マリアは……お嬢
「肺を病んでいらっしゃいますね。それも大分、症状が進んでしまっているようすです」新にオルフェウス号に乗り込んだ子供たちの代表として、艦長のクナイゼル中佐への挨拶を終え、艦長室を退出した際にマリアは言ったのだった。
「君になぜそこまで分かる?医学の知識でもあるのかい。そのとおり肺をやられている。本来なら後任が決まってから入院の手はずだったんだが、この有様でね」と、アレクサンデルは自分の肘をマリアにつかませて、ゆっくり歩を進めた。
「いえ、そういう訳では…。判るんです、音で。息を吸う時、甲高い笛の音のような音があとからついて来るんですよ。肺結核の人に遭うとよく耳にします」
「そう……結核だよ。凄いな」
アレクサンデルはマリアを伴って発令所へ向かっている。他の子供たちと一緒に乗組員と顔合わせをする必要を感じた、この潜水艦の副長は夕刻の6時、当直交代のはざ間で全員が目を覚ましている時刻に会わせて発令所に召集をかけていた。
「それに、艦長さんの咳き込む音が壁を伝ってくるんです。それと私の祖父と同じような息遣いでしたから」
「君のおじいさんは……フォンっていうから貴族の家柄かな?」
「貴族で羽振りがよかったのはだいぶ昔です。ご先祖は、第二次ウィーン包囲戦でオスマン・トルコ帝国と戦ったと。曽祖父はナポレオンの近衛騎兵軍に名を連ねてロシア遠征に赴いたそうです。祖父の受け入りですけど……」
「じゃあおじい様も騎兵隊かね」
「はい、ポモルスカ騎兵旅団弟21槍騎兵連隊の中隊長を務めております。今は戦場でしょう」
「無事だといいが」
「もう、死んでると思います。家柄の正当な血統を重んじる頑迷な祖父でした。喜んで騎兵としての本懐を遂げたでしょうね」まるで感情をともなわない他人事のように自分の祖父を語るマリア。
アレクサンデルもそれ以上のことは聞かなかった。この娘の身の上にも何かとあるらしい。彼は口には出さなかったが、開戦から二日後、アルメという小さな漁師町に向えとの潜水戦隊最後の指令を受領した時のラジオ放送で、ポモルスカ騎兵旅団は無謀とも言えるドイツ機甲師団への突撃を敢行し、玉砕を果たしていることは知り得ていた。
あと一つ、アレクサンデルには懸念があった。それは隣でおずおずと歩を進める盲目のマリアから渡された、イギリスから派遣された情報部員であったハックスリー氏からあずかった一編のメモに関することであった。
その内容は、このオルフェウス号が敵の手に落ちざるを得ない状況に陥った場合、子供たちが携えてきた未だパーツだらけの暗号解読器”エニグマ”の破壊と、子供たちの存在そのものにも手を掛けなければならないとの非常な命令であったのだった。そして、その最後の文面にはなぜか彼女の左手のみを回収せよとの不気味な示唆もあった。
一度、アレクサンデルはマリアとその左手を見やってから、俯きかげんに頭を垂れた。メモの内容に関しては、自分の胸のうちに秘めておくことにしていた。
発令所に近づくと、マリアにはモニカが、アレクサンデルにはアンナの小さな体が飛びついてきた。先に行って待つようにとマリアが言い含めておいたのだが、やはり初めての大人たちに囲まれて不安なのであろう。
「全員、そろっているな」副長アレクサンデルのこの言葉を合図になって、まずマリア・フォン・シュペングラー嬢から発令所に集う乗組員に自己紹介を始めた。
「……どうぞ、よろしくお願いします」と、挨拶を締めくくると発令所に集まった水兵、兵曹たちの間からは次々と
「ちっくしょう!……姫様みたいだ」、「いや、お嬢様だぜ!」、「お嬢だよ。お嬢」皆がいっせいにささやき始めたのだ。
さっそくマリアには”お嬢”のニックネームがついた。
次はアンナの番。彼女は発令所に響き渡る大声を張り上げて名前を告げる。すると大人たちはそれにつられて顔がほころんで拍手がちらほら湧いたりしたのだった。
続いて事情を抱えているモニカとフィリプの番では代わりにマリアが挨拶の口上を述べた。
この発令所とここに入りきれない人員は、ほぼ全員がうっとりとした目でマリアの姿を眺めていた。それもそのはず、むせ返るほどの男臭さしかなかった肥溜めみたいな空間にいきなり、妖精か女神かと見紛うばかりの可憐な少女が自分たちの前にいるのだから。そして、最後のレオンの番になった。
「こいつの事なら、もう、みんな知ってるよな。身体はちっこいが、機転のきく奴だ。言っちゃあ悪いが、前にいたあいつよりかは役にたちそうだ」と本人を通りこしてレオンを評して声を上げたのは機関長のヤロスロフ・ハスハーゲンであった。年齢はほぼ艦長と同年代で、階級は中尉である。
よく日焼けした顔に無精ひげでいかにも現場叩き上げのベテランといった風体のこの御仁は自分の隣で立ちんぼしている少年の頭をくしゃくしゃと撫でた。
レオン・ヴィンデル少年は、支給された作業用の分厚い生地のエプロンをまとって、両手にはこれまたゴツイ革製の作業手袋を装着している。いかにも扱い慣れていて、いつの間にか他の大人たちにすっかり馴染んでしまっていた。自己紹介の段になっても子供たちの輪に加わることなく、ずっと以前からこの艦に乗り組んでいたような態度と平然とした顔つきで、水兵たちの間からマリアたちを眺めている。
「で、あれだ、レオンは今までどおり機関員として頑張るようにな。マリアさんいいかな、一応、この船は軍用艦で一般人は原則的には乗れない類の船なんだ。そこで君たちにはできることを仕事としてやってもらいたい。大丈夫?」アレクサンデルの言にマリアは”ハイ”と艶やかな金髪を耳元でかき上げながら、
「そのほうが好いです」と、了解を示した。
その仕草一つだけで、水兵、兵曹の間でどよめきが起こった。
「モニカ、モニカは何ができる」この問いを発したのはヤン大尉であった。
モニカは声がでない。その代わり自分の手で包丁を使ったり、フライパンを煽るまねをして見せた。”料理ができます”とのアピールを見た、主計長といわれる潜水艦のコックにあたる役職の、これまたがっしりした大男がずいっと前にでてきて
「ようし、モニカ嬢ちゃんの面倒はオレがみてやる」と名乗りを上げたのはダミアン・ヴィチェクという中年オヤジだった。
水兵たちの間では、親分の掌帆長ヴォイチェフ・グラジンスキィが”クマ親父”と綽名されていて、この艦内でもう一方のごっついおっさんとして位置するこの人物には”イノシシ親父”の愛称がついてまわっている。
イノシシ親父の前にたつモニカはさしづめ森のリスといった感がある。モニカは少しの間、ダミアンの顔を黙って眺めていたが、すぐに白い歯をみせてにっこりと笑うとこれから自分の親分格となるオジサンに見よう見まねの敬礼をしてみせた。
ダミアンも満足気に発令所内にひびく高笑いをしてから
「よし、わかった。明日、朝飯がすんだら調理場に来い。イモの皮むきからだ!嬢ちゃん」といった。
モニカは”了解です”の意味で、敬礼のあと、こぶしをぐっと前に突き出し親指を立てた。”任せなさい!”の意だ。
「よし、モニカはこれでオーケーだ。それで……」と、次にアレクサンデルは残りの三人に目を向けると、マリアが「フィリプの件ですが……」と前置きしてから、
彼、フィリプ少年はレオンやモニカのように大人たちと共同で何か仕事に就くことはまず、無理であることがマリアから伝えられた。
「フィリプには、別の仕事があります。例の機械の再組み立てです。彼に工具と作業場を提供してあげて欲しいのです。そうすれば彼は海軍さんたちのお仕事の邪魔にはならないと思います」マリアの要請に快く応えたのは、航海長のレフ・パイセッキー中尉だった。
彼は、フィリプに自分の士官室のスペースをすっかり明け渡すことと装備品の工具を支給することを約束してくれた。
「あと、連絡しておく。我々士官の三名は、本日より兵員室にて寝起きすることとする。士官室は子供たち専用のサロンとするぞ。いいな!」とアレクサンデルが乗組員に告げると一斉に、不満をふくんだどよめきとヒソヒソ声が沸き起こった。
「黙れぇ!クソ共が。当然だろうが、お姫様たちをむさ苦しい野郎どもと一緒に寝起きさせるわけにはいかんだろう。文句は言わせんぞ。納得しろ、いいな」と、水兵たちを大声で怒鳴り散らしたのは、掌帆長のクマ親父ことヴォイチェフ・グラジンスキィだった。潜水艦の天井に届かんばかりの背丈の大男の迫力に水兵、兵曹たちはその場で身を石のように硬くさせた。
「士官室用のトイレだが、今は未使用にして備品入れの状態になってるが、これも子供たち、特に女子専用とする。このあと何名かはそこを使えるようにしておくこと。きれいにしておけ!兵員室前のおれたちのトイレもな!」これは次席士官のヤン・レヴァンドフスキィ大尉の指示であった。
発令所内に静寂が訪れた。そしてそれを明るい声でやぶったのは6歳のアンナ・コヴァルチェクだった。
「アンナは、チーフ・オレクの秘書をやりまーす!」と、これまたヴォイチェフに負けないくらいの大声を張り上げると、緊張した雰囲気が吹き飛ばされて皆の間から笑いがおきた。
「秘書って何するのぉ」水兵たちの誰かが彼女に問うと、アンナはしばらく考え込んでから
「”肩たたき”をしてあげます!」胸を張って大いばりで答えると、今度は爆笑の渦がこの狭い部署で巻き起こった。
「アンナ!あなたはフィリプやモニカのそばで作業の手伝いをするのよ。水兵さんたちのお邪魔はしないの」マリアが嗜めるとアンナは不満げに唇をとんがらせた。
「大丈夫だよ。艦内で一人くらい自由にしてても構わんさ。ただな、いいかね」チーフ・オレクことアレクサンデル・コヴァルスキ少佐はしゃがんで目の位置をアンナと合わせると
エンジンが始終動いている機関室、艦の前後にある魚雷発射管室は立ち入り禁止。司令塔と艦橋に上がる時は誰かに許可を得ることなどを告げてから、
「そして、『警報!』の号令があったら、アンナと君ら子供たちは士官室に入って寝棚でじっとしている事。本当に危険だからな。これだけは絶対、お約束しないといけない。わかったかな?」
アンナはじーっとアレクサンデルの目を見つめていたが、やがて黙ってこくりと頷いた。
「さて、と今度はマリアさんの番だが……」
「私はこの通り盲ですので、お役にはたてないと思います。アンナとフィリプのそばにいて話相手をするぐらいしかできないかと」アレクサンデルの言にマリアは申し訳なさそうに顔をふせた。
「フランツ!フランツ・ヴァノック一等兵曹はいるか?」
「ハイ、ここにおります」副長の呼びかけに、乗組員の間から声がして本人が人の垣根を分けて副長の前に進み出てきた。それはのっぽな若者だった。
航海で鍛え上げられた屈強な体躯を兼ね備えた水兵たちの中にあって、この若者はまだ駆け出しらしく華奢な体型で、肌も生白かった。アレクサンデルはもっと前に来るように手で招いてから
「フランツ、君はこのマリアをソナー員として、指導しろ!いいな」と、言った。
フランツ一等兵曹とマリアは一瞬、きょとんとしてからほぼ同時に
「そんな、無理です!」と、声をそろえて言い返した。
「やりもしない内から無理なんていうな!オレもついさっき考え付いた。彼女の聴覚は並外れているよいうだ。艦長の病状をピタリと言い当ててみせたし、それに艦長が人知れず咳き込んでいる音を隔壁伝いに感知もしているんだ。素質としてはかなり高いと思うぞ……おまえ歳は?」
「先月、18になったばかりです」
「年齢も近いしな。レディを扱うんだぞ。紳士として接しろ!いいな」
「女の子のソナー要員なんて聞いたことがないっすよ!それにこいつ、”めくらの片端者”でしょう!めんどくせえなぁ」フランツはいきなり振って湧いた女の子を相棒にする事への気恥ずかしさと反発心が先に立って迷惑この上なしの態度を取り、マリアも見ようともせずに思わず侮蔑の言葉を吐き出してまったのだった。
そして、言った後に顔をしかめて自分の軽率さを呪った。
アレクサンデル、そしてヤンら、彼より年上の乗組員たちは彼の言動に眉をひそめたが、特に誰も否定しようともしなかった。マリアも潜水艦の鋼鉄製の床面に見えていない視線を落としたままぴくりとも動かないでいた。
「そうですよね。ご迷惑ですよね。私たち兵隊でもない人間、それも役に立たないお荷物がいきなり海軍さんの船に乗り込んで来たんですもの。……ホントにごめんなさい……」そういうと、マリアは両手で自分の顔を覆ってしまった。
「このバカ野郎」、「お嬢泣かすな!」といったヒソヒソ声がフランツの背後の男たちから上がってきた。こうなると完全なアウェーな状況に陥ったフランツはさらに不貞腐れてソッポを向いたままになった。
「チーフ・オレク、私をヴァノックさんの前に立たせて下さい」顔と目線はまっすぐ前に固定したままでマリアはアレクサンデルにいった。
「ヴァノック一等兵曹、自分が何を言ったか、分かってるな!この場でしっかり謝っとけ」アレクサンデルは言いながら、マリアの背に手を添えつつそっとエスコートして、彼女の望みどおりフランツの前に移動させてやった。
「ヴァノックさん、……あの、お顔触ってもいいかしら?」マリアの突然の申し出に、フランツはびくっと身を硬直させ、その周囲の連中がざわつき始めた。
マリアは虚空にたどたどしく両手を伸ばし、フランツの顔を求めた。
フランツは暫く、艦内の天井方向にそ知らぬ風で顔を向けていたが、やがて、見目麗しい少女の求めに応じて自分から、紅潮しはじめたそれを差し出した。マリアのか細いしなやかな指がフランツの両頬を捉えると、鼻、眼、唇の順でその形状を確かめるようにして撫でていく。
「……思っていたより細面なんですね。……おひげもそれほど濃くもないし」
「…あの、ごめんな!オレ、バカだからつい失礼なこと口走ってしまって……」と、フランツがさっきの自分の暴言をマリアに詫びようとすると、マリアは微笑みながら人差し指で優しく、彼の唇を押さえ言を封じた。
「いいのよ。……グダンスク市にいた頃からいろいろ言われて…慣れてるから。ヴァノックさんは、とても伸びがあって張りある声をしてますね。声枯れしてないし、小さい頃からお腹から声を出す事に慣れているみたい。……お生まれは内陸の山育ちですか?牧場の息子さん?」
「!?オレの生まれは、クラカウの南で……実家は農業だよ。羊も飼っているし、確かにガキの頃は羊の番をやっていたんだ……声だけで、そこまで判るのか、マジかよ」
驚きを隠せないフランツであったが、彼はさらに耳たぶまで真っ赤にして、マリアの好きなように顔をいじらせた。少し冷たくて、でも心地よい感触に眼を細めて次第にうっとりとしてしまうのに抗しきれないでいた。
「ふふっ……動かないでねぇ。首筋がしっかり張っているのと、喉仏の大きさからでもわかります」更にマリアの両手は初顔合わせしている年上の少年、と言うよりは駆け出しの青年の首筋から胸元まで愛撫するかのように撫で回していく。フランツはその行為に完全に身を委ねてしまっていた。
マリアは手の甲を使って、今度は逆に首筋から頬のほうへフランツの体温と感触を確かめるようにしてねっとりと動かしていきながら
「ねぇ、ヴァノックさん、私ね潜水艦なんて乗るの初めて。それにひろって貰って助けていただいて、感謝してます。少しでもお役に立ちたいんです……、ソナー員ってどんな仕事かわかりませんけど、頑張ってみたいんです。何もできないで座ってるだけなんてイヤです。……それでも片端ものにはやっぱり無理ですか?」と、最後のほうは声をすすり泣くように上ずらせてささやく。今、彼女の手はフランツの金色の髪を掻き分けるようにして撫でている真っ最中。
「フ、フランツ。オレのことフランツって呼んでいいよ。わかった!ちゃんと教えるから。君がちゃんとできる様に工夫してみるから大丈夫!」そういいながら、フランツはもう中腰の姿勢になってマリアの行為に為すがままの状態となっている。まさにご主人に尻尾をふって撫でてもらっている飼い犬の態といった所か。
「ありがとう。明日からお願いしますね!年下の私が、呼び捨てするのも失礼だから……先輩。フランツ先輩ってお呼びしますね」マリアはフランツに笑顔を向けたが、やはり目が見えない分顔の方向と視線そのものはいくらかズレてしまっている。ただ、フランツはそれでも顔を真っ赤にして、照れくさそうにしている。
マリアは彼の顔から手を離す前に、一度、鼻ッ先を軽くつねってから自分からフランツの耳元に顔をよせて
「お前……これから、わたしの下僕だから……ね」と、そおっとささやいたのだ。
その少女から漂うほのかで芳しい香りのためか、ポーっと完全に意識が舞い上がり、上気したままのフランツは何を言われたのか、判別もつかずにただただ、”うんオーケー、うん任せて”と呆けたようになってただ頷くばかり。
「チーフ・オレク、フランツ先輩が教えてくれるそうです。私、やってみます」マリアは一歩下がって、フランツから離れてアレクサンデルの方に声をかけた。掛け値なしのはつらつとした笑顔を副長に向けて。
しばらくの間、この潜水艦の乗組員、士官、下士官含めて全員が、14歳の少女の行為に釘付けなってしまっていた。
幼い少女と成熟した女のちょうどはざ間にあって、その年頃として最も顕著に表れる、ある意味とても妖しくも独特で輝きのある生命力にあふれる色香に誰もが息を呑み、圧倒されていたのだった。
ここに集う男たちがかつては体験したであろう思春期にあって、同世代の女子の何気ない仕草に心奪われアホ面をさらした経験が脳裏に甦ってきて、アレクサンデルも一瞬、マリアから何を言われたのかわからないまま、ただ漠然とその顔を眺めてはいたのだが、いきなり我に返って平静をよそおうとしてみたものの
「お、おう、ヴァノック一等兵曹、しっかり頼む」と言うのがやっとだった。
そのあとのフランツは背後に控えていた、先輩格の水兵、兵曹連中からもみくちゃにされて
「マリアちゃんに手ぇ出したら殺す!」、「お嬢を泣かしたら殺す!」とか言われて、さらには
「とにかく気にいらねえ!殺す」と、言われなく小突かれ、叩かれ、弄られたりしたが、本人はまったくもってうわの空なのである。
「オレクよ、やっぱりこいつは難物だぜぇ。あの娘っ子は男あしらいをしっかり心得ていやがる。ありゃぁ魅力的な女の子を通り越して”魔女”だぜ」とアレクサンデルに耳打ちしたのはヤン・レヴァンドフスキィ大尉だった。
「そうかね。じゃぁその魔女さんに苦難を招かない呪いをかけてもらうとしようか」
「呑気なことを。イギリスまで、長い航海になる。マリア嬢を取り合って水兵どもが反目し合ったらそれこそ、目も当てられんぞ」あくまで苦言を呈すヤンに、アレクサンデルは
「そう、その件で相談がある」と、いってから士官たちと水兵、兵曹の班長に、艦の後方に位置する兵員食堂に集めるようにヤンに指示した。
「よし、じゃ一旦ここで子供たちは、主計長から晩飯をもらって食事だ。そのあとは士官室で自由にしていい。ただ。あまりウロチョロはするな」
ここでマリアとレオンを含む子供たち全員が明日に備えての食事をとるために、発令所をあとにした。
「らしくねえっすねぇ、姐御ぉ」と、褐色の肌の少年、レオン・ヴィンデルが調理場で主計長のダミアン・ヴィチェクから配られた晩飯にかぶりつきながら、マリアの通り名を使って語りかけた。
今晩のオルフェウス号のメニューは、ビゴスという名の発酵キャベツと肉の煮込み料理と、ジュレクというライ麦を発酵させたスープと黒パン。あと、これは子供たちのためにと、ヴィチェク主計長が特別に用意してくれたベーコンの炒め物と目玉焼きも付いた。
「いつもだったら、やれ”めくら”とか”はんぱもん”とかバカにする連中をさ、一人ずつ俺やモニカを使って連れてこさせて、最初はやさしくにじり寄って油断させてから胸倉つかんでボコるくせに。それも小石握ってブン殴って確実に潰していくのにさぁ」と、行儀悪く、皿をせわしく鳴らしてしゃべり続けるレオン。
「レオン、アンナが真似するでしょ。お皿をかちゃかちゃさせないで!お里が知れるわよ。あと、あんた、食べる前にお祈りしたの?あんたの声だけ聞こえなかったけど」マリアは士官室内に設けられた、仮の専用テーブルに盛られた自分に宛がわれた分の料理を丁寧に口に運びながらもレオンを注意している。
彼女の隣にはモニカとアンナが両脇に控えている。対面して座っているのが男の子二人組。
「モニカもやってないぞ!それにオレ、ここじゃ異民族だしぃ」
「彼女はしょうがないでしょ。モニカは私の隣にいてしっかりやってたわよ。見えなくてもちゃんと判ります。あんたはトルコ系だけどモスリム(イスラム教徒)じゃないでしょ!洗礼受けてるんだからちゃんとやんなさい」
「明日からやるよぉーっ。でもよぉ姐御、なんであのフランツって奴をぶっ飛ばさなかったんだよ?姐御のこと”めくらの片端者”って言いやがった!」レオンはぷりぷりしながら今注意されたことなどお構いなし、乱暴に飯をかっこむ。
「レーオーン、マリア姉ちゃんはそんなことしないよぉ」とアンナが二人の会話に割って入った。
「チビは知らないだけだ。パプテス通りの”潰しのマリア”っていったら姐さんのことさ。街の不良どもだって一目置いていたんだぞ」
「……フランツなら、もう大丈夫よ。この艦の海軍さんは、陸の馬鹿ガキどもじゃあないんだよ。味方になってもらった方が得策なの。それにわたしがぶん殴った連中はわたしに目をつけて”イタズラ”しようとしてたじゃない。あれは正当防衛なのよ!人聞きの悪いこと言わないでちょうだい」と、言ってから見えていないはずの視線でしっかりレオンの顔面をとらえてから、妖しげな笑みを彼に注いだ。
「レオン、あんたさぁ、私が教会にいたころの事、あまり連中に吹聴するんじゃないよ。いいね」
(この姐御はいつもそうだ。狙った奴の視線を確実にとらえやがる。見えないふりして、本当は見えてるんじゃねえのか)と、レオンは訝ってから、手元の料理で腹を満たす事に専念しようとした時、盲のはずの自分が姐さんと呼ぶマリアの視線を一身にあびて背筋が寒くなった。
普通、どうしても耳を頼りにしていれば音のする方角にその中心を据えようとする。故に顔全体が横にずれて目線は外れてしまうのだが、マリアは違った。両耳で相手の声の方向を把握しておいて更に目線もその上に乗せるようにする。目が見えないと思っている相手のほうは、この娘は見えているのではないかと疑問に思う。さらに普通に視覚が備わっている人間とは若干、虹彩の開き方が異なるので、一種異様な印象を受けるのである。今のレオンがまさにそれであり、古代神話の魔女メドューサに睨まれ石化してしまった哀れな勇者のようになっている。
マリアは銀メッキの剥げかけたフォークを置いて
「できることなら、私だってしおらしくしていたいわ。でも、グダンスクの学校にいた頃からそうだった。黙ってたらいいようにされるだけさ。あたしらを苛めたい奴には事欠かなかったからね。手を差し伸べようとしてくれたのはコヴァルチェク神父様と先生だけ。あとの連中は”我関せず”と知らんふりするか、ほくそ笑んで眺めているクソ野郎ばかり」マリアは両脇の二人の小さな肩を抱き寄せた。
「信じ合えるのは私たちだけ。私は盲、モニカは唖、フィリプは自閉症、レオン、あんたは異民族でトルコ系。そしてアンナはユダヤ人。今じゃこのヨーロッパ大陸に私たちが全うに生きていける国なんてないのよ。聞いた話だけどドイツは私たちの国、ポーランドに強制収容所をいっぱい作ろうと計画しているらしいの。……それを何に使うのか、考えたくもないわ」彼女は二人の顔にかわるがわる頬をよせて
「みんなでイギリスへ、ハックスリーさんが言っていた『ブレチェリーパーク』まで、海の向こうへ行くの!誰一人欠けちゃダメよ。私たちはもう五人兄妹なんだからね。さぁ、全部食べちゃおうね」と、努めて明るく年長の姉らしく皆に笑顔をふりまいたが、そうしながらも手の平であふれてくる涙をぬぐった。
「姐御……オレ、しっかり働くからな。助けるからよ。コイツは、頼りないしなぁ」レオンは隣でボーっとしているもう一人の男の子である、フィリプ・コスコウスキ少年を振り返ってみた。
「当てにしてるわよ。あんたは男手なんだから。それはそうとレオン、そろそろフィリプにあなたの暗示を与えて、機械の組み立てを始めさせて」
「……『土の物語』と、オレが預かってる機械のパーツだね」
マリアは無言でうなずいた。
「おれも皆の意見に賛成だ、オレク」ヤンが、兵員食堂での士官と班長ミーティングでの結論に追従した。
「マリアたちをストックホルムで降ろすのか」アレクサンデルは発令所に戻り、他の水兵と兵曹連中がシフト交代して持ち場を入れ替わるのを横目で眺めながら、背中を潜望鏡収納パイプに預けて、次席士官、航海長、そして掌帆長と相対していた。
オルフェウス号内にあっては艦長に次ぐポジションである先任士官のアレクサンデル・コヴァルスキ少佐は先刻の会議では、只一人当初の命令どおり、デンマークとスウェーデンの間の海峡海域を抜けて、北海にでてイギリス制海権内への脱出を主張したが、この意見に真っ向から反対したのが、親友として付き合いの長いヤン・レヴァンドフスキィ大尉だったことに少々面喰らっていた。
「考えてみてくれ!これからドイツ空軍、海軍の猛追を受けることになるのは明白だ。西に向えばなおさらだ。……はっきり言おう!子供連れじゃ戦えんよ!このオルフェウス号は軍艦なんだよ。間違いなく敵に会えば殺すか殺されるかだ」
「……」
「護衛艦に見つかれば爆雷攻撃を受ける。何時間も、何時間もあの衝撃にあの子達が耐えられると思うか!気が触れてしまうぞ!そんなの見たくはないんだよ。おれは」いつもはふくよかな体躯に人懐っこい丸顔で笑顔をふりまく気の好い兄ちゃんが、眼を怒らせけんか腰でアレクサンデルに詰め寄る。
「我々の生存率も決して高いとは言えない状況です。私もあの子達がこの艦といっしょに沈むなんて事は考えたくはないんです」と、パイセッキー航海長。
「自分は乗組員への影響のほうが心配です」
「兵卒の監督に自信がないというのか!」
「副長、もちろん、自分がいる内はあの娘に手出しはさせませんよ。絶対にね。そうではありません。お気づきでしたか?水兵たちの中にはあの子達を見て故郷においてきた自分たちの家族のことを思って、目を潤ませていた奴もいたんですよ……里心がついちまってるんです」戦いに臨もうとする気概が著しく削がれていると、ヴォイチェフ・グラジンスキィはいいたいのだった。
「ストックホルムに降ろしたあと、彼女たちはどうなる?」
「中立国にだって我が軍のエージェントはいるさ。イギリス情報部の連中もな。奴らに任せればいい!どうしても心配なら艦長に一筆、書いてもらうのがいい!あの子達の安全を願うならこの船から降ろすことだよ、オレク」ヤンは頑として自論を曲げようとしない。
アレクサンデルにもイギリスへの脱出に固執する理由があった。例のメモの存在であった。もし仮にストックホルムにおいて、ドイツ軍情報部の動きが早く、エニグマのパーツあるいはその完成品が奪取された場合、マリアたちは間違いなくドイツ軍からもまたイギリスのエージェントによっても非常な処置、即ち情報の秘匿のために殺害されることになる可能性が高いのだった。彼にはそれを看過することができないでいた。
ただ、それを他の士官たちに告げれば、彼らの選択肢に大きな制限をかけてしまう可能性があるためにアレクサンデルは未だにこの事実を胸のうちに秘めたままでいた。
発令所でアレクサンデルとヤンが睨みあっている所に
「艦長がお見えだ!気をつけ」と、当番兵の号令が反響した。
その場に居合わす全員が、直立不動の姿勢で艦長のアレクセイ・クナイゼル中佐を迎え入れた。
「仕事に戻れ!諸君」艦長の言で、銘々が任務に戻っていく。
「大体の所はわかっている。難儀なことだな副長」艦長は4人の真中に立ったが、少し身体が左に傾いでいる。いつものように制服をきっちり着込んで部下の前に姿を表しているが、顔色はやけに白っぽく、眼の縁が赤く腫れあがっているようにも見える。やはり持病の結核の症状は緩和されていないようだ。
「……結論をいおう。子供たちをストックホルムで降ろせ、コヴァルスキ少佐」
士官、下士官は無言で姿勢を正し、服命の意を表した。それはアレクサンデルとて同じだが、唇を咬み両の拳をぐっと握ったままだった。
「貴官の言わんとする所はわかる。私とて出来うるなら子供たちを連れてイギリスへ脱出するのもやぶさかではない。しかし、このオルフェウスはれっきとした軍用艦である。常に狙われていることには変わりないのだ…」長身のアレクサンデルの正面に移った艦長は、珍しく柔らかい表情を彼にむけて
「それに、私の病状も芳しくないのだ。何故私が艦長室にこもっているかわかるかね?」
「……」
「君も知っての通り私は肺結核だ。感染の恐れがある。君もふくめ乗組員全員との接触を避けるためだ。もちろんあの子達にも永らくこの艦に留まれば感染の影響が大きくなる。それも考慮してのことなんだ副長。この艦と子供たちの安全を考慮し、ストックホルムにおいてマリアさん達を降ろしたまえ」
「……ハイ、艦長」と、またいつものように声を絞り出すように答礼するアレクサンデルを見やってクナイゼル艦長は、彼の肩に手を置いて
「わたしがあの子達の安全と確実な移送を、行なうよう向こうの担当官に一筆、認める。航海長、ストックホルムまでの日程は?」と、後ろを振り返りレフ・パイセッキー中尉に訊ねた。
「昼間は潜航、あるいは航空機の偵察を逃れるために潜伏しますので、実際には夜中の航走しかできませんので、約5日はかかると思われます」
”うむ”と一度、頷いてから艦長は、大きく咳き込み始め身を折るようにして耐えていたが、それが収まると
「それまでは、あの子達にたらふくうまい物を食わせてやれ。潜水艦の料理はマズかったなんて言われないようにしたまえ」と苦しい病状を抑えようとしてか、無理に笑顔をつくって、軽く握り拳を副長の胸に当てて
「その後、この艦はバルト海にて戦闘を継続する。ギリギリまでドイツ海軍に対して抵抗戦を行なうのだ。ポーランド海軍の意地を見せてやれ!そして軍人としての本分を果たせ。以上だ」それだけいうと艦長は少し背を丸めながら、弱々しく自分の居室に戻っていった。
「これで、決まりだチーフ・オレク」ヤンはそういうと、当直任務に就き、水兵たちに細かな指示をとばし始めた。