光の海へ
1939年10月2日、日付が変わって間もない深夜帯の時間に、後年、第二次世界大戦が勃発したと日として記憶される9月1日を契機に故国であるポーランドを脱出してバルト海を彷徨い、ドイツ海軍のUボートの追撃を受け遂にその妨害を実力で阻止した潜水艦オルフェウス号は、ようやくイギリス海軍が制海権を有する勢力圏内への進入を果たした。
実質的な敵性海軍の妨害は考慮せずとも良いのだから、昼間でも堂々とカテガット海峡、スカゲラック海峡とデンマークとスウェーデンの勢力圏を航行し続けても問題はないのであったが、この艦の艦長と士官及び乗組員たちに加え、14歳の少女を筆頭にした4人の子供たちのチームを伴ったこの奇妙な共同体は艱難辛苦を乗り越えて旅を続けてきた経験からか、あくまで慎重に昼間は潜航するか、あるいは海底に鎮座して他国の艦艇との接触を避け、夜陰に乗じて浮上航行を敢行。距離を稼ぐといった行動を徹底して続けていた。
これは彼らにしてみれば、上空を飛ぶ航空機は中立国だろうが敵であろうが、こちらの存在を知られない方策を採った方が万全であろうとの判断であったからだ。その入念な行動計画のおかげで彼らは遂にここまでどの国の艦艇や航空機にも発見されたり、または臨検等の妨げを受けることなく当初の目的にずい分と近づくことが可能となったのである。
「子供たちは?」副長で先任士官であるヤン・レヴァンドフスキィ大尉は自分と同じ深夜の当直に就いている航海長のレフ・パイセッキー中尉に訊ねると
「もう、四人ともぐっすりですよ。アンナちゃんは艦長と同じ寝棚で添い寝してもらってますし、もう本当の親子みたいですよ」と、彼はフィリプ・コスコウスキ少年の特殊な能力と言っても過言ではない、集中力と記憶を元に書き表された、復元の手書き海図『北海海域全図』に目を落としながらのんびりと間延びした口調で答えた。
つい10日ほど前は抑留されかけたエストニアのタリン港からの脱出を成功させ、デンマーク近海の海峡水域においてはUボートとの死闘を掻い潜って以来、ここ数日でやっとこの潜水艦内の勤務シフトと生活全般が安定してきた所だった。
艦長アレクサンデル・コヴァルスキ少佐と機関長ヤロスロフ・ハスハーゲン中尉が日中勤務の責任者としてシフトを受け持った。子供たちはそれぞれに、マリアは潜航時の聴音を担当して配置についた。アンナ・コヴァルチェクはタリン港での戦闘で亡くなってしまったモニカ・カミンスカヤの代わりに料理担当のダミアン主計長の下でじゃがいもの皮むきやら下ごしらえに精を出していたし、レオン・ヴィンデル少年もまた、機関区と甲板関係の作業の手伝いにいつも駆り出されて、休む暇もないくらいに働いていた。
ただ一人、マイペースというかそういう行動しかとることのできない症例のフィリプ・コスコウスキだけは彼独自の仕事、記憶を下にした復元海図の手書き作業を日中じっくり取り組ませた。彼はタリン港とバルト海脱出の際に書き溜めてあった手書き海図以外のタイプに関する海図の詳細も記憶に留めており目下、それに没頭中であった。
「フィリプは最近、やけに咳き込んでいることがあるってマリアが気に掛けていたっけなぁ」副長のヤンは日中組との勤務交代の際にマリアが何気なくこぼした内容を回想しながら、そのフィリプの最新作『北海海域全図』を見ながら呟いたのちに
「そろそろ、イギリス海軍とポーランド亡命政府関係者とのコンタクトを採る方法を考えないと……な。なぁレフ」
「もう、ここまで来たんなら大手を振って『ポーランドから脱出してきました』ってイギリス海軍の艦艇に名乗り出たって構いませんでしょう?」
「明日からは、昼間も潜航せずに艦橋から偵察機に愛想よく手を振るとするか?」
二人は顔を見合わせて互いにそのまま穏やかに微笑んでから
「そうなると……子供たちともお別れかぁ」ヤンが司令塔の更に上の艦橋の方を見やってから感慨深げにしんみりしていると
「その方が健全ですって。こんな所でいつまでも置いとけませんや。もっともアイツはかなり焦れていますがね……」と、レフはヤンと同じ方向に顔を上げた。
「定時連絡です。周囲に艦影ナシ!現海域には我々だけです」発令所の伝声管から、現在艦橋にて監視任務に就いているフランツ・ヴァノック一等兵曹が見張り当直の結果を報告してきた。
「宜しい、フランツ。貴様、ちゃんとそこにいたか?」
「何です?仕事してますよ。真面目に」ヤンとフランツは伝声管を通して会話を続けた。
「てっきり、マリアの寝棚に潜りこんでいるのかと……」ヤンがフランツをからかうと、レフが海図に自艦の位置を書き込みながら背中を丸めて笑っている。
「……よして下さいよ。副長……」ヤンは、フランツがむきになって食ってかかってくればマリアとのネタで少し弄ってやろうかと思っていたのだが、存外この若者はすっかり意気消沈した風で、その後は何も言って来ないまま沈黙を守っている。
「どうしたんだ?アイツは?」と、ヤンはレフにフランツの”食いつき”の悪さについて訊ねるが
「なんだか、マリアちゃんと微妙なんですよ、アイツは、だからさっきから焦れてるって言ったじゃないですか」レフは自分が使う三角定規の角で呑気に背中を掻くばかりであった。
10月と言えば、極東地域の島国に住まう民族であれば一年の中でも気候的に穏やかで、春先から手入れしてきた農作物の収穫とその豊かな実りにほくそ笑む時節であろうが、このヨーロッパ北方の海域では既に厳しい冬の訪れの兆しが顕著になって来ていた。漆黒ばかりが幅を利かす深夜の空から、東雲の群青色に移りつつある今のような時間帯では冬用の分厚いコートが必要になって来ていた。吐く息も充分に白くなってきている。
フランツ・ヴァノック一等兵曹は、つい先刻異常なしとの報告を入れたクロメート鍍金製の伝声管を見つめながら大きく一つ溜め息をついた。
「アイツの事なんか知るかよ!」そう言うなり、フランツは視線を自分の担当哨戒区域に双眼鏡を向けた。夜勤の勤務帯となると潜水艦は浮上航行を持続するために、彼が聴音機に貼り付いている必要性は必然的に下がる。故に、こうして同じ任務につく水兵二名と艦橋に上がって周囲の監視と索敵に時間の多くを費やす場合が多くなっていた。
フランツはオルフェウス号の進行方向である北西方向を正面に捉えて、漆黒の海原とほんのり紺碧に変わりつつある空と水平線の境界に意識を集中させようとするが、ここ数日のマリアとの気まずいと言うかある意味、目聡く彼女から拒否されているような態度の変化に戸惑いを隠せずにいた。
何か自分の態度と言動がいたくマリアの勘に触ったのか、それとも彼女の恋愛対象が他の男性に移ってしまったのか、何をどうアプローチしようともマリアは自分と距離を置こうと態度を硬化させるばかりで、順調ならあと数日航海を続ければ確実にイギリス側とのコンタクトに成功することは疑いの余地はない。ともすればその日を境に彼女とのこれまでの、自分が描いてきた将来を含めた関係性が雲散霧消してしまうかもしれないとの焦りがいっそう、この青年の心をかき乱す要因であったのだ。
フランツは今一度、苛立たしく口の中で誰にも勘付かれないように悪態を口にすると、双眼鏡を顔に当ててみたが、また数分もしない内に心此処にあらずで邪推が脳裏をよぎる。
マリアは何かと言うと艦長のアレクサンデル・コヴァルスキ少佐に近づき、腕を取り笑顔を振りまくのを彼は記憶に焼き付けていた。
「アイツはあのオッサンと……」と、彼女はもう既に、年齢は離れてはいるが未だに将来性豊かな成人男性に、若い身と心を委ねる決断を下してしまったのかと、彼自身は何とも煮え切らないこの時期の青年が勝手に心の中に抱く性質の悪い澱のようなどす黒い情念に取り付かれてしまっていた。
そんなある意味身勝手でお荷物的は情念は、同僚水兵の
「右舷に艦影あり!」の報告によって強制的に心の奥にしまい込んでおくしかなくなった。
艦橋から発令所へ伝達された新たな状況の変化にオルフェウス号の乗組員は素早く対応して、”総員起こし”の態勢で望んだ。ものの数分で発令所には艦長のアレクサンデルと機関長が配置に就き、マリアも聴音機の前に陣取った。
「正念場だな……」開口一番アレクサンデルが言うのを、黙って副長は頷いた。
「艦橋へ、状況知らせ!」
「03:20、10時方向に艦影を発見!所属は不明。艦級はフリゲートクラス。民間船にあらず」伝声管を通じてその場の班長たるフランツ・ヴァノックが応答してきた。
「対象艦艇はこっちに気付いたか?」
「コンタクト無し!針路は以前2-5-0を維持。速度の変更認められず、灯火管制中と思われます」
所属不明の艦艇はこちらの左舷側を斜めに交錯する針路を取りつつ接近中であり、こちらの存在を認識してはいない。己が存在を夜の闇に紛らせたまま航行中であるとの的確な索敵結果を報告して
きたフランツにアレクサンデルは
「信号弾用意!」と、艦橋へ指令を発した。
「いきなりか!距離を取りつつ様子を見ては?」副長のヤンが意見具申するも艦長は首を振り
「遅かれ早かれ、コンタクトを取らなければ事態の打開は見込めん!やってみよう」この決断にヤンが了承の意で口を噤むと
「対象艦、灯火管制解除!クソっサーチライトを浴びせてきました」外部の状況の変化を具に通達してくるフランツにアレクサンデルは次の行動を指図した。
「発光信号送れ!内容は以下の通りとせよ」
フランツ・ヴァノック一等兵曹は艦橋の内壁にフック掛けされている発光信号機を手に取り、艦長アレクサンデル・コヴァルスキ少佐の口述による文面をイギリス海軍所属と思しき艦艇に向けて通信を開始した。
『我、ポーランド海軍オルフェウス。コンタクトを求む。我、貴国への亡命を企図するもの也』フランツは手元のスイッチを交互にオン、オフをくり返し発光信号を送った。信号は都合二回送られた。
彼我の距離はいまだに1,000メートル近くの隔たりがあった。フランツは目を皿のようにさせてフリゲート艦の返信を待ったが、向こうは不仕付けなサーチライトを無造作に切った後はこちらの存在をまるで無視したように行き脚を緩めず、舳先から白波を立てている。
発令所では皆が息を潜めて相手の返答を待った。ディーゼルエンジンを停止させて、波間に船体を漂わせるのに任せていると、やけに大きく波が船体に打ち付ける音だけが狭い艦内にまで伝わってくるのだった。
ほんの数分の待機が既に一時間も経過したくらいに感じ始めた頃、ふいに伝声管から
「警報!……」フランツの叫びはここで途切れて
「フリゲート艦、発砲!ヴァノック兵曹負傷!繰り返す発砲!発砲!」代わりの水兵が艦橋で声を震わせている。すぐにオルフェウス号の周囲にフリゲート艦から打ち込まれた至近弾によって水柱が上がり始めた。
「急速潜航!深度70へ。急げぇ面舵一杯!」この号令によってオルフェウス号は舳先から海中へと没し始めた。艦橋から司令塔、そして発令所へと、負傷したフランツ・ヴァノック一等兵曹を抱え込んできた水兵二人が頭上の水密ハッチを閉鎖しながら降りてきた。
二人の報告によれば、フリゲート艦は主砲を発砲と同時に機銃をも正射して、フランツはその機銃弾によって右足の膝下、ふくらはぎの部位を射抜かれていた。
「跳弾です。艦橋付近に命中した機銃弾が内部で跳ねてフランツはやられました。直撃なら足が吹っ飛ばされてる」と、艦長に顛末を説明すると、苦悶の表情に加え痛みに耐えかねて喚き散らすフランツ青年を、とりあえずは機関区前の兵員室に収容、治療を施すべく運び出した。
マリアは”負傷”の言葉を耳にした瞬間から聴音機の前から飛び出した。彼女はアンナのエスコートも無しに周囲の配管やらコードの束といった耐圧隔壁の内側に走る物をつかんでは、横歩きになってたどたどしい足取りで泣き叫ぶ彼の声を必死に追った。
人にぶつかれば押しのけて、足がつまずくのもお構いなし、フランツの喘ぐ声だけを頼りにマリアは己が手を空中に泳がせて
「な、何で撃たれるの?どうしてぇ?助けてくれるんじゃなかったの?ハックスリーさん!」高熱にうなされてうわ言を口にする病人のように、自分たちがグダンスク市にいる頃に、この脱出計画を企図した人物の名をくり返し呼んだ。発令所を一人で抜け出ようとすると、アレクサンデルが彼女の腕をつかみ、まずは落ち着かせようと声をかけるもののマリアはすっかり動転して
「離してぇ!フランツゥー!フーラーンツ!イヤァァァァー!!」艦内中に響き渡る狂気をはらんだ絶叫を上げた。
非情な海上の艦艇は彼女の叫びをソナーで感知したのであろうか避退行動をとる潜水艦オルフェウス号の真上に圧し掛かるようにして接近、アレクサンデル、マリアたちの頭上に二軸のスクリュー音を残した後に爆雷を投下していった。
潜航後、オルフェウス号は何度かの爆雷攻撃を受けたが、何とかそれを掻い潜った。時刻は04:10。ただ通常の哨戒任務のように厄介な相手の索敵をごまかして尻尾を巻いて海底の深淵に逃れるわけにはいかなかった。燃料はもう残り少ないし耐圧船殻他、各部の損傷もドック入りしての補修を必要としていた。
それに何とか接触を試みてこちらの立場と亡命の意図を汲み取ってもらうしか手がないことには変わりはないのだった。オルフェウスとその乗組員、『エニグマ』を携えた子供たちの決死行の終点は一つしかないのだから……。
「どうやら間違いはないようだ。イギリス海軍の標準的なC級駆逐艦だな……さて、どうするか?」アレクサンデルは今、現在使用可能な探索用潜望鏡を覗いてこちらに攻撃を仕掛けてきた相手の艦影を基に艦種を割り出したものの、相手はまだこちらの捜索を諦めようとはしていなかった。
艦長と先任士官の二人は発令所のすぐ上、司令塔内にあった。互いに潜望鏡に備え付けられた椅子に腰掛けている。
探信音波を放つC級駆逐艦は周辺海域を遊弋して潜水艦を海中から焙り出すことに余念がない。連中は未だにこちらの尻尾をつかみきれてはいないようだが、それも時間の問題であった。
「どうするか……って腹は決まっているのだろう?」ヤン・レヴァンドフスキィ大尉の視線はまっすぐ親友にして尊敬する上官の顔を真正面に捉えていた。
「ヤン、残念だがオレ達はレースに負けたらしい……な」アレクサンデルはUボートとの決戦の前に彼から渡された紙片を胸ポケットから取り出した。
「……そして、オレ達は目立ちすぎたんだ。別の『エニグマ』がもう一つの陸路のコースで、恐らくはバルカン半島を横断してスイスへ抜けてから、フランス当局かあるいはイギリス本土の関連施設に到着したんだろう」
「うむ。この歓迎の挨拶が答えだ……。という事は我々の役目は……」アレクサンデルは再度、紙片に書かれてある内容に目を通してから
「対ドイツ軍への欺瞞工作のために、このオルフェウス号は沈んでしまわなければならない……。『エニグマ』本体とその証拠の全てと供に……。それを見た我々の存在も含めてだ」
「……子供たちも一緒に……か?クソッ」ヤンはもう使い物にならなくなった雷撃用の潜望鏡ポストを平手で叩いた。
「それだけはさせん!……絶対にあの子たちだけは助ける!」己が固い決意を述べたあとに、アレクサンデルは永年、海軍の同じ釜の飯を食った友人の前に決然と立ち上がった。ヤンも無言で彼の決意に頷いて同意した。
「マリアと子供たちの所へ行こう……。よく言い含めておかなくては」
「銃創は貫通しています。あと数時間のうちに出血が止まればよいのですが……。出来れば数日のうちに上陸して治療をうけさせませんと、壊疽をおこせば右足を切断ってことにもなりかねません」負傷したフランツ・ヴァノックの応急処置を担当した軍医代わりの衛生兵はこう兵員室に集まった、艦長他の士官に患者の状況を報告したあと、彼が処置を施していた間にフランツに寄り添い声を掛け続けていたマリアに清潔なミネラル・ウォーターの瓶を手渡すと
「飲ませてあげてね」と、言ってその場を辞去していった。
「結局……わたしたちは”囮”だったと言う事なんですね?初めからトマス・ハックスリーさんも騙されていたってことですか?」 マリアは手持ちの衛生的なタオルで脂汗だらけにしているフランツの首筋から顔までを拭いながら、アレクサンデルに問うた。
「そうとは……限らない。クナイゼル艦長の残した我が情報部からの報告書ではどちらを活かすのか、または囮として扱うのかと言う決定は成されてはいないんだよ……」
「すみません……。もう一度お願いできませんか?」マリアは今一度の説明をアレクサンデルに求めた。彼女はいつもの様に盲いた眼を艦長の声がする方向に向けたが視線その物はあらぬ方角に注がれてしまっている。
アレクサンデルがマリアにもたらした情報部の報告書の内容は以下のようになる。
ドイツ軍によるポーランド侵攻の可能性が顕著になりはじめた8月の初旬に脱出計画は企図された。その時点でワルシャワの暗号解読の研究機関に完成していた『エニグマ』の模造品は合計3基。その内1基はドイツ軍の侵攻が開始された時点で研究機関内において電算解読機『ボンバ』本体と供にブラフとして火事を装い破却される予定となった。残り2基の内、1基はイギリス情報部のメンバーであり研究員の一人でもある、トマス・ハックスリー氏の手によって海路の脱出コースを。彼は単身でワルシャワを脱出して反ナチを標榜するヨブ・コヴァルチェク神父の協力を仰ぐべく、バルト海に面するグダンスク市を目指した。目的地はイギリス本土ロンドン郊外にある秘密研究機関、ブレッチェリーパーク。その後はマリアたちと行動を共にしたのは前述の通り。
あと1基はポーランド人数学者の家族と研究員の家族が一つのチームとして陸路でフランスを目指すコースを取った。西へ向けてドイツ国内を列車で通過するなどはできるはずも無く、彼らは国内のパルチザンの協力の下でひたすら山路を辿り、スロヴァキア、ハンガリー、ルーマニア国境を抜けてからバルカン半島へと、そこからは海路でイタリア海軍の探索の網を逃れて地中海をフランスへ向けての、こちらも決死の強行軍となった。
報告書にはどちらかの1基が連合国側の手に委ねられた時点で、もう一つの『エニグマ』の存在は抹消されなければならないとあった。この暗号解読機を入手した後の連合国情報部の懸念はたった一つの事に絞られる。ドイツ側に『エニグマ』が敵に渡ってしまったという事実を徹底的に秘匿して、ドイツ軍情報部が『エニグマ』本体の改造、改編を行なってしまいせっかく手に入れた暗号解読機の能力が失われてしまうのを防ぐという、この一点にあったのだ。
故に遅れたもう一つのエニグマは”囮”として、ドイツ軍その物によって破壊されるか、あるいは秘密裏に連合国側の手によって抹殺される運命が待つこととなる。
「……だから、前の艦長さんクナイゼル中佐は、わたしたちをスウェーデンのストックホルムで降ろそうとしたんですね?」一通りの説明の後のこのマリアからの質問に
「そう……!艦長も当初は『エニグマ』を持ってバルト海を脱出することを選択したが、誤算が生じたんだ」と、俯きかげんに答えるアレクサンデル。
「……!?わたしたちが乗りこんでしまったこと……」彼はこの言にも微かに頷いて
「そして、君たちを追っているUボートの存在を知ったことで、クナイゼル中佐は君たちを何としても中立国で離艦させてオレ達だけでドイツ軍を引き付けて暴れるだけ暴れて、あの『エニグマ』と共に沈む覚悟だったんだ」、「オレがこの事実を……。クナイゼル中佐が情報部から受け取り、艦長権限においてのみ通達された司令部からのこの秘匿命令の存在を知ったのも……つい最近なんだ」こうアレクサンデルは結んだ後に
「オレ達はいわば目立ちすぎたんだよ。タリンでも、海峡水域でもドイツ軍側の妨害を排除してきた。奴らは未だにこのオルフェウスを追っているはずなんだ……マリア」こう付け加えたのはヤン。
「故に、オレ達のオルフェウス号は沈まなければならない……。」アレクサンデルはマリアの頬に手を添えてから
「とても冷酷で非情な決断だが誰かが、この任務を請け負わなきゃいけないんだ。戦争を、始まってしまったこのクソみたいな戦争を早期に終わらせるために……必要なんだよ。……わかってほしい」と、言った。マリアは黙って自分の頬に添えられた艦長の暖かい手に己が手を上から重ねた。これを合図にしたみたいに
「いいか!マリア。これから潜水艦オルフェウス号は最後の浮上を行う。君ら子供たちとフランツはボートで脱出させるからな。これは命令だ!いいな」と、告げてからアレクサンデルはマリアをぐいっと抱きしめてこう言った。
「お別れだ。愛していたよ。アンナと君は、オレの手でヴァージン・ロードを歩くその日まで育てあげるつもりだった……。この前”父さん”って呼んでもいいかって聞かれた時は本当に嬉しかったよ」
アレクサンデルがマリアを放してから意を決して発令所へ向おうとしたが、その場で立ち竦んだ。副長のヤン・レヴァンドフスキィ大尉が拳銃を片手に立ちはだかっていたからだった。
「スマンな!オレク。君の艦長職を解任する!」ヤンの両脇には航海長のレフ・パイセッキー中尉と機関長のヤロスロフ・ハスハーゲン中尉が控えていた。
「手続きは済んでいる。この二人の賛同を得ているんだよ。君はこの艦を降りろ」士官用の拳銃をヤンはアレクサンデルの胸元に押し付けてから、彼の艦長帽を取り上げてしまった。
「子供たちには親が必要なんだ!君は生きろよ。後はオレ達が始末をつけるつもりだ」
「子供らの付き添いがフランツ一人じゃ頼りないしなぁ」、「アンナちゃんの”父ちゃん”をこの先の航海に連れて行く訳にも行きませんしね」ヤンの脇に控えている艦長解任動議の賛同者である二人の士官は、こう言ってから寂しげに口の端をあげた。レフがアレクサンデルに続いてマリアも一緒に引き連れようと手を伸ばし彼女の手をつかむと、マリアはいきなりその手を振り払って
「勝手にきめてんじゃねえぞ……まだ……いて…ね……」と、小声で何ごとかをつぶやくようにして俯いている。レフは彼女が何を言ったのか聞きなおそうと彼女の顔をのぞき込むと
「まだ、決着はついてねえって言ってんだよぉぉー!」マリアはレフのすぐ眼前で、この娘のどこにこんなドスの利いた声が出せるのかと、訝るほどの大声で吼えた。
この迫力に押されたレフは思わずのけ反り二,三歩後ずさった。彼だけでなく副長も、機関長も、そしてアレクサンデルでさえ、この盲目の少女の勢いに目を見張って遠巻きにするのみ。
「あたしさぁ…頭に来てんだよねぇ……」マリアはこう言うと、自分の足下近くで水を欲しがりうわ言を言い始めたフランツに顔を寄せて、自分の口にミネラル・ウォーターの瓶をつけて煽ると、そのままフランツに口移しで飲ませてあげた。他の大人たちはその様子を口を噤んで見ていることしかできなかった。
マリアはそれを二回ほど繰り返して、彼の顔と口元をタオルで拭って彼の額にキスをしてあげた。
「この人はさぁ、あたしのためにこの艦を降りてもいいって言ってくれた……。『お前はオレの肘をつかんで歩いていけばいいんだ』とも言ってくれたよ……」彼女は意識があるのか無いのか負傷による高熱で朦朧としている彼の金髪を撫でながら
「このあたしの将来の旦那様が、弾ぁ喰らわされたってのにその女房がやられっ放しで泣いてるばかりじゃあ締まらねえんだよぉ!向こうの連中に”かちこみ”喰らわせてやんねえと気が済まねえんだぁ!」
マリアはすっくと立ち上がると大人たちの身体を伝って、あれよあれよと拳銃を構えているレヴァンドフスキィ大尉の前まで来ると、彼の拳銃を鷲づかみにして
「この喧嘩、あたしが買ったよ!いいね」と、言うとマリアにすっかり気圧されたヤンは呆けたままで、彼女に拳銃を取り上げられてしまった。
「父さんって言うか親父ぃ!?そのコートを借りるわよ。それと艦長帽もね」マリアは名だたる女海賊が今まさに獲物の船に乗り込まんと身支度するみたいにサスペンダー式の七分丈のズボンの腰にヤンから取り上げた拳銃をねじ込んでいる。
アレクサンデルももう観念したかのように艦長用のロングコートを脱ぐと彼女に袖を通させて
「ええぃ、ここまで来たらやるしかないか!マリアァ好きにやってみろぉ」彼は艦長専用の略帽をコートのポケットから取り出して
「こっちのほうが顔がよく見えるからいいだろう」と被せてくれた。
「駆逐艦の懐深く入り込んで体当たりかますみたいにして浮上するぞ!いいな?」アレクサンデルのいささか荒っぽい浮上までの段取りにも臆さずにアリアは
「上等ぉー!」と、気合の入った鋭い目付きで辺りににらみをきかして
「レーオーンッ!アーンナァ!近くにいるんだろう!あたしを艦橋までエスコートしなぁ!」と、兵員室内はおろか、オルフェウス号の隅々にまで轟くような雄叫びを上げた。
「姐御ぉー!やっと”潰しのマリア”の本領発揮ですぜぇ!ついていきますぜぇ」兵員室とその手前の食堂とを隔てる隔壁ハッチのむこうからレオンが嬉しそうな顔を出したかと思うと士官たちを押しのけるようにして、マリアの手を取ると自分の肩につかまらせて
「発令所のハッチまで歩きますぜ。その後は艦橋までお供しやす!姐御ぉ」レオンはもう満面に笑みを湛えては艦内通路をそこのけ、そこのけとマリアを先導して歩いて行った。
「やるのか?オレク、本当に」ヤンが二人の背中を眺めながら、隣で腕組みしてレオンと同じような表情を浮かべているアレクサンデルに訊ねるが、彼は
「情報部の意図とか、可能性がどうとか……もうどでもいい!オレはアイツのクソ度胸に乗ったぁ!ダメならダメで今までみたくしぶとく生き残る方策を見つけるだけよ!ヤンよぉ全員で生き残る!そう決めたぁ」こう言うと二人の後を追いアレクサンデルは足早に兵員室を後にした。
「マリア姉はねぇ、自分のことは我慢しても、あたしやモニカが酷い目に合うと、誰彼構わず相手になったよ。それこそ、自分のおっぱいとか触らせて、一人ずつ油断させてさぁ、一度相手を引っつかんだら放さないんだ。石をつかんだままぶん殴ったり、噛み付いたりして街の不良共はマリア姉の姿を見かけると尻尾を巻いて逃げたんだよ」ヤンはいつの間にか自分の腰の辺りからアンナの声がするので目を落とすと、アンナでさえも不敵な笑みを先任士官に向けて
「”潰しのマリア”は伊達じゃぁねえっすよぉ」とだけ言うとアンナはスキップしながら発令所へ歩を進めていく。
ついさっきまでアレクサンデルを解任して、無理やり子供たちと共にオルフェウス号から脱出させようとしていたヤンと他二名の士官は顔を見合わせて
「配置に……付くか!?」誰ともなくそう言うと、三人は同時に頷いた。そしてヤンが
「オレ達はとんでもない子供たちを乗せてたんだなぁ」と、奪われた拳銃を握っていた手を見つめながらつぶやくと、機関長は呆れたような口ぶりで
「……何を今さら」と、だけ言うとさっさと自分の持ち場に戻ってしまった。
北海東部海域方面の哨戒を担当するイギリス海軍のC級駆逐艦『ワッスプ』は、10月2日の払暁に哨戒区域にポーランド海軍の潜水艦と称する不審な潜水艦を捕捉、これの追撃を開始した。
同05:25、数度にわたる爆雷による攻撃のあと、遂に観念したのか不審な潜水艦は浮上を強行。『ワッスプ』の200メートル前方、駆逐艦の針路と対向する形で艦影をさらした潜水艦の艦橋に、イギリス海軍の水兵ら、乗組員は驚くべきものを発見した。
その艦橋に立っていたのは海軍の制服、それも高級士官がまとうコートと略帽を被った、17,8歳くらいの金髪の少女であったのだ。『ワッスプ』から見れば昇り来る朝日を、煌々と輝く光の海を背中に受ける形で両の手を目一杯広げている見目麗しき少女。”させはせぬ!”とこちらを睨みつけて、一歩も退かぬ慄然とした姿に一種の神々しさを垣間見た駆逐艦の士官と水兵らは、余りに意外な展開に呆然として、止めの一撃を加えんとした攻撃の手を緩めてしまっていた。
浮上を果たした潜水艦はその場に留まり、逃亡の意図は無いように見受けられ『ワッスプ』の左舷側にあって駆逐艦との距離はほんの50メートルほどであった。更に駆逐艦の乗組員は驚愕にさらされる事となった。彼らが潜水艦の右舷側をすり抜ける際に、その艦長然としている少女の他に、歳の頃ならまだ5、6歳くらいの黒髪の幼女、褐色の肌を持つトルコ系の少年と白人の少年らが艦橋に上がってきていた。幼女は金髪の一番、年嵩と思われる少女艦長と同じように両手を広げて見せている。少年らは手に手にスパナやらハンマーを手に持ち、こちらに喧嘩を売ってるような奇声を上げていた。
「女の子だ!」、「子供が乗っているぞ!」、「どういう事だ?」『ワッスプ』の乗員らは口々にこう叫んでは指揮官に次の指示を仰いだ。もはや攻撃を加える意志なぞ誰にもあろうはずは無かったのだ。
同05:45、『ワッスプ』艦長であるジョージ・マックスウェル少佐は『攻撃中止』を正式に下令。
不審潜水艦が要求する自分たちイギリス海軍との接見を受諾した。
「宜しいのですか?」と、問い質す副官に彼はこう言い放ったと言う。
「副長、私はこの海域に出没が予想される”ポーランド船籍”を名乗る不審な潜水艦の攻撃命令は受けているが、『子供を殺せ!』との指令なぞ受けてはいない!」と。