもこれで店じまいだ!深度120まで潜れ!針路を1-5-0へ転進!もうすぐ機雷の花火があがる。それに乗じて戦線を離脱する」と、撤退命令をくだした。

 この号令を聞いたフランツは、落ち着いてゆっくりとマリアの頭からヘッドセットを外してやってから

「もういい!よくやったよ」と言うとマリアの頭に手を置き、ゆっくりと自分の膝の上に誘導して伏せる態勢をとらせてから、彼女と彼女の妹分たちの上に自分の体をカバーするように覆いかぶさって、それが来るのを待った。

 フランツ・ヴァノック一等兵曹がそのままの姿勢で大きく三回息をついた時にその衝撃は来た。連続して6回の頭上での機雷の大爆発が起き、その30秒後に更に6回。どれも先日、スウェーデン海軍からの爆雷攻撃よりも猛烈な衝撃波が海中を大きなうねりとなって潜水艦を襲った。

 またしてもオルフェウスはそのうねりにつかまり縦に横に振り回されて、兵員食堂の棚に入っているアルミ製の何の装飾も無い味気ない食器が散乱してけたたましい音を発した。艦内の照明が落ちて暗闇になるとまた、何処かの配管から圧搾空気が漏れ出して甲高く耳ざわりな音を立て始めた。

 マリアはフランツの膝の上に耳を塞いだまま突っ伏していたがやがてそのまま気を失ってしまった。


 「マリア、マリア姉ちゃん」アンナのこの声で、意識を取り戻したマリアは自分がまだフランツの膝の上に突っ伏したままであることに気がつき、慌てて起き上がった。

「おう!おつかれさん。やったな!どうやらUボートの追跡を振り切ったみたいだぜ」とのフランツの声に一応頷きながら、

「何時間、私、気を失っていた?」マリアは誰に言うとも無く小声でつぶやいたが

「30分くらいだよ。戦闘配置が解除になってまだ5分しか経ってない」フランツの返事を聞いて、マリアはサアッと緊張感が薄れて背中に圧し掛かっていたものが離れていく感覚を得た。そして、フランツの暖かい手が自分の頬を優しくなでてくれている感覚も自分の安堵感を後押ししてくれている事も強く感じていた。

 マリアはフランツが自分の漆黒の視界の向こうで笑顔を自分に向けてくれていることに絶対の自信を持って彼の声のする方向に笑顔を返したのだった。

「さて、オレは副長の所へいって来るよ」と彼が自分の下を離れていこうとするのをマリアは彼の腕を取ってから

「アンナ、モニカ、わたしフランツ兄ちゃんとお話があるから、そこに立っててくれる?」と、二人にお願いした。二人は素直に聴音室の前にマリアとフランツに背を向ける形で小さなバリケードを作った。

「何だよ?話しって……!!」

 フランツの次の言葉をマリアは自分の唇でふさいだ。フランツはいきなりのマリアの行為に少し驚いたが、すぐに彼女を抱き寄せ、しばし……ほんの少しの間だが二人は今湧き上っている熱い感情に互いの若い身体を委ねあった。むさぼるようにして唇を重なり合わせ舌をからめた。二人の(かいな)は互いの背中を頭部を激しくまさぐり合ったのだった。

 6歳のアンナは何気なく振り返ってみると、二人の”うわっちゃー!”な状態に目を白黒させて、隣のモニカの袖口を引っ張って知らせたが、モニカはもう何がおこっているのか、とうに察していて、笑顔で人差し指を自分の口の前に立てて”ナイショだよ”とアンナにウィンクして見せた。

 マリアは一度、顔をを離すときに、フランツの下唇だけを優しく自分の唇ではさみ”くにゅ”と軽く引っ張ってから放した。そして

「……あんた、わたしの”下僕”から”騎士様”に昇格よ。これは……そのご褒美です」と、言ってからもう一回、頬にキスしてから、乗っかっていた彼の膝の上から隣に身体を移した。

 顔を真っ赤にさせて、口を半開きにしたままで呆けていたフランツは

「……うん、お、オレ副長に報告、してくる」やっとそれだけ口にすると聴音室を離れた。股間がいう事を聞かない状態で変に前かがみで歩いていく姿をアンナが見とがめて

「マリア姉ちゃん、なんでフランツの兄ちゃんは変な歩き方してんのぉ?」と聞くと、聞かれたマリアはアンナの声のする方向に背中を向けたまま、耳たぶまで真っ赤にして、しきりに自分の金髪の先っぽをいじりながら

「と、殿方(とのがた)には殿方の事情……があるものです。察しなさい」とだけいった。

「ふーん」アンナは無表情でマリアの背中を見つめながら、さらにこういった。

「……姉ちゃんのスッケベェー……」その声にモニカがすぐさま反応して”コレッ!”とアンナの頭部に空手チョップをお見舞いした。



 


 

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