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オルフェウス号の伝説  作者: 梶 一誠
6/22

封鎖航路

 耳にこびりつくのはディーゼルエンジンの単調な音ばかりだった。シュテルンヴェルガーが今、身体を横たえている狭い寝棚にあっても、鼻にまとわりつく永年こびりついた汗臭さと、機械油の異臭からは逃れることはできない。汚れた薄い生地のカーテン一枚によって、申し訳程度に区切られた空間だけが、この潜水艦にあっては彼にとって唯一プライベートな場所だった。

 分かってはいたはずだが、自分で実際に体験するとここまで不快なものとは想像つかなかったことに、彼は最早、うんざりといった感覚を通り越してしまっていた。

「ここにいると、時間感覚が狂う。実家の牛小屋だってここまで臭くはないぞ」と、呟いた。

 ドイツ本国にあっては、全警察権限を統括(とうかつ)するハインリヒ・ヒムラー、ナチス親衛隊長官隷下(れいか)となる武装SS大尉のカール・フリードリヒ・フォン・シュテルンベルガーは今、ドイツ海軍の航洋型潜水艦ⅦBタイプ、特務指令を受けて本来の艦識番号を伏せられているU-X09の士官室にあって、友軍の偵察機からの連絡を待っていた。

 スウェーデン船籍の貨客船『アウローラ』号をその乗客というより積み荷といったほうが妥当な扱いを受けていた難民たち、ユダヤ人、あるいはユダヤ系と称される人間達ともども船ごと沈めたあと、シュテルンベルガーは事後処理に多忙をきわめた。

 ここ数日、この艦の無線機をほぼ占領するかたちで、一番最寄(もよ)りになる東プロイセン地方の中心都市ケーニヒスベルグにあるドイツ空軍の基地及び、ダンツィヒ市内に駐留する第4軍クルーゲ旗下(きか)の前線指揮所を経由して、首都ベルリンの自らの上部組織であるSD本部と国家保安本部にことの次第を報告、並びに追跡作戦の継続と現地空軍への協力要請を取りつけたのだった。

 「やるべき段取りは全てとったからな。あとは待つ段階だが……」 

 本来なら縦割り組織の見本のような軍隊組織にあって、一介のSS親衛隊大尉の要請など歯牙(しが)にもかけてもらえないのが常識であろう。只でさえ、伝統ある国防軍にしてみれば新興の組織でアドルフ・ヒトラー総統の私兵集団も同然でスタートした親衛隊SSなどは鼻持ちならない存在であり、本国においてその指導部同士の対立は顕著(けんちょ)ではあったが、シュテルンベルガー個人は現場指揮官との折衝(せっしょう)には、硬軟取り混ぜて時に本国のヒムラー長官並びに、その幹部と言うより影の実力者と噂されるラインハルト・ハイドリヒ局長の名を上げては協力の功には自分から上司に掛け合うとの鼻薬(はなぐすり)を効かせるなどして、実質的な協力援助の成果をあげていたのだった。

 そして、ヒムラー嫌いで有名な国家元帥ゲーリング隷下のドイツ空軍においてシュテルンベルガーは結果的に、鹵獲(ろかく)機であるポーランド空軍の双発型爆撃機であったP37を長距離偵察機として借り受けることに成功して、開戦劈頭(へきとう)にグジニャ海軍基地を脱出したオーゼル型潜水艦の捜索を請け負わせていた。

 「……そろそろ”当たり”がきても良さそうだが」と、彼は今、親衛隊独特のデザインである黒の上着を脱ぎ、白シャツ姿でネクタイをもゆるめている。

 鹵獲した機体のうち、敵潜水艦探索用として借り受けられたのは計6機。それぞれ一機ずつがポーランドと東プロイセン地域でのバルト海沿岸部とその沖合い250キロメートル四方を6エリアに分割して、早朝から日がとっぷりと暮れるまで担当海域の哨戒飛行を行なわせた結果、合計3隻のポーランド海軍、オーゼル級潜水艦の存在を確認したのはつい先日であった。

 味方機が飛来したと認識した、対象艦は自分たちの方から、船名や艦長名等を発光信号を使って偵察機に送ってきたのだった。最初はこの行動に応じて愛想を振りまくような偽装行動をとらせて、すぐには潜航させないようにしてから、偵察機のパイロットたちに言い含めておいたように、なるべく低速、低高度を維持して、その潜水艦が子供を搭乗させているか否かを視認させたのだが、どれも艦橋(セイル)や、甲板上に姿を表して手を振ってくるのは大人の乗組員ばかりだった。

 この段階で確認できた潜水艦はセプハゲワシ号、ツピクヤマネコ号そしてレイスオオヤマネコ号の3隻であった。

 それぞれの艦の詳細な位置情報を確認させてからのち、シュテルンベルガーは例外なく、これらに対して爆撃を行なわせたが被弾、撃沈させた艦艇は皆無である。ドイツ空軍の爆撃機パイロットの練度は決して低くはないが、なれない機体での海上に浮かぶ木っ端のような船体の潜水艦に爆弾を直撃させるのは至難の業であったのだ。

 いきなり化けの皮を脱ぎ、牙をむいたかつての味方機の攻撃に恐れをなした潜水艦はすぐさまその姿を海中に没してしまった。

 攻撃そのものは失敗ではあったが、得るところもあった。それぞれの潜水艦は単独行動に徹していて、戦術上での作戦連携はとれていないこと。発見された海域はバラバラであるが、その位置情報から中立国スウェーデンの領海内に避退する意図が見られることなどである。

 シュテルンベルガーにしてみればそういった自分にとってはあまり旨みのない情報はこのUボートのアルベルト・キュヒナー艦長にそっくり渡してしまうことにした。彼はそれらの存在と位置情報を己が直属の上司であるカール・デーニッツ提督に報告ができて、嬉々としていた。

 武装SSの任務としてシュテルンベルガーが追うべきは、ドイツ軍が使用している暗号解読器エニグマの正確な模造品を(たずさ)えた子供たちを乗せたただ一隻のみ。

 だが、この時点においても4隻目の発見報告は無かった。彼は完全に手持ち無沙汰になってしまっていたのだった。  

(何もすることがないと、昔の否なことばかり思い出す……)彼は自分がこの潜水艦の客人として専用に宛がわれた寝棚でごろっと寝返りをうった。すると、自分のシャツの胸ポケットから金色の飾りチェーンを施された小瓶が転がり出た。それは寝棚を支える金属製のパイプに当たって床下に落ちそうになった。

 とっさにシュテルンベルガーは上体をおこしてそれをつかんだ。そーっと握った拳を開き小瓶に傷が無いか見て取った。異状がないと分かるとまた寝棚に横臥(おうが)して、その小瓶をUボートの照明にかざしてみた。中には白い粉状の物が詰まっている。

 シュテルンベルガーの脳裏に、自分が13,4歳頃の記憶が勝手に甦ってきた。自分の故郷であるドイツ南部、オーストリアとの国境地域にある小村、一番近い都会はナチスとは縁が深いミュンヘンである。それでも馬車を走らせても、ゆうに半日はかかる山あいの田舎だ。

 その舗装されていない土くれだらけで、馬車の(わだち)がくっきり残る農道で、一人の少女がうずくまっている。黒い髪をおさげにした、茶色の瞳の上にある少し太めの黒い眉毛が印象的な娘だ。その娘は少しむくれていて、半袖の花柄ブラウス姿で両の手をいっぱいにひろげて

「お兄ちゃん、カールお()い!足がだるうなったー。おんぶぅ」と、ねだってきた。記憶の中のシュテルンベルガーは黙ってしゃがんで彼女に背中をむける。背中にずっしりとその娘の体重と温もりがかかる。そしてやや膨らみ始めた少女の胸の感触は今でも背中に残っていた。

 週に三回だけ教会敷地を利用して開かれる学校からの帰り道には、この娘は途中でこうして甘えてくる。

「まぁた少し太ったべぇ、おまえ……」と、お兄ちゃんといわれていた、当時の武装SS大尉はゆっくり足下をわだちにとられないようにして家路を歩いていく。

「うるさい!しっかり歩けぇお兄い!」背中の少女はそう言うと、ぎゅっとお兄いの首っ玉にかじりつくと

「……いっつも優しいお兄いが、あたしは大好きだぁ」と、いった。

 年のわりには成熟の好い身体の感覚が背中に押し付けられてきたのと、耳元に自分の妹分みたいにして育ってきた幼馴染(おさななじみ)の女の子が、女の香りを感じさせて来ていることに、彼はどぎまぎしてそれ以上は何もいえず、足下の轍をみながらただただ、歩を進めるしかなかった。

「……レイチェル……おれのレイチェル……」彼はその小瓶を額に当てて、眼をつむった。

 それからほどなくして

「失礼します!大尉どの」カーテンの向こうから、恐らくは次席士官のハルトマン中尉の声がする。

「……何か?」シュテルンベルガーは、小瓶にまつわる思い出に浸る時間を邪魔されて、少し不機嫌になっている心持ちを抑えながら、それを元の場所にもどした。

「4隻目を発見、接触に成功したと、P37、5号機から連絡が入りました。艦長がお呼びです」

「了解した。すぐ行く」彼はジャケットと制帽はそのままに、シャツ姿のままで寝棚から飛び降りた。肩の吊りベルトの位置をなおしながら、ハルトマンのあとに続いて大人一人が通り抜けられるほどの通路を発令所にむけて歩を進めた。

 彼らが向かっているこのUボートⅦ型の発令所もほぼ船体の中央部に位置して、その上には司令塔があり、さらにその上は吹きさらしの艦橋(セイル)がある。彼らが追うポーランド海軍のオーゼル級潜水艦も、連合国側、そして枢軸国側も、この時代の潜水艦と呼ばれる艦種の設計と間取りはどれも似たり寄ったりであった。狭い一本の艦内通路はいつも誰かとぶつかるようにして通り過ぎ、誰もがヒゲ面、作業着はヨレヨレ、ラフに私服のシャツ姿の兵曹もちらほらいる。ただでさえ狭い艦内のいたる所に食料をはじめとする補給物資がこれでもかとつめ込まれている。ドイツ風パン、果物などは網に入れられ寝棚の支柱や隔壁内を走るパイプなどに結わえられてぶら下がっている。まだ潜水艦生活に慣れていないシュテルンベルガーは、この乱雑さに戸惑いながら中尉のあとを追った。

 「まずは上々の首尾と言って好いな。敵の鹵獲機を使っての捜索はうまくいったじゃないか。奴ら友軍機だとわかると自分から姿を現してくれているよ」発令所のつくと挨拶がわりにキュヒナー艦長の笑顔が迎えてくれた。

「4番めのその艦の名前は、わかりますか?」と、シュテルンベルガーはキュヒナーと共に、海図台を覗き込んだ。そこでは二人の他にがっしり体型でやはりヒゲ面の航海長が、これまで発見されたポーランド海軍の潜水艦の位置を、三角定規とコンパスを使って丁寧に書き込んでいる。今は発見された4隻目の位置を割り出しているところだった。

「艦名はオルフェウス。あと、喜べ。女の子を乗せているぞ」キュヒナー艦長の言葉に、思わずシュテルンベルガーも笑みを浮かべた。

「パイロットからの視認報告だけだが、確かに赤い洋服を着た5、6歳くらいの少女が、水兵に肩車されて手を振ってきたらしい」

「やっとですね。具体的な足取りがつかめた。位置は?」

「現在位置はざっと、このポイントですね」と、応えてきたのは航海長のほうだった。彼は自分が使っていたコンパスの先で、海図上の一点を指し示した。バルト海の全景が描かれている図面のほぼ中央にゴトランド島という大きな島があり、彼のコンパスはその島とポーランド沿岸ダンツィヒ市とのほぼ中間あたりをさした。

「まだ、このあたりにいましたか」

「それで、ここが我々です、大尉どの」次に航海長が指したのは、オルフェウスと偵察機が接触したポイントとゴトランド島を挟んでちょうど北西の位置にあった。

「この潜水艦の行き先は……」

「恐らく、ストックホルムを目指しているな。ほぼ、民間の輸送ルートにそって移動している」と、キュヒナー艦長は、無精ひげを拳でこすりながら海図を見ている。

「先回りするしかありませんね……可能ですか?」シュテルンベルガーが訝しげな表情を向けると艦長は

「いけるだろう」とだけ応えた。

 この段階でのバルト海における制海権、制空権はほぼドイツ軍が握っているといって過言ではない。その中で、オルフェウス号をはじめ他のポーランド海軍の潜水艦は昼間は偵察機、海防艦といった対潜武装を用意している艦艇からの攻撃を逃れるため海底に潜んでやりすごし、夜間に浮上航行して距離をかせぐのが安全で確実な方法ではある。

 キュヒナー艦長の頭の中ではこのあたりの算段がついているようだった。

「あと、これも……使えると思うがね」キュヒナーが一通の電文を見せた。

 SS大尉はさっと電文に目を通す。

「スウェーデン海軍も、影ながら捜索に手を貸す、ということでいいんですかね」

「連中も始まってしまった戦争の動向を無視できないらしい。今すぐこちらと手を結ぶというわけにはいかんだろうが、協力体制を匂わせて点数稼ぎをしておきたいのだろう」

日和見(ひよりみ)主義者どもが……」

「そう言いなさんな。せっかく土産持参で連絡をくれたんだ。ご好意にあずかろう」と、いうとキュヒナーは二枚目の電文を彼にさしだした。それを一読したあと

「……なるほど。で、これはいつから始められるんです?キュヒナー艦長」と、SS大尉が問うとUボート艦長は、意味ありげに白い歯を見せた。

 

 戦場になってしまった故郷を脱出したマリア・フォン・シュペングラー嬢を筆頭とする5人の子供たちが、オルフェウス号に救助、回収されてから4日が経過していた。

 早朝というにはやや遅い7時には子供たちは揃って士官室にて朝食を採ってから、それぞれが艦内の仮の自分の持ち場に向っていった。

 マリアは発令所と士官室との中間の設けられている聴音室にて、フランツ・ヴァノック兵曹の隣、隔壁側にすわって、両耳に聴音用のヘッドセットを装着しながら、機器の操作方法を教わっている。二人は並んで艦の舳先の方を向いて座っていた。

 フランツは臨時とは言え新に迎え入れた目の見えない相棒のために、自分が使ってきた器具類に様々な工夫を施していた。最初に、艦の外部に配備されている聴音機の方向を定める円形の真鍮製(しんちゅうせい)のハンドルに、艦の方位0度の位置に細いテープを一巻きして、右舷90度には二巻き、真後ろ180度には三巻き、左舷270度方向には四つと、マリアが触ってみて大まかな音を感知した方向を割り出せるようにしてから、さらに自分たちが座っている目の前にある方位版の指し示す針の位置が彼女にも判断できるようにと、ガラス製のカバーを取り外してしまった。各方位は文字盤そのものが浮き彫り式に印字されているためにマリアが細かな方位を検知できるようにフランツが知恵をしぼった結果であった。

「いいかい、じゃあ手をにぎるよ」とフランツは前置きしてからマリアの左手を取った。そして

「1時方向からエンジン音を感知したとするぞ。マリア、どこに合わせる?」

「はい!」と、マリアは操作ハンドルの0度のテープを右手で触り、それを時計周りに少し回転させた。

「ここでいいかしら。先輩」マリアの応えにフランツは黙って彼が取っているマリアの左手を方位版の針が指す印字に当てた。

「……ローマ数字のⅡってことは、2時方向ですか……じゃ1時はもっとこっち…ですね」マリアはハンドルを逆方向に戻す。そして触診するようにして方位版の針の位置を読み取る。今度は針は0度の近くにまで戻ってしまい

「やっぱり、むずかしいですね。感覚がつかめません」と、いうと首をふった。

「すぐには無理さ。今は浮上で航行している。聴音が効果を出すのは水面下に潜ってからだからな。実際に音を拾ってみると方位感覚がつかみ易いかもしれない。もう一度、次は9時方向からスクリュー音だ」

 マリアは今度も方位を検知しようとするが若干ずれている。今度は8時方向を針が指している。フランツは彼女の左手の指先を方位版に当てた。マリアはハンドルを微調整して針を9時方向へ修正する。

「痛いっ!」尖った指針の先がマリアの華奢(きゃしゃ)な指先に触れてしまい、彼女は反射的に手を引っ込めた。

「ゴメンっ。血がでてる?針先、尖ってるからなぁ手袋してもいいんだけど、指に傷テープ貼るからみせてみて」

「手袋すると感覚が鈍りそうだからいらないです」といいながらマリアが手を差し伸べる。

「うわっ、意外に汚れてるなぁ気が付かずにゴメンな!両手だして。拭いてあげるから」

 フランツはマリアが機械を素手で触る事を想定して念入りに聴音機の周囲を清掃しておいたのだが、それでも彼女の両手には埃とグリースの残りかすが付着していた。眼の見えないマリアは当然ながら気付かずにその手で髪や衣服を触ってしまうだろう。フランツはそんな彼女を不憫(ふびん)に思って、自分専用の清潔なタオルでマリアのか細い両手をぬぐってやった。そうするうちに左手の手の平に、うっすらとだが黒く印字された文字と数字の記号があるのに彼は気づいた。

「何だコレ?へたくそなタトゥーみたいだ。4……WG…よく見えない?」フランツが最後の二文字か数字らしき記号を確認しようとして、彼女の左手を大きく開かせようとすると、マリアは勢いよく手を引っ込めて左手を胸の前でしっかり握り返し、その上から身体全体を被いかぶせるようにしてかがんでしまった。

「ご、ごめんなさい。あ、ありがとう先輩……」と、いいながらマリアは身体をおこしてフランツを見やるが、その視線は彼の顔面よりやや左側、艦内通路のほうに大分ずれてしまっている。

「今、見たものの事、黙っていてくださいませんか?……とても重要なことだと、ハックスリーさんから言われています。わたしも詳しくは知らされてないんですけど、先輩にご迷惑がかかるかもしれません……」と、いうとまた眼を伏せてしまったマリア。

 フランツはしばしそのままでいたが

「わかったよ。誰にも言わないでおくから心配しないでいいよ。…あとさぁ……その先輩って止めてくんないかなぁ?」フランツはやや、気恥ずかしげに自分のタオルをいじりながら、彼の方も目を伏せて

「ほかの連中がさぁ、『せんぱーい』、『せんぱいならおっぱいさわってもいいよぉ』とか『せんぱーい、キスしようよぉー』ってさあ、からかって来るんだよ」フランツはばつが悪そうにぼそぼそと訳を話して聞かせた。

マリアの方は、視線を声のする方向に若干修正、今度は目線を合わせてから、無表情を装いつつ

「……殺す!」と、声には出さないようにぼそりと、そのからかい半分でフランツを揶揄(やゆ)する水兵どもに向けて言ってから、フランツの方向を見据えた。

「お、おれはそんな事したいなんて思ってないからね。だからぁ…フランツでいいよ。そう呼んでくれ。そうしてくれこれから」と、今度はフランツの方からにじり寄るようにしてマリアにせまった。

 眼はみえなくとも、彼の息遣いを間近に感じて今度はマリアのほうがどぎまぎして

「じ、じゃぁ……、フ、フランツ。これでいい?」頬をうっすら紅に染めてしまった。

 ハンディキャップはあっても異性を感じるところは、普通の女の子と一緒である。自分より年上でもまだ何となく頼りなさげな若者の言動を受けて、マリアはどうしていいか判らないでいた。つい今しがたの”殺す”といった険しい気持ちの雰囲気はどこへやら……。

「仲、好いですねぇ」いきなりフランツの背後から甲高い声がする。声の主はアンナだった。

二人はびっくりして、その手狭な聴音室のシートから飛び上がるようにしてのけ反り

「なによぉ!いきなり。おどかさないで、アンナ!」と、(たしな)めるマリアのことなど一切気にせずに、アンナは”ごめんなすって”とばかりにフランツの前をむりやりすり抜けて、若い男女の間に小さいお尻をぐりぐりねじ込ませて、自分の座を占めると

「マリア姉さん、艦内の清掃及び見回り完了であります。異状はありませんのです」と報告を入れてから、うれしそうにマリアの右腕に抱きついた。

「ああ……そうですか。今度はどこお掃除してきたのよ」と、マリアは少し面倒くさそうにこたえた。

 アンナはコレと言って艦内での仕事をおおせつかってはいない。故に士官室でじっとしていられずに、あちこち見て回るか日に何度か(ほうき)とちり取を持って艦内をねり歩くのが習慣になってしまっている。

 この日も、頭には大きめの布巾(フキン)で頭巾のようにして覆っている。さらに大人用のエプロンを足がつっかえないように腹の辺りで二重に折って紐でくくってある。彼女にせがまれて、マリアが結んであげたものだった。

 アンナは先ず、船首部の魚雷発射管室を覗く。この区画にはアンナがスッポリ隠れてしまえそうな鋼鉄の筒が四つ。縦に二本、横二列に配列されていてその周囲には電気関連のスイッチやら空気圧がかかった配管とレバー、ハンドルの類がひしめいていた。戦闘時ではない今は、技術関係の兵曹一人が、床に止め金具で固定されている予備用の魚雷を点検していた。

 何やらぶつぶつ言いながらしきりに手を動かしている。鼻の下にデッキブラシみたいな鼻ひげと、前歯が数本抜け落ちている口元からひゅーひゅー息が洩れ聞こえてくる。

「お掃除、いいですかぁ?」

 アンナはその区画を隔てる水密扉の脇に立って、声をかけてみたが、この兵曹がにこりともせずに

「ユダヤのチビ助!向こうへ行け!」と、睨みつけてきたので(きびす)をかえしてその場を逃げだした。

 次に艦長室。相変わらず中から咳きをする音が聞こえてくるだけなので

「ダメですね」と、その場ををスルーした。

 士官室を抜けようとすると、フィリプ・コスコウスキ少年がレオンから渡されたリュックの中から機械部品を引っ張りだして、その場で再組み立ての作業を行なっている。彼は、アンナが近くを通ると一瞬、チラッと視線を向けるだけで、すぐに作業に没頭し始めるが時折り

「あ、あ、あ、」と単発的な声を発して作業の手を止めて、じーっと天井の配管類の行き先を眺めている。アンナもこの少年とはどう接していいものか、わからないのでほうっておいて艦尾方向へむかった。

 電気室では床の履き掃除をした。高電圧、高電流の電気が流れているこの区画では、空気そのものが微妙に振動しているような感覚があった。この区画の床下にはこの潜水艦が海中に潜った際に必要な電気を供給するバッテリーがひしめいている。アンナは”ツーン”と鼻の奥を刺激する塩素の匂いに表情を歪めながらそこでの仕事を終えた。

 発令所には自分の大好きな、チーフ・オレクことアレクサンデル・コヴァルスキ少佐が詰めているが、航海長や機関長らと何やら難しい話をしているので、邪魔しないようにと隔壁に背中を付けるようにして立ちんぼしていると、ふと、隔壁の一部が丸く筒状に脹らんでいてオレンジ色にぬり分けられているのに気がついた。アンナが手一杯に広げても届かない太い茶筒状の物体が半分だけ見えていて、潜水艦の隔壁を貫いて上に向って伸びていき、それが3列になって艦尾方向に連なっているのだ。

「アンナはぁここは何?って(そば)にいた水兵さんに聞いたら……機雷が入っているンだって」アンナは艦内探検で新に発覚した事実をマリアに語ってみせた。

「機雷!?、魚雷以外にもずい分物騒な物も乗せてるのね」と、マリアがいった。

「このオーゼル級潜水艦はな、機雷施設型(きらいしせつがた)哨戒(しょうかい)型の2タイプあるんだけど、このオルフェウス号だけは両方装備しているんだ」アンナの捕捉説明をフランツが買ってでた。

「あまり、好い設計案でもないんだよ。どっちにしても中途半端で、機雷施設するにも機雷の搭載数が足りないし、哨戒攻撃用の魚雷は本数が限定されるし、おれの聞いた話だと、予算が足りなくて機雷発射筒が数揃わないからって無理やり哨戒型に設計を切り替えたらしいんだ」フランツの話を聞いても二人はキョトンとしている。

 これは女の子にはむかない話ではある。

「それでねぇ、モニカの所で皿洗い手伝ってきました」と、アンナは、発令所より艦尾方向の食堂と調理場が持ち場になっているモニカのことに無理やり話題を切り替えた。

「モニカはちゃんとやってる?」

「大丈夫!ヴィチェクのおじちゃんはよく働くって褒めてた」

「あたしも兵員食堂のテーブルと椅子をきれいにしてきました。そしたらねぇ、おじちゃんがおやつにパンケーキ焼いてくれるって」アンナの嬉しそうな声を聞いて、姉代わりのマリアがにこやかに微笑んでいるのを尻目にフランツが

「パンケーキだってぇ!あのイノシシ親父、そんなシャレた物ができるなんて知らなかったぜ!おれ等には『おまえらなんざぁ出された物、黙って食ってりゃいいんだよぉ』っていっつも言ってるくせにぃ」と、不平たらたらにこぼしていると、

「アンナもねぇ、そんなのできるの?って聞いたらぁおじちゃん『あるよぉー』って言ってた」アンナは思いっきり低い声で、ダミアン・ヴィチェク調理員の声真似をしてみせてから、楽しげにケタケタと笑った。

 マリアはその様子に満足気に頷く。そのあと、アンナは顔をしかめてから

「兵員室ですか?皆の寝床を掃除しに行ったですよ。そしたら床はパンくず、果物の皮やら落っこちていて、カビが生えていて臭いったりゃありゃしない!酒場裏の生ゴミ置き場みたいだったですぅ。あんな中でよく眠れますね」と何故かフランツを睨む。

「お手数かけてスミマセンねぇおチビさん。……男所帯なもんでね」フンと、ソッポをむきながら答えるフランツ。アンナは話題を次に切り替えて

「レオンの所にいったらさぁ、アイツ『チビ助、ジャマだよ。あっち行ってろ』って雑巾投げつけてきたんだよぉ」と、唇をとんがらせた。

「あの子が働く機関区画は危険だからよ。レオンはアンナのためにやってるのよ」と、マリアはアンナのほっぺを軽く指先でいじりながら優しく諭しても彼女は”ぷーっ”とむくれたままである。

 その時だった。

「アンナ、手を離して……ちょっと待って。これ何?”シャッシャッ”って音がする。フランツ!」マリアは何の前触れもなくヘッドセットの中から伝わって来た、今までは感知していなかった音を拾おうとしてハンドルの操作を始めたが

「ああ!もうっ。これってディーゼルの音、やかましくて拾えないわ」

「おおまかでいい!どの方向からだ?」

「こっち!こっちの方角よ」フランツの問いにマリアは舳先が12時なら、11時方向に左手をさっとかざして見せた。

「警報!前方より接近する船あり」突然、二人の背後の発令所から、艦橋に上がっている見張員の声がする。

「潜航する。全員降りろ」発令所からの副長のアレクサンデルの号令がとぶ。一気に艦内は慌しくなった。見張りに付いていた水兵がジャンプするようにして司令塔から発令所に飛び降りてくる。合羽(かっぱ)はズブ濡れで、床はたちまち水溜りができていった。外は少し()いでいるようだ。

「潜航!全ベント解放!深度20へ、モーター始動!」副長の命令をすぐさま復唱した水兵たちは自分の持ち場のハンドルを目一杯まわして、潜航用のベントを開き潜水艦の内隔の外側にあるバラストタンク内に海水を取り込んでいく。オルフェウス号は舳先を下方に傾けて潜航をはじめた。狭い通路を手すきの水兵、兵曹たちが一斉に舳先の魚雷発射管室にむけてダッシュしていった。前部の重量を増してより早く潜航させるための工夫だ。

 それを見たアンナは

「アンナもはしるぅー」と彼らといっしょに通路に飛び出そうとしたが、マリアは彼女の身体を抱き寄せて「ここにいなさい!」と離さないでいた。

「くそっまだ昼前なのに。勤勉な連中だな。昼間のうちに少しでも距離を稼ぎたかったのに」発令所でヴォイチェフのだみ声が響く。

「潜望鏡深度へ。左20度、取り舵」

「とーりかーじ、よーそろー」と、操舵員が復唱。

 潜望鏡は二種類ある。艦橋前方にあるのは攻撃用。その後ろにあるのが探索用だ。アレクサンデルは探索用に取り付き、見張り員が発見した艦船を捜索をおこなう。ドイツ海軍の艦艇は未だバルト海では姿を確認できてはいない。が、用心にこした事はないのだ。

「ソナー員、聴音探索、状況知らせ」いつも通りにフランツ・ヴァノック一等兵曹が任に就いていると思ったアレクサンデルであったが

「2軸のスクリュー音。11時方向からです。接近してきます」返答が女の子の声でマリアから発せられた事に、一度、潜望鏡から目を外して、彼女のヘッドセット姿を見てからニヤリとした。

「ようし!見つけたぞ。……艦影は海防艦クラスだ。恐らくはゴトランド島の基地からやってきたな。マストの旗はスウェーデン海軍の物だ」と、アレクサンデルは潜望鏡の覗き窓に目をつけながらいった。

「中立国の艦船なら心配ないだろう。航海長こちらは未だ公海上にいるな?」

「はい、まだ領海内には到達しておりません。ゴトランド島の南東約38海里(約70キロ)です」

 公海上にあっては、たとえ中立国の艦船と言えども戦争当事国の艦船を臨検、拿捕行為をおこなうことはできないはずである。

「対象艦の速度は約10ノット近くは出ているな。マリア、方位に変更はないか」アレクサンデルは部下の兵曹に問い質すように彼女に語りかけてみた。

「以前、方向は変えません。まっすぐこちらへ向かってきます」マリアは以前からこの任務に付いているような口ぶりでしっかり報告を入れてきた。

 アレクサンデルは「よーし」と言ってから潜望鏡を降ろすと

「潜航、70mまでだ。まさかとは思うが念のためだ」とさらに深く潜るよう指示した。海防艦からの攻撃を危惧しての副長の選択であった。

「了解!深度70。艦首10下げ、艦尾5上げ」船首と船尾用の潜舵手二人の後ろに陣取ったハスハーゲン機関長が静かに二人の肩に両手をおいて指示する。

「フランツの言うとおり、モーターに切り替えてから周囲の音がよく聞こえてくる。アンナはじっとしててね……」マリアは自分たちの頭上の海上を騒がしくスクリューで攪拌(かくはん)しながら突き進んでくる音を、ハンドルを操作しながら一番ハッキリと聞こえるポイントに合わせて、左手で方位版を触診してから

「方位左15度より接近中。今、真上を通過します」と、副長にベテランソナー員みたいに堂々と報告を入れるマリアを見ながらフランツは

「すげえなぁ」とつぶやいたまま黙って仕事をまかせていた。

「!?……何かしら?一つ、二つ、三つ?推進音のあとに何か落としたような音がするの、フランツ?」マリアが音を感知した方向に顔を上げて、不安そうに彼女が眉をひそめている姿を見たフランツは血相を変えて

「ヤバイ!ヘッドセット外せぇ伏せろ」と乱暴に彼女の頭部から両耳に当てていたヘッドセットを奪いとり、マリアとアンナの頭を下げさせてから

「爆雷、来ます!」と声を張り上げた。

と同時に「両舷前進全速!針路右20度、面かじ!くるぞぉショック態勢とれ!」アレクサンデルも発令所で声を震わせて次にやってくるものへの備えを乗員にうながした。

 時間にしては実際にはほんの数秒間でしかないが、それが来るまで何分もの時間が経過しているような錯覚をこの艦に乗り込んでいる全員が感じた頃合いに、それは唐突にやってきた。

 最初の一撃は船首付近で、”ドーン”と腹に響く爆発音がした次に沈降している船首部分がまるでボクサーがアッパーカットを喰らったみたいに突き上げられた。激しいたて揺れが艦内全体を襲い、固定されていない備品類やら食器の類が音をたてて散乱、通路には食料が敷きつめられてしまった。

「おおっ!ちっくしょう」、「やられたぁ神様、お慈悲を」といった叫びが艦内に響き渡る。そんな中を第二撃が左舷側で、今度は横に大きく揺さぶられて大きく水中で傾くオルフェウス号。

 天井部の照明が突然に落ちてしまい発令所は闇に包まれてしまうが、中の乗組員をはじめ子供たちも為す術もなく目を閉じて必死に耐えるしかない。

「アンナ、アンナァーッ」マリアは叫びながら一番年下の妹分をしっかり抱いて、聴音室の座席に押さえつける。さらにそのマリアとアンナの背中を、フランツ一等兵層が(おおい)いかぶさるようにしてカバーした。

「深度90!もっと潜れ。舵中央!全速そのままぁ」アレクサンデルの命令が飛ぶ。次に第三撃目の水中爆発の衝撃が艦尾付近で発生。艦内のありとあらゆる物が激しく交通事故で追突されたようになって、船首方向へ投げ出された。身体を支えきれなかった屈強な体躯を持つ海軍水兵ですら何名も倒れこみ、投げ出された。

 艦内の何処からか、配管が破損して高圧の空気が甲高い笛の音に似た音をたてて漏れ出している。

「非常電源おこせ!各部損害状況知らせ!フランツ、敵艦はまだ向かってくるか?」

 フランツは自分の足下に投げ出したヘッドセットを装着すると、聴音機用操作ハンドルを回転させて

スクリュー音を探した。

「方位、150度方向です。スクリュー音遠ざかっていきます」その報告を皮切りに

「船首、魚雷発射管室破損!空気漏れです」、「電気室異状なし。電源復旧中!」、「機関室、損害軽微!モーターを一時停止してます」、「兵員室浸水なしです」、「後部発射管室、及び舵、異状ありません」と、各部からの現状報告が寄せられた。こうした連絡は各部署に設置されたマイクを通じて、発令所内にあるスピーカーから伝わってくる。その機器には各部署を示すモニターランプが並んで、報告があればそこが順番に点灯していくのである。

「中立国の艦船がいきなり攻撃!?浮上して抗議しよう。オレク」非番で就寝中だった次席士官のヤン・レヴァンドフスキィ大尉がいつの間にか副長の脇に立っていた。

「いや!このままやり過ごすぞ!ヤン。オレ達が航海に出てから、陸でどんな(たくら)みが進行しているか検討がつかんのだ」

「スウェーデンまでもがドイツに組したって言うのかよ」

「判らん!だが考慮の対象にはなる。バルト三国、ノルウェー、フィンランドだってわかるものかよ。みんなヒトラーの動きに戦々恐々としているんだ」

 二人が意見を交わしている内に再度、艦内に灯りが(とも)った。

 フランツは聴音装置に向いながら自分のすぐ傍ら、通路側に人影があるのに気づいて振りむくと”ぎょっ”とした。顔面蒼白になった、茶色いくせっ毛のメガネっ子モニカ・カミンスカヤが口を半開きにして声というより喉の奥から、”ひゅーひゅー”といった音を漏れ出させながら立っていたのだ。生まれつき声帯の異常か、発育不良でまともな言葉を発することのできないモニカは、それでも今までの恐怖を訴えようと手をマリアのいる方向に伸ばして彼女を求めていた。目には大粒の涙をたたえている。

「モニカ?モニカいるのね?フ、フランツ前を通りますごめんなさい」マリアは自分の家族同然の少女の身を案じてフランツを押しのけるようにして狭い部署を通り抜けた。その後ろ腰の辺りを引っつかんだアンナも表情を強張らせてあとにつづいた。

 マリアは手を空に泳がせながらモニカの姿を求めて、彼女のくしゃくしゃの髪に手が届いた時だった。モニカは立ったままの姿勢で、口から茶色い液体を吐き出した。生まれて初めての衝撃と恐怖に彼女の身体が激しい拒否反応を示して胃の内容物を戻してしまったのだ。

”ぐぉっぐぉっ”とモニカは奇妙な音を喉から絞りだしては苦しげにむせ返った。

「ああ!モニカァーッ大丈夫よ。あたしがいるからね」マリアは自分の手が汚れるのもお構いなしで指でモニカの吐瀉物で汚れた口周りと顎をぬぐってやった。

「よし!みんな吐いちまえ。楽になる」フランツはそういうとヘッドセットを付けたままモニカの背中を擦ってやった。

「子供たちは士官室に退避。マリア行けるか?」アレクサンデルの指示にマリアは

「大丈夫です。アンナ、モニカいくわよ」とマリアが応えると、少し気分が落ち着いたのかモニカはマリアの手を引いて進みだした。マリアも右手を伸ばして周囲の壁やパイプの類に触りながら歩いていく。

 マリアの年齢の割には大きくなってきたでん部にしがみついていたアンナは、アレクサンデルの姿を見て取ると彼に駆け寄った。彼も手を伸ばして走り寄ってくる女の子を抱きとめた時。

「ガキ共なんざ、外に放り出しちまえ」と、発令所に、その奥の兵員室のほうから口さがない誰かの発言が飛び出してきて、マリアの足取りが”びくっ”と、一瞬止まった。

「だれだぁ!ふざけたこと抜かしたのはぁ!今、言った奴から魚雷と一緒に放り出すぞ!」掌帆長ヴォイチェフの怒鳴り声がその方向にむかって放たれた。一瞬、沈黙が走るが、すぐに今度は発令所から

「なんで子供なんて拾ったんだ」と、誰かの小声でささやく声がする。そんな声を背に受けてマリアとモニカは士官室に退避した。

「お前ら、全員兵員室に来い!一人ずつぶっとばす!」またヴォイチェフが発令所の中で唸った。

「ちくしょう!ちくしょう!あの野郎……戻ってきやがったぁ」フランツ・ヴァノックが忌々しげにその場で立ち上がって今しがた立ち去ったように思えた水上の海防艦が針路を変更したことを告げると、今度はその海防艦から発せられているであろう水中探針音が潜水艦内にも届けられてきたのだった。

 「アズディック」と称される第一次世界大戦時には開発途上であった水中に特殊な音波を発してその反響音を探知して敵潜水艦の存在を割り出す装置は、この時点では多くの水上艦艇、特に対潜目的の駆逐艦、海防艦には多く配備されていた。

 ”ティコーン、ティコーン”と甲高いチャイムに似た音波が水中を渡ってくる。更には聴音機を使わなくても騒がしいスクリュー音も合わせて接近して来るのもわかった。

「深度100だ!取り舵いっぱい。もっと潜れ」アンナを抱きかかえたままアレクサンデルは命令をくり返した。潜水艦オルフェウス号の公式諸元では限界深度は100mだが、設計上ではもう少し深く200m近く潜航できる強度は備えていた。

「チーフ・オレク、アンナ知ってるよ。こういう時は声を出しちゃいけないんだよね?敵に見つかっちゃうんだもんね」アンナはアレクサンデルの首っ玉にしがみつきながら小声でこう言ったのだった。そして彼女は両手と両足で大木にしがみ付く猿のようになった。

 探針音はそのサイクルを縮めていくのが彼らにもわかった。スクリュー音が海水をかき回す音と水上艦のエンジン音までが伝わってくる……。そして

 4回目、5回目の爆雷の炸裂と衝撃波が潜水艦を襲う。またしても照明の電源が落ち、足下をすくう横ゆれ、縦揺れが狭い艦内を無分別に振り回す。配電盤がショートして火花が上がって、白煙がもうもうと立ちのぼり発令所の視界を覆っていく。そんな中でも6歳のアンナは小さい身体にこんな力が備わっているのかと思われるほどに彼の上半身にしがみ付いた。口は泣き声を上げないようにしっかり肩口に噛み付いていたのだった。

 アレクサンデルは片手でアンナの背中を押さえ、もう一方の手で背中を預けている潜望鏡収納塔にまわして足を目一杯に踏ん張っていた。残酷な爆雷の応酬は休むことなく降り注がれてくる。

「もう、やめてくれーっ」、「沈没するぅ死にたくねえよぉ」、「神様、神様お慈悲を、お助けください」艦内からは取り乱し、泣き喚く水兵の声が満ちていった。

「アンナ……お前はえらいな!大人たちよりお前のほうがよっぽど勇敢だ」必死に声を殺して、大好きなチーフ・オレクに抱きかかえられてもなお、身体を小刻みに震わせている幼女をアレクサンデルはその場にしゃがみ込んで更に力強く、艦内で猛威をふるう衝撃からかばうことしかできなかった。

 

 




 

 

 

 


 

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