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オルフェウス号の伝説  作者: 梶 一誠
8/22

死闘の海へ

 日付が変わった9月12日の午前10時40分過ぎ、オルフェウス号は同胞の潜水艦レイス号との予定されたランデブーポイントに向けて航行中であった。夜通し浮上して航走し、今の時間まで偵察機、並びに不穏な艦艇との接触もなく順調に接近中であった。

 「ハスハーゲンのおやっさん!バッテリーへの充電は完璧っす」ディーゼルエンジンの絶え間ない騒音とピストンと巨大なカムが生み出すリズミカルな機械音が支配する機関区内で、レオン少年が大声でその部署の責任者に報告を入れた。

「よし!レオン、次はモーターとエンジンとの連結部に油差しておけ!それとおれの事は機関長と呼べ」少年の報告を受けたヤロスロフ・ハスハーゲン機関長の新たな指示と注意に対して、当のレオン・ヴィンデルはおざなりに「うぃーすっ」と生半可な返事で返した。

 レオンはオイル用のジョッキを持って指示された場所に立つと、首を傾げた。このオルフェウス号の機関は、オランダのズルツァー社製6気筒型2,650PSディーゼルエンジン2基とそれと同軸連結されているブラウン・ボーヴェリ社製500PSモーター2基を装備した2軸推進式である。彼は左舷側のモーターとエンジンの連結部から船首側、すなわち今稼動しているディーゼルエンジンの豪快に回転している軸受けの部位からの異音に気が付いた。だが、しばらくするとそれは目立たなくなる位に抑えられて聞き分けできなくなってしまった。「はて…?」レオンは気を取り直して作業に集中した。

 因みにこのオーゼル級の潜水艦は浮上航行では最大で時速19.5ノット(36km/h)。潜航状態では9ノット(17km/h)の速度を誇る。

 航続距離は水上を平均12ノットで1万海里、水中では8ノットで27海里である。当時としてはまあ、最新鋭と言って差し支えない性能と言えよう。全長は80.7m、最大幅7.4m。標準的な長期哨戒型の潜水艦である。

 兵装は53cm魚雷発射管を艦首に4門、艦尾に4門。搭載魚雷は14本を搭載。そして上部甲板、司令塔の先端部には、当時の潜水艦の艦載砲としては最強といえる10.5cm砲1門を装備している。

 本来は航洋哨戒型の潜水艦だが、このオルフェウス号には船体中央部のバラストタンク内の両側にそれぞれ機雷射出塔が3基設計されているのも特長で、その内部には53.4cm型負水圧式機雷が2基装備している。これは即ち合計12基の機雷を積んでいることとなる。

「レオーン、それが終わったら電気室の床下に潜ってバッテリーを点検してこい。お前、身体細いから楽に入れるだろう。……あと、酸素マスク持って行け!塩素ガスに注意しろ」機関長は他の機関兵と一緒になってエンジンの世話を焼くのに忙しい。

「へーいっと!」レオンはまた気乗りしない間延びした返事をしてから

「人使い荒いよなぁ……でも、3度の飯がちゃーんと食えるからまぁいいほうかな」と、言いつつ備品棚から酸素マスクを引っ張りだした。

 その機関区からやや船首側の調理室では空バケツを椅子代わりにしてモニカがジャガイモの皮むきに専念していた。慣れた手付きでナイフを使って自分の拳大(こぶしだい)のじゃがいもの皮をむくと、隣で膝を抱えてしゃがんでいるアンナに手渡した。

 アンナは自分の前に用意された海水で満たされたバケツに皮をむいた芋をつっこんで汚れを落としてから(ざる)に放り込んでいく。

「アンナはストックホルムなんて……イヤです」と言うと寂しげに首を足の間に納めるようにして小さくなっていた。モニカはアンナの言う事に目を細めて、いつもの手話を使ってアンナに”船を降りたら今度は機関車にのれるじゃない”と伝えた。

「それはそうだけどぉ……。アンナはオレクのおじちゃんと一緒がいいです。抱っこされると父ちゃんと同じ匂いがするから」アンナは本心をいうとまたがっくりとうなじを見せた。モニカは無言でアンナの頭をヨシヨシと撫でてやった。

 「終わったよお!マーリーア!できましたよぉー」といつも通り聴音室にフランツの横で待機しているマリアのそばにフィリプ・コスコウスキ少年が(たたず)んでいた。このフィリプはレオンと同じ12歳であるが、顔つきはそれよりずっと幼く見える。この少年は軽度の自閉症、現在で言うアスペルガー症候群と呼ばれる症例に近いと思われた。人とのコミュニケーションが取りづらく、自分の興味の向く方向にしか意識を集中し得ない行動が多々見うけられた。この時もいきなりマリアの前に現われては、以前レオンから預かった彼の荷物、暗号解読器エニグマの再組み立ての第一段階を終えたことを告げにきたのだった。

「そ、そう。ご苦労様ね。じゃ、じゃあね次はアンナの……フィ、フィリプ??」マリアが次の仕事を指示しようとすると、フィリプはにこにこしながら発令所のほうへ勝手に歩き始めた。マリアはそれを彼の足音から判断したのだが。

「もう、いないよ。発令所のほうへ行っちゃたぜ」フランツの声でそれを確認するとマリアはがくっと首を気落ちしたように下げて

「あの子、あの子だけはわかんないわぁー。いつものフィリプならもう半分以上機械の再組み立ては終わっているはずなのに……どうして?何を考えてんのかしら」と、マリアは首を振りながらぶつぶつ小言を言いだした。

「なぁ、あのフィリプ君は士官室で毎日何をいじってるんだい?」フランツの質問にもマリアは心ここにあらずの状態になってしまっていて

「あの子に暗示を与えて、複雑怪奇な構造をしている機械をね、グダンスク市で潜伏中だったトマス・ハックスリーさんと一緒に分解、小分けしたパーツを正確に再組み立てさせているのよ。とんでもない集中力でこんな作業ができるのは世界広しと言えど彼だけよ。それなのにぃ……この潜水艦に乗り移ってから、フィリプの興味の対象がエニグマから別の対象に移ったんだわぁ。どうしよう、全然進まないじゃないのよぉ」と、重要な事をうかつにもうわ言のようにひとり言をつぶやいてしまっていた。いや正確に言うなればつぶやいたつもりであったのだ。

「今、何ていった?エ、エニ……?」このフランツの疑問にも、マリアは気がつかずにサラリと

「エニグマよ…。ドイツ軍が使用している暗号解読機のこと。正確にいうならその精巧なコピーなんだ……け…ど」そこまで口の端にのせたまま機密事項を喋ってしまった事に改めて気がついてしまったマリアは

「だぁーめぇーっ!フーラーンツゥー!」と叫んだかと思うと聴音機の前で配置についていた彼の方に向き直ると、その頬を両手で”はっし”とつかんで今度は顔をキスせんばかりの距離までよせてきて

「今、言ったことみんな忘れなさい!いいわね!約束しなさい。おーねがーいー……あなたのためなのよぉ」と、最後の方は懇願するように半分涙声であった。フランツは自分の視線を彼女のうっすらピンク色に上気させた頬とぷっくりした健康的でつややかな唇から一段下げて、マリアの胸元を見た。そこにはいつものワンピースの第二ボタンまで開けて、その下からはたわわに実った、これが14歳かと思えるほどに成長したむっちりとしたバストの谷間が垣間見えてしまった。

 (うわーっ!ヤバイーッもうダメだぁ辛抱たまらん)これまでは平静をなんとか保ってきていたフランツの自制心の(とりで)がこの瞬間に崩れ落ち、マリアを自分の(かいな)の中に抱きとめ、その豊満なバストの中に顔を埋めてみたいとの欲望が勝り猛然と手を伸ばした瞬間に、マリアはその手をスルリと抜けて立ち上がってしまったのだった。

「こうしちゃいられない。フランツゥ!肘を貸して。フィリプを仕事に連れ戻さなきゃ」と、いったがフランツは男性の生理として、股間の状態が穏やかならずであってすぐには立ち上がれない。彼はうつぶせのままで

「お、お嬢しばらく、お待ちあれ」と懇願したのだが、マリアは彼の頭部を手探りでさぐりあててから

「何やってんの」”ぺしっ”と引っ叩いた。

 「……おい、君はたしかフィリプ君だよねぇ?」と、自分の部署である発令所内の海図台に張り付いて作業中の航海長のレフ・パイセッキー中尉はさっきから寡黙(かもく)に自分の背中を見つめている少年に呼びかけた。が、

「……」無言のままフィリプはレフの手元だけに熱い視線をそそいでいる。

「どうしたぁ?……おい大丈夫かぁ?」レフの声など意に介さぬ様子でいる少年の目だけはじっと彼の仕事に必要としている海図その物を観察しているのに、レフは気が付いた。

「……見るか?」と、問うとフィリプは微かに頷いたように”ぴくっ”と反応をしめしてから、半歩だけ前へ進み出てからは、置物か人形のように微動だにしなくなってしまった。

 発令所に居合わす士官や水兵たちはこの不思議な少年の行動に首を傾げるが、当の本人はまったく気にかけてはおらず、自分が持った興味の対象に全精力を集中させている様子だった。まるで人型の写真機が対象を網膜に焼き付けようとしているようにも見える。やがて彼は気が済んだのか機械的に首をレフのほうに回して

「紙……ください。白いやつ」とほとんど感情の伴わない口調でいった。

 レフは恐る恐る便箋(びんせん)サイズの白紙を数枚、渡すとフィリプは軽くお辞儀をすると発令所を後にした。そして、聴音室の前を通りすぎるとマリアが

「フィリプ!ちょっとあんた、待ちなさーい。アンナーッ来てちょうだい」と、叫んでいるのが発令所まで聞こえてきた。

 アンナが小走りでそこへちょうどやってきたのでマリアは彼女に先導してもらって二人で士官室へとフィリプの後を追った。マリアの背中に向けてフランツがこういったのだ。

「暗示ってどんな言葉なんだよ?別に誰かがそれを覚えていて順番にフィリプに伝えてやるだけでいいんじゃねえ?」

 その疑問にマリアはその場で立ち止まり、ゆっくりと振り返った。そしてまるで普通に目がちゃんと見えているかのごとくにふるまってって見せ、

「それが不思議なものでね、暗示を解いて複雑な復旧作業の正確な手順を思いださせるには、その暗示をかけた時と同じ声の持主がキーワードを伝えないとフィリプの記憶が正しく甦らないわ。そうしないとフィリプでさえ混乱してしまうからと言ってね、トマス・ハックスリーさんはフィリプの記憶と心に暗示という魔法の鍵をかけてしまったのよ」

「例えば……?」

「先ず、基礎となる土台部分と配線基盤はレオンのもつ『土の物語』がキーワード。これは三日ほど前にレオンから直接受け取っているから問題ないの。次の部位はアンナの言葉で『木の物語』。そしてモニカのもつ『水の物語』。モニカはしゃべれないからフィリプの手に彼女が指で文字をなぞって記憶を解放させる。そこまでの状態で完成まで約4割なの。そして最後のは私、『火の物語』よ。私が直接預かっているパーツがエニグマの最も重要な部位。設定ローターっていう暗号を解読するための金属製の歯車みたいなアルファベットが刻印されたパーツ自体を組み入れる段階にあたるの」

 そこまで話してしまうと、マリアは(あきら)めたように大きく息をつくと、ゆっくりフランツの方へと歩みを進めた。手を中空に泳がせて彼の体躯を探しもとめるマリア。やがて目当ての彼の肩口をつかまえると、ぐいっと自分の体ごとすり寄りフランツの頬に手を当てて

「わたしたちが生きてあのグダンスク市の地獄を、焼かれるアルメを脱出できたのも、ドイツ軍がその在り処を必死に追っている最高機密である”エニグマ”の模造品を持っていたからよ。だから最優先でコヴァルチェク神父は私たちとハックスリーさんを国外へ逃がす手はずを整えることができたの……。フランツ、お願い!わたしたち兄妹を守ってほしいの……。わたし一人じゃ支えきれない!わたしの騎士様になってよ」マリアはフランツの頬に添えておいた手を自分の胸のまえで組むと頭をそっと彼の胸に預けた。

 フランツは今まであれほどマリアを抱きしめたいと切望していたのにも拘わらず、最高機密をもってこの艦に乗り込んできた事情を今初めて知りえた。士官たちはマリアを救助したのは行きがかり状のことで止む無い処置であると表向きは説明したのみであったのだ。

 だから彼はその事実に驚愕し臆してしまっていた。係わり合いになれば自分にもどんな災禍が及ぶやもしれぬと危機感が先に立ってしまった。彼は抱きしめてあげるべき人を前にして、空しく手をダラリと下げたまま

「む、無茶言うなよ。お、おれまだ駆け出しのぺーぺーだぜ……」とだけいった。

「……そうだよね。無理いってゴメン」マリアはそれだけ言うと、アンナを呼び止めて、フィリプにアンナの持つキーワードを伝えて、復元作業を再開させるように言ってきかせると、マリアは自分の力だけで聴音室に戻り始めた。

「おい、肘につかまれよ」いつも移動のときにはそうしてやっていたのに、マリアは

「……いい。大丈夫」と、静かにいうと隔壁のパイプやらコード用の配管につかまりながら横歩きで、担当の部署に向かっていく。

 「レイス号を発見しましたーっ」オルフェウス号の中央部である発令所の上階、艦橋(セイル)上での見張り当直班からの報告があった。

 「なんで君がそんな軍事機密を抱えこまなきゃいけないんだよ……」フランツはその場で立ち尽くしてマリアがおずおずと歩を進めるのを見ていることしかできなかった。


 「せ、潜航……でありますか!?」航海長のパイセッキー中尉が、副長の命令を復唱する前に異議を唱えるように問い直した。

 アレクサンデルは黙って頷いた。そして手の動きだけで”早くしろ”と促す。

「見張り当直は降りろ!潜航開始。潜望鏡深度へ……。どうした?何が気に入らんのだ、オレク」次席士官で彼にとっては親友のヤンが問う。

 発令所内に上階の司令塔から飛び降りるようにして三人の水兵が降りてきて、スッ転びそうな勢いでその部署の隅で待機姿勢をとった。

 通常通りに、各部担当が潜航の手順をこなし速やかにオルフェウスは波間に姿を隠して、潜望鏡深度へとついた。

「レイス号の様子が気に入らんのだよ」アレクサンデルはこう言いながら、先任士官用の制帽を逆さに被りなおして、望遠機能がついた探索用潜望鏡の覗き窓に顔をつけた。

「両舷前進微速!面かじ一杯!聴音室全方位探査を開始」と矢継ぎ早に指示を飛ばすアレクサンデルのすぐ脇でヤンが

「周囲に何かドイツの野郎どもがいるってのか?気にしすぎだ」と、言われてもアレクサンデルは

「……」無言でしきりに潜望鏡を覗いている。

 今、彼の狭い視界の中にはこの時期には珍しく波一つ無いまるで鏡面のように静かな海面に浮上している自分たちと同じシルエットを持つ潜水艦があった。黒々とした軍艦色に塗装された細長い甲板上には一段高く建造されている構造物の司令塔。さらにその上が窓のない吹きさらしの艦橋となる。そしてそこには一人の人影があった。

 年の頃なら50ないし60代の初老の男性で肌は永年の水上勤務のせいかよく日焼けして赤黒い。細身の体型にはやや不釣合いの白くなったカイゼル髭が目立つ。

「ヤン、見てみろ。ドプチェク校長がいるよ」副長は次席士官にその場をゆずった。

「うわぁ、しばらく見ないうちに年食ったなぁ校長先生。その分ヒゲが昔より長くなったような気がするぜぇ」と、ヤンは潜望鏡の中の、自分たちにとっては士官候補生時代に潜水戦隊養成課程において絞られた昔懐かしい指導教官の姿を見て快活に笑った。その綽名が校長であった。

「その上を見てみろ」アレクサンデルが促す方向に目を移すと、ヤンは「ああん?」と怪訝そうな声を発してそのまま黙った。彼の視線は、レイス号のツェザーリ・ドプチェク艦長の頭上、潜望鏡と電信用アンテナが林立するその先端部とそこから補強用に舳先と艦尾方向に”ピン”と張られたワイヤーに注がれた。

 そこにカモメがいた。それも十数羽も一列に並んでのんびりと戦争なんぞどこ吹く風といった態で悠然と羽を休めて(くちばし)で羽をつくろっているのが見えた。

「もう、何時間もああして浮上していたってことか?オレク……あり得んだろう普通」

 アレクサンデルは潜望鏡本体に寄りかかるようにして立ち

「それに甲板が乾ききっている。舳先にすら波しぶきがかかって濡れている様子もない。朝から浮上したままずっと定位置に停泊して艦影をさらし続ける。……俺にはそんな度胸はないね」自分の見解を披露するアレクサンデルにヤンも頷き

「司令塔に艦長がたった一人というのも不自然。見張り当直の姿も見えないとはな」と、いった。

 アレクサンデルはだから潜航して接近したのだと、告げたのだった。

「クナイゼル艦長に報告を入れて、指示を仰ぐか?」このヤンの問いにアレクサンデルは首を振り

「……あの状態では無理だろう。意識が戻るまではオレが指揮を執るしかあるまいよ」と、言ったのだ。

 このランデブーポイントに到達する1時間ほど前までは、艦長のアレクセイ・クナイゼル中佐は発令所にて友軍との邂逅を心待ちにしていたのだが、急に病状が悪化。遂に大きく喀血(かっけつ)して昏倒(こんとう)してしまったのだった。

 本来なら、身体への負担が大きい潜水艦による哨戒勤務など無理な状態であるにも拘わらず、その責任感から、戦闘を継続させんと踏ん張ってきた艦長であったが、いよいよ体力的に限界が来ていた。彼は今、艦長にて横臥してほぼ意識が混濁していた。とても指揮が採れる状態とは言い難かった。

「……そうだな。仕方ない」ヤンも制帽を脱ぎ、頭髪をかきあげながら同意を示した。

「ヴァノック一等兵曹、ソナーの状況知らせ」と、副長アレクサンデルの命令に即応したのはマリアのほうだった。

「今のところ異状ナシです」

 マリアは一度そう報告を入れたのだが、そのあとすぐに首を傾げて方位ハンドルを左右にしきりに動かし始めた。その動きが気になったフランツが

「……どうした?何か聞こえた?」と問うと、マリアも目を閉じて顔を上に向けて聴音に集中しようとしていた。

「さっきよ。……何か金属を叩くような音を拾ったと思ったんだけど……ダメ!真後ろのスクリューとモーター音がかぶってしまって消されちゃってる」

「……あのさ、さっきの…こと」マリアの”守ってよ”の願いに自分が何も言えなかったことをフランツは弁解めいた事を言おうとマリアににじり寄ったが、

「黙って!今はこっちが優先よ」すげなくぴしゃりと女の子から言われて、しかも彼女の手の平がフランツの顔をおおってしまい、彼はすごすご引き下がるしかなかった。

 ちょうどマリアが不審な音に勘付いた頃合いに、潜望鏡を覗いている次席士官ヤン・レヴァンドフスキィ大尉も潜望鏡の向こうの様子に異変を感じ始めていた。

「オレク……ドプチェク艦長は、こっちに気付いているみたいだが……何だ?」

 ヤンの視界の中、最大望遠で捉えているレイス号の艦長、ツェザーリ・ドプチェクはチラチラと何者かの視線を気に掛けていて、しかもこちらの潜望鏡に気がついてはいる様子なのだが、手を大きく何か虫を払うかのように”あっちへ行け”としきりに振っているのだった。

 ヤンは黙ってレイス号の動きに注視した。

「フランツ!この機械もっと小さい音、拾えないの?」完全に意識を仕事モードに切り替えているマリアは少し苛立っていた。フランツはすぐさま、聴音機のサイドに有る大きなダイアルを回して聴音域を最大に設定してやった。

「どうだ?それとどっちから聞こえる?」

 マリアはフランツの問いに黙って自分たちの進行方向の9時方向、左舷側をさっと指差した。

「何か叩くものちょうだい!」マリアがいきなり言うので彼は慌てて自分たちが腰かけている座席の下から工具箱を引っ張り出して、ドライバー一本を取り出すと先の細いとがった方を彼女に握らせた。

「どうしたぁ?」発令所からアレクサンデルの声がする。

「チーフ・オレク!一回モーター止められますか?さっきからレイス号の方向から信号みたいな音が聞こえるんです」マリアは発令所まで響く大声をあげた。

「モーター停止!舵中央!深度維持せよ!」

 オルフェウス号は微速前進、面かじのまま、ぐるりと周囲を一周して今また舳先(へさき)をレイス号にむける位置でモーターを停止、深度を維持させたままの水中での待機状態に入った。

「今度は……よく聞こえるわ!いいですか?レイス号の中で誰かが隔壁をたたいているみたいなんです。こう聞こえます」

 マリアはヘッドセットを装着しながら体の向きを隔壁の方にむけて手近のパイプをドライバーの柄の部分を使って叩き始めた。彼女のヘッドセットの中からは200メートル以上は離れた水中からの音が伝わってきていた。”コーン、コーン”のあとは”ココン、ココン”と短いサイクルで最後は”コン、コン、コン”と短く区切ってリズミカルに。1、2秒の間があいてからまた最初に戻ってこれが繰り返された。中空になっている送気管はマリアの打撃の動きによく反応して音を反響させた。

 潜水艦の士官たちはすぐさま、これはモールス信号を模した合図であるとわかって、これを解析しようと努め耳をすませた。ただ、人間の手で真似られた信号なので正確な信号機を使って打電されているわけではなく、しっかりとその意味が判別できずにいると

「……これは…『逃・げ・ろ!敵』って打ってるのか?」と、レフが(いぶか)しげにつぶやいて、発令所の士官と水兵らが不穏な顔色を見せた途端、マリアがその場でドライバーを取り落とし、立ち上がって

「音が途絶えて……レイス号の中で銃声が聞こえました。たった今です」

 この一言で艦内は一転!騒然となり、アレクサンデルが

「両舷後進全速!距離をとれ。離れるんだぁ」と下令したと同時に探索用潜望鏡を覗いていたヤン大尉が

「ちくしょう!今、ドプチェク艦長が撃たれたぞ!レイス号の中からドイツ兵が……武装していやがる。レイスは抑留(よくりゅう)されていたんだ」と覗き窓口に張り付いたまま声を発令所内で響かせた。

「なんだ……!?ドイツの水兵どもがレイス号から逃げ出している!くそっご丁寧にボートまで用意していやがる」

 ヤン・レヴァンドフスキィ大尉はそう言うと潜望鏡のハンドルをたたみ、同時に探索用潜望鏡は静かに収納塔内に降ろされた。

「どうする?撤退するか」

「当たりまえだ!深度60へ。潜れ!レイスは囮だぞ!マリアーッ周辺の聴音監視を強化せよ。敵艦を探せぇ」副長のアレクサンデルが指示を言い終える前に

「後方より高速のスクリュー音です。……ぎょ、魚雷!?」とマリアが初めて感知した音源に立ったままで戸惑っていると、脇にいたフランツは彼女の頭部のヘッドセットを外して自分が装着するやいなや

警報(アラートッ)!、6時方向より雷跡…二つです!」と、彼は叫んだ。

「両舷前進全速!取り舵いっぱい!くそーっ間に合え!」アレクサンデルの転進指示が飛ぶ中、甲高い笛の音に似たような音がオルフェウス号のすぐ脇を船尾方向から流れてきて舳先の方向へと抜けていった。

「マリアッ伏せろー」フランツはほぼ反射的にマリアの身体を抱きかかえ、聴音室の座席に二人して覆いかぶさった時に

 何者からか発射された二本の魚雷の内、一本目の魚雷はそのまま海上で動かない姉妹艦レイス号に向かい、その中央部で炸裂した。

天をも裂かんばかりの轟音と衝撃がオルフェウスを襲った。その中で、フランツは狭い艦内で雷に撃たれたように激しい痙攣(けいれん)を起こしてのけ反り、艦内の隅々に届かんばかりの大絶叫をあげるとその場で仰向けに倒れてしまった。

 迂闊(うかつ)ではあったのだが、彼はマリアのために聴音機の音量レベルを最大に設定したままで、魚雷が炸裂する瞬間までヘッドセットを外さずにマリアの身体をかばったのだった。

 その結果、只でさえ耳を覆いたくなるような轟音が何倍もの音量でダイレクトに耳から頭脳まで一気に駆け巡ってしまったのである。そのショックでフランツは気を失った。

「えぇ!?フ、フランツー。しっかりしてぇ」マリアは手探りで自分の足下で仰向けになっている若者の上にのしかかって揺すってみたが意識は戻らない。

「マリア!配置に付け。そいつはいい。死んだ訳じゃないんだ。それより…」と、アレクサンデルが言いかけた時だった。もう一本の魚雷がオルフェウス号の船体外郭をかすって、中にいたマリアや士官たちに不気味で耳障りな甲高い擦過音(さっかおん)だけを残して海底の彼方へ走り去った。もし、急接近してきた魚雷の進入角度がもう少し深かったら今頃はオルフェウスもレイス号の二の舞になっていたはずである。

「マリア……。敵潜水艦を探せ!君がやるしかないんだ。相手はおそらくドイツのUボートだ」

 アレクサンデルの声にマリアはフランツが放り出したヘッドセットをつけると、大きく深呼吸した後、聴音機の前にすわり、真鍮製のハンドルを握った。

「わたしが……兄妹たちを、フランツを守る。そう……やるしかないのね」

そこへアンナとモニカが不安になってマリアのもとに駆けつけた。いつまでたっても士官室に戻ってこない血の繋がっていない姉が恋しくなり、また自分たちだけでは不安になってしまったのだ。

「アンナ、そしてモニカ。お姉ちゃんこれから少し忙しいからね。一緒にいたかったら大人しく座ってなさいね。……わかったね」毅然とした態度をとってアンナを隣に座らせてから

「モニカは、フランツを見ててあげてね。彼の意識が戻ったら教えなさい」

 ”うん”とモニカは頷いた。

 モニカは思い出していた。マリアがグダンスク市にいた頃に自分たちを(いじ)めようと、また何らかの危害を加えようとする悪ガキに喧嘩を吹っかけられた時にいつもこういう顔をしていたことを。表情は怖いくらいに冷淡で落ち着き、声は低くよく通るのだ。

 モニカは一度”ぶるっ”と背中にうすら寒い感じをおぼえて身震いした。

 潜航を続けているオルフェウス号に雷撃を受けたレイス号が深い海底の闇へ、引きずり込まれゆく断末魔の音が伝わってきた。金属同士がこすれ合い、鋼鉄の船体その物が金切り声をあげているようだ。重量物が転がるような物音もあいまってだんだんと自分たちの足の下の方向へと遠ざかっていく。

 手元のハンドルを左右に回しながら、今マリアは魚雷を放った相手がどこに潜んでいるか捜索を開始した。ハンドルを回転させていた手がぴたっと止まった。

「方位2-1-0より、二軸スクリュー音。接近中です……。これが…ドイツの潜水艦、Uボートの音……つかまえたわぁ」

 モニカは(めしい)の自分が慕う姉貴分の少女が不気味に笑うのをとらえ、さらに声には出さないがある言葉を口にしているのを、鋭く見据えて、読唇(とくしん)してから彼女自身も目を細めてニヤッと笑ったのだ。

 マリアがその言葉を口にした時には必ず勝った。街の不良を自称する悪ガキ相手に噛み付き、引っかきまわして、相手の急所までをも乱暴につかんでは最後に馬乗りになって、手に小石を握ったまま力まかせに打ち据えたのだ。相手が泣き叫び許しを乞うか。また気を失うまで、何度も何度も。

 モニカが読み取ったマリアの唇はこう言っていたのだ。

”潰しのマリアをなめんじゃねえ”と。

 


 

 

 

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