レイス号との邂逅(ランデブー)
夜のバルト海には月が掛かっていた。うっすらと雲をたなびかせている夜空には月明かりがぼんやりと、その輪郭をにじませていた。上空だけなら穏やかにも見えるが今夜の下界は波が高くうねっていた。風もひっきりなしに艦橋の縁とその更に上に張られているワイヤーに当たって”びょーびょー”とうなりを上げている。
「しっかし、お前も情けねえなぁ。あの娘っ子に言いようにこき使われてるようじゃなあ」と、見張り当直に就いているフランツ・ヴァノック一等兵曹に語りかけてきたのは、彼より5歳年かさのヤコブ・マズゥールという二等水兵であった。
ヤコブという男はやや吊りあがった目を陰険そうに光らせては、フランツの顔を覗き込むようにしている。
鼻は低く、何といっても特徴的なのは前歯が見事に2,3本抜け落ちた口元とデッキブラシみたいな豪勢な鼻ヒゲである。
「ちゃんと自分の担当を見張ってくださいよ。マズゥールさん、それとオレ、別にこき使われてるわけじゃありませんけどね」フランツは艦橋にあって針路0度、つまり舳先が白波を立てて海面を切り進んでいる方向を双眼鏡で監視を続けながらつっかかって来るヤコブのいう事にやや面倒くさげに応対した。
「フランツゥー、フランツゥってばぁ、これってなあにぃ?アタシ、わかんなぁーいだとさ。艦内でイチャイチャしやがってよ」やっかみたっぷりに、18歳になったばかりの青年というよりかは未だ少年の雰囲気を残しているフランツを揶揄するヤコブ。
「マリアは……あの娘はそんな言い方したことないです!覚えも早いし、真面目に仕事として取り組んでるんですよ。そんな風に言っちゃあ可哀そうですよ」
フランツは本当のことを言っていた。マリアはソナー員としての訓練を座学なし、ぶっつけ本番の実戦形式で確実に技量を上げてきていた。むしろ、彼女は仕事以外のことではフランツと接触を持とうとしない所がフランツにはもどかしかったのだが。
「しっかし、何でうちの”二代目”はあんなガキ共を拾ってきたんだぁ?……茶色い肌の小僧に、頭のネジのいかれたガキと口の利けない奴、そんでもってユダヤのチビ助ときた。あのチビ助はおれの近くでちょろちょろしやがって……目障りなんだよ!おれはユダヤ人は好かん!」
アンナが掃除させてもらおうとした時に、睨みつけてきたのがこの男であったのだ。そしてヤコブは今度はにやつきながら
「結局、オレ達のお楽しみに使えそうなのはマリアちゃんぐらいだろうが。で、どうよ?」
「な、何がですか?」
「決まってんだろう!マリアの具合はどうなんだよ?抱きごこちは?器用にこそこそ隠れてよろしくやってんだろう?」ヤコブはいやらしい手付きで、女性のバストを揉むような仕草をフランツの目の前でしてみせた。
「そ…そんな訳無いでしょう!なにバカな事、言うんですか全く」フランツは顔を真っ赤にして全否定して、そのあとは必死に双眼鏡を覗いている。
「かぁーっこれだからよ!チェリー君は。だから情けないってんだよぉ」周辺監視の任も努めずヤコブは平手で若者のケツをひっぱたいた。
「18になったばかりですもん。しょうがないでしょうよ!それに……情けないのは何もオレに限ったことじゃないでしょう……。つい一昨日なんか皆酷かったじゃないですか」フランツは先日、遭遇したスウェーデン海軍の海防艦から”行きずりの”と言って差しつかえない爆雷攻撃を受けたときのことを引き合いに出してきた。
一度、過ぎ去ったと思わせてまたこちらをアズディックで探索してからの爆雷攻撃は10発を数えた。その後、搭載爆雷を使い果たした海防艦はその海域をゆうゆうと去っていったのだった。
潜水艦オルフェウス号はその後、夕闇が迫るまで限界深度ギリギリの海底に船体を鎮座させてから、浮上したのだった。その間、船内ではパニックになり「外に出せ」といって暴れる者、頭を抱えて泣き出す者、放心状態でうわ言を言い出す者など惨々たる有様であったのだった。
その中にあってマリアを初めとする子供たちは気丈にも、士官室に寄せあつまってしっかり手を握り合い耐えていたのである。むしろ醜態をさらしたのは訓練を受けてきたはずの大人たちのほうだった。
とは言え、彼らを非難するのも妥当とは言えないであろう。この開戦当初の段階で、実戦においての爆雷攻撃を体験することなど今まではあり得なかったのだから。
訓練を受けたといっても、参加した士官たちにしても実際の所ではグジニャ港の沖合いで、第一次大戦で敗戦国となったドイツ帝国海軍から接収した小型の沿岸哨戒用のUB型潜水艦を訓練用として利用。それを海中に潜ませた周囲50メートルほど離れた水上から2、3発の爆雷を投下して耐爆雷の訓練と称した程度である。それでも参加した中には数日耳鳴りに悩まされた者もいた。
これには口さがないヤコブも黙るほか手がない。
一段と高い波が押し寄せて潜水艦の舳先を持ち上げ、波の頂を越えると今度はそれが鉞みたいに水面を切り下げる。司令塔の上、見張り所としての艦橋では二人がざんぶとその日何回目かの大波を被る。二人とも防水用のゴム製合羽を着こんでの当直である。
それを皮切りにまたヤコブが
「おい!フランツ、いい頃合いになったらマリアちゃんを押し倒せよ。そん時はおれも混ぜろや」と、規律のうるさい艦内では絶対口の端にも乗せられないようなことを口走った。
「今度はなに言い出すんだよ!このバカ野朗はよぉ。んなことするわけないだろうが」いささかフランツもこの発言にはカチンときたらしく語気を荒げた。
「なんだとぉ!いいか童貞。女なんざなぁ”べろちゅー”かましてやって、アソコなでてやりゃあその気になんだよぉ!」
「そりゃ、あんたが好くいく”お店のお姉ちゃん”の場合だろうがぁ」
「そうでもねえよ。田舎から出てきた初物の”おぼこ娘”を仕込んでやる時もそうするんだよ。はじめは泣き叫ぶが朝がしろんで来る頃にゃあな、てめえの方からでっかい尻ふってよぉ好い具合に仕上がってるもんよ」
「ああもう、止めろ聞きたくねえ!アンタ、マジ最低っだな」
「やかましい!チェリー小僧が騎士様気取ってんじゃねえよ!」言うが早いかヤコブはフランツの背中を思いっきり蹴り上げた。やられた方も黙ってはいない。監視任務そっちのけでフランツはヤコブの胸倉をつかんだ。マリアのことをそういう類の女と同類に思われているのも気に入らなかったし、ヤコブの女性に対する扱い自体が腹立たしかった。
それに、フランツはわかっていた。あの爆雷攻撃の際に子供たちを”放り出せ”との暴言をはいたのもこのヤコブの声だったのを。
ただでさえ手狭な艦橋にあって二人の男が胸倉をつかみあっていると、彼ら二人の足下にある水密ハッチから”ぬぅーっ”と一際でかい人影が現われて
「おうっ!おめーら随分、余裕かましてくれてんじゃねえか?見張りはどうしたぁぁーっ!」クマ親父こと水兵と技術系の兵曹の総元締めである掌帆長ヴォイチェフ・グラジンスキィが仁王立ちで二人の諍いを見下ろしていた。そして次の瞬間には、ヤコブはヴォイチェフが繰り出した裏拳で鼻を打ち据えられ、フランツは胸倉をそのゴツイ手でつかまれて、顔面に強力な頭突きを喰らって二人して艦橋の床面に突っ伏した。
「い、いやあの、掌帆長コイツがねマリアちゃんと船内でよろしくやりたいから手を貸せって言うからさぁ、お、俺はふざけんな!って喧嘩になったわけで」と、ヤコブがでまかせ嘘八百を図々しくも言ってのけると、
「ざけんなぁてめえ!」と、キレたフランツはまたヤコブに挑みかかる。
「黙れ!」低く野太いだみ声がつまらぬ言い争いをする二人をその場で石に変えてしまった。
ヴォイチェフは二人を立たせると毅然として後ろで手を組み
「貴様ら、二人には追加で3時間の見張り直を命ずる。夜勤組の連中にはもう少し余裕をやることとする。あと、マリア・フォン・シュペングラー嬢以下四名の同伴者はストックホルムにて本艦を降りることとなる。艦長以下士官の決定である。意見具申は受け付けない」と、フランツにすれば初耳の決定を聞かされた。
「ストックホルムって中立国のスウェーデンですよね?……そ、そんなぁ彼女らをともなってイギリスへ向けて脱出するんじゃなかったんですか」フランツはぶん殴られる危惧をよそに、クマ親父に詰め寄った。
「諸般の事情により艦長が決定された。納得しろ一等兵曹」
それだけ言うと、掌帆長ヴォイチェフはまた階下に降りていこうとする直前に
「また、見にくるからな!」と二人に釘を刺すことを怠らなかった。
フランツはしばし呆然として、
「なんだよぉイギリス行きはなしかよぉ。そんな殺生な!おれの思惑がぁ……」といって首をガクッとうな垂れた。
それを尻目にヤコブ・マズゥールは何やらにやにやと思案顔をしながら周辺の監視任務についた。
「すまないが、了解してほしい。君たちのむこうでの安全は保障する。現在は情報部のエージェントとの連絡をつけるために努力している最中だ」士官室でアレクサンデルはマリアと対面して、この艦がイギリスへ向けてではなく、中立国スウェーデンに向けて航行中であることを、そしてかの地で、マリアたちはオルフェウス号を離れてポーランドの情報部かあるいはイギリスのエージェントの保護の下、陸路でスカンジナヴィア半島を横断してノルウェーの港からイギリスへ渡る予定であるということを告げた。
「……そういうことね……やっぱり厄介払いしたいんだわ…」潜水艦指揮官の決定をきいたマリアは目を伏せて、相手に聞き取れないような小声でつぶやいた。
それを聞き取ったのか否かは定かではなかったがアレクサンデルは
「どう考えても、この船でデンマークのカテガット海峡とノルウェーのスカゲラック海峡を抜けるのは難しいとの判断だ。十中八九は拿捕されるか攻撃を受けて沈められてしまう可能性が高い。……この前のこともある。君たちが恐ろしい目に遭うのが私も皆も辛いんだ。わかってほしい」
二人の間に沈黙が降りて、当然マリアは反駁してくるであろうとアレクサンデルは身構えていたが
「あと、どれくらいでストックホルムに到着するんですか?」と、マリアは物静かにいった。
「三日だ。夜になってから入港を果たして、中立国の監視団が乗り込んでくる前に、君らを向こうのエージェントに委ねることになるだろう」
「わたしたちを降ろした後はどうされるんですか?」
「どこまでできるかわからんが、このバルト海で徹底抗戦の構えだ。海軍軍人としての本分を果たせとの艦長からの指令が出ている」
「……戦争ですものね。仕方ありません。他の子たちにはわたしから話ますから。……チーフ…じゃない、アレクサンデル・コヴァルスキ少佐」と、マリアに自分が子供たちに許した愛称”チーフ・オレクではなく、改めて正確な官姓名で呼ばれてしまうと、アレクサンデルはもうこの子らとの別れが決定的になってしまった事への実感が湧いてきて、いささか侘しさを感じてしまっていた。
「それまでは、普通に仕事させてくださいね。わたし少し楽しくなってきてたんですよ。あと、アンナをよく抱っこしてあげて欲しいんです。あの子、少佐殿を慕っていましたから……お願いします」
マリアはやや視線をずらしたまま、こう言ってアレクサンデルとの会見を締めくくった。
「オルフェウス号のみなさまのご武運をお祈りいたします」
マリアの言葉にアレクサンデルは頷くことしかできなかった。
「話はきいた?……そう、今までありがとうね。フランツ」
「まだ、二日ある。それまではしっかり頼むぜ……しっかしなぁ、ちくしょう!」
フランツはソナー員としての仕事はマリアに任せて、自分は聴音室の彼女の隣に座って膝を抱え込みながら天井を見つめていた。
「どうしたのよ?」と、マリアは聴音機のハンドルを操作しながら、周辺海域の音源探査に余念がないのだが、そんな中でもフランツの様子が気にかかりになって問うた。
9月11日午後においてオルフェウス号は先刻、発見した偵察機らしき機影から逃れるために潜航していた。ストックホルムへの航路をゴトランド島を東から大きく迂回するコースを取り、現在はその北端の沿岸から沖合い60海里を航行中であった。今の所、敵偵察機とは出くわしてはいないので、浮上していた。
「イギリスへ行けるんだ。チャンスだぁと思ってたのになぁ」
フランツ・ヴァノック一等兵曹が言うには、自分には昔から海での働きで功上げ、名を立てたいとの野望があって、今回の脱出航が成功した暁には、かの地での憧れのイギリス海軍への編入あるいは士官学校への転属進学を上申するつもりであったことを隣の女の子に告げた。
「故郷のご家族はどうするのよ?帰らないつもり」
「おれ、次男坊だし。実家の稼業は長男のヴィクトール兄が後を継いでるんだから問題なし。それに、今じゃ実家と故郷の村の連中は深い山奥へと疎開しちまってるだろうな。ヘタすりゃ山二つ越えてスロヴァキアまで逃げちまったかもしれねえ……しばらく連絡とれねえよ」
「ひどい話よね。住んでいる家を追われなきゃいけないなんて」
「でもなぁおれたち、山育ちの百姓はしぶといんだぜ。昔っからさタタール人が攻めてきたり、オスマン=トルコやらロシア人がやってきてもちゃんと凌いできたんだ。おれは海軍に入るときに言われてるんだ。『いざ、という時はお前はお前で生きていけ』ってね」そういうと、フランツは上をむいたまま軽く笑い声をあげた。
「いいわね……。自分でちゃんと未来を切り拓けるなんて、わたしはダメ。どこにいっても厄介者でお荷物で……。誰かの世話にならないと生きていけないのよ。……生きていていいのかって考えちゃう時もあるわ」
「……君もこれまで大変だったみたいだな」
マリアは一旦聴音機の方位ハンドルから手を離してから
「わたしはね、捨てられたのよ。故郷のポズナニにいる祖父はね、それはもう軍一筋の騎兵将校だった。名ばかりになった貴族の家柄と対面ばかり気にかけていてね。盲になった孫娘が気にいらなくて”家の恥”だって……」
フランツは黙って潜水艦の配管だらけの天井に目を向けている。
「父はドイツ人…。何年も前からナチス政権の反対派で、今はドイツ国内で投獄されているらしいの…。小さい頃に別れたきり、どんな声をしてたかも覚えていない。母は病で目の見えなくなったわたしを連れて、ポーランドの実家へ逃げたのよ。迫害を逃れるために、7歳の時だった」
マリアも彼の隣で膝を抱えるようにして二人で同じように天井の方に顔をむけ
「……もう、ポズナニの祖父の家は牢獄だったわ。祖父はわたしを誰とも会わせようとしなかったの。親戚やら自分の領地にいる小作人たちの間でわたしのことが知れ渡るのを嫌った。母はわたしを庇いきれなくなって……。目が見えないせいかもしれないけど、耳はよく聞こえるのよ。母と祖父がわたしのことで言い争いになっているのを自分の部屋にいてもしっかり聞こえていた。聞こえなくてもいいのに……」
マリアはその後、12歳までは祖父の実家で過ごしていたがグダンスク市でマリアのような子供が寄宿して勉強できる学校、というより施設にあずけられることとなった身の上を話して聞かせた。そしてそこで初めて、モニカ、フィリプといったハンディキャップを負った自分と同じ境遇の子供たちと出会ったこと、そのコヴァルチェク神父夫妻の私設学校で初めて点字で読み書きを覚えた事などをフランツに告げた。
いつしかマリアの両頬には涙がつたい
「……みーんなわたしのせいなんだ。いっつも喧嘩ばかり……あ、あのねフランツ、わたし12の時にね……あのジジイ、アイツからね……」そこまで言うと声を詰まらせてしまった。
「……いいよ!話したくないことは言わなくても。……あ、あのさ、今日の髪型、かわいいな。よく似合ってる…と、思う」
フランツは、本心では”さっ”とマリアを抱きしめてやって頬をよせ、優しく背中をさすってあげて安心させたいと思ったのだが、さすがにこの場ではと躊躇して、彼女のいつもと違う髪形に話題を切り替えた。
マリアはいつもは背中まで伸びた絹糸のように繊細な金髪を一本に頭のうしろでまとめ上げているのだが、今日はいわゆるツインテールにしてあったのだ。
「こ、これね。わたし鏡みえないから髪型なんて気にしてなかったけど、今日はアンナが、『可愛くしてあげますよ』ってしてくれたのよね……変じゃない?」そう言いながら涙をぬぐうマリアにフランツはどぎまぎしながら
「うん!……変じゃないよ。……お、オレは今のほうが好きかも……」
「そ、そう……」マリアは照れくさそうにして頭の両脇にまとめ上げた髪の先端を指でいじりながらフランツが座している方向に顔をむけると
「この潜水艦に拾われてからは、少し楽しかったな。ちゃんと仕事させてもらえたもの。チーフ・オレクからソナー員をやれって言われたときは”そんなの無理”って思ったけど、わたしの耳を存分に使ってお役に立てるならって、ねえわたしちゃんとできてる?フランツ」
「意外にね!ちゃんと方位と音源を聞き分けて、この前なんか爆雷を投下する音までも察知できたじゃないか」
「そう!うれしい。でも意外ってのは余計よねぇ」と、マリアはほっぺを膨らませながらもフランツに笑顔をつくった。
ちょうどそこへ調理員のダミアン・ヴィチェクとそのお手伝いであるモニカ・カミンスカヤが通りかかった。二人は舳先の魚雷発射管室付近のスペースから食料の備蓄品を運んでいる最中で、ダミアンはバケツに一杯のじゃがいもを運んでいて、モニカのほうは網に入れた黒パンを担いでいる途中であった。
「モニカ、ちょっと待った」とフランツは彼女を呼び止めると、ひょいっとモニカのメガネをとり上げた。モニカは眉間に皺をよせてフランツに異議を唱えるように口を尖らせたが、フランツは”すぐ返すから”と前置きしてから
「マリア、これかけて見て」と、マリアの手にメガネを握らせた。
「なあに?メガネなんて私には意味ないんですけど」少しぷりぷりしてマリアがいってもフランツは彼女にそれを架けさせてみた。
金髪ツインテールに小顔で端正な顔立ちのメガネっ子が、フランツの前に出現したことになったわけで……。
フランツはバカ丸出しにその場で「好いっ!」と、自分好みの女の子を垣間見ることができた感動で身をよじらせる様にして一人で悦に入ってもだえている。
フランツの発言に何名かの当直に就いている水兵たちが興味深げに寄ってきては、フランツと異口同音に「好い!」との感嘆を飛ばしては、「立って、立って」と彼女にリクエストした。
マリアも「ええーっ」と言いながらも顔を真っ赤にしながら立ち上がった。
武骨一辺倒で華やいだ雰囲気など皆無の軍用艦に、奇跡的に可憐な妖精が舞い降りたといってもいいかもしれない。ベージュの長袖のワンピースに白のカーディガンを羽織った若干14歳の少女は、ここでは全ての男性の羨望の眼差しを一身に受けていた。
ふと、フランツは水兵たちの真後ろで、昨晩、見張り直で一緒になり胸倉をつかみ合ったヤコブ・マズゥールがにやにやしながら立っているのに気が付いた。むこうもフランツの視線上で”ほれっやっちまえ!”といやらしく腰を前につきだしているではないか。マリアからは見えないことをいいことに。
フランツも声に出さないようにして”このバカ、止めろ”と顔を険しくさせてヤコブを睨みつけて威嚇したのだった。
モニカがメガネを早く返してとの訴えで足を地団駄ふんでアピールしたのを皮切りに
「もう、恥ずかしい!ほらっモニカ」と、マリアはツインテールメガネっ子モードを取り止めてしまい、モニカにメガネを返した。そしてフランツに
「何、ごそごそやってるのよ!あんたはぁ」詰めよって両の手で彼の頭あたりをペシペシと叩いた。
フランツも彼女にされるがままでにや付いていると、またしても突然に
「盛り上がってるところ、悪いんだけど。集合かかってるんだなぁ」と、次席士官のヤン大尉が聴音室の前に現われた。
二人は、またしてもびっくりして、息もぴったりに同時にその場でのけぞった。
「もうイヤッ!この展開ッ」マリアがぼやいた。
「全員聞け!朗報である」珍しくこのオルフェウス号の艦長であるアレクセイ・クナイゼル中佐が発令所で、今しがた確認がとれた事例に関しての発表を行なおうとしていた。マリアはフランツに肘を貸してもらって発令所に赴いていた。二人の周囲には副長である子供たちから”チーフ・オレク”と呼ばれているアレクサンドル・コヴァルスキ少佐をはじめ、士官たち、当直にある水兵たちが規定どおりにぴっちり海軍の制服に身を包んでいる艦長の言を待ち受けていた。
マリアには艦長の顔色を窺うことはできないが、今の艦長の息遣いはよく安定していて、落ち着いているなと彼女には感じられていた。
「同胞からの無線連絡が届いたのだ。諸君喜べ!レイス号が健在であるとの確認がとれた」クナイゼル中佐の言にその場の皆から拍手が沸き起こった。中には互いの肩を拳で叩きあい喜びを分かち合う者もいた。フランツは一度「ヨシッ!」とグッと拳をにぎった。そして自分の肘をつかんでいるマリアの手も自分の手で力強く握ってきた。
マリアはいきなり手を触れられてしまったが、身を引くことなく同胞の無事を素直に喜んでの彼の行動を認めてあげることにした。
「レイス号か。オルフェウスの姉妹艦なんだぜ!グジニャを脱出してから初めてのランデブーになる。ポーランド海軍の同胞とこのバルト海で会えるとは」
マリアの視界は常に闇であったが、彼女自身はその向こうに満面に笑みをたたえて自分に向き合っているフランツの顔が想像できていた。
「そう…。よかったじゃない」彼女は声の方向に微笑んでみた。彼女のフランツの肘をつかんでいる手にまた若い男性の体温がしっかり伝わってきた。
「レイス号のツェザーリ・ドプチェク艦長から、こちらとの共同作戦を持ちかけられた。私はこの要請をを受けることにした。レイスの現在位置は?次席士官」クナイゼル中佐はよほど今日は体調がいいのか、ここに来て初めてマリアを初めとする子供たちに元気な姿を見せていた。
艦長の問いにヤン・レヴァンドフスキィ大尉が事前に航海長と通信員に割り出せていた海図上のポイントを告げた。そのあとに
「ゴトランド島北西約25海里の邂逅ポイントまでは、おおむね明日の1100に到着予定であります」と、報告を締めくくった。
「我々はレイス号とのランデブーのあとにストックホルムに入港し、マリア嬢たちを現地のエージェントに託して送り出した後に本格的な共同作戦に移ることになるであろうことを通達する。何か質問はあるか?」
「レイス号の位置が気になります」口を開いたのは、副長のアレクサンデルであった。
「公海上ではありますがほぼゴトランド島とスウェーデンの領海といって良い海域です。潜航しても深度が限られます。潜水艦同士の集結には指定するポイントが不自然ではありませんか」との副長の発言に、艦長は唇を歪めて不快感を顕わにしながら
「では、どうするのか?同胞の申し出を無視して交信記録も抹消。単独行動に徹するのかね?先任……」クナイゼル中佐は後ろで手を組み胸を目一杯反らせて副長と対峙した。
マリアのすぐ隣の水兵が小声で
「また始まった。社長と二代目の喧嘩だぜ」と誰かにささやく声がした。
「どうせ、すぐに二代目の方が折れるのさ。そのくせ意見しないと気が済まないんだよ。先任はさ」マリアの背中のほうからこう答える人物の声がした。
そのあとに二、三言のやり取りがあったあとに
「わたくしはこれは罠と考えます」と、アレクサンデルが決定的な発言をおこした。これに艦長は顔を赤らめて激昂してしまった。
「貴官は、レイス号のドプチェク艦長が敵に寝返り、我らをはめようとしていると言うのだな!全くもってナンセンスだ!」
マリアは少し怪訝な表情を浮かべてから
「いけない」とつぶやいたのをフランツは聞き逃さずに、なぜかと彼女に問うた。
「艦長の息遣いが不自然になってきたの。興奮してまた病魔が首をもたげ始めているのよ。静めないとまた激しく咳き込むように……」
マリアの予言が的中したようにその発言のあとに艦長は激しく咳き込み始めて、立っているのも難しくなってきた。その様子にアレクサンデルが手を貸そうとすると、クナイゼル中佐はそれを乱暴に払いのけて激しく拒否した。
「予定通り、レイス号との邂逅ポイントへ向え。以上だ」との命令のあと艦長室に歩を進めたが、あまりのおぼつかなさに、次席士官のヤン大尉が手を貸した。
艦長室に着き、クナイゼル中佐を寝棚に横臥させ、立去ろうとするヤンをクナイゼルが呼び止め
「あれ(副長)はダメだ。自分の独善的な行動を抑制できない。大尉、いいかね。もし私にこと有る場合は君に指揮権を委ねる。……それと」
艦長は震える指で、自分の備品棚にある小さな引き出しをヤンに開けさせて、中に保管されていた開封済みの艦長専用宛の封筒をださせた。
「そこに、わたしが何故、子供たちをストックホルムで降ろそうとしたのか、その理由がある。その封筒は出港の前ギリギリになって、ポーランドの情報部の知人から得た情報だ。その人物もドイツ軍の暗号解読器エニグマを別ルートで追っていたんだ。それを受け取るために私は集合時間に遅れた……。一度だけ目を通せ。そして君の胸のうちに伏せておくんだ。その時まで」クナイゼルはそういうと苦しげに目を閉じた。
ヤンはその中身の一字も見落とさぬように自分の頭脳に焼き付けてから、しばらく固く目を閉じていた。それを察したのか目を閉じたままのクナイゼルは
「まったく……残酷なものさ。戦争というバケモノは何もかも乱暴に食い散らかすだけだ。人の命も夢も常識も理性も立ち行かない…。だが、誰かがそのバトンを受けて走らにゃならんのだ。戦争を速やかにもとの暗い穴倉に閉じ込めるために。オルフェウス号は選ばれたんだ。最初からな……」
次席士官を拝命しているヤン・レヴァンドフスキィ大尉は読み終えた覚書を封筒に入れ、もとの引き出しにもどして
「全くです」とだけ言い残してその場を辞去した。