決戦の海峡水域
「……で?この通信の発信元が我らが追うオルフェウス号であると、あの艦からもたらされたと、言うのですな?」カール・フリードリッヒ・フォン・シュテルンベルガーSS大尉は訝しげに手に持っている紙片をUボート艦内の電灯にかざしながら眉をひそめて見せてから
「通常の暗号電文と大差ありませんね。書式は……何がおかしいと言うので?」と、艦長のアルベルト・キュヒナーに問うてみれば、彼は
「この艦に装備されている『エニグマ』を介して、通信受諾が可能である事を示す保守点検コード”AA”を使って独自に平文で送信されている所が怪しいわけだよ」無精ひげが生えはじめた顎を拳で擦りながら渋面をシュテルンベルガーに向けてきた。
ドイツ三軍の最高機密である暗号解読機『エニグマ』単体では暗号を組んで送信することは出来ない。この機械はあくまでベルリン及び海軍司令部のある母港ウィルヘルムスハーフェンで組まれた後に発信された暗号電文を受信して、本来は出港の当初において設定されている解読用接頭コードを打ち込んでから後に電文本体の解読作業に移れるわけなのだが、ある一つのコードだけは各海域に展開しているUボートから司令部へと返信が可能であった。それが保守点検コード”AA”。この初期設定に関するコードはUボートが海上で哨戒任務中に、海軍司令部において何らかの理由により今まで暗号解読の設定コードを変更せざるを得なくなった場合にのみ、各Uボートは接頭コード変更を受諾設定を完了させたことを報告するために保守点検コード”AA”を設定して平文で司令部宛へ返信するのである。
これを打ち込んで暗号解読機『エニグマ』を操作すると、これまでに使用してきた古い接頭コードは使えなくなってしまい、平文で受信していた司令部で設定された新しい接頭コードを再度打ち込みしてからでないと、新に送信されて来る暗号電文が解読できる状態に変更されないこととなる。
その操作方法は『エニグマ』本体の0~9までの数字が刻印されている円形の三連ローターを全て”0、0、0”に合せてから後に、タイプライターの様なアルファベットのキーの”A”を連続で二回押してから、解読開始のZキーを押せば完了となる。気を付けなければいけないのは事前に海軍司令部から送信されて来ている新しい接頭コードを用意していないと、次に送られて来る正規の暗号電文を受信しても解読できなくなる恐れがあるために、ほぼ同時に設定をも変更してしまわなくてはならないことだ。
「まさか、この電文を元にして我が艦の設定を変更してはいないだろうな?」と、U-X09艦長のアルベルト・キュヒナーは部下で先任士官のウルリッヒ・ハルトマン中尉に確認を入れてみた。
問われたハルトマン中尉は落ち着きはらって
「設定を変更してはおりません!ご安心を艦長。事前に然るべき新規接頭コードの連絡が無いのと、時間帯があまりに唐突でしたので」と、言った。
「宜しい!中尉」満足気に頷く艦長を尻目に、シュテルンベルガーが
「ふざけていますな!これは『果たし状』のような物ですよ。キュヒナー艦長!どうどうとこちらを例の狭小な海峡水域”ザ・サウンド”にて待ち受けるとある。こんな電文を送りつけるとは……」彼は表情を不機嫌そうに曇らせる。
「ああ!確かに舐められてるようで癪にさわるが、これで奴らが持っているポーランド製の『エニグマ』も我らと同じ性能を持っていることがはっきりした訳だよ、シュテルンベルガー大尉」
「厄介です!非常に忌々しき問題です。この保守点検コード”AA”を平文で受領してしまった他の艦艇の中には迂闊にも予定に無い接頭コードの変更処理を行なってしまった可能性があります」
「それだけでも大きな混乱となるはずです!一度、設定をクリアーにしたら海軍司令部が新に作成した接頭コードを打ち込まない限り暗号通信は解読されずに意味を成さなくなります」二人の会話にこう割って入ったのはハルトマン中尉。
三人はUボートのほぼ中央、発令所内で顔を付き合わせていたが、この静寂を破ったのはシュテルンベルガーの高らかな笑い声だった。
「控えろ!大尉。不仕付けだぞ」と、キュヒナーが嗜めるが、当のSS大尉は
「連中にしてはやってくれるじゃありませんか!この最後の文面なんかは。『潰しのマリアが相手になる!』だそうですよ。あのアーリア人種のドイツ系少女が我々に喧嘩を売ってくるとは」電文に新めて目を通しながら身体全体を楽しげに揺らしている。
そこへモールス信号を受信した電信機がカタカタと新たな通信を打ち出してきた。
「新たな暗号電文のようです」ハルトマン中尉が慎重にその内容を確認すると、
「今度は本物の保守点検コード”AA”を受領しました。次期の接頭コード”XX91695”が付帯されております」彼は艦長に報告を入れると彼の役割としての作業を指定どおりの手順で恙無く終えて、新たに解読可能となった『エニグマ』を介しての電文を受領したのだった。その解読結果を打ち出した紙面を彼は先ずそれを艦長へと手渡した。
アルベルト・キュヒナー艦長はそれを一読すると、シュテルンベルガーに渡した。両手に二通の電文を持ったままで、海軍司令部からの本来の通信を読み取った後に彼はニヤリとして
「オルフェウスに対する撃沈命令ですね。これは」と、言った。
「司令部も形振り構っていられなくなったようだ」
「我々だけで追撃せよとありますが」
「スウェーデンの鼻先で派手にドンパチするなという事だろうな。こちらとしても余計な駆逐艦やらが、功名目当てで大挙してくるとあの狭小な海域で身動きが取れなくなる。好都合だよ」
「では、向こうの果たし状を飲みますか?」このシュテルンベルガーの問いにはキュヒナーは即答せずに
「中尉、オルフェウスとの予想会敵ポイントまでは?」と、先任士官に尋ねると中尉は正確に
「デンマーク領シュラン島とスェーデン領との間に横たわる『海峡水域』の東南一五海里付近です。あと、二日で到着します。奴らが居ればの話ですが」生真面目に即答する中尉に艦長は
「居るさ!向こうもこっちもそろそろ決着をつけたいと思っているんだからな」
「……それに連中は日中は海の底でじっとしていて夜陰に乗じて距離を稼ぐしかないはずだ。我々は確実に追いつく」と、発令所に集う、自分の部下及び武装SS大尉を前にして彼は更に
「今度こそ、遠慮なしに奴を沈めるぞ!拿捕、臨検は無しだ。エニグマごと始末を付ける。いいな諸君!」と号令をかけると”ハイッ!艦長殿”との勇ましい答礼が艦内各所から沸き起こった。
ドイツ海軍Uボート艦長の予想通り、バルト海を脱出してイギリス本土への亡命を意図しているポーランド海軍の潜水艦オルフェウス号は、未だそのヨーロッパ大陸の内海の海底に潜んでいた。
日付は1939年9月27日の深更に及び、北の水平線には微かにスカンディナヴィア半島の山々が望める位置までは辿りついたものの、昼間はドイツ空軍の長距離偵察機、スウェーデン海軍のパトロール艇を警戒して艦体を海底に潜ませておくのは、止む無き行動であった。
「全員、聞け」艦長のアレクサンデル・コヴァルスキィ少佐は、発令所において艦内放送用のマイクを通じて乗組員に訓示を述べ始めた。
「先ずは私から諸君に対して礼を言わせてもらおう。諸君、これまでご苦労だった。母港のグジニャを出港以来の諸君らの活躍と努力には頭が下がる思いだ……。そんな諸君らに辛い事実を述べねばならないのは残念であるが、心して聞くように……」
アレクサンデルはここで一旦マイクを置いて発令所に詰めている士官、下士官、水兵たちの居並ぶ顔をゆっくりと見回した。その中には、相棒のフランツ・ヴァノック一等兵曹の隣に聴音用のヘッドセットを首に掛けているマリアの姿もあった。
艦内各所に取り付けられているスピーカーの周囲には各部署の担当者たちが耳をそばだてていた。機関区、電気室、前後の魚雷発射管室などで。
そしてアレクサンデルは、この数時間前に一度、潜望鏡深度まで浮上して定期的に傍受したラジオ放送の内容を沈痛な面持ちのまま
「本日の夕刻に我らが故郷の首都ワルシャワが……これまでの抵抗むなしくドイツ軍によって陥落させられた。諸君!我らのポーランドは失われた。……完全に地図から消えたんだ!」と、告げた。
艦内を沈黙が支配した。誰一人声を発することも叶わず、潜水艦の低い天井部を涙をこらえて仰ぎ見る者。逆に鋼鉄の床面に頭が付かんばかりにその場でしゃがみ込む者もいた。
驚愕の、または悲痛な声も上げようともせず、ただただマリアは立ったまま傍らに立ち尽くす先輩格のソナー員フランツ・ヴァノック青年の手を無意識に握っていた。無言で彼も少女の手を強く握り返す。二人は、いやこの潜水艦に乗り組んで自由への逃亡を意図していた全員が、この事態は予想できたことではあったのだ。
いずれはこうなる……。9月1日にドイツ軍が国境を侵し、その精強な機甲師団をもって西部地方に進撃を開始して、次いで17日には東部国境をソ連軍が越え、残った残存勢力を蹂躙していった。
ヨーロッパの中央部に位置するこの大国は僅か一月を経ずして、20世紀に誕生した二大独裁国家によって引き裂かれその貪欲な欲望に飲み込まれてしまったのだった。
「だが諸君、まだ我々がここにいるぞ!未だに諦めずに故郷の旗を掲げるオルフェウス号がここにいる。自由と生存の権利を求めて戦いを続ける人間がいるんだ。残された故郷の大地にも頑強に抵抗を続けている朋友がいる。我らと同じ海軍の同胞はバラバラになっても活路を見出すために、イギリスに設立された亡命政府に合流せんとしてバルト海を越えていった。既に、姉妹艦のヴィルク号、オーゼル号は北海への脱出を成功させた。我らも続くぞ」彼はここで一度ぐっと大きく息を吐いてから更に全員の顔を見渡したあと
「泣くのも、後悔するのも今は後にしろ。目の前の航海とUボートとの決戦に集中するんだ……勝つぞ。勝って生き残って必ず、故郷を取り戻す!あの美しい草原の大地に我らポーランドの旗を掲げるその日まで歯を食いしばれ!眦を上げろ!歩みを止めるなぁ!」こう告げた後に、ヤンが
「全員、傾注!我らの祖国へ万歳三唱!」と、音頭を取ると発令所はもとより艦内各所から
「ウラァ、ウラァ、ウラァー」と喚声が上がった。するとその次に発令所から
「”ポーランドは未だ滅びず 我らここにある限り”」朗々と明るく澄み渡るような声で国歌を斉唱する者がいた。それはマリアだった。
「”例え敵に踏み躙られようと” ”我ら剣でそを打ち滅ぼさん”」彼女の歌声はやがて艦内で男共の野太い声とアンナの甲高い幼女の声も混じっての大合唱に移っていった。
”進め、進め、ドンブロフスキ” ”イタリアからポーランドへ”
”汝と轡をならべ” ”我ら祖国の地へ赴かん”
国歌斉唱が済むと皆が一斉にマリアに拍手と喚声の雄叫びを送った。彼女は少しはにかんで下を向いてしまったが、これを合図に
「全員、部署に付け!戦闘配置」艦長アレクサンデルの号令が下り、皆は一斉に持ち場に駆け戻っていった。
「両舷前進半速」、「潜望鏡深度へ付けろ」ドタバタと乗組員がうごめく中、機関長と先任士官の号令が矢継ぎ早に飛ぶ。
マリアとフランツも聴音室で配置に付いた。フランツが奥に座り、通路側にはマリアが座を占めた。
「いいか!?マリア。オレがタリン港に居た時に、二人で同時に操作、聴音できるように予備のヘッドセットを繋げるように改造しておいたんだ。オレが魚雷を追跡するから、君はUボート本体の動きに集中しろ。アクティブソナーの発信キーはここだ」彼はマリアの手を取って、方位判定用のハンドルの左脇にあるボタンの位置を探らせた。
「了解です!でも、彼らは来るかしら?」
「来なくても、この先の海峡水域は海の難所だ。海底との距離を測るためにもアクティブ・ソナーは重要になってくるぞ」彼の注意に真摯に耳を傾けつつマリアは何度も頷いた。
「こちらの位置が連中にバレても気にするな。奴を引き付けて海峡水域へと引きずり込む。そうすれば勝機もある……艦長の目論みだとな」
「海峡水域で足止めさせるのよね」
「上手く乗せられるかはオレ達の力量に掛かっている。……大丈夫!この前も奴らの攻撃をかわして追い込んだんだ!上手くやれるよ」フランツはやや上ずった声のままで後輩の少女を元気付けようとするが、逆にマリアの方は先輩格の青年が緊張して強がっているのを感じ取ってしまっていた。彼女はそれはおくびにも出さず視線を彼の顔面に向け、手を伸ばして彼の頬を触って笑顔で応えたのだ。
「怖いか?」フランツは自分の頬に添えられた彼女の手に己が手を重ね合せた。
「平気だなんて言えるわけないじゃない。逃げだしたいくらいよ」二人は見つめあう、と言うよりフランツはマリアの鼻先を優しく”つんつん”とタッチして自分の顔がここにあると彼女に示して見せた。
「”おまじない”してくれよ」と、フランツが以前のようにキスをリクエストするとマリアも
「オーケー」ぐっと彼の方に顔を向けた時だった。
「マリア姉ちゃん、ちょっといいかな?」と、無邪気で明るく素っ頓狂な声色の持主であるアンナがいきなりマリアの背後からこの場の素敵で甘い雰囲気をものの見事に吹っ飛ばしてしまったのだった。
マリアは”びくっ”と背中を大きくのけ反らせて
(前にもこんな場面があった気がするんだけど)と思いつつ振り返っては声の主のほっぺを引っつかんでやろうかと手を伸ばしてみたが、そこには妹分の顔でなく柔らかい手の感触が。
「オレだよ。マリア姉……」マリアの眼前にいたのはレオン。その脇にはアンナがいて
「レオンはぁ、マリア姉ちゃんに謝りたいって思ってたんだけど、一人じゃ恥ずかしいからってあたしも来いって言うんだよ」と、言っては楽しげにその場でひょこひょこ小躍りしている。この娘だけはこのあとに迎えるであろう緊迫した状況など全くもって蚊帳の外であるらしい。
「うるせぇ!チビ助……その、これが最後かもしんねぇって思ったらよ、……ゴメンな!あんなこと言ってさ……」レオンはマリアには判らないが周囲からは判り易いくらい顔を真っ赤にさせて目を伏せてマリアの膝小僧の辺りに視線を落としている。
マリアは今一度、自分の両手でレオンの両の手をそれぞれしっかと握ると
「それを、わざわざ言いに来てくれたの?ありがとう。本当はあんたのそういう素直で優しいところ大スキよ」マリアはフランツに捧げるはずであった”おまじない”をレオンの頬にくれてやったのだ。身体を硬直させたレオンは目を細めて自分を見つめてくれているマリア姉の向こうから、フランツの”喧嘩売ってんのかテメエはよぉ”と言いたげな険しい表情にも、ニヤついて余裕をかました風に、Ⅴサインで返してやったのだった。
マリアは更にレオンの頭に手を伸ばして
「…あれ!?あんたいつ髪を切ったのよ?」飼い犬を愛でるようにしてわしゃわしゃと撫で上げる。彼女は手の感触だけで短く刈上げられたレオンの頭を認識するしかできない。
「タリン港に入ってすぐに基地出入りの床屋にオレとフィリプの頭をバリカン使って刈上げさせたのを覚えてないのかよ?」レオンが口を尖がらせていても、はて?とマリアは小首を傾げるばかり。
「……やっぱり見えてはいなかったんだな」レオンはひとり言を呟いては、つい先日、彼女と仲たがいした時に自分が吐いたマリアをいたく傷つけた暴言を悔いたのだ。
「そうだ!皆、手を出しなさい」そんなこと意に介さないマリアは、徐に自分の胸ポケットからある物を取り出し、己が左手の上に乗せてアンナとレオンの前に差し出した。
モニカの遺品となってしまったメガネだった。マリアはその上に、アンナとレオンの手を乗せるように指示してから自分の右手を重ね合わせてから、ふと
「フィリプ!フィリプは?どこ」と、もう一人の少年を呼んでみたが
「フィリプなら艦長室でいびきかいて寝てたよぉ」と、アンナ。
「ホントにあの子だけはわたし、わっかんないわぁ」マリアはこんな時でもあくまでマイペースの自閉症気味の少年のことをこう述懐したあとに、気を取り直してから
「いいこと!ここにモニカはいます。彼女の英霊に恥ずかしくない働きをしましょう。レオンもアンナも海軍の皆さんの言いつけを守って自分の成すべきをしっかりやりなさい!みんなで生きて必ずバルト海を抜けるのよ!」
レオンは黙って頷くと、自分の持ち場に向った。アンナはマリアの隣にちょこんと座って
「あたしはマリア姉ちゃんの”目”ですから」と、腕組みして尊大に構えている。
マリアはそんなアンナに笑顔を向け、奥側でブツブツ不満たらたらの様子でいる相棒フランツにも
「おまじないは二回続けると効果ないから、フランツの分はまた後でね」そうフォローした後に聴音機のヘッドセットを装着してからすぐに、彼女は艦の前方から不穏な聞き及んだ事のない奇妙な音源を探知した。それは鳥のさえずりの様でもあり、広範囲から頻繁に届けられてくる。
何かの群れ?各方位から会話のような短く、この鋼鉄の大魚に群がってくる水中をかき回すような鳴き声にマリアは眉間に皺を寄せた。
「……これは……鯱、鯱の群れだよ。そうか、北極付近の海からもう渡って来たのか」隣で素早く体勢を整えたフランツがマリアに不穏な音源の正体を教えてやった。
「人を、襲うの?」
「奴らは狡猾な海のギャングさ。鮫よりも頭がいい!鯨だって集団で襲うし人間なんざ奴らにしてみれば”手足の長いアザラシ”くらいにしか思っていないさ」
「……そう、嫌な鳴き声だわ……。しッ!聴音域を最大にするわね。……ええい!ジャマな群れね!」マリアは聴音機用の操作ハンドルを右へ左へと交互に動かしながら、鯱の出す音波の中をかい潜るようにしてその向こうから伝播してくる音源を捜した。目を閉じていたマリアはある一方向にハンドルをピタリと合せると
「来た!二軸のディーゼル音。ドイツのUボートです!艦長」と、発令所全体に淀みなくはっきりと聴音結果の通達を入れた。その後続けてマリアは
「方位は右舷後方、1-5-0。距離約6,000です」これを受けたアレクサンデルは
「針路を維持せよ。……メインタンクブロー……浮上しろ」と、指令を下した。
「機関は?」
「モーターのままだ!ディーゼルを使うと二人の聴音に支障を来たすからな!どちらにせよ狭小な海域ではスピードは出せん」先任士官ヤンの問いに答えてからアレクサンデルは
「レフ!現在位置と深度は?」記憶の天才にして集中力の権化たるフィリプ少年が書き起こした復元の海図に首ったけのレフ・パイセッキー中尉は鼻からメガネが落ちないように押し上げながらも三角定規とデヴァイダーを使っての艦の測位に余念が無い。
「もうすぐ海峡水域の入り口に差し掛かります。急激に海底位置がせり上がって来ますので注意を、艦長」
「マリアへ、アクティヴソナーでの水深測定開始!音波を打て!」
「了解!打ちます」マリアは艦の進行方向に下向きのソナーから音波を一回打ち出した。教会の鐘の音より甲高く澄んだ音色の音がオルフェウス号から発射されて、反響音が数秒を経ずしてマリアのヘッドセット内に返ってきた。
「海底が目の前です!舳先を上げてぇ!」マリアが叫んだ!今まで潜んでいた海底との落差が崖のようにそそり立っている、その突端に突っ込みそうに進んでいるのを彼女は音波が反響してくるタイミングから素早く割り出していたのだった。
「艦首七上げ!ブロー最大!両舷前進微速へ」間髪居れずにアレクサンデルの号令が飛んだすぐ後に、海底の崖っぷちに船底をこすりあげて、一度激しい揺れと衝撃音が艦内を支配してからやっと潜水艦は浮上を完了した。
「オレは艦橋へ上がる!攻撃に際しては上から指揮する!水雷班はいつでも魚雷を撃てるようにしておけ!」こう言い残して艦長は発令所から梯子を上へと昇っていった。
「アンナ!あたしを艦橋の梯子までエスコートして」マリアは聴音用のヘッドセットを外す。そして左手に握ったままにしてあった、モニカのメガネをやおら掻けると
「モニカ……力を貸してね」こう呟いてから
「フランツ、すぐ戻るわ。Uボートの連中に挨拶してくるから」と、相棒に笑顔を向けてからアンナに手を引かれて発令所の中央に設置されている司令塔とその上の艦橋に通ずる梯子へと向った。
「あ、あいさつだってぇ?」フランツ・ヴァノック一等兵曹がマリアの姿を聴音室の隔壁際から覗き見た時には、もう彼女は、艦橋からの許可を得て慣れた足取りで楽々と梯子を昇っていった。
「探信音波を確認!オルフェウスから発せられています」U-X09のソナー員であるフリッツ・ブランドル上等兵曹が艦長のアルベルト・キュヒナーに報告を入れると、艦長は
「一足先に海峡水域に入られたか!?それも折り込み済みだがな……。潜望鏡深度へ。あと……アイツをつれて来い」と、先任士官のウルリッヒ・ハルトマン中尉にポーランド海軍からの転向者であるヤコブ・マズゥールを連行するよう命令を下したが、ハルトマンが動く前に、SS大尉であるシュテルンベルガーがその人物を発令所までつれて来ていた。
「ドイツの旦那方ぁいいかげんこの手錠は外してくださいやぁ!陸上じゃあ旗色ちゃんと見せたでしょうが」発令所に着くや否や彼は手錠を掛けられた両手を祈るようにして艦長の眼前にかざして見せたが、シュテルンベルガーは
「まだだ!艦長の質問に正確に答えられたら、考えんでもない」冷たく言い放つと彼の腰に拳骨の痛撃を喰らわせた。
「ヤコブ・マズゥールとやら、端的に聞くぞ。オルフェウス号に積まれている魚雷は?あと何本残っている…答えろ」このキュヒナー艦長の質問にヤコブは一拍置いてから
「5本しか残っていないはずだ!旦那」と、現況のオルフェウス号の搭載魚雷数を言い当てた。ヤコブは潜水艦勤務の通例として、戦闘哨戒時以外は前部発射管6基の内、4本を。後部発射管4基の内には2本の魚雷を装備して出港する。空いている発射管は予備用のバラストとして代用していることを説明してみせた。更に彼はこのオーゼル級潜水艦の通常魚雷搭載数14本の内、8本はタリン港で降ろしてしまっていることまで告げてから
「……残り6本の内、1本はタリンに入港する前にあんたらとの雷撃戦で使っているはずだからな」
「ふむ……。あの時はさすがに肝が冷えたな。なるほど理屈は通る」説明を終えたヤコブの顔をしげしげと見つめるキュヒナーにヤコブがさらにこう付け加えた。
「オルフェウスの士官連中ではあの一本は不良品ってことになっているが、実はオレが手を加えたんだ」
その場に居合わす士官の視線がその男に集中してから彼は
「他のも全部、まともには走らん!発射されて300メートル程で失速するかあるいは点火装置が反応して自爆するようになっている。あんたらは1,000メートル以内の有効距離で射程をつければいいだけだ」ヤコブはほくそ笑んでからシュテルンベルガーに手錠を外してくれるように催促してみせた。
「オルフェウス号が浮上しました。スカンディナヴィア半島とシュラン島の間の浅海域に進入を開始しました」艦長の代わりに発令所のすぐ上の司令塔で潜望鏡による監視を続けていたハルトマンからの通達を受けたキュヒナーは
「両舷前進強速!魚雷戦用意せよ。一番、二番発射管への注水開始」と、テキパキと指示を下した後にシュテルンベルガーにヤコブの手錠を外すように言ってから、司令塔に上がりハルトマンの後ろについた。
「ハルトマン!距離2,000で撃つ。……どうした?」ハルトマンは振り向きながら怪訝な表情を艦長に向けている。無言で彼は潜望鏡の覗き窓を艦長に譲った。
「……はッ!何て可愛らしい女の子だろう!シュテルンベルガーよ、君のマリアちゃんが見えるぞ」キュヒナーはハルトマンと入れ替わりに今度はシュテルンベルガーに潜望鏡を覗かせた。
シュテルンベルガーの視界の中では最大望遠の設定で、月明かりに照らされたマリアの、どこか神々しくその光を一身に受けて全身から波間の夜光虫が放つ青白く不思議な淡い光をまとっているかのような姿があった。
「やはり……美しい娘ですな。盲目のはずなのに、メガネをかけているな?」こう感想を漏らすシュテルンベルガーの視界の中で彼女は、この夜半の海上で見つけられることの無いはずであるのにも係わらず、まるでこちらの潜望鏡が見えているかのようにしっかり視線を向けてきていた。そして彼女は小首を傾げて、微笑んでみせた後にゆっくりと右腕を頭上に上げてから人差し指一本だけ立てて、そのまま海底に向けて”スッ”と振り下ろして見せた。まるで”沈めてやる”と言わんばかりにである。
シュテルンベルガーは背筋に冷たい物が走る感覚を覚えた。自分は、自分たちはこの少女の魔力にいつの間にか引き込まれてのっぴきならない事態にまで首を突っ込んでしまったのではあるまいか?彼はそんな思いを振り切るように首を一度大きく振ってから
「もう結構です。未練はありません艦長。沈めましょう……。盲の魔女は海底に葬ったほうが無難だ」と、言った。シュテルンベルガーの視線の先ではマリアはオルフェウス号の艦橋からすでに姿を消していた。
シュテルンベルガーが覗いていた探索用の潜望鏡とは別の攻撃専用の潜望鏡を使って、雷撃戦用の測位を終えていたキュヒナー艦長が命令を下した。
「では、遠慮なく!一番発射用意。一番、発射!二番発射用意……。二番、発射ァ」
魚雷を打ち出す独特な振動を足下で感じながらオルフェウスの面々からすれば裏切り者のヤコブは
「…でも、それだけじゃないんだなぁ」こう呟くとほくそ笑みながら視線を発令所の床面に視線を落としたのだった。
「雷跡、二!後方、1-6-0より接近中!着弾まで約20秒」オルフェウス号の艦橋に立つアレクサンデル・コヴァルスキ艦長の下に伝声管を通じてフランツ一等兵曹からの連絡が飛び込んできた。
彼は後方を振り返るが雷跡を示す白い泡の跡は月明かりだけでは暗い波間にあって判別できずにいた。
「マリアへ、艦の針路を指示しろ!操舵員はマリアの言に従え」この命令に発令所の面々は一瞬どよめいたが当のマリアは落ち着きはらって
「左、10度へとーりかーじ!」と、モニカの形見のメガネを一度顔の中央に押し上げるようにしてから大きくはっきりとした声で指令を発した。
「了解、左、10度へ。よーうそろ」思わず操舵員の背後に付く機関長は復唱していた。マリアは左の手を通路側にさっと伸ばして大きく”3”の数字をつくるとそれを指折りしてカウントダウンし始める。
「3、2、……1!舵中央へ!針路をそのまま維持してください」
「舵中央。よーそろ!」操舵員は素早く操舵ハンドルを回転させる。誰もが彼女の指示を疑わなかった。艦長のアレクサンデル同様に機敏な反応で彼女の言に応えたのだった。
転進を完了したオルフェウスの両脇スレスレを二本の魚雷が通り過ぎていった。不気味な高音のスクリュー音が潜水艦の隔壁の外側を通過していくのが聴音機無しでもはっきりと聞き取れた。
マリアはヘッドセットをさっと首の後ろへと外した。数秒経たずしてUボートが放った魚雷がオルフェウス号の進行方向の海底に激突。猛烈な爆発音がその中から伝わって来ていた。
「魚雷はさっきの入り口より更に浅い海底に突っ込んだようです。こちらもその海底の浅い箇所を越えますよ!ここを越えれば少しは海底に余裕ができます」レフは伝声管を通して艦橋に居るアレクサンデルに海図からの測位結果を伝達。
「噂に違わぬ難所だよ。この夜中でも波の波紋で浅海面がはっきりと判る。岩肌がむき出している箇所もある。操舵員へ。今度は右、5度へ転進しろ」更に伝声管からの命令が飛ぶと、操舵員は復唱しながら転蛇を完了した。
「浅海域の海底まではろ、6メートル!」マリアが音波測定の結果を艦橋へ上げる。その途端にオルフェウスは座礁してしまいそうな危険箇所を船底を擦りながらもなんとかすり抜けた。
「後部発射管、七、八番管より魚雷発射用意!」アレクサンデルは後方船尾方向に双眼鏡を向けながらUボートへの逆襲を意図して行動を取った。
彼の視線の中では、Uボートが黒々とした海面を掻き分けて浮上を完了していた。敵もいよいよ海峡水域への進入を開始したようだ。
「七番、八番用意!……発射ァ」アレクサンデルが号令を下す。高圧の圧搾空気が53センチ型魚雷を二本同時に発射管より押し出した。二本の気泡状の航跡がこちらに舳先をむけているUボートに直進していくのをアレクサンデルは双眼鏡を通して追っていく。Uボート自体は針路変更する兆しを見せない。
二本の魚雷はUボートの前方、100メートル付近で巨大な二本の水柱を上げてロストした。位置的にはオルフェウスがぶつかりそうになった海底の断崖付近であろうと推察できた。
「……やはりな」アレクサンデルはこう呟くと階下の発令所へ向けて、
「面かじ一杯!最大船速で180度回頭しろ」と、操舵員を監督する機関長宛に指図してさらに
「マリアへ。アクティブ・ソナーで敵Uボートとの距離を探れ!こちらの位置が聞き取られても構わん。あと、たった今通り抜けた浅い海底に奴が200メートル以内に接近したら報せろ!」
「オレク!やはり何らかの手心が加えられているようだ。魚雷は使い物に成らんぞ!どうする?」発令所で先任士官のヤンが伝声管に声を潜めて辺りに、自分たちの反撃の兵器が脱走兵ヤコブの手によりサボタージュされていることを洩れ伝わらないように注意して問うた。
「……やりようは……ある!次が最後のチャンスだ!ヤン、前部発射管の発射用意!残りの魚雷を一斉に射出する」
アレクサンデルはこの後は伝声管の金属製のフタを閉じてオルフェウスが先に陣取った周囲数キロメートルに広がるやや潜航深度に余裕が取れる海域において白波を立てて方向転換をしていく自分の艦から、浮上してこちらとの距離を詰めようと接近してくるドイツ海軍Uボートをにらみ付けて
「さぁ、もっとよって来い!決着をつけよう」彼は艦長帽を脱ぐと袖口で額の汗をぬぐった。
ドイツ海軍の航洋型潜水艦ⅦBタイプU-X09の艦橋では、艦長のアルベルト・キュヒナー大尉、武装SS大尉のカール・フリードリッヒ・フォン・シュテルンベルガー、この艦の先任士官であるウルリッヒ・ハルトマン中尉、そしてヤコブ・マズゥールの四人が、たった今オルフェウスが放ち、艦体の前方で前触れ無く恐らくは海底に推力不足で落下、暴発してしまった二本の魚雷によって発生した水柱のシャワーを浴びていた。
「ほら、俺の言ったとおりでしょう!連中にまともな魚雷は残されちゃいやしませんぜ」ヤコブは手錠を外された手首をさすりながら勝ち誇ったように胸を張った。
「両舷前進半速!海底までの深度に注意せよ」ヤコブの言なぞ一切無視してキュヒナー艦長は、オルフェウスの動きに注目しつつ、艦の運行に注意を促すと
「奴は何をしようというのか?」と、周囲の誰とも言わずに問うた。
「こちらに舳先を向けて、後進をかけているようですなぁ……」シュテルンベルガーも撃滅せんとする相手の行動に不思議がっている。
ヤコブを除く三名は一様に双眼鏡を通して、オルフェウス号が司令塔の根元付近まで潜航させる形をとりつつモーター航走で後進一杯をかけている姿を垣間見ていた。ディーゼル機関を駆使して尻尾を巻いて逃げるでもなく、さりとてこちらに勇敢に肉迫して攻勢をかけるでもなく、何とも不可解な行動を取り続けるオルフェウス号。
そこへ発令所に詰めているUボート側のソナー員であるフリッツ・ブランドルから
「艦長へ。オルフェウスから探索音波が何度も発せられています……。しきりにこちらの位置関係を探っているようなのですが」との連絡が伝声管を通じてもたらされたが、キュヒナーはそれを一笑に付して
「残った魚雷を確実に命中させるために念を入れてのことだろう。何度やっても同じだ!可哀そうだがこれで終わりだ!三番、四番発射用意!」この艦長の命令にハルトマンは早速、予め備え付けてあった雷撃用の測距機を通して距離を割り出して
「距離800!方位はほぼ0です艦長。いつでもどうぞ」と、測定結果を伝達し終えた。
「500で同時に発射しろ、ハルトマン」キュヒナー艦長は静かに指令を下した。
「現在、敵Uボートはこちらの正面です。距離は約800です。例の浅い海底とUボートはあと300の距離かと思われます」オルフェウスの艦橋にあってアレクサンデルはマリアからの最新の索敵情報を確認のあと
「前部発射管二番、三番、四番、一斉発射用意!」こう指図した後に前部発射管室から先任のヤンが
「問題発生!ヤコブの、あの罰当り野郎のサボタージュだ。魚雷発射が出来ない!」との驚愕の報告を上げてきた。
それは前部発射管室の配電盤に巧妙な工作が成されていて、通常では問題無しとしての機器の表示が示されているが肝心の発射ボタンと直結する配線が配電盤の中で切除されているのだった。しかもすぐに結線して修復ができないように約1メートルほどコードが欠損した状態で放置されてあったのだ。
「何とかしろ!ヤン。待てないぞ!攻撃は続行する」伝声管から発射管室に届けられた艦長の決定にヤン・レヴァンドフスキィ大尉は何とか修理を試みようとしている水雷班の連中と供に配電盤内での悪戦苦闘を繰り広げていたが、
「クソッ補習部品を交換していては間に合わん」と、苦渋して顔を曇らせた。
「ヤンさん、人間の身体って通電するよね?」ヤンの背後で、手伝いに駆り出されて来ていたレオン少年が声を上げた。ヤンは”ああっ”と頷くと少年は、配電盤の中に潜り込み欠損しているコードの両端でむき出しになっている銅線の金属部分を素手でつかんだ。
「これしかないよ!オレの身体を通して電流を流して魚雷を発射するんです」と、レオンが言った。
「レオン!止せ、下手すりゃ死ぬぞ」ヤンが少年を引き剥がそうとするとレオンは咄嗟に”これ以上近づくとけっ飛ばす”と片足を上げて見せてから、やはり恐怖からか脂汗を流しながらも無理やりの笑顔を作ってみせて
「マリアと約束したんだ。オレが助けると……ね。ヤンさん、魚雷を打ち出したらすぐに電源を切ってください、そうすりゃ大丈夫!もう時間がないんだよぉ!」決死の形相で訴えるレオンにヤンも意を決した。
「オレク!準備完了。いつでも撃て」と、静かに伝声管に向って言ったのだった。ヤンはレオンの肩にぐっと力を込めて握っては、少年が示した勇気と覚悟を無言のままで称えた。
オルフェウス号はぴったりと舳先の軸線をUボートの針路と合せて、艦長の指令の元で努めてその艦体を司令塔基部辺りまで沈みこませた状態で、後進一杯のまま敵艦との距離を取り続けていたのだった。
「Uボート、浅海底付近約200メートルまで接近。艦長ぉー今です!」マリアはその場で立ち上がり艦橋にまで直に届くくらいの声量を上げた。
「Uボート魚雷発射!雷跡前回と同じ二!直進してきます!」ほぼ同時にフランツがUボートからの発射音を聞き取った。
「二番から四番、全管発射ぁ!」アレクサンデルは艦橋の縁をぐっと握ったままで、最後の魚雷発射を命じた。魚雷は何の問題もなく間髪入れずに射出され白い泡状の航跡を生み出しながらまっすぐ敵のUボートへと直進していく。
「さぁ……来い!一か八かだ!」彼は不敵な笑みを浮かべつつ舌なめずりしてその航跡を追った。
発射管室では、ヤンが発射ボタンを押した瞬間に大電流がレオンの身体を貫き、彼はそのショックで身を硬直させてしまい、かえって渾身の力でコードの両端を握り締めてしまっていた。レオンは白目を向いたままで電撃をこらえていたが気を失い、発射を確認した水雷班のメンバーと先任士官が電源をカットさせた後も力なく通電を終えたコードを握ったままで配電盤の機器に寄りかかった。
「よくやった!レオン。レオーン!目を覚ませぇ。立派にやったんだぞ!お前はぁ」ヤンがこう声を掛けて配電盤から彼の身体を引き剥がしてから、床面に横臥させて心臓マッサージを施術するも彼の意識は失われたままであった。
「ちくしょう!お前まで死ぬなよぉ戻って来い」ヤンは大きな身体を震わせながら必死にレオン少年の胸を何度も押し下げた。
オルフェウス号から発射された魚雷3本、U-X09から射出された2本の魚雷が針路を交錯させたのはこの海峡水域の一番の浅海底のポイント上であった。先ず、オルフェウス側の3本がほぼ同時に手を加えたヤコブの思惑通りに水中で自爆。その爆発により発生した水圧とエネルギーの奔流はUボート側の魚雷1本を道連れにした。都合4本分の弾頭炸薬まさに数トン分に及ぶ破壊力はその海底を見事に削岩したように抉り取り、自然界では発生することの無い猛烈な水圧は瞬時に周囲の岩礁部を根元から破壊して崩落させてしまい海底の様相を瞬時に一変させるに充分な威力であった。
「敵魚雷、一!なおも健在なり!こちらに直進してきます!」
「距離、200!回避間に合いません艦長」二人コンビのソナー員、フランツとマリアが立て続けに連絡してくる中でも、アレクサンデルは未だ決戦の姿勢を崩さずに視線をその航跡を見据えつつ
「両舷前進強そーく!モーター全開しろ。針路はそのままぁ!」とだけ言った。
オルフェウスは瞬時に動きを後進から前進に切り替えてまっすぐ魚雷の進行方向に水中を掻きまわして、自らの軸線と魚雷の進行方向を重ね合せて、いわば”チキンレース”を始めたに等しい行動を取った。
「艦長!距離100をたった今切りましたぁ!」マリアの悲痛に似た声色での報告を耳にしたアレクサンデルはその場で”かっ”と目を大きく見開き
「潜舵上げ舵七!船首部全タンクをフルブローしろ!全員対ショック体勢を取れぇ」との号令を発令所に向けて叫んだ。操舵員はハンドルを指示に合せ、バラストタンク担当の水兵は持ち場のブローハンドルを一斉に引く。圧搾空気はタンク内に艦体その物を安定させておくために残しておいた海水の全てを押し出していった。
「さぁ軽くしてやったぞ!高く飛んでみせろよ。オルフェウースッ!」
潜水艦オルフェウス号は艦長の狙いどおりに全ての魚雷と海水を一気に放出した反動で、戦場で主人の言うことを聞かぬかん馬の如くに舳先から水飛沫を上げつつ、ナイフの切先に似た船首部を水面から大きく突き出した。艦内ではマリア、アンナを始め急角度でせり上がった艦首の動きに乗組員全員が近場の何かに必死にしがみ付いた。
巨大な鋼鉄の鯨が自分の船首を斧のように振り上げている瞬間、その真下にUボートが放った魚雷が飛び込んできた。オルフェウスはそれを待ち望んでいたかのように、今度は船首部を水面に勢いよく叩きつけたのだった。魚雷は本体部分を舳先その物をハンマーにした衝撃に押し潰されて深夜の海底へとねじ込まれた!
海底までは僅か数メートルの深さしかない。今度はオルフェウス号の中央部付近の海底から魚雷爆発による衝撃波が伝播して破壊的な水柱にオルフェウスその物が押し上げられた。
潜水艦オルフェウス号の大ジャンプとその後の魚雷が発生させた水柱に包まれたその姿を見たU-X09の士官たちは”ヨシ!魚雷命中”と歓喜の奇声を上げたが。その次の瞬間に、その艦橋に居合わすメンバーがそこから振り落とさればかりの衝撃がUボートを襲った。
「何事かぁ!」艦長のキュヒナーは狭い艦橋でもんどりうって倒れこんだ後に立ち上がり、こう叫んでは辺りを見回した。彼のUボートは舳先をやや上向きにして水面から浮き上がった状態のままで停止してしまっていた。
「海底に乗り上げてしまったようです」艦橋に備え付けの信号灯を懐中電灯代わりにしたハルトマン中尉が海面付近を照らしながら状況を報告してきた。
「そんなバカな!深度は充分とっていたはずだぞ」キュヒナーはハルトマンの手で照らし出された海面を見ればそこには岩礁が崩れ落ちた岩石が所狭しと敷き詰められているようになっていた。つい今しがたの魚雷同士の爆発で著しく海底の形状が変形、掘り起こされてしまった結果にUボートは囚われてしまっていたのだった。
「後進だ!レンプ機関長へ両舷後進強速!早く脱出させろ」キュヒナーは発令所に詰めている部下に岩礁からの脱出を示唆するが、ディーゼルは呻りを上げ、スクリューは海面をかき回すもビクともしない。と、その場へ空気を切り裂く”ヒュルヒュル”といった音が彼らの頭上を駆け抜けた感覚を得た直後に、付近の海面から高さ10メートル近い水柱が上がった。
艦橋に居合わす全員が水柱の原因が飛来してきた方角に目をこらすと、ポーランド海軍の潜水艦は未だに健在であり、甲板上の備砲をこちらに向けているではないか!
「急げぇ!レンプ!こっちはいい的だぞ!脱出しろぉ」キュヒナーは伝声管を使わずに足元のハッチに向って喚きたてた。
「惜しい!至近弾だ」と、オルフェウス号の上甲板に装備されている10.5センチ砲に取り付いている先任士官のヤンは備砲の基部にあるハンドルを手回しして狙いを微調整していく。その間に担当の水兵が手際よく空になった薬莢を取り出して、海へ放り投げ、次弾を装填、尾栓をロックさせてから
「準備完了」の報告代わりに士官の肩を二回叩くのだった。
甲板に装備された10.5センチ砲は潜水艦に搭載された通商破壊戦の予備兵器としてはヨーロッパでも最大の口径を誇った。潜水艦の大敵である駆逐艦の主砲とほぼ同じ破壊力を有する。因みにドイツ海軍のUボートに装備されたのは8.8センチ砲である。
ヤン・レヴァンドフスキィ大尉はレオンの世話をマリアとアンナに託して、Uボートが座礁したとの報を受けてアレクサンデルに砲撃の許可を得てここに到っている。彼の背後には担当の水兵たちが、海軍基地にいた頃からの訓練通りにバケツリレー方式で砲弾を携えて待機しているのだった。
「今度こそ当てる!これはヴォイチェフの分だ!」彼は尾栓脇にある引き金の役目をしているハンドルを思いっきり引っ張った。”ズドン”と砲火が開き、砲弾は今度はUボートの船尾付近、エンジン区画を射抜いた。後部甲板から黒煙を上げている中乗員が右往左往しているのが見て取れる。
「ウラァー!」と水兵たちは歓声を上げて、砲弾の交換を手早く行なっていく。
「オレクめ!これを狙っていたんだな!あの策士め」ヤンは更に狙いを今度は少し海面からせり上がっているUボートの船首付近に絞り、慎重にハンドルを回転させて微調整を繰り返して
「良し!そしてこれは……」彼は一度深呼吸してから、
「喰らえ!モニカの分だ!」ぐいっと発射ハンドルを引いた。
「冗談じゃねえぞ!オレはオサラバするぜ」ヤコブ・マズゥールはオルフェウスからの砲撃がエンジン区画に被害を及ぼすと同時にこう言って辺り構わず喚き散らしては、自由の身になったのをいい事に、艦橋から夜が開け始め、辺りが白んできたバルト海へと自ら飛び込んだ。ヤコブは卑劣にも今度はUボートからも逃げ出した。だが、この卑怯者にかかずらうヒマな人間がUボート側にいる筈もなかった。
「エンジン被弾!」、「消火、消火だぁ」、「モーターに切り替え急げ!」、「全バラスト排出!軽くするんだ!」といった報告と新たな命令と指示の応酬が士官と部下たちの間で繰り広げられる中、ただ一人武装SS大尉のカール・フリードリッヒ・フォン・シュテルンベルガーだけはオルフェウス号から視線を逸らせずに、やはり先刻の魚雷の被害なのかやや左に船体を傾けているこれまで自分が執拗に追い込んできた潜水艦を睨みつけていたのだが、最早、ことここに至っては自分たちが”詰んだ”状態にあることを認識せざるを得ず、「今回は、貴様らの勝ちだがこの戦争は始まったばかりだ!我々はヨーロッパ全てを手中にする!お前たちが逃れる先のイギリスもやはり戦火に巻き込まれるだろう……。マリアさんとアンナちゃんがどこまで踏ん張れるか見ものだな」と、言ってから彼は一度、白みかけてきた払暁の空にうっすらたなびく靄に目を移してから
「……レイチェル……オレを迎えに来ちゃくれないかな」シュテルンベルガーは胸ポケットに収めている愛しい彼女の遺骨の粉が詰った小瓶に手を添えた。
そこにヤン・レヴァンドフスキィ大尉が放った必殺の砲弾が船首部分の魚雷発射管室付近に着弾。隔壁を貫き、予備の魚雷を誘爆させた。白い閃光と猛烈な爆破のエネルギーが瞬時に発生!船首部と艦橋を包み込み鋼鉄の船体その物を衝撃波と轟音が飲み込んでは無惨に引き裂いていった。
開戦劈頭以来、逃亡を繰り広げていたオルフェウス号を追跡しては事あるごとに妨害、攻勢を繰り返してきたドイツ海軍のU-X09は断末魔のおぞましい業火と漆黒のきのこ雲を空高く残してバルト海に消えた。オルフェウス号の聴音室においてその凄まじい轟音をパッシブソナーにて確認したフランツ・ヴァノック一等兵層はヘッドセットを外して聴音機のスィッチを切った。
艦橋に立つ艦長のアレクサンデルは海水面にまで流れ出している炎に囲まれているUボートの姿を見て
「間一髪だった。下手をすればあれが、おれたちの運命だったはずだ」と、艦橋の内壁に身体を預けて力なく呟くとぐったりとなってしまった。
そんな艦長を他所にして艦内では未だに生き残りをかけた戦いが続行中であった。
「浸水!船体中央部付近がひどい」、「排水ポンプはバッテリー室を中心に使用しろ!塩素ガスに注意しろ」、「充填材の20x20mmを持って来い!急げぇ」、「工具箱とこっちに人員を寄こせ」直撃ではないにせよ魚雷着弾の影響による浸水が著しく、機関長のハスハーゲン、先任士官のヤン、航海長のレフまでが汗だくで復旧作業に関わっていた。艦の運行に関わっている操舵員と機関区員以外の人員がこの作業に駆り出されていたが、マリアとアンナ、そして未だ意識が戻らないレオン少年ら三人は士官室にあった。
魚雷発射のために我が身を呈して高圧電流に晒されたレオンはマリアに抱かれたまま一言も発せずぐったりと顔を彼女の胸の中に埋めていた。
「レオン、レオンってば男手はあんたが頼りなんだからね!帰って来なさい!モニカの所に行くのはまだ早いんだからぁ」マリアは涙声を上げつつ少年の身体を揺するが反応が無い。アンナモ泣きそうになってレオンの足を揺するものの、こちらも力なくぐったりとしていたが、アンナはレオンの表情がどこか薄ら笑いを浮かべているように見えて”はて?”と、首を捻った。
マリアは自分の腰をぐいっと引き締める力を感じると今度は自分のバストにぐりぐりと圧力をかけて擦り寄ってくる感覚に驚いた。そしてそれがレオンの頭で、彼はいつの間にかに意識を回復させていて
「えへ、えへへぇ~。おぱぁいーおぱいだぁ」と、まるでネコが飼い主にエサをねだる時みたいにしきりに頭を豊満なマリアのバストにこすり付けていた。
「レオン!良かった」マリアはレオンの行為にはお構いなく、きつく彼を抱き締めて泣きながら何度も彼の短く刈った頭部に頬ずりしたのだった。
アンナはそんなレオンの様子を見ては
「マリア姉ちゃん。レオンがち○こ立たせてるよ」と股間を指差して姉に忠告した。
「え!?あんた何時から気が付いていたの?」マリアはレオンから手を離すもレオンの方はいっそう手に力を込めて抱き付き顔全体を彼女のバストこすり付けては
「ここに運ばれてマリア姉が来てくれてから……。抱きしめてくれるしぃ、滅多にないんだもん。それにいい匂いだし、柔らかいしぃ、ご褒美だと思ってさぁ」と、自分が演技していたことをばらしてからまた
「えへ、えへへぇ~。おぱぁいーおぱぁいだぁ」を繰り返したのだった。そしてあろうことか、今度は手で直に胸を触ろうとして来たので、マリアは
「バカヤロウ!」と、レオンの頭を平手で引っぱたいた。
Uボート側でただ一人無傷でいち早く被害を免れた、ヤコブ・マズゥールは未だ9月だというのにすっかり身も凍るほどに冷たくなっていた海中を泳いで、何とか波間に岩礁を発見してたどり着いた。彼はずぶ濡れの身体を震わせながら岩場の上に立ち上がった。高さは何とか1メートルほどで周囲はざっと4,5メートル四方ほどの小さな陸地であった。ヤコブはブツブツと自分の境遇を呪いながらも、自分が祖国と仲間を裏切ってまで乗り組んだUボートの最早残がいと言って差し支えない船体の状況を見取って
「クソッ!このマヌケなジェリー共が!」と、悪態をついた。そして、彼はその場でしゃがみ込んでは身体を屈めて熱が体内から逃げないようにしながら
「まぁいい!この騒ぎを聞きつけたデンマークなりスウェーデンの船が救助に来るまでの辛抱だ!オルフェウス号が『エニグマ』を積んでいる、この情報ならまだ”買い手”が付くはずだぜ」と、ヤコブは一人今後の自分が持ちうる情報という商品の値打ちの算段をつけながら、燃え盛るU-X09におどけた態度で敬礼をして見せて別れの挨拶としたのだった。
ヤコブのすぐ背後で甲高く耳ざわりで人を小バカにしたような鳴き声がふいに沸き起こった。彼はすぐさま振り返ると、体長にして1メートルほどのおそらくは子供であろう小振りな鯱が珍しいアザラシと思ったのか水面から黒と白のコントラストが際立つ体躯を岩場に乗り上げて来ていた。小さくともちゃんと牙が生え揃ったピンクの口を広げて向かってくる鯱に、ヤコブは手近にあった岩を振り上げてそのチビ鯱の口を目がけて叩きつけた。”ギュ-ッ”と変な呻き声を上げてそいつは身を翻して退散し、暗い水中へと姿を隠した。
「ふ、ふざけんなぁ!クソチビ!」そう喚き散らすヤコブの背後でまたしても先刻と同じような耳ざわりな鳴き声。彼はさっきのチビかと手頃な石を拾いあげてまた叩きつけてやろうかと振り返った。
「……!!」ヤコブの生涯で最後に眼に焼き付けたもの、それは自分の背丈ほどもあろうかと思われた大人の鯱が広げる大口だった。生え揃う牙の一つ一つが人の拳大ほど大きく、そいつの吐く息はおそろしく生臭い。鯱は哺乳類であり鮫とは違う。獲物を追うとなればほんの波打ち際でも身体を乗り上げてでも容赦なく喰らうのだ。この場合でも奴は手足の長い珍しいアザラシの片方の腕を容赦なく銜えこんで波間にさらった。それはほんの数秒の出来事。岩場にはその鯱にしてみれば肉付きの悪い”しょぼいアザラシ”が残した革靴の片方だけが残されていた。
自分の足下というより階下の司令塔か発令所の辺りから洩れ伝わる銃声と人間の叫び声にシュテルンベルガーの意識は現実世界に引き戻された。銃声が止んでからしばらくすると彼の虚ろな視線には自分と同じ目の高さに艦橋と司令塔を繋ぐハッチが開いた状態で映っていた。そこから普段でも不気味な幽鬼のような面構えのユリウス・レンプ機関長がいっそう顔を青白くさせて顔をだした。彼は力なくシュテルンベルガーの方に手を伸ばしてくる。
シュテルンベルガーも手を伸ばすが、すぐに自分の左脚に激痛が走ってその場で突っ伏してしまった。問題の箇所には致命的な砲撃を喰らって大爆発を起こした船首部分から飛来してきたであろう鉄片が膝の上辺りに食い込んでいた。レンプ機関長はうわ言を口にしながら彼に助けを求めていたが、ふいにその姿は何者かに引っ張られるようにして消えてしまった。そして、またしてもそのハッチの奥からは銃声と水兵なのか下士官なのか判別できない
「ちくしょう!こっちに来るなぁ」、「クソッ食われてたまるかよぉ」といった口々に喚きたてている声が伝わってくるのみ。そしてまた一人また一人と悲鳴を上げつつ反応が消えていくのが、彼にはわかった。
「生きてるのか?もうダメだと思ったが」シュテルンベルガーは艦橋の羅針儀や照準器支筒につかまりながらなんとか立ち上がってみた。左脚はもう使い物に成らないかもしれないと考えつつ、彼は砲撃を受ける前に艦橋にいた仲間の姿を求めた。
「キュヒナー艦長!ハルトマン」彼の呼ぶ声に応える者は無い。やがて目が慣れてくると艦橋の一番後ろの内壁の下に頭を完全に吹き飛ばされた艦長アルベルト・キュヒナーの遺体が転がっているのに気が付いた。武装SS大尉は艦橋の外縁から海面に目を移してから、破壊されてしまったUボートの状況を具に見て取った。船首部分の三分の一は完全に失われてもなお船体そのものは浅い海底に乗り上げた状態で沈座していた。司令塔の付け根あたりで海面が途切れて彼がいる箇所はかろうじて水没を免れていた。
ただ海水はそこより階下の船体に進入して電源は完全に失われていた。更に船首部の破孔から予期せぬ侵入者の来訪があったのだ。鯱の群れだった。奴らは物珍しい鉄の巣の中に潜む変わったアザラシを腹に収めんとくり返し襲撃を行い、人間を襲っていた。シュテルンベルガーを気付かせたのもその襲撃を絶望的な状況で撃退しようとしている乗組員の叫びであったのだ。
シュテルンベルガーは背中を海面に浮かべて力なく漂う先任士官ウルリッヒ・ハルトマン中尉の遺体までもが鯱の牙にかかって水中深く引き込まれるのを目の当たりにした。彼がこの悲惨な状況を好転させる余地のないことに気付かされるのにそう大した時間は掛からなかった。シュテルンベルガーは階下の司令塔と艦橋を隔てているハッチを閉めて階下の惨劇が自らの耳に届かないように処置した。そして彼は自分の黒尽くめの制服がやけに白い埃に塗れているのに気が付いた。胸辺りを中心に広がるそれを彼は手に取りいつの間にかあの小瓶が失われていることにも、その白い砂状のそれがかつての恋人の遺灰であることも同時に察していた。
シュテルンベルガーの心臓部辺りに飛来した破片の一部はそこに切先を突き立てる前に、彼が親衛隊になる以前に愛した女性の遺骨の灰を納めた小瓶に命中したらしかった。彼はそれを何らかの啓示かと思い目を瞑ったままで
「……レイチェルめ……オレを助けたつもりか?それともまだ、オレにこれまで以上の地獄を見て来いって言うことなのかよ?」こう呟くと、シュテルンベルガーは力なく艦橋の縁に寄りかかった。このままではいずれは自分も海の獣のエサだなと、覚悟を決めた彼の眼に水平線からこちらに接近してくる数隻の船影が映りこんできた。近在の漁村から立ち昇る爆煙を見て出港してきた漁師の小型艇群であった。彼らは厄介な漁の邪魔者を慣れた手並みで追い散らしていく。
出血を伴い再び意識を失う直前に、何語かわからないが北欧独特の発音で潜水艦の司令塔付近に船を寄せて話しかけてくる漁師の赤ら顔にシュテルンベルガーはどこか親近感を覚えた。