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オルフェウス号の伝説  作者: 梶 一誠
22/22

エピローグ

 レオンは不満たらたらで口をへの字に曲げて隣にいる、自分と同い年のフィリプに渋面を向けては

「何でよぉ、何でオレ達がこんな荷物扱いで引っ張り上げられにゃならんのかい?」と、愚痴をこぼしていた。そのフィリプは隣でへらへら呑気に笑いながら

「いいじゃないかぁ、他の水兵さんたちみたいに縄梯子(なわばしご)でこっちの船に乗り込むより楽ちんだよぉ」いつものマイペース、間延びした口調で返した。

 彼ら少年二人と負傷したフランツ・ヴァノック一等兵曹は潜水艦オルフェウス号に接舷して停泊中のイギリス海軍の駆逐艦『ワッスプ』に装備されている積荷搬送用の粗めのロープで編まれたネットに載せられ、後部デッキにあるクレーンで吊り上げられたまま移動中であったのだ。

「じゃがいもなんかと同じ扱いが気に入らねえってえの!」レオンはフィリプに食ってかかると更に

「マリアとアンナそれにカピタン・オレクたちは綺麗なカッターボートのお迎えつきで駆逐艦に乗り込んだじゃねえか!イギリスの水兵どもなんかよぉ、マリアに敬礼してから”さぁお手をどうぞ”って具合にまるでお姫様扱いだったじゃねえかよぉー」レオンはネットの隙間から手足を空中に出したままでジタバタと騒ぐ、そうするとネットは荷重を支えるフックを中心にゆっくりとした回転を始めた。

レオンは自分たちのすぐ後ろで、毛布に(くる)まれて未だに昏々(こんこん)と眠り続けているフランツ・ヴァノックを振りかえって

「フランツ兄やんはしょうがねえよ……。怪我してんだからなぁ。ああ!やっぱり気にいらねぇ!」

レオンはフィリプの肩を拳で八つ当たりして叩くのだった。

「やぁめぇてー。もううるさいなぁそんなのボクの所為じゃないよぉ」フィリプは迷惑そうに言った後に、いきなり咳き込み始めた。

 ここ二、三日ほどからフィリプはオルフェウス号内でもこんな様子が続いていた。しばらく咳き込んで苦しげな様子に、レオンが愚痴を言うのを控えて、フィリプの背中を擦ってやりながら、やや白くなっている相手の顔を心配そうにのぞき込むようにして

「おい、お前もフランツ兄ちゃんみたいに医者に診てもらえよ」と、言うとフィリプは何度か咳き込みながらも頷いては返答の代わりとした。


 イギリス海軍C級駆逐艦『ワッスプ』の艦橋の真下のデッキは艦長室になっていて、潜水艦から乗り込んできたアレクサンデル・コヴァルスキ少佐、盲目の少女マリア・フォン・シュペングラーそして6歳の幼女アンナ・コヴァルチェクが艦長用デスクの前に用意された椅子に座り、自分たちとオルフェウス号の処遇に関しての交渉の結果を待っていた。

 この艦長室でのイギリス海軍との接見に際して、マリアは最初に己が左手に刺青(タトゥー)のようにして刻印してあった電算式複合計算機『ボンバ』の設計図が保管されているスイスにあるチューリッヒ銀行、個人金庫の暗証ナンバーである”4WG17-A666”をジョージ・マックスウェル少佐と副官に提示して見せてから、彼ら士官に対して大胆にも

「あなた方の判断で、『エニグマ』と共に、この『ボンバ』の存在をも葬り去ることになりますが……本当に宜しいのですか?」と、冷静な物腰ではったりをかましてから更に、マリアはイギリス本国、特に情報部を通じてロンドン郊外に秘密裏に国の内外から召集された数学者、暗号解読のスペシャリストが集う秘密の研究機関ブレッチェリーパークの存在を二人に明かしてから

「別ルートでわたしたちと同じ『エニグマ』を持ってポーランドを脱出したグループがこの『ボンバ』の設計図情報までも持ち込めたのか否かを、確認を取ったほうが賢明かと……その上でわたしたちをどう処置するのかをお決め下さい。その決定にわたしたちは従います……」と、語ったあとに

「あの潜水艦とともに海底に沈めと仰るなら、わたしたちはあの船に戻りましょう……」こう結んだ後、マリアはイギリス海軍の士官に対して不敵に笑って見せたのだった。

 これはアレクサンデルとマリアの一つの賭けでもあった。自分たちに攻撃を仕掛けてきた彼らは、オルフェウス号が持ちうる機密情報の有無に関しては何も聞かされていないのではないかと……。そうとなれば、あえてこの場で自分たちが持ちうる全てを、この現場の関係者に提示して彼らの目上の、事情を察している連中にまで”我々がここまで来た”事実を知らしめてやれば良いとの考えであった。

 案の定、接見の最初のうちは、子供連れの珍しい亡命者たちだと高をくくって居丈高(いたけだか)に応対していた彼らは、マリアの話を聞く内に事の重大性と機密性の高さに驚愕して、”しばしお待ちを”と執務室を連れ立って後にしてしまった。

 待つ間にアレクサンデルとマリアにはインド産の紅茶が出されて、その隣でアンナはミルクとこの艦の炊事班が用意してくれたイチゴジャムたっぷりのコッペパンにかぶりついていた。アンナがコッペパンを口の周りをジャムだらけにして、たいらげようとした時に、執務室の水密ハンドルが付いているゴツイ鋼鉄製の扉が開き、『ワッスプ』艦長のジョージ・マックスウェル少佐が副官を伴って、接見を開始したときと同じように入ってきた。

 マックスウェル少佐はやや興奮気味に、真っ先にマリアの前まで来ると断りもなく彼女の手を取った。いきなり慣れない人物に手を触られたマリアは少し”びくっ”と後ずさりした。

「ああ、失礼。……気が付きませんで、ですがミス・シュペングラー、確認が取れました。よくぞ我が海軍に投降してくださいましたな。あなたの勇気と英断に感謝いたします」『ワッスプ』艦長は彼女の細い腕を勢いよく上下に揺すった。退出する前とはうって変わって手の平を返してきた指揮官にマリアは彼に見えないような微細な苦笑を浮かべた。

副長(ナンバー・ワン)」艦長は後の説明を伴って入室してきた副官に委ねた。

「先ずは、ミス・シュペングラーの左手に刻印された”4WG17-A666”のナンバーですが、間違いなくチューリッヒ銀行の個人金庫の物でした。今は現地のエージェントが設計図を回収に向っているでしょう」と、告げるとマックスウェルは今度はアレクサンデルの手を取って

「ほんの2日前にフランスはパリの情報省にポーランドからの亡命者の家族三組が到着しましてな。例の暗号解読機本体は持ち込まれたとの事ですが……あー副長(ナンバー・ワン)何だったか?」

「『ボンバ』……ですね」と、副官の代わりにマリアが返答した。

「そう、その『ボンバ』の設計図の情報を管理していた人物は……残念ながらフランスにたどり着く前に亡くなっていたのです。他のメンバーにもその暗証番号を秘密裏に行動していたために、その情報は完全に失われてしまったと諦めかけていた時に、あなた方オルフェウス号が現われたわけなのです」

「2日前……ですか!?」アレクサンデルは少し遠い目をして呟いた。

「ええ!そちらのお嬢さんとあなた方の決死の行動がなければ、我々は重大な失態を演じることとなったでしょう。実を申せば私たち現場の人間には、こういった複雑な事情に関する情報までは……そのぉ降りてはこんのですよ」と、マックスウェル少佐が少々、バツが悪そうにしている所にアレクサンデルは、自分たちが最も感心を寄せている案件に関しての決定を問うたのだ。

「我々の身柄と……、子供たちの処遇に関しての決定は?」相対するマックスウェル少佐は何度か頷いて

「ご安心を……。子供たちとオルフェウスの乗組員の身柄は、我々『ワッスプ』がポーツマス港までお連れすることになる予定です。ただ……」

 アレクサンデルとマリアはこの後に続く、イギリス政府と海軍及びポーランド亡命政府の決定に身を強張らせたがそれを甘受せざるを得ず、二人は唇をかんで諾々(だくだく)と受け入れた。

 ポーランド海軍潜水艦オルフェウス号はポーツマス港に回航されること無く、現海域にて自沈処分との決定がくだされたのだった。

 これもドイツ軍への欺瞞(ぎまん)工作の一環であった。ポーランドからの亡命潜水艦が自力で、あるいは駆逐艦に曳航されてイギリス国内の港に入ればそれを嗅ぎつけた現地のドイツ側の間諜エージェントによってドイツ本国へと情報がもたらされて、『エニグマ』が連合国側に渡ってしまったと判断される事となり、現時点で採用されている暗号解読機の仕様がたちどころに変更され、陸路でフランスに持ち込まれた『エニグマ』の存在価値が失われてしまう恐れがあるからだった。そして……。

 1939年10月2日、夕刻17:30。全ての自沈処理を終えた潜水艦オルフェウス号は艦内と甲板の全てのハッチを解放させたまま、最期の潜航に移った。これまで多大な犠牲を払ってまで(たずさ)えてきた『エニグマ』を艦内に残したままで。

 機関長のヤロスロフ・ハスハーゲンがバラスト・タンク内に残っている空気を排出させて機関員らと共に船外への脱出を果たした。その一部始終を艦長アレクサンデル・コヴァルスキ少佐を始めとするオルフェウス号の乗組員とこれまでの苦難の航海を共にしてきたマリア・フォン・シュペングラー以下4名の子供たちが、駆逐艦『ワッスプ』の甲板に整列して見守っていた。

 潜水艦オルフェウス号は静かに無人の潜航を始めて、夕陽が水平線と海原の波頭の全てを黄金色とオレンジに代わる代わるに染め上げているその輝きの中で艦はゆっくりと船尾の方向から沈んでいく……。

 「艦長からお話がある。全員、傾注!」先任士官のヤン・レヴァンドフスキィ大尉が声を張り上げ、乗組員が顔をアレクサンデルの方に向けた。そんな中マリアはまだ自分が朝と同じ格好でいることに気が付いて略帽とコートを脱ごうとしていたが、アレクサンデルはそれを優しく止めてからマリアの両肩に手を置くと彼女の身体を乗組員全員のほうへ向けてから

「マリアよ……。まだお前が艦長だぞ。みんなもオレも……今は君の声が聞きたいんだ」と、耳元で囁いた。一瞬、マリアは驚いた表情を浮かべたが、すぐに唇を真一文字に結んで、その(めしい)た碧い瞳を一人一人の胸を射抜くかのような輝きで見据えたまま、大きく朗々と声を発して居並ぶ男たちを前に語り始めた。

「栄光あるポーランド海軍の皆さん、そして軍人である前に勇敢で優しい”海の(おとこ)”の皆さんに、私、マリア・フォン・シュペングラーはオルフェウス号に拾っていただいた兄妹たちを代表して、先ずはお礼を申し上げます。誠にありがとうございました。わたしたち兄妹がこうしてここに生きてこれたのは全てあなた方のおかげです」マリアはここで深々と(こうべ)をたれ、お辞儀をした。すると乗組員が整列している中からレオンが、アンナがそしてフィリプもマリアの傍に駆け寄ってきて自分たちのリーダーにならってやはり頭を下げた。

「そして……まことに勝手ではありますが、わたしから皆さんに二つのお願いがあります。一つは」マリアは姿勢をもどすと今度は海原で左に大きく傾き始めたオルフェウス号の方向を音を頼りに指さして

「ご存知のとおり、わたしは盲目です。見えない私の代わりに私たちのオルフェウス号の美しい姿を、皆さんの目に焼き付けてください。そして思い出してください。わたしたちと一緒に苦難に満ちた航海を乗り越えたことを…。もう一つは、どうかこの戦争を生き抜いて下さい!そして銃後で待つ私たちを迎えに来てほしいんです。今は失われてしまった故国ポーランドに、あのどこまでも緑の草原が続く美しい大地の故郷に誰一人欠けることなく、私たちの手を取って連れて帰って欲しいんです。私たちはその日まで皆さんのご武運を異国の地にてお祈り申しあげます」マリアがここで一つ、息を付いた時だった。いよいよ潜水艦は最期の時を迎えた。

 オルフェウス号は槍の切先のような鋭い船首を高々と海面から持ち上げ、残照の黄金に似た輝きの中で船内に残された空気を各部ハッチと隙間から噴出させつつ旅立ちの合図のホイッスルに似た音を奏でていたのだった。

 マリアはその音色を耳にしたその刹那(せつな)に身体をその方向に向けて、更に声高らかにしてまるで(いにしえ)の戦神が彼女に憑依したような口ぶりとなって、整列している(ともがら)を鼓舞し始めたのだ。

「見よやぁ!大海の波濤(はとう)をものともせずに押し渡る海の騎兵たちよ。今まさに我らの尖兵(せんぺい)たるオルフェウスが、我が朋友モニカ・カミンスカヤと掌帆長(しょうはんちょう)ヴォイチェフ・グラジンスキィ殿の英霊と共に、海神ポセイドンの下に(おもむ)かんとす!我、マリア・フォン・シュペングラー、そを(つわもの)の礼を持って送らん!」この腹の底から渾身の力で振り絞られたような雄叫びにオルフェウスの士官と乗員は一斉に背筋をピッと伸ばしマリアが次に発するであろう号令を待った。

「剣を(つが)えよ!顎を引けぇー(まなじり)を上げよぉ!気を付けぇーッ総員敬礼!」マリアは彼女の生涯最初で最後の敬礼をオルフェウス号に捧げた。自分と兄妹たちを命がけで救ってくれたモニカと常に大きい体で自分たちを庇護し続けてくれたヴォイチェフの魂にも敬意を表して。

 この号令一過、アンナ、レオンそしてフィリプの子供たちとポーランド海軍の士官、水兵のみならず、それを見物していたイギリス海軍の水兵たちまでもがその場で居住まいを正して沈み往く潜水艦オルフェウス号に敬礼を送った。

 「マリア姉ちゃん!沈むよぉーあたしたちのお家がぁ、オルフェウスが沈むよ」敬礼を解いたあとにアンナが声を詰らせ、涙ぐみながらマリアの腰にしがみついた。マリアは彼女と同じ視線の高さまでしゃがむとしっかりと妹分のアンナの肩を抱き

「アンナ……私に代わってしっかり見ていてちょうだいね。そしてあなたが伝えるのよ。わたしの子供に、そして将来のあなたの子供にも、今日この日までにあなたが目に焼きつけて来たことを、モニカと一緒に旅したことを……ね。それがこれからのわたしたち女の務めですからね」

 抱き合う二人の、そしてその兄弟たちが見守る中、オルフェウスは遂にその姿を波間に没した。それからしばらくの間、駆逐艦『ワッスプ』から発せられた長い汽笛の音が潜水艦の最期の出撃を見送るかのように三度、夕闇迫る北海の海原に流れていった。

 1939年10月2日、18:00の事である。……かくして、オルフェウスの子供たちの旅は終わったのだった。

 イギリス海軍駆逐艦『ワッスプ』艦長による航海日誌には、同時刻、『北海東部海域にて国籍不明の不審な潜水艦を追撃。これを撃破せり。生存者無しを認む』との記載があるのみである。

 これにより暗号解読機『エニグマ』の存在は完全に闇に葬り去られることとなった。更にこの後の情報操作は徹底して行なわれて、亡命ポーランド海軍省は自国のオーゼル級潜水艦のうち竣工したのは5番艦オーゼル号までで、6番艦は計画のまま中止として記録が改竄(かいざん)された。開戦当初にオルフェウス号が受領した『エニグマ』回収に関する命令書の存在記録、潜水艦の乗員名簿に到るまで全てに手心が加えられて編集されるに到った。

 艦長アレクサンデル・コヴァルスキィやマリアたち兄妹の記録も例外なくポーランドからの脱出を果たした他の艦艇、あるいは亡命者が乗っていた客船名簿の中に無理やり、加算される形での偽装工作が成されたのである。

 故に潜水艦オルフェウス号の存在を知っていた人々の間ではその艦が”幻の潜水艦”として語られ、その乗組員と拾われた子供たちの波乱と勇気に彩られた物語は船乗り、潜水艦乗りたちの『伝説』として口の端にのることとなった。


 第二次世界大戦の開戦から一ヶ月をようしてのポーランド海軍オーゼル級潜水艦オルフェウス号と暗号解読機『エニグマ』を携えての子供たちの決死の脱出行はこうして終わりを告げたが、マリアたち子供たちの苦難はこれで終わりではなかった。そして、この『エニグマ』の争奪をめぐる戦いもまたこれで決着がついた訳では無かったのだった。

 先ず、1940年5月にはドイツ軍はベルギーを抜けてアルデンヌの森林地帯を機甲師団で踏破してフランスへと攻め込んだ。世に言う西方電撃戦(ブリッツクリーク)である。この戦いでフランス軍は抵抗空しくパリを占領された。一度、フランス情報局によって保管、研究されていたポーランドから陸路で運ばれた『エニグマ』と『ボンバ』はいち早くイギリスへの移送を完了させたが、この時点からドイツ側は暗号解読機の仕様を変更して連合国側への対抗手段を取り始めた。マリアたちとポーランドの脱出者たちが持ち込んだ機械はその機能と性能を維持することが難しくなってしまったが、この後の研究のデータベースとしての役割は充分果たし終えたのである。その後の暗号解読機は三連ローターが四連に改編され、より複雑で解読難解な暗号を組んで連合軍を、主に対Uボート作戦を担う連合軍海軍には負担を強いる事となった。

 連合国海軍は新たな『エニグマ』本体を奪取すべく様々な作戦を企図、敢行しては多大な犠牲払いつつU-31、U-110などのUボート、海防艦等の鹵獲作戦成功の実りを手にしても、また枢軸側は暗号解読機の機種改編を進めては振り出しに戻る、と言った”イタチごっこ”を繰り返した。

 その都度に秘密機関ブレッチェリーパークに集められた数学者を始めとする優秀な研究者たちは新たな問題に頭を悩まされて血道を上げて敵の暗号を解読するための奮闘を続けていく事となる。この静かな頭脳と技術の凌ぎを削る戦いに一応の決着をみるのは1943年の後半におけるU-559の鹵獲とその艦艇に搭載されていた『エニグマ』最新盤の確保を待たなければならない。


 マリアとアンナ達兄妹はしばらくは、アレクサンデル・コヴァルスキ少佐を義父、後見人としての擁護を受けて身柄はロンドン北郊外の秘密研究機関ブレッチェリーパーク内の一画に保護観察付きで置かれた。ほぼ軟禁状態での拘束が続き、イギリス国内での自由な移動は著しく制限された。

 コヴァルスキ少佐は亡命ポーランド海軍省に所属。海軍軍人として船に乗ることはなく事務方、兵站支援の任に就いた。言わば子供たちのお目付け、監視役を兼務する事を担わされたのだった。

 オルフェウス号に乗り組んでいた面々もかつての艦長コヴァルスキ少佐同様に様々な運命に翻弄(ほんろう)されることとなった。

 ヤン・レヴァンドフスキィ大尉とレフ・パイセッキー中尉は先に亡命を果たしていたオルフェウスと同級の潜水艦オーゼル(ワシ)号に乗り組んだが、1940年6月11日、海軍省の発表によりスカゲラック海峡において触雷により喪失。生存者なしとの報道が成された。

 フランツ・ヴァノック一等兵曹はポーツマス港に入港後に入院。しばらくリハビリを続けていたが、翌年には海軍省コヴァルスキ少佐の口利きでイギリス海軍の士官学校への編入を果たした。養成課程を無事クリアーさせた彼は潜水艦ではなく、水上艦、駆逐艦勤務を希望して大西洋方面からの船団護送任務に就きUボートキラーとしての活躍を見せた。

 ただ、生粋(きっすい)のイギリス人士官としてスタートした同期、後輩の士官が出世して、大型艦へ籍が移っても彼は駆逐艦での勤務に留まり後塵(こうじん)を拝することとなった。『外国出身の士官は万年中尉止まり』と呼ばれた人事の悪弊にも彼は一向に気にする事無く”現場が一番だぜ”と、艦隊生活を満喫していた。そんな彼には出世以外にも目標があった。恋人マリア・フォン・シュペングラー、改めマリア・コヴァルスカヤ嬢を妻に迎えることであった。彼女の義父でありかつての自分の上官アレクサンデル・コヴァルスキ少佐からは

「貴様が一角(ひとかど)の男になるまでは、アリアを嫁には出さん!」と、厳しく言及されていたが、二人はよく手紙で、(点字での読み書きはフランツには荷が重かったので、アンナが”父ちゃん”にはナイショでマリアに読んで聞かせた)やり取りしてしっかり逢瀬(おうせ)を繰り返してはいたのだった。

 その際にはかつてタリンの港町でジーナ・ラディッシュ中尉から送られた例の黒いランジェリーが絶大な効果を上げたことは言うまでもないであろう……が。

 その二人が華燭の典(かしょくのてん)を挙げるのは1944年5月、あのノルマンディ上陸作戦の一月前である。


 その前にある人物のその後に触れる。

 1944年3月某日、ソビエト連邦ウクライナ共和国の首都キエフの西方、カルパチア山脈を背にしてその裾野に沿うような形で黒海へと流れ行くドニエステル河沿岸の街ホロデンカ近郊。

「まったく、撤退続きでこういう嫌な芸当の腕だけはしっかり上がりやがる」

 冬季用の防寒性能の高いシープスキン製で白色のオーヴァーコートに身を包み、さらに野戦規格帽の下にはグレーのウールニットで編まれたトークンで顔の下半分を被っているドイツ軍将校はこう言いながら塹壕の中で、後送できずに石のように硬くなったウクライナの大地に横臥(おうが)されたままの重傷者一人一人に己が拳銃モーゼルを向けて引き金を引いていった。

 将校は左足を引き摺るようにしながらも、重篤の兵隊の前に移動しては確実に眉間か急所を狙い、このままでは餓死させるかあるいは侵攻してくるソ連軍兵士に殴殺される運命を待つしかない同朋を苦しまないように止めをさしていく。そして最後の重傷者の眉間に弾を撃ち込んだ後に

「シュテルンベルガー大尉殿、生存者の集合完了であります」と、副官の曹長が将校に気をつけのまま報告を入れてきた。

 カール・シュテルンベルガー大尉はモーゼルをホルスターに納めながら

「分かった。クラウス、それと状況はどうか?」と、自らが率いてきた中隊の生き残りを集合させている、塹壕を手広く拡張させた地点に足を向けつつクラウス曹長に問うた。

「悪いニュースが二つ。良いのが一つです」

「悪い方から聞いておこう。……良いのは大したことでも無さそうだしなぁ」

「一つはイワン共は集結を完了したようです。この先の森を抜けた付近に敵戦車一旅団です。そしてもう一つは我々のオットー(燃料)がカンバンです」

「そうか……残ったⅣ号戦車は動けない砲台だな。たった三輌の」

「無いよりはマシです。それで……良いほうの報せですが」

「イワンの補給隊のトラックを一輌、鹵獲(ろかく)しました。糧秣(りょうまつ)を積んでましたよ。ロシア産の乾パンだけでしたが」と連絡事項を伝え終えたクラウスにシュテルンベルガーは

露助(ろすけ)ども(ロシア人の蔑称)の乾パンだぁ!腹ぁ壊すぞ。クラウスそれじゃぁ悪いニュースが三つだよ」と、くすくす笑いながらこぼしたが彼の副官は

「やっぱり無いよりはマシです」全くの無表情で平然と答えるのみ。

 シュテルンベルガーはドイツ海軍との連携による『エニグマ奪回作戦』失敗の責を負われて、一時期には懲罰大隊に編入、降格され閑職に甘んじていたが、1941年6月22日に発動された独ソ戦開始の大花火『バルバロッサ作戦』に従軍、国防軍少尉からの再スタートを余儀なくされた。

 親衛隊、武装SSの士官としての経歴を剥奪(はくだつ)された彼は、この時期を契機にミドルネームのフリードリッヒ及びフォンの称号を捨てた。もっとも彼にしてみれば昔の名前に戻っただけであり、身軽になったようで心地よいと周囲にもらしてはいた。

 独ソ戦においてはルントシュテット旗下南方軍集団に籍を置く彼は、『キエフ包囲攻略戦』から『クリミア半島の戦い』そして運命の『スターリングラードの戦い』等に従軍。”今日こそが最期か!”あるいは”今度の作戦で死ぬのか”と作戦に投入される度に覚悟を決めて、自分から死地を求めて戦い続けて来た。果敢に戦い、多くの村を焼き女、子供であろうと容赦なく駆逐して来たシュテルンベルガーであったが戦線は後退の一途をたどり、遂に彼の中隊は友軍の転進を援護する殿軍(しんがり)にされてしまっていた。

 「傾注しろ(アハトゥンク)戦友諸君(カメラート)、これより我が中隊は遅滞戦闘に移行する」シュテルンベルガーは総勢15名ほどになってしまった指揮下の兵士を集めてから

「年齢が16歳以下の者はいるか?」と、言うと手を上げて二人の兵士が名乗り出た。

「ヨハン・フライターク一等兵とエルンスト・ディンメル二等兵です」クラウスの説明にシュテルンベルガーは二人が携行している自動小銃、パンツァーファウスト対戦車用兵器をそれぞれの足下に下ろさせてから、新めて若い二人を見た。なるほど彼らは屈強な若手の兵士というより少年の、それよりもっとはっきりと子供に分類される顔つきのままで、少年たちにはサイズが大きすぎるヘルメットを押さえては何回も被り直しているのだ。

 シュテルンベルガーはその少年兵の二人にクラウスに用意させておいた食料が詰ったリュックをフライタークに、そして自分の胸の内ポケットから荒紐(あらひも)でくくられた手帳をディンメル二等兵に手渡すと

「これより両名に別命を与える。これをミュンヘンにある国家保安局外事第四局に直接届けろ」と、指令を下すと、二人の少年兵は未だに声変わりすらしていないような甲高い声で

「ハイ!大尉殿」勢いよく白い息を吐き出した。

「必ず、二人でカルパチア山脈を越えてルーマニアとハンガリーを抜けて、ドイツ本国にたどり着け!いいな!イワン共に渡すわけにはいかない重要な情報が書き込まれているんだ」と、 言い含めると彼らだけを回れ右させてから、自分たち残存部隊が背にしているカルパチア山脈の方向に出発させた。

「振り返るな!歩き続けろ」まるで故郷の日曜学校に連れそう兄弟みたいに歩みを進める二人の背中に声をかける大尉に曹長が

「重要な情報ってなんです?」にやにやしながら訊ねるが、そんなクラウスにシュテルンベルガーは

「クラウス、貴様、わかってるくせに……」こう告げてから曹長が自分に差し出した戦利品のロシア産乾パンを二、三個手にとって

「あいつらにはこれからのドイツの再建をまかせる」と、言ってから口の中に放り込んだ。

「彼らは若い……と言うよりガキですからねぇ……我らの食い物はほぼあいつらに持たせましたからこれが最期の食事ってわけです」

「……不味い!セメント食ってるみたいだ」案の定、粗悪な乾パンの出来具合に閉口しながら彼は無理やりそれを飲み込んでから、また去り往く少年兵二人を顧みて

「子供たちこそが未来の全て……か」と、呟く。

「誰の言葉です?」そう問われたシュテルンベルガーの脳裏には、かつて暗号解読機『エニグマ』の争奪をめぐってエストニアで対峙したポーランド海軍の士官の姿が甦っていたが

「……さて、誰だったか……。ようしっ!クラウス、あいつらの露払いだ。行くか!」今、甦った記憶を振り払うようにして、意を決したシュテルンベルガーは、いつも昼頃まで晴れることの無い(もや)の向こうにいるはずのソ連軍の戦車部隊を迎え撃つべく塹壕を飛び出した。手に少年兵が持っていた対戦車用のパンツァーファウストを携えて、靄の中へと突進する大尉とその配下の兵隊たち。

 白い気体のヴェールの向こうから姿は見えずとも明らかに履帯(りたい)が大地をかきむしりながら突き進んでくる音が近づいてくるのが分かった。その数は彼らの行く手、全ての方向から這い出る隙間も無いほどにその場の空気を不気味に振動させている。

 シュテルンベルガーは身を低くして左脚を引き摺りながらも器用に駆け抜ける。これまで常に自分の胸ポケットに常備させていたニーナ嬢からもらった恥ずかしい部位の体毛が弾除けになると信じられているお守りにそっと手を当ててから

「ニーナちゃんよ、これまでは効果覿面(こうかてきめん)のお守りだったが今回は無理っぽいぜ」と、一度苦笑いをして見せてからその場に伏せて、(かすみ)のカーテンを押し破って目の前十数メートルまで肉迫してきたソ連軍の量産型中戦車T-34の幅広い履帯にパンツァーファウストを放った。大昔の原始人が使っていた棍棒かあるいは椰子の実に似たような形をした炸薬の詰った弾頭部が白煙を上げて目標に命中。その一撃でT-34は走行不能に陥ってしまい中からソ連兵がロシア語の悪態をつきながら飛び出てきて脱出を図るが、そうはさせじとクラウスが自動小銃の弾をそいつらに見舞った。だが、やはり多勢に無勢、劣勢は(くつがえ)らずにまた一人、一人とドイツ兵は討ち取られていった。遂にはクラウス曹長が斃れ、そしてシュテルンベルガーも右腕と、もともとあの海峡水域の戦いで負傷してびっこを引いていた左脚を機銃弾で吹き飛ばされてウクライナの大地に仰向けに倒れた。

 一時その衝撃で気を失ったシュテルンベルガーが再び目を開けたとき、彼は眼前に不思議な光景を目の当たりにした。もはや血だるまで横たわる大尉の顔をしゃがんでのぞき込む黒髪をウールのショールで頬かむりしている女の子がいたのだ。

 その子はおでこが広くて眉毛が少し太めで鼻水をすすりながらこう言ったのだ。

「カールお兄ぃ起きれぇ!教会さ行って復活祭のお菓子もらいにいくべよぉ」

「……レイチェル……。おめぇこのバァカ!もうちっとおっぱいでっかくなった頃の姿で迎えに来い……よなぁ」最早顔すら動かす事もままならぬシュテルンベルガーは消え入るような声でうわ言を口にするのみ。その頬を、彼の記憶の中では9歳頃であろう幼馴染のレイチェルはミトンの手袋ではさんでは揺すっている。

「なぁレイチェル……。オレが欲しかったものはたった一つの事だけだった。それすら手に入らないクソみたいな時代と世間へのこれがオレの復讐だ……。決して後悔なんざしちゃいない。全てオレ自身が望んだ闘争だった。……もし仮に、また人間に生まれ変われたとしても今と同じような時代に生まれついたのなら、オレはまた存分にやるだけだ……。本を、人を、街を怨嗟の炎で焼くのさ。何も変わらない!変えさせるものかよ……」

 カール・シュテルンベルガーの腹心を布く述懐にも、レイチェルは全く意に介さずに円らな黒い瞳で彼の顔をじっと見つめるのみ……。やがて

「カールお兄ぃ、オレ、先に行くでぇなぁ」こう言うとレイチェルは立ち上がり、ソ連軍がやって来た森の奥へと向って走り出した。薄れいく意識の中でシュテルンベルガーは更に不思議な、彼女を追っていく自分の子供時代の背中を見たのだった。その自分は冬着の着膨れたままでレイチェルを追いながら

「バカ、レイチェルゥーッ。おめぇ走ると転んですぐ泣くべぇ手ぇ繋げよぉ」こう言いながらその姿は靄の向こうに走りながら薄れて見えなくなった。それは彼が完全に目を閉じてしまったのとほぼ同時であった。

 カール・シュテルンベルガーの遺体は、多くの独ソ戦で亡くなった両軍の兵士たち同様に回収されることはなかった。

 彼の遺骨は未だにウクライナの広大な原野のどこかに転がっているのかもしれない。


 「ねぇ、あと一月でさぁ有名な『ジューン・ブライド』になるってのに何で5月に結婚式をあげるのよ?」こう言って、隣に佇む16歳になったレオン・ヴィンデル青年に訊ねたのは11歳を迎えたアンナ・コヴァルチェクの名前を改めたアンナ・コヴァルスカヤであった。

「そりゃぁお前、聴いた話だけど6月か7月によぉ、いよいよ連合軍の大攻勢が、ドーヴァー海峡を渡るフランスへの大規模な上陸作戦が発動されるらしい。ここだけじゃねえ、あちこちの教会じゃ駆け込み挙式で予約が一杯みたいだぜ」アンナに耳打ちするレオン。

 既に背丈が養父で後見人のアレクサンデルに届かんばかりに伸びた褐色の肌をもつトルコ系青年は、この日に向けた精一杯のお洒落をしてこの挙式に望んでいた。明るいラメの入ったグレーのタキシード姿に黒の蝶ネクタイ。髪はきれいに刈り上げて整髪油(ポマード)でキッチリ七三に分けている。そして何よりアンナの目が注がれているのが、最近やっとイギリスで公開され始めたアメリカのハリウッド映画『風と共に去りぬ』に登場する俳優クラーク・ゲーブルばりの鼻ヒゲであった。

 レオンは列席者の自分と年齢が近い女の子を見かけると白い歯を見せては”どうよ”とばかりに爽やかなあくまで本人が考えているダンディで素敵な笑顔を振舞うが相手は怪訝な顔を見せて”何?この人”と距離をとろうとするばかりだった。

 アンナは礼式用で明るい菜の花色のフォーマルなドレス姿。背中まで伸びたつやのある黒髪を今日はアップにしてまとめ上げている。胸元には近所に住むお姉さんから借りてきた真珠のネックレス。肘まで伸びる白いレースの手袋をしている。アンナもぐっと背が伸びてレオンの肩ぐらいまでの身長になっていた。11歳にしてはやや大柄で、もうすっかりレディであり後ろ姿から見えるうなじからは女の色気を(ほの)かに(にじ)ませているのだった。

 このロンドン郊外の衛星都市の一つにある最も平均的なこの教会(チャペル)には、アンナとレオンが想像もできないほどの参列者が集っていた。半分は養父アレクサンデルが籍を置く亡命ポーランド海軍省の関係者だろうが、それ以外にも同じポーランドからの亡命者たちの家族が列席して、オルフェウス号に乗り組んでいた水兵たちも参列してくれたりしていた。中には近所に住んでいるだけのじいさん、ばあさんたちが”戦争の話題ばかりでうんざりだ”とばかりに、華やいだ目出度い式典に勝手に参加して座をしめているケースもあった。

 そんな中でアンナは自分と兄妹のようにしてこれまで過ごしてきたレオンの格好を、足先から頭のてっぺんまで眺めてから

「一言いってもいいですか?」と聞いた。レオンはまた気さくな感じを演出して”どうぞ”と気取った身振りだけでしめすのだが、アンナはそれに少しイラッときて

「レーオーン!おめぇ似合わねぇから、そのヒゲ剃れ!マジウッぜぇ」と、言い放つと返す刀でレオンが

「うっせぇ!チビ助じゃねえ、こんのデブぅ」日頃気にしている自分の成長具合を引き合いに出されたアンナは指輪をしている方の手で思いっきりレオンにボディブローをかました。

 レオンとアンナは最前列に近い親族用の長椅子に座を占めていたのだが、そんな二人の周囲からは列席者たちが”コレッ!もうそろそろだよ”とひとさし指を口の前に立たせて掴み合いを始めそうな二人に注意した。

 やがて教会の鐘が式典開始の合図を参列者に報せると、一同はたった今開かれたエントランスの大扉へ一斉に視線を注いだ。春の穏やかな光と共にエントランスから、一陣の風のはからいで新緑の清々しい香りがチャペルの隅々にまで届けられた。その柔らかな光を背にした花嫁とその父の姿に一同は息を呑み、また口々に静かな喝采を上げた。

 神父様が控えている講壇までの赤絨毯の上を静々と進む花嫁衣裳のマリアと義父アレクサンデル。マリアは純白を基調としたウェディングドレスにレース状のベールを(まと)い、(あで)やかな金髪をアップにして、宝石を散りばめたシルバーのヘッドドレス。肘まで丈のあるレース地の手袋で、父の肘に手を添えてやや目を伏せている。

 アレクサンデルはポーランド海軍の正式な礼服姿で紺色を基調としたダブルブレストの立て襟タイプの上着。肩部には金のモールにオレンジのサッシュ(飾り帯)を(たすき)掛けに、ズボンのサイドには2本の朱色のストライプ。儀礼用のサーベルをつけて派手に飾り立てていた。

 親族席の二人は参列者席の中央をゆっくり祭壇に向って歩みを進める二人に、アンナはこみ上げて来る感情を抑えきれずに目に涙を浮かべて

「マリア姉さん、姉さん……すっごい綺麗だぁ」を繰り返した。レオンも少し目を伏せては悔しそうに唇を噛んで

「フィリプに、あいつに今日のマリア(ねえ)の晴れ姿を見せてやりたかった」彼はわざと天井に顔を上げて天使と聖母マリアが描かれた絵画を潤む目で見つめていた。

 彼らと共にポーランドからの脱出を果たしたフィリプ・コスコウキ少年はイギリスに移ってからしばらくして、肺結核を患い、長い闘病生活の果てにこの半年前に亡くなっていた。マリアはオルフェウス号の艦長室でフィリプが長く滞在していた事で、結核が伝染(うつっ)たのだと、自分がもっと心配りをしておけば良かったのだと悔いては泣いた。

「別にフィリプの病気はマリア姉の所為じゃねえのに、姐御は挙式を今日まで半年近く延期したんだよなぁ……」

「そこがマリア姉さんらしい所じゃないの」アンナはそう言うと、挙式前にマリアから預かっていたモニカの遺品のメガネをかけて

「モニカァ……天国から見ててねぇ。マリアはお嫁さんだよ……素敵でしょう」

 二人の前を頬をピンクに染めたマリア・コヴァルスカヤとその父が新郎の待つ講壇のほうへと進んでいく。アンナとレオンは新郎であるイギリス海軍中尉フランツ・ヴァノックを見受けた途端に別の意味で感情を大いに揺さぶられた。

 連合艦隊(グランド・フリート)の白を基調とした典礼用の制服に花嫁の父と同じように腰に儀仗用のサーベルを携えて新婦を待ち受ける新郎フランツはガチガチに緊張していて、背筋以外に、手足の関節にまで鉄筋が入ってしまっている彫像みたいに立ち竦んでいるフランツの顔にもレオンと同じようなヒゲがあった。その姿にレオンとアンナは”ぷふっ”と思わず噴出して

「フランツ兄やん……ヒゲ、似合わねぇー」と、周りを気にしながらも小声で呟きながら背中を丸めているレオンにアンナが

「お、お前が言うじゃねえよぉ……」と切り返してやったのだった。

 そんな二人にはお構い無しに挙式は坦々と、結婚の宣誓、指輪の交換へと進み誓いの接吻でクライマックスを迎え、参列者は拍手でこの新しい夫婦を歓迎したのだった。

「マリア、この前オレが話したこと、考えておいてくれた?」結婚式の大一番を無事に終えたことで、少し緊張の緩んだフランツが、碧く潤んだ瞳を自分に向けている新妻に問うた。新婦のマリアはレースの手袋で覆われた両手を、今日より自分の夫となる男の頬に添えて

「私の目の手術のこと……?目が見えるようになる可能性があるって言うんでしょう?」と、微笑みつつ返答をはぐらかしては人差し指で夫のヒゲを優しくなぞってから

「やっぱり、止めておくわ。理由は二つです」”何か”と夫から問われた彼女は

「一つ目はね、これからずーっといつでも、何処に行くでもあなたの腕につかまって生きていける。そんな素敵な口実を失くしたくないからなの」そしてマリアはゆっくりと両の手で彼の鼻筋と唇を指でなぞりながらこう締めくくったのだ。

「もう一つはね……あなたの本当の顔を見ちゃったら、多分あたし……ガッカリしちゃうと思うのよねぇ」

 その後すぐにマリアは幸せに満ちた笑みを(たた)えながら夫が抗弁できないように自分から首っ玉にしがみ付いて彼の唇を塞いでしまった。

 この日よりヴァノック姓を名乗ったマリアと夫フランツはこの後も仲睦まじく過ごし、一女を得た。そして二人と小さい愛の結晶セアラと名付けられた赤子は無事、1945年5月7日の大戦終結の日を迎えることができた。がしかし、二人の故郷であるポーランドは終戦後であるにも拘わらず、かの地に居座り続けた”赤い帝国”の軍隊に牛耳られて次の『冷戦時代』における最前線基地とされてしまい、遂に故郷への帰還は果たせずじまいとなってしまった。

 レオン・ヴィンデル少年は、終戦後二十歳を迎えるとすぐに、予てからの彼自身の夢である”馬主”になることを実現すべく勇躍、単身渡米したがその数年後には、マリアたちとの音信がふっつりと途切れてしまい、以後の消息は(よう)として知れないままとなった。

 アンナ・コヴァルスカヤはその後もイギリスに留まり、ヴァノック夫妻の子供セアラの面倒を、やはり盲目で子育てが難しい義姉マリアを助けて「子育て実習です!」とばかりに甲斐甲斐しく世話を焼き、二人で子育てに奮闘して日々を過ごし、戦後の大変な時期を新たな家族と乗り切った。やがてセアラ自身があまり手が掛からなくなる年頃になると、アンナはマリアの夫と義父アレクサンデルが

「いったいどこが気に入ったんだ?」と、首を傾げたくなるほどに、若いがハゲでメガネの何とも風采の上がらないユダヤ人である税理士の男と結婚した。アンナは大意張りで胸をはり

「真面目で実直なのが一番!」と言い切って1950年代になってから、夫婦してユダヤ人によって建国された中東のイスラエルに移住した。

 かつてのポーランド海軍の士官、もう存在すら抹消された潜水艦オルフェウス号の艦長であったアレクサンデル・コヴァルスキ少佐は戦後も亡命ポーランド政府が存続する間は実直に海軍省に籍を置いたが、後にイギリス海軍に移籍した。彼自身も40代になってからイギリス在住のポーランド女性と再婚したが、50代を前にして不毛な結婚生活に終止符を打った。

「もう、結婚なぞするものか!」と、豪語した彼はその後はヴァノック夫妻のすぐ隣に居を構えて、アンナと同じように義理の娘の世話を焼いたのである。彼にしてみれば血は繋がっていないが、孫と言って差し支えないセアラからは

「じぃじ、じぃじ」と、呼ばれてよくなつかれたものである。

 アレクサンデルはよく晴れた休日には自宅の庭先にあるガーデンチェアにセアラを膝に乗せて、指をくわえてうとうとしている孫に、彼女の母親が花嫁姿で教会の園庭にて開かれたささやかな披露宴のことを話して聞かせていた。

「あの日はなぁ、やけに雲雀(ひばり)がいっぱい飛んでてなぁ……。そこいら中でピーチク、パーチク騒がしいんだよ。園庭にある樫の木の枝にもいっぱい並んでいやがるんだ……。オレはなぁ、あれはみんなが雲雀(スカイラーク)になってマリアの結婚式に参列しに来たんだと思ってる。……ヤン、レフ、それにヴォイチェフ……そしてモニカとフィリプもな……そうに違いないよ」

 アレクサンデルはこの話とかつての海軍時代に潜水艦オルフェウス号と共にバルト海を押し渡った話をセアラが膝に乗らなくなると飼い猫を乗せてみたり、セアラの子供たち、ひ孫を抱っこしては、昔語りを聞かせてみたが、セアラとその子供たちには老人のホラ話としか受け止めては貰えなかった。

 そんなアレクサンデル・コヴァルスキィ元海軍少佐がガーデンチェアでまるで昼寝しているかのような格好のまま亡くなっているのが発見されたのは1976年5月19日の昼下がりのことだった。享年71歳であった。

 この日も何故か、彼とマリアの住居の周囲にはたくさんの雲雀(スカイラーク)が飛来して来ては、代わる代わる、互いに遊んでいるかのように(さえず)りながらどこまでも碧い空を、上空の雲の峰々を目指して高く高く昇っていく様を壮年を迎えたヴァノック夫妻が手を繋いでいつまでも眺めていたと、娘のセアラは永らく記憶に止めていた。

 

 

 

 

 


お暑い日が続いております。梶 一誠でございます。今年四月から連載させていただきました『オルフェウス号の伝説』は今回で最終回となります。これまでこんな素人の拙い作品に目を通して下さった方々に御礼申し上げます。まことにありがとうございました。

 本来なら原稿用紙400枚~450枚くらいでまとめ上げるつもりが、終わってみれば600枚を越えてました。もっと削れる部分もあったのではないか、話が冗長になってしまっている箇所もあったのではないかと反省しきりであります。

 読んでくださった皆様にもここが変だとか、あるいは間違っているんじゃねえ?といったツッコミ所も多々あったとは思いますが、その点も反省しつつ今後も精進していきたいと考えております。

第二次大戦を舞台にした歴史小説ですがハンディキャップを負った子供たちを物語上でどうとらえるか、または人種差別とその残忍な暴力描写、ホロコーストに関する扱いも慎重に考えなくてはならず、パソコンを前にして悩んだ事もありました……。でも、そういった子供たちだって健常者と変わらず、自己主張して堂々と胸張って生きていっていいんだ。自分のやれる所で自分なりに頑張ればいいんだってことが、主人公マリアやアンナたちの活躍から読者さまたちに少しでも伝わればいいな……と思っております。

 くり返しになりますがこの作品を読んでくださった皆様に心より御礼申しあげます。ありがとうございました。

 次回作はどうするかまだ模索中ですが、また梶 一誠の作品を見かけましたらちょろっと覗いてくださると光栄でございます。

まだまだ暑い日が続きそうです。皆様におかれましては熱中症には充分お気をつけくださいませ。わたし七月に一度、ぶっ倒れましたから……。それでは失礼いたします。梶 一誠でございました。

 

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