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オルフェウス号の伝説  作者: 梶 一誠
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マリアと四人の子供たち

 ちょうどグダンスク湾内で貨客船アウローラ号がドイツ潜水艦U-X09の臨検を受けている刻限に、港町アルメから、コヴァルチェク夫妻の遺児たちを老漁師からあずかり受けたオルフェウス号は、バルト海を北に航行していた。航路をストックホルム定期便に合わせて、ポーランド沿岸の真北に位置する、ゴトランド島の南東約150キロの海域にあった。

 「うまい具合に、海上では(もや)っていやがる。五分後に浮上する。配置につけ」潜望鏡で海上を監視し終えた次席士官のヤン・レヴァンドフスキィ大尉は、司令塔から階下の発令所に向けて号令をかけた。

 彼のすぐ隣で水兵、兵曹たちの親玉にあたる掌帆長のヴォイチェフ・グラジンスキィが司令塔の壁に寄りかかりながら腕を組んで思案顔をしていた。

「大尉殿、いやヤン。本当につれて行くのか?あの子達を…。水兵どもが騒ぎよるわい。特に、あの娘っ子を見る連中の目がな……」水兵たちのいない所ではこの次席士官ヤンと掌帆長(しょうはんちょう)のヴォイチェフ、それに副長で先任士官のアレクサンデルは互いに階級なしのファーストネームで呼び合う仲だ。

「あの娘か?確か名前はマリアって言ってたなぁ。あの子が子供たちの中では年長だ。年は……14歳だったか」ヤンは潜望鏡を定位置に降ろすと、心配顔のヴォイチェフを見てから

「仕方あるまいよ!くわしい話はこれからだ。昨夜といっても数時間前だが連中をなだめてやっと寝つかせた所だろうが。一番ちっこいアンナって子は”母ちゃん、母ちゃん”と言って泣くし……」そういったヤンですら不安げに溜め息をついた。

 階下の発令所から”準備完了”の答礼があがる。

「浮上!バラストタンク、200ガロン排出!浮上後は機関ディーゼル、充電を開始しろ」と、指示を与えた後ヤンは、未だ顔色の晴れないヴォイチェフに向って、両手を広げて”何だ?”と問うと

「いやな、水兵共の一部、あのヤコブ・マズゥールが中心なんだが、『士官さまたちはあの娘っ子に毎晩”サービス”してもらうなんていいなぁ』ってなことを言ってやがるんだわ」

「あの歯抜け面のバカめ!一晩中交代なしで艦橋に立たせてやろうか!」と愛嬌のある丸顔を紅潮させてヤンはその男をののしった。

「いや、まぁオレが見つけてすぐに二、三発ぶん殴っておいたけどね」

「くれぐれも”間違い”なんて起きないようにしっかり頼むぜ。……話の詳細は了解した。グラジンスキィ掌帆長。貴官が懸念としていることに関しては、追って艦長、または先任士官からの説明があるよう上申しておく。これで良いな」

 浮上後の見張り当直に付くための班がゴワゴワしたゴム製の合羽(かっぱ)を着込んで司令塔に上がってきたためヤンは仲間言葉から命令口調に切り替えた。

「ハッ!よろしくお願いします。大尉殿、では失礼します」と気をつけの姿勢で答礼したヴォイチェフは階下へ姿を消した。

 その後”浮上完了”と階下からの声が届いた。

「いいか!海上は靄がかかっているが、上空はすぐ晴れるぞ。偵察機に注意しろ!急降下をかけてきたら、即、潜航だ」ヤンは司令塔の更に上の艦橋(セイル)に上がろうとしている班の三人の肩を叩いて送り出した。

 ヤンが発令所に降りてすぐに彼の目に入ったのは、ボーっとたたずむ副長アレクサンデルの姿だった。金色の髪はボサボサ、表情はしょぼくれていて目許も赤い。寝不足なのは明らかである。当直の刻限にはまだあるはずなのだが、よく見てみると彼の着崩れているシャツの端を引っつかんで、紺色のズボンの影に隠れている小さな人影が見える。

「おはよう」ヤンは腰をかがめてちっこい影に声をかけたら

「おーっす。トイレだとさ」と、答えたのはアレクサンデルのほうだった。

「添い寝で、寝不足か」

「君もやってみろよ。あの狭い寝棚に二人で入って、泣く子を(なだ)めてさぁ背中さすってやりながらだから、変な所が筋肉痛だよ。今度は君にやってもらうからな」アレクサンデルは大あくびをかいて胸のあたりをぼりぼり掻いていると、自分の背中を引っ張る存在にきづいて目を向けた。

 黒髪を肩あたりまで伸ばしている年の頃なら5、6歳の少女が彼の腰にすがるようにして黒いつぶらな瞳で彼を見上げている。

 赤に近いパープルの余所行きの上等なワンピースに白タイツの服装を着込んだ少女はしきりに首を振ってから

「アンナは、おじちゃんと一しょがいいです」と、いった。およそこのむさ苦しい男共ばかりが寝起きする軍用艦には似つかわしくない、明るく歯切れの好い声が周囲に響いた。

「ご指名ですよ。副長殿!」ヤンはこの少女の答えにニヤニヤしている。

 アレクサンデルの腰をぐいぐい引っ張るアンナという名の少女は唇をとんがらせて彼を急かせた。その意をくんだアレクサンデルは彼女を目的の場所へエスコートしてヤンの前を通り過ぎていく。発令所内で当直中の兵曹、水兵達はいきなり子持ちになった士官の様子をみては笑いをこらえていた。

 艦尾方向にむかって発令所、調理場、兵員食堂と通り抜けて兵員室の手前にあるトイレについてから

「うわぁ、きったねぇー!」少女のかん高い悲鳴が艦内を(くま)なく伝わっていった。

それから約半日を経過したころ。

 「昨夜はアンナが泣いて騒いでしまって、ゆっくり自己紹介できませんでした。すみません……まずはこの船、潜水艦っていうんですか?迎えにきていただきありがとうございます」

 少女はそういうと一旦、話すのをやめてあたりを見回した。と言うより顔全体を左右に振り、目線は固定したままで何かを感知しようとしている機械的な仕草をみせた。そして一言こうつぶやいた。

「潜水艦ってなんだか不思議な音ばかりするんですねぇ……。それに思っていたよりも少し寒いくらいです」

「マリアちゃん、じゃないマリアさんのほうがいいかな、えーっと君は…その」

「はい、目が見えません。三歳の時に高熱を出しまして三日三晩寝込んだ後、徐々に……視力を失いまして…ええっと私のことは後にして友人たちを先に紹介したいと思います」

 マリアという少女は(あお)く澄んだ瞳を対面している副長のアレクサンデル・コヴァルスキ少佐に向けているが、音のする方向に顔を向けているだけで自然と視線はあらぬ方向にずれてしまっていた。

 今、オルフェウス号の士官室には昨晩、業火に焼かれる漁師町アルメを脱出した子供たちが集められていた。船首部に近い一応士官室と命名された区画は、潜水艦内を縦につらぬく、人一人がやっと通れる狭い通路を挟んで上下二段のベッドというよりハンモックのような手狭な寝棚(ねたな)が主な調度品である。あとは隔壁沿いに備品棚があるくらいだった。

 マリアとアレクサンデルはその通路をはさんだ寝棚の下の段に腰をおろしていた。マリアの隣にはもう一人の少女が彼女と腕を組むようにして寄りそっている。メガネっ子で髪はややくせのある茶色でショートカットにしてあった。ソバカス顔に小さな鼻、マリアと同じ碧い目でアレクサンデルを見るとにこっと笑いかけてきた。やや上目使いで首をかすかに傾ける仕草がチャーミングである。

「この子はモニカ、モニカ・カミンスカヤといいます。十二歳です。とっても気のつく働き者なんですよ」と、マリアは隣の女の子をぐいっと抱き寄せて茶色い頭に頬ずりしながら、相対する副長にこの艦に乗り込んできてから初めての笑顔を見せた。

 ”ごくっ”とアレクサンデルは思わず息をのんだ。マリアのしなやかだが確実に女を感じさせる肢体に背中まで伸びた絹糸のような(あで)やかな金色の髪、それにふんわりと包まれた小さくまとまった目鼻立ちの容貌は、まさに古の神話に登場する女神か妖精を彷彿(ほうふつ)とさせた。その魅力に思わず彼は気圧されてしまっていた。

「ずーっと黙っているけど、引っ込みじあんなの?」と、モニカが口を開かない事について訊ねてきたのは次席士官のヤン大尉だった。この会合に居合わしているのは、オルフェウス側では副長のアレクサンデル・コヴァルスキ少佐と次席士官ヤン・レヴァンドフスキィ大尉、それと航海長のレフ・パイセッキー中尉だった。艦長のアレクセイ・クナイゼル中佐は相変わらず士官室から更に船首側、前部魚雷発射管室のすぐ後ろ、只一つ木製の引き戸で区切られた艦長室にこもっている。体調が優れないらしい。

 問われたモニカは無言のまま、ヤンにむかって自分の喉を指差してから手で”ダメダメ”とジェスチャーした。

「モニカは生まれ付いて喋れないんです」隣の娘の動きを察したマリアが少し強めの口調でいった。

「そ、そうか、ごめんな」ヤンがバツが悪そうに言うとマリアは

「謝らないでください。これが私たちの普通ですから、モニカは口が利けないこと以外は一通りのことは全部できます。哀れんでほしくないわ」毅然(きぜん)と胸を張りヤンの方に身体をむけた。座りながらも背筋をシャンと伸ばし、ベージュ色の冬向けで厚手のワンピースに白いカーデガンをまとった彼女に厳しく言及されるとヤンは下を向くしかなかった。

「それと、アンナ、アンナはどこにいるの?」マリアはあいている手を空に伸ばして、一番年少の女の子を捜し求めた。

「ここでっすよぉー」と、アンナはマリアたちとは反対側のアレクサンデルの隣にいて、寝棚の上に立って上段の寝棚を支えるパイプを鉄棒代わりにしてぶら下がっている。そこからぎいぎいと金属がこすれる音がしていた。マリアはその音に反応してかちょっと困ったような顔をした。

 おそい朝の食事を終えて少し落ち着いたところで、アレクサンデルがここに来るとアンナはすぐに彼の隣に腰を降ろしていたのだが、腹がまんぷくになると今度はじっとしていられないのだった。

「もうっ、危ないことしないでね。お家じゃないのはわかるでしょ。海軍さんたちのお邪魔はしないの」マリアが注意しても一向に聞く気のないアンナ。身体を狭いなかで器用にぶらんぶらん揺らせて遊びに興じていたが、飽きたと見えて、今度は彼の膝の上にちょこんと座ってしまった。

「アンナちゃんは何歳だっけ?」アレクサンデルが問うとアンナは

「アンナ・コヴァルチェクは6歳です。おじちゃんは何歳ですか」と、逆に聞いてきた。アレクサンデルが32だよと答えると、アンナは(せき)をきったように、潜水艦には窓がないのか?おそとのお魚がみえないとか人魚はいるのか、海の底には海神ポセイドンのお城があるのかといった子供ならではの質問を浴びせてきた。

 ヤンとレフの二人はアレクサンデルの脇に立ってこの様子をにこやかに見下ろしていた。

 アレクサンデルが困っているとマリアが少し声のトーンを下げて

「アンナ…あたしは艦長さんと大事なお話があるのよ。少し黙ってなさい」と静かにいうとアンナはプイっとマリアに背を向けてアレクサンデルの首っ玉にしがみついた。

「アンナは健常者です。手話が得意でモニカと私の間を取り持ってくれるんです。ですが……ユダヤ人です。国には残れません」そういうとマリアは静かに目を伏せた。

「おじちゃんはぁ……かんちょうさんなの?偉いのぉー」とアンナは身体をはなしてアレクサンデルの顔をのぞき込むようにして首をかしげた。

「いや、その俺は艦長じゃないんだ。副長さ。先任士官という役職でもある。艦長は今、あそこの部屋にいる。ちょっと調子がよくないんだよ。あとで挨拶にいこうな」

「ふ、ふくちょー、せんにん?」アンナにはよく理解できないらしい。軍艦内の役職の区別になじんでいるわけがない。

「わかった。”チーフ”でいいよ。あーそれと君らは”チーフ・オレク”と呼んでもかまわないとする」と、アレクサンデルは副長を指す外国の俗称と自分のあだ名をかけあわせたこの艦独自のわかりやすい名称を編み出して子供たちにのみ使わせることとした。

「チーフ!チーフ・オレクのおじちゃん」アンナはうれしそうに彼の膝の上で小躍りした。

 「次はオレでいいか?」マリアとモニカの頭上から声変わりしていない少年の声がした。上の段の寝棚には腰をかけて両足をぶらつかせている少年が二人いた。一人は褐色の肌で痩せて目だけはぎょろりと光らせている。トルコ系の血をひいていると思われた。声を上げたのはこの少年だ。市井(しせい)の少年の間でよく見かける地味な色の鳥撃ち帽を被って、濃い茶色の髪は耳を覆って伸び放題にしてある。グレーのジャケットと同系色の七分丈のズボンの格好だった。

「レオン・ヴィンデル。十二歳っす。グダンスクでは港で日雇い仕事したり、アンナの親父さんの聾唖(ろうあ)学校の下働きしてました。国を出るいい機会だと思って付いてきたんです。以後、よろしゅうお願いします。旦那方」ぱっと寝棚から飛び降りると帽子をとって如才なげに軽く挨拶してみせた。

「日雇い仕事は何をしていた?」航海長のレフがレオンの肩やら背中を品定めするように触りながら問うた。

「港の旦那衆はオレをロープで(くく)ってボイラーの下におろして中を掃除させましたよ。真っ黒になっても、もともと肌の黒いカフィ(トルコ系の蔑称)だから構うまいって……。飯だって出たり出なかったりでね。あと、手が細いから漁船の焼き玉エンジンの細かい場所の掃除とかパーツの交換なんかはしょっちゅうでした」

「君は何か……こう、問題をかかえているのか?どこかが不自由とか」とアレクサンデル。

「いえ、特にはないっす。この肌の色以外はね。親の顔もおぼえてませんぜ、食うためには何でもやってきましたよ」と言うとレオンは自分の二の腕を軽くつねってみせて、どこか寂しげで卑屈ともみえるつくり笑顔を大人たちに向けたのだった。 

「こいつはいろいろ使えそうだよ。機関兵が一人足りなかったから、機関長のハスハーゲンの親父に預けてはどうかな」ヤンは”こいつはめっけもの”と頷きながらアレクサンデルに同意をもとめた。

「いいだろう。レオン、飯はちゃんと食わせる。しっかりこの艦で働けよ。いいな」とアンナを抱っこしながらのアレクサンデルの指示にレオンは港で大人連中を相手にしているうちに付いてしまった癖なのであろう、ポケットに手を突っ込んで「ウッス」とあごを突き出すぞんざいな返答をした。

 こんな態度を正規の水兵が上官にむかってとれば、それこそヴォイチェフ当たりにこっぴどく絞られるのであろうが、レオンは子供で軍属ですらない。そんな彼に敬礼を求めるなぞ無理というもの。しかたなくアレクサンデルは”よし”として、パイセッキー中尉にレオンを機関区に連れて行くよう指示した。

「食わせてもらう分はちゃんと働くよ、チーフさん」レオンはそういうとパイセッキーの後について士官室を後にした。

「さて、……と。もう一人の男の子は……」副長の視線の先にボーっとしてレオンがいた場所の隣で、心ここにあらずといった態の少年に彼は誰何(すいか)したつもりだったのだが、本人からはまるで反応がない。男の子の視線は潜水艦の内部構造、配管やらコードの束といった類に向けられていて、周囲の会話に参加する意志すら感じられなかった。

「彼は、フィリプ。フィリプ・コスコウスキっていいます。レオンと同い年です。……その、この子は少し変わってまして、自分の興味の湧く物にしか反応というか、行動できないんです」とマリアはアレクサンデルの言を受けて男の子について説明をはじめたが、金髪を短く切りそろえて、身なりもレオンよりもしっかり整っている。この白人の男の子は常に目が虚ろで何事かうわ言を発し、マリアが自分のことを喋っているのに全く反応をしめさない。

「……すみません。難しい症例で、何でも軽い自閉症の一種なのですが、覚えづらい病名で私も覚えていなくて。でも、基本的にはいい子です。アンナとおなじでモニカとは手話で話せます」

 「よし、まあ判ったよ。それで君たちとトマス・ハックスリー氏との繋がりがこちらでは皆目わからないんだ。すまないがそこらへんから話してくれるかい」と、アレクサンデルが促すとマリアはこくっと頷いた。

 以後の話はマリアの談となる。

 大きな木箱を(たずさ)えたトマス・ハックスリー氏が、グダンスク市の聖ゲオルギ教会をおとずれたのは開戦間近の8月24日の事。以前からナチスの言動に批判的であった、アンナの父、ヨブ・コヴァルチェク神父は彼を、教会の敷地内にある納屋を改造した私設であるマリアたちが寄宿する聾唖(ろうあ)学校内にかくまったのだった。

 マリアが感じたハックスリー氏の雰囲気は、小さい声でもよく通るハキハキした声をもつ人物でかなり大柄な男性と思っていたようであるが、アンナの話によると背丈はマリアと大して変わらなかったという。背中を丸めてネズミみたいな顔してたおじちゃんだったとの事。マリアの背丈は子供たちの中では頭一つ飛び出てはいるが、それでも150センチ程度だった。アレクサンデルの胸あたりまでしかない。

 そんな、ハックスリー氏はすぐに子供たちと打ち解けて、みなに優しく接していつも食事を共にし、その後は、納屋を改造した小さな学校の書棚にある物語本を読み聞かせしてくれたと言うことだった。彼の声はとても太く大きいが聞き触りがよく、うっとりして寝入ってしまうほどであったとはマリアの感想である。

 ただ、時折り彼は(せわ)しく学校とはいえ普通の一軒家ほどの大きさしかない建物の中をうろうろしている時もあって、その時の彼の息づかいは荒く何か苛立っているようにマリアは彼の発する呼吸音だけで感じ取っていた。そうなる時はその前に、神父と何か語らったあとと決まっていた。詳しい話は聞かなかったがどうやら、国外への脱出の段取りがなかなか上手くいってないようだった。

 ハックスリー氏が学校に来て二日後、彼は寄宿している子供の一人、フィリプの行動に注目していた。この男の子は常に一人で自分の世界に没頭しきっていて何やら機械を分解していた。

「古いラジオでした。フィリプはハックスリーさんが学校に来たときあたりから、教会に出入りしている廃品回収の業者からそれを貰いうけたんです。彼専用のおもちゃでした。私には彼が何をやっているのかさっぱりでしたけど……」

「アンナは見てたよぉ。フィリプはねぇそのラジオを全部、バラバラにしちゃってからまた組み立てたんだよーっ。誰にも教わらずにドライバーとかレンチとか難しい工具もちゃんと使えるんだ。すごいでしょ!そしたらさぁラジオから音が出たんだ。あたしたちの学校にラジオができたんだぁ」と、マリアの言を受けたアンナが嬉しそうにアレクサンデルの膝の上で身体をゆすっている。

「あーっ、あのラジオの雑音、私はきらいです。頭の中をかき回されてるみたいで…。あ、それで驚いたハックスリーさんは、フィリプに”いい物がある”って言ってあの機械を見せたのよね?アンナ」

「そう、ネズミのおじちゃんがいっつも椅子代わりにしてた木の箱からえーっと、何だっけなぁ……あの、ボタンみたいなのがいっぱいくっついてる―」

 アンナは眉間に皺をよせて必死に、自分がマリアの代わりに見たその機械の形をアレクサンデルに伝えようとはするが、まだ語彙(ごい)が足りないせいか思い当たる言葉が見つからないようだ。

 そこにアンナの前に口のきけないメガネっ子のモニカが立って、自分の胸の前で手と指をパッパッと動かし始めたのだった。それはベースボールでコーチがベンチから選手に送るサインに似ていて、それより更に複雑で、しかも早い。肘、手首、指先と自分の口の動きまでも加味して繰り広げられる子供たちの手遊びようにも見受けられる仕草に、アレクサンデルは目を見張った。

 その動きをつぶさに見ていたアンナは大きくうなずくと

「そう!タイプライターです。それで雑貨屋さんにおいてあるレジくらいの大きさだったよ」

 その答えに満足がいったのかモニカはにっこり微笑むとアンナに向けて”よくできました!”と握りこぶしに親指をぐいっと立ててみせた。

 マリアの談によればハックスリー氏はそれからフィリプに掛かりきりとなってその機械を触らせて興味を持たせたとの事。フィリプ少年もすぐにそれに飛びつき寝食を忘れて、分解作業に没頭していったのだという。

「分解……!?何のために」アレクサンデルが怪訝(けげん)そうに問うとマリアは

「その機械は、絶対ドイツ軍の手に渡ってはいけない物なんだそうです。ハックスリーさんの言うには始まるかも知れない戦争の帰趨(きすう)を制する品物とおっしゃってました。だから、私たちフィリプを除く四人はそのパーツを一人ずつ預かって脱出したんです。グダンスクを」

「君たちがこの船に乗り込んできた時に背負っていたリュックのことかい?」

「ええ、もちろん中身には非常食や、自分たちの着替えも入っていますが、四つに小分けされた機械のパーツがそれぞれに入っているんです。その機械を正確に組み立て直せるのは彼、フィリプしかいません」

「ぼく、できるよぉできるよぉーっ」ふいにマリアとモニカの頭上からフィリプ本人の声が降り注いできた。ただその声を発すると彼は話に参加するわけでもなく、また視線を泳がせるのみである。

 アレクサンデルはフィリプを一瞥して、大きく咳き払いしてから

「……その”機械”とは何だ?」と、聞いた。

 この質問を受けたマリアの表情が氷のように冷たく固くなった。盲目であるはずの少女の視線が今回は鋭い矢のように対面するアレクサンデルの眼をしっかりと(とら)えて、こう静かにいった。

「エニグマです」

「!?……」少女から洩れ出た名称をきいたアレクサンデルは驚きのあまり声を失い、代わりに抱いているアンナの体をきつく締め上げていた。アンナは苦しげに身をよじって彼の(かいな)から逃れるとまたその横に座を占めた。

「エ、エニグマって、あのドイツ軍の暗号解読器のこと……か。最高気密なんじゃないか、それ」声をなくしているアレクサンデルの代わりに隣に立っているヤンが訊ねた。

「はい、正確にはポーランドの情報部とイギリスにあるブレッチェリーパークという所から派遣された情報部員で優秀な数学者でもあるトマス・ハックスリー氏のチームが共同で製作した模造品、コピーだと。ですが性能は本物と遜色(そんしょく)ないとのお話でした」

「すまないが、そのあたりをもう一度詳しく聞きたいんだ……。話してくれるかな、えーっとマリア、マリア……何だっけ?」

「はい、私がハックスリーさんから聞いた事は隠さずお話します。わたしはマリア、マリア・フォン・シュペングラーといいます。ドイツ系ですがれっきとしたポーランド人ですよ」と、改めて自己紹介しながらこの美しい少女は視線をアレクサンデルから外さず、やや上目使いで目を細め、口の端にうっすら笑みを浮かべている。

 アレクサンデルとヤン、二人の大人は笑みを浮かべるこの少女の見えていないはずの視線に捉えられて自分の心の中まで見透かされているような言い知れぬ不安と、深い深い森の中で計らずも奸智に長け、出会った者の魂を奪いとる美しい魔女と対面しているような不気味さを感じていた。

 『エニグマ』とは……。

 1915年アメリカの暗号解読家エドワード・へバーンなる人物が電動タイプライターと円筒の曲面上にローマ字26文字を不規則に配置した回転ローラーを組み合わせた画期的な機械暗号機を開発した。

 この暗号機の仕組みは、例えばタイプライターの「A」のキーを打つと、複雑な回路を経由して「D」の文字に変換され、更にランダムに回転するローターによって「S」の文字に再変換されて印字されるというものであった。

 これにいち早く目をつけたドイツ人のアルトゥース・シュルヴィウスが入手して1923年に商業用暗号機「エニグマ」として商品化された。ヒトラーが政権を握る以前のワイマール政権下のドイツ海軍がこれを正式に採用したのが1926年。

 これ以降、改良を加えられた「M3」型軍用エニグマがドイツ三軍共通の暗号機として採用されたのが1930年の事。大型小型の水上艦艇はもとより全てのUボートに搭載され、司令部からの命令の伝達や報告、情報伝達などに用いられる必携の装備となった。

 第二次世界大戦勃発から最初の数年におけるドイツ三軍の華々(はなばな)しい戦果の裏には、このエニグマによる情報伝達の速さと、その複雑怪奇な機構による高度な秘匿性にあると言っても過言ではない。現にイギリス、フランス両国はこの暗号解読には手を焼き、不確かな情報を基に作戦行動をとるしかなく、常に二手、三手とドイツ軍に先を越され辛酸をなめることとなった。

 特にイギリスの生命線たるシーレーンはUボートの猛威に曝され続け、

「戦争中、真に私を恐れさせたのはUボートの脅威だけであった」とイギリス首相W・チャーチルは戦後、自身の著書に記すほどであった。

 ただ、イギリス情報部もただ手をこまねいていたわけではなかった。

 これに先立つ1920年代、ポーランド情報部は常に脅威を受けていたドイツとソビエト連邦の暗号解読に力を注いでいた。イギリスも自国内におけるブレッチェリーパークという区画に設立した暗号解読機関「GC&CS」との共同により、エニグマ暗号機のコピーを製作、さらに電算解析機「ボンバ」の開発にも成功した。この一連のシステムの構築をワルシャワの特務機関において主導的役割をしたのが先のブレッチェリーパークから派遣されたトマス・ハックスリー氏であった。

 ハックスリー氏がいよいよ研究開発の成果をイギリスへ持ち出そうとした矢先、ドイツのポーランド侵攻が本格的に危ぶまれた。彼は止む無く、「ボンバ」をワルシャワにて火事を装い破壊。その設計図はいち早く、永世中立国スイスのチューリッヒ銀行の個人金庫内に移送、保管させていた。

 彼は完成した「エニグマ」のコピーと共にワルシャワを後にして、バルト海に面するグダンスク市から航路で脱出する予定であったが、思うに任せぬまま遂に開戦当日を迎えてしまったのだった。

「ハックスリーさんは私たちと先生、先生というのはアンナのお母さんの事です。と一緒にグダンスクから小さい漁村アルメに逃げることにしたんです。街にはドイツの兵隊と武装した民兵たちがいっぱいで、あちこちで発砲してました。ハックスリーさんもその時銃撃されたんです……。先生と私で必死に止血したり処置したんですがあの人はもう、アルメではもう息も絶え絶えでした」

 「そうだったか。オルフェウス号もアルメに急行するよう命令をうけたのは、グジニャを脱出してから二日も経っていたからな」と、こぼしたのはでっぷりとした身体のヤンだった。

「結局、神父様とはグダンスクで別れたのが最後です。わたしたちの母親代わりであった先生は、おじいさんの漁船から迎えの大きい貨物船に移るときに、私たちはここに残って海軍の潜水艦を待つようにっていわれたんです。ハックスリーさん一人では大変だからと言ってアンナのお母さんともそこで別れました」

 マリアの口からコヴァルチェク神父とその夫人のことがでると、アレクサンデルの横に座っていたアンナがマリアの胸元にとびこんでから

「……」無言ながら、父と母親のことを思い出してすすり泣きを始めてしまった。

「大丈夫!神父様はグダンスクから上手く逃げたはずよ。先生はアウローラ号でイギリスへ向かっているのよ。むこうで必ず会えるから……」マリアはアンナを抱きかかえて彼女の黒髪に頬ずりして背中をさすってやってなだめた。

 昨晩、この潜水艦に乗り組んだ時、アンナはそれはそれは天地が裂けんばかりの大声を上げて泣き叫び、「母親と一緒に行くんだ」、「アウローラに戻る」といって聞かなかったのだ。マリアも今のようにして抱き寄せたが効果がなく、困っているとアレクサンデルがアンナを代わりに抱いてやり、ただ黙ってしばらく自分の大きな胸の中で泣かせてやったのだ。しばらくは辛抱強く待って、寝入ってしまった少女と一緒に寝棚に入ったのが昨夜のこと。

「アンナは母ちゃんと約束したもん。イギリスにはロンドンって大きな都会があるって。そこで母ちゃんとお買い物するんだ。カフェでお食事しようって……パンケーキにはちみつとクリームいっぱいかけて食べるの」

「そうね。その時はモニカとわたしも一緒に連れてってくれないといやよ」マリアはアンナのちいさな鼻ッ先に自分の鼻をくっつけて優しく微笑んだ。

 アンナがまた昨晩のように火が付いたように泣き叫ぶのではあるまいかと、アレクサンデルは危惧したが今度はマリアがうまくなだめてくれている様子に、内心ほっとしていた。

「マリア姉ちゃん、チーフにお手紙渡さないと」

「そうね、先にわたしておくのを忘れていたわ。チーフオレク、これを。ハックスリーさんがアルメで書き記したメモです。潜水艦、海軍の人に渡すようにといわれてきました」

 マリアは自分の衣服の胸ポケットから二つ折りにされた封筒を取り出し、彼に手渡した。

 その封印された封筒を受け取ると、その表書きには”神の(ゴッド)み恵みが(ブレスユー)ありますように”とおそらくは、ハックスリー氏の肉筆であろうメッセージが書き記してあった。

「ありがとう。……さて」と、アレクサンデルが封筒を開封しようとした時

警報(アラートッ!)ーっ!」司令塔のさらに上、艦橋(セイル)に先刻から詰めていた見張り当直からの叫びが、伝声管をつたって狭い艦内に響き渡った。

 アレクサンデルは子供たちに寝棚に入って頭を低くするように指示すると、次席士官のヤン・レヴァンドフスキィ大尉と足早に発令所に向った。

 アンナがマリアの手をほどいて大好きな”チーフオレク”の後をおった。

「ダメ!アンナ。じっとしてて危ないから」マリアの声など気にもかけず小走りで、その大きな背中を追って行ってしまった。

 モニカが気を利かせて”安心して”とマリアの肩をポンポン叩いた。

「頼むわ!モニカ。連れ戻してきて」声の出ない少女は盲目の少女に自分の意が伝わるようにと、マリアの手を”イエス”の代わりにぎゅっと握って、聞き分けのない妹分を追って士官室をあとにした。

「もう……」ぶすっとした表情で一人寝棚の上に腰掛けてマリアは嘆息をついた。

 いつもそうだ。自分の友人がとっさに行動を起こしても、自分はそれを追えないでいる。こうしてまた一人、取り残されてしまうのが常。仕方ないと思っていてもやるせなさがどうしても心を騒がせる。

(そう……。わたしたちは置いてきぼり。居場所なんて、本当に心休まる場所なんてないんだわ。国を追われても必要とされない……どこにいても”かたわの役たたず”といわれるだけよ……)

 マリアは唇を噛みしめワンピースの端をぎゅっと握った。

「友軍機でーす!」

 発令所についた二人の士官に水兵が駆け寄って報告をいれた。”潜航待て”を下令すると、ヤンが先に昇降ハシゴ(ラダー)を駆け上がった。

 二人が艦橋(セイル)に上がると見張り当直の兵曹たちが上空を飛ぶ一機の航空機を指差した。そこに居合わす誰もが喜びに打ち震え、夢中になって手を振っている。

「副長!ほら、味方ですよ。赤と白のマークが、ポーランドの国章です」一人の兵曹がアレクサンデルを振り返り満面の笑顔で(わめ)いている。

 浮上航行中の潜水艦としてはいささかやっかいな晴天の中に、銀色に機体下面を塗装した両翼に大型のエンジンを装備した双発機が今、オルフェウス号の真上を通過した。確かに見張り員がいうように翼端に赤と白で四角く市松模様(いちまつもよう)に似たデザインのポーランド空軍の国章が見える。ヨーロッパでも珍しいデザインは見違えるようなことはない。

「双発爆撃機か、よくこんな海上にまで飛んできたもんだな。あれはP37”ウォシュ(へらじか)”か?」

「ああ、He‐111(ハインケル)によく似ているが、我が空軍の爆撃機だよ。あれは」と、ヤンは未だ疑い半分のアレクサンデルの肩を叩いて自慢げにいった。

「あーげーてぇー。わたしも飛行機見るぅー」と、自分たちの足下から、女の子の声がする。階下の司令塔まで上がってきたアンナがさわいでいるのだ。すぐにそのリクエストにこたえた水兵の一人がそこで彼女を抱き上げ、艦橋にいる兵曹たちに手ずからで渡した。

 屈強な男たちはこの女の子をひょいっと軽々かつぎ上げ兵曹の一人がそのまま肩車してやった。

 ポーランド国産の爆撃機であるP37ウォシュは大きく旋回すると、今度はぐっと高度を下げて接近してきた。機体の上面はカーキカラーに塗装されているのが判る。高度は100メートルあるかないかぐらいでぐんぐん接近してきた。ここまで下がると接近してくる機体の大きさに身じろぎするほどだ。エンジンの爆音が艦橋の面々の耳を襲う。

「母ちゃん乗ってるかなぁ?おーい、おーい」と兵曹に肩車してもらいながら、アンナは両手を大きく肩をぐるぐる回すようにして振り自分の存在をアピールした。

 それに応えるようにしてP37は主翼を左右交互に傾けつつ再び艦の真上を飛び退った。友軍同士のあいさつである。

「投光機持て。こっちもあいさつだ。”こちらオルフェウス。健闘をいのる”と打て」ヤンが指示すると兵曹の一人がハンド式の投光機を器用に操り、光の点滅信号を友軍機に送った。

 艦橋にいる全員が未だに友軍が健在であり奮闘してドイツ軍に抵抗していることをじかに確認できた嬉しさから、歓声をあげて小躍りしながら銘々が手を振ったり、帽子を振ったりしていたがアレクサンデル一人だけが、腕を組んだままで飛行機の動きを注視していた。やがて

「止せ!」と周りを制した。ヤンが何故とめるかとぷりぷりして詰め寄ってくる前に

「友軍機があんな”あいさつ”するなんて聞いたことがない!機体は確かに友軍機だが、パイロットはドイツ軍かもしれん」と、いった。

 士官、兵曹はポカンとしていたが、アンナの言葉にはっとなった。

「なんか、飛行機のおなかが開いたよぉー」

 そのとおり、双発爆撃機は低空で三回目の接近をはかっている。その機首をまっすぐこちらに向けると機体下の爆弾槽が開いているのがわかった。

「両舷前進全速!面かじいっぱい」反射的にアレクサンデルは伝声管に向って叫んでいた。

 味方を装った爆撃機は爆弾を投下して潜水艦の上空を飛び過ぎていく。今度はぐいっと高度を上げつつあった。 間一髪。爆弾は艦をそれて右舷側の水面に落下。直後に天にも届かんばかりの巨大な水柱があがった。

「急速潜航!アンナ、こっちへ。俺の言うとおりにしろ、ボールみたいに丸くなるんだ!」

 アンナはすぐに手足を抱え込んでアルマジロみたいに小さくまるまった。「誰かぁ!」アレクサンデルの呼びかけに応じて階下で手を広げている、たくましいクマ親父ことヴォイチェフ・グラジンスキィに向って彼女を司令塔の中へ落っことした。

 そのあとは全員が即座にラダーを伝って下に飛び降りた。

 司令塔から発令所へ、バケツリレーみたいにその身体を水兵たちに運ばれたアンナは、待ち受けていたモニカと一緒に士官室まで半べそをかきながら駆けてきた。そしてそのままマリアの胸に飛び込み

「ヒコーキが爆弾落っことしてったぁ!母ちゃん乗ってないよぉ」と姉貴分のマリアに訴えた。

「だから、勝手なことはしないの!チーフ・オレクの邪魔しちゃダメでしょ」マリアはそういうと、抱っこしたままで膝上にあるアンナの小さなお尻をひっぱたいた。

 アンナはマリアの腕から逃れようとしたが、マリア姉はがっちり身体を押さえ込んで、その後も”コレ!コレ!”とやんちゃな妹を(しつけ)けている。

 発令所での指揮はヤン大尉にまかせたアレクサンデルが、勝手に艦橋へ上がってきたアンナを少しきつめに注意せねばと考えて、士官室の入り口まで来ると自分が意図したことをマリアが代行してくれているので

(まあ、今回はこれでよいか)と、発令所に戻った。

 オルフェウス号は今回も無傷で、攻撃をかわす事ができたがいつまで幸運の女神がついて来てくれるのか。前途が多難であることに変わりはない。果たして彼女たち五人を連れて、危険なドイツ海軍の縄張りを抜けてイギリスの勢力範囲までたどりつけるか、それともこのままストックホルムまで行き、安全のためと称してそこで子供たちを降ろすべきか。アレクサンデルの心は逡巡(しゅんじゅん)をはじめていた。

 発令所では次席士官のヤン大尉が潜望鏡をのぞき、味方をよそおった襲撃者は飛び去ったことを告げた。彼はそのままそこを通り抜けて艦尾方向の兵員食堂のテーブルにつくと、さっきの騒動の前にマリアから渡された”神のみ恵みがありますように”と記された封筒を開封した。

 最初の一文である『万難を排し必達されんことを願う』を一読し、次に読み進めたアレクサンデルは突如こみ上げて来る憤怒の感情に我を忘れて、怒号を上げそうになるのを拳をとっさに口にあてて押さえ込んだ。

『ドイツ軍にエニグマを渡してはならない。やむをえない場合は本機を破壊せよ。加えて遺憾ながら子供たちにも処置を施すことを要請する。手段は問わない。願わくば安楽死を与えたもうことを。その後マリア嬢の左手のみを回収せよ』

 これがトマス・ハックスリー氏が死ぬ間際にマリアに預けたメモの内容であった。



 

 

 

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