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オルフェウス号の伝説  作者: 梶 一誠
2/22

暗号電文 『アルメへ急行せよ』

 ドイツ軍による空襲よって壊滅したグジニャ港を後にしたオルフェウス号は、9月3日の午後には、ポーランド回廊の海岸線からグダンスク湾の西半分を取りかこむようにして伸びる細長い堤防のような地形をしているヘル岬の沖合い東へ約20キロの海上にあった。この日も晴天に恵まれて波も穏やかであった。

 出撃した当初においてポーランド海軍潜水戦隊司令部からは、オルフェウス号は西部海域にて哨戒し、現在、北ドイツ、ポンメルン方面からグダンスク郊外に迫るドイツ陸軍第四軍クルーゲ軍団を支援攻撃するために派遣されるであろうドイツ海軍の巡洋戦艦『シャルンホルスト』、『グナイゼナウ』を(よう)した新鋭艦揃いの戦艦部隊を迎撃せよとの指令をうけていた。

 だが、丸二日たったこの日にいたっても、戦艦どころか海防艦、駆逐艦といった小型艦艇の影すら見受けることも(かな)わなかった。

「不気味なくらい静かです……。遭遇するのは敵の偵察機かスツーカ爆撃機ばかりです。……晴れわたった空がいまいましいですよ。上空からは丸見えだ」オルフェウス号の次席士官であるヤン・レヴァンドフスキィ大尉は隣に(たたず)む艦長のアレクセイ・クナイゼル中佐に報告を入れて、上空を仰ぎみてから大きくため息をついた。今、彼の視線の先には数羽のカモメがのんきに舞っている。

「司令部のカミンスキィ提督は思い違いをされているのではありませんか?ドイツ海軍はイギリスの出方を懸念して未だキール軍港を出てはいないのでは?」副長のアレクサンデル・コヴァルスキ少佐も自分の左隣にいて同じように静かなバルト海の水平線に向けて双眼鏡を目にあてている上官に意見具申した。

「命令は命令である。異論を挟むな副長。それより水兵どもをなんとかしたらどうか?」二人の士官に挟まれた形で潜水艦の艦橋にあって、少し肌寒くなってきた海風にさらされながら艦長のクナイゼル中佐は双眼鏡を降ろしてアレクサンデルを睨みつけた。

 46歳、意気軒昂(いきけんこう)そうに胸を張る艦長のアレクセイ・クナイゼル中佐はえらの張った四角い顔を、怒気を含めて副長を見上げるようにしている。

「はっ!彼らには本艦の作戦を納得させます」

「そうではない!作戦に対する異論なぞ発言させるなと言っているのだ。服従させればそれで良い!」そう吐き捨てるように言うとさらに、アレクサンデルの肩ぐらいまでしかない背丈の小男は副長を責め立てた。

「グダンスク港内で陣取っておるドイツ戦艦を魚雷攻撃しようなどと誰が言い始めたのだ?抵抗している守備隊を援護して救出しようなどと…馬鹿げておる!」こう云うと、自分の身なりをやたら気にして艦長帽の収まりぐあいを何度も確かめた後、彼にそっぽを向いて艦尾方向に双眼鏡を向けた。

「……はい、艦長殿」目を伏せて声をしぼり出すようにして返答するのがやっとのアレクサンデルであった。

 司令塔の上部、潜水艦の目である攻撃と捜索用の潜望鏡用の丸太のようなパイプ二本と通信用アンテナ、伝声管、従羅針義などがひしめいている艦橋セイルは三人の男が立っているだけでも手狭であった。潜望鏡ポールの先に一羽のカモメがとどまり眼下の人間共をあざ笑うかのように甲高い鳴き声をあげた。

 クナイゼル艦長の苛立ちは不意の攻撃により緊急出港を余儀なくされた一日目から始まっていた。三名の未帰還者の事を皮切りに、他の僚艦にくらべて出港が遅れたこと、ひいては水兵たちの集合が遅いのは貴様ら士官の乗り組みが遅れたせいだと言い出す始末だった。

 アレクサンデルら部下の士官、下士官にしてみれば空襲の真っ最中に移動など不可能であったこと。オルフェウス号の水兵達に(あて)がわれた兵舎は他の潜水艦の乗組員たちより二ブロックも内陸側であって、まずは身の安全を計ることを最優先にして、数名のグループで仲間を捜索、集合させてから乗り組ませたことが遅延の原因であった。

 艦長に言わせればそれこそが怠惰(たいだ)であり、まずは何を差し置いても、自分たちの艦への乗り組が最優先であるのに我が身の安全を計るは、国家国民への忠誠心が足りないせいだと言うのだった。。かくいう自分は水兵たちが船の(もやい)を解き始めた頃にようやく桟橋に現われてそのまま艦長室に(こも)ってしまったというのに。

 昨日は昨日で、艦の中枢部であり司令塔の階下にある発令所において、現況確認のために傍受していたワルシャワから発信されたラジオ放送を聞き及んだ一部の水兵の間で、未だにドイツ軍に対して抵抗を続けているポーランド軍の守備隊を援護すべきだと、開戦の端緒から艦砲射撃で味方を苦しめているドイツの旧式練習戦艦シュレスヴィヒ・ホルシュタインに対して、潜航して近づき魚雷で撃破すべしとの熱くなった数名の水兵が押しかけてきて、艦長に直談判(じかだんぱん)におよんだのだった。

 クナイゼル艦長の言によれば、水兵による上級士官への談判なぞは反乱行為に等しい暴挙であると。海軍は水兵に意見など求めていない。命令の履行(りこう)、服従のみを求めるとして一切取り合わなかった。結局、ここでも副長のアレクサンデル・コヴァルスキ少佐が間に入った。

 副長は”気持ちはわかる”と前置きしてから、グダンスク港にいすわる旧式戦艦を狙おうにも、ラジオ放送からの情報によれば、その戦艦は少し内陸側に向って大きく数十キロ四方に広がった港湾部とバルト海を繋ぐ一本道のような狭い水道のど真ん中に腰を落ち着けており、その浅海面(せんかいめん)に近づくには潜航したままでは無理である。制空権を完全に握られた現在ではすぐにJu87爆撃機かHe‐111(ハインケル)双発爆撃機が飛んでくるだろうと、水兵を説得して事を収めた。

艦長はこの処置にも苦言を(てい)した。いちいちアレクサンデルの行動と判断がお気に召さない様子なのである。

 「失礼します。あのぉ先刻よりラジオ放送を傍受しておりますが、イギリス、フランスがドイツに対して宣戦布告した模様です。あと司令部より暗号電文が入っております」

 三人の足下にある司令塔ハッチを開けて通信担当、ソナー員の一等兵曹フランツ・ヴァノックが顔を覗かせた。

「遅い!侵略が明らかになってから丸二日も……。何のための相互扶助条約なのか」報告を入れてきたフランツ兵曹に艦長は頼りにならない同盟国に対する非難の声をぶつけた。その声の大きさに羽を休めていたカモメも驚いて飛び立ってしまった。

 自分に非が無いのにいきなり艦長に八つ当たり的に怒鳴られた事で、先月18歳になったばかりのフランツはどう返答したものかと困惑した表情を艦長以外の二人の上官に向けてきた。

「フランツ、分かった。持ち場へ戻れ。我々も下へ降りる」とアレクサンデルはフランツ兵曹を下がらせてから艦長に向って

「情報を整理して、今後の我々の身の振り方を検討してみた方が良いと思われます。暗号電文の内容も気になります!ここ数日の状況を踏まえれば司令部がまともに機能しているとは到底思えません」とやや声高に詰め寄った。クナイゼル艦長は不満げにノッポの副長の顔を見上げていたが、

「そうしよう」とだけ同意を示すと司令塔より、もう一つ階下の発令所に向けて昇降ハシゴをつたって降りはじめた。

「病気のせいだとは思うが、少しひどくないか?」次席士官のヤン・レヴァンドフスキィ大尉が自分の親友であるアレクサンデルに対する艦長の態度にいささか不愉快そうにむっとした表情を彼に向けた。

「いつものことさ……。オレ達が艦橋に付き合わされる時は、たいがい”社長”の虫の居所が悪い時にきまっている。それに不満を抱えたままでいて胸の爆弾が破裂されても今は困るしな」

 社長とは水兵、下士官の間で使われているクナイゼル艦長の通り名で、普通こういった軍艦の艦長としては”親父”が一般的だが、オルフェウス号内では彼がめったに現場に現われずに艦長室に”巣篭(すご)もり”していることが由来している。(ちな)みに副長のアレクサンデル・コヴァルスキ少佐は”二代目”で次席士官のヤンは”番頭さん”と言われているらしいが、当然ながら本人たちはあまりその事は知らない。

「オレクの辛抱強さには感心するよ」

「おれがこの艦をおりて、他の艦に移ったらお前さんが先任士官だ。”社長”のお相手をせにゃならんのだぜ次席士官君」

「……君より艦長のほうが先にこの艦を降りなきゃならんことになると思うな、俺は。ここのせいでな」ヤンは司令塔の水密ハッチから顔だけだしているアレクサンデルに自分の心臓を指でつついてみせた。

 アレクサンデルは”よしてくれ”の意で首をふりふり階下へと消えた。ヤンは自分が降りる前に

「二直、三班あがれぇ!」と交代の見張り員を大声でよんだ。

 彼ら三人が発令所に着くと艦長は、副長に速やかに情報の検討を行いその結果を報告するよう指示してから、船首方向、魚雷発射管室のすぐ後ろにある艦長室の方に足を向けた。

 発令所とは、潜水艦の操縦と指揮を行なう部署であり、ほぼ船体の中央に位置していて、その内部には船首と船尾の横潜舵(おうせんだ)を操作する二つの操舵輪を始め、海図台、舵手席、バラストタンク用のブローバルブ、潜望鏡用の収納パイプに加えて、円形にゆるくカーブしている圧力隔壁の壁面には速度計、深度計、ベント弁開閉ハンドルといった潜水艦の行動に不可欠な機器類が集中しているまさに心臓部である。

 この区画内にはたえず、ディーゼルエンジンの駆動音が水密ハッチの向こう船尾側からもれ伝わってくる。その中で操舵員の水兵二人、航海長のレフ・パイセッキー中尉と掌帆長のグラジンスキィ。機関長のヤロスロフ・ハスハーゲンとその部下の水兵が詰めていた。

 彼らは上級士官が艦橋から降りてくるついさっきまで、首都ワルシャワから発信されてくるラジオ放送に耳を傾けていた。皆、表情が暗い。押し黙りうつむいていた。今、ラジオは放送を中断してしまったのかスピーカーからは空電のノイズが聞こえるのみ。

 副長のアレクサンデルは今一度、傍受したラジオ放送の内容を通信員のフランツ・ノヴァックに復唱させた。

 まず、イギリスの戦時内閣首相ウィンストン・チャーチル卿は九月三日の正午に”トータル・ジャーマニー”に対しての宣戦を布告した。ついでフランス首相も対ドイツに対する軍事作戦を展開するとの声明を発表。ここに第二次世界大戦は本格的に動き始めた。

 次に、侵攻してくるドイツの機甲師団に対してポーランド陸軍は各方面で善戦するも包囲され軍団同士の連携も取れず、かつての陸軍の花形である騎兵師団が無謀とも云える突撃をくり返しことごとくが殲滅(せんめつ)されているとの報道があったこと。また各地の空軍基地も開戦初日の空襲でほぼ壊滅状態にあり制空権はほぼドイツ空軍によって奪取された状態にあることも告げられたのだった。

 ドイツ軍の機械化部隊は、ポーランドの国土の北部にあって唯一バルト海に接するポーランド回廊と称される地域を分断し、その東にドイツの飛び地として陸の孤島のように昔から本国から切り離されていた東プロイセン地方からもキュヒラーの第三軍が越境。ワルシャワを北部から圧迫し始めた。中央、南部方面でもルントシュテットの南方軍集団が破竹の勢いで首都を目指していると以上がラジオから得られた情報であった。

 宣戦布告は表明したものの、大国ドイツをはさんで西側の大陸軍国フランス、バルト海と北海をへだてた海軍国イギリスも連日、ヒトラー政権を舌鋒(ぜっぽう)鋭く非難はするが、ポーランド救援のための実質的な軍事行動を採ることは無く、フランス陸軍はマジノ線の向こうで首を(すぼ)めたまま。イギリス海軍は旧式駆逐艦一隻ですらスカパ・フローの軍港から出動させることは無かったのだ。

 「あと、これは平文で受信した司令部からの電文です。読みます」

 フランツ一等兵曹が読み上げた内容とは、ポーランド海軍は事実上の抵抗を断念し、遺憾ながらバルト海に散っている各艦艇は自力でドイツ管理下の海域を脱出し、イギリスへ向かえ。もしくは中立国での抑留も止む無しとの内容であった。

 これには士官、下士官を問わず発令所に居合わす面々が悔しさに身が(よじ)れる思いだった。

「待て、ヴァノック一等兵曹。この電文は平文だな…。暗号電文のほうは?」とアレクサンデルが訊ねた。フランツは暗号電文の原票を差し出して士官専用でありますと告げてから更にこう付け加えた。

「宛は我がオルフェウスのみとありました」

 アレクサンデルは原票を持って艦長室のすぐ後ろにある士官室に入ると、隔壁にぴったり寄り添うように設置している寝台と畳一帖分のテーブルの上に、タイプライターほどの大きさの暗号解読器を寝台の上の棚から引っ張り出して、決められた手順通りにキーを打ち始めた。

 15分ほどしてアレクサンデルは発令所に戻り、先ず暗号解読の結果をひろうする前に航海長のレフ・パイセッキーに

「『アルメ』という港を知っているか?海図で探せ」と指示した。

 長身で痩せ型、メガネの学者風の男が海図にある海岸線の地形から問題の港町を探しあてようとその高いワシ鼻を紙面に近づけ食い入るように見つめている。

「ありました。東プロイセンとグダンスクとのちょうど境にある港街というより小さい漁村ですね。何でこんな漁村が暗号に?」レフが問う。

「詳細は不明だが、ここでトマス・ハックスリーというイギリス人と彼の荷物を確保してイギリスへ向けて脱出せよとの事だ。最優先事項だ。変更も拒否もできないぞ……」その後のことを言いよどんでいるアレクサンデルにヤンが怪訝(けげん)そうに彼の顔を見た。

「どうしました?」

「荷とハックスリー氏の身柄をドイツ側に渡してはならないとある。……そうせざるを得ない場合は、オルフェウス号は速やかに自沈。荷物とハックスリー氏も的確に処置せよと……ある」

「自沈…!?処置せよとは……その人物を殺せと言うのか?」

「あるいは、自決を強要することになり得るということだ」

「”荷物”とは何でしょう?」レフが海図台にコンパスと三角定規をあてながらアルメまでの距離を計測しつつ疑問を投げかけてきた。

 この問いにはアレクサンデルはただ肩をすぼめて首を振って見せた。

「そのハックスリー氏に会ってみないと分からないわけですね」とレフ。

 その後、アレクサンデルは艦長に報告を入れてから、アルメに接近するのは充分夜がふけてからの方が良いと進言した。制空権はドイツが握っている現状では昼間に東プロイセン沿岸に接近するのは至難の業であり、それまでは海底に潜んでやり過ごしたが得策であると。

 クナイゼル中佐は珍しくこれを快諾した。

 こうして9月3日の夜半に、オルフェウス号はそのアルメと呼ばれる漁村の沖、数キロのポイントで浮上した。

「クソッ!ダメか。先を越されたのか?」司令塔が水面上に姿を表してすぐに水密ハッチを開けて、飛び出してきた次席士官はこう云ったあと、唇を咬んだ。

 彼の後にアレクサンデルと航海長のレフ・パイセッキー中尉があとに続いた。

 小さな新興の漁村であるアルメもまた、グジニャ同様の攻撃を受けて業火の中にあった。こちらは申し訳程度の港と、それを取巻く数件の民家しかない。その全てが原形をとどめていなかった。

 夜空と小さな港町の無惨な残がいを照らす炎はこうこうと潜水艦の黒々とした船体をも鮮やかに映しだしていた。微速航行で船底部がこすれる、ぎりぎりの深度まで接近してみたが生きている者の姿を確認できなかった。見えるのは炎の灯りで浮かび上がる砂浜と波止場に転がる大小の遺体の数々のみ。

「残念だが、接触は不首尾に終わった。……女、子供まで、ここまでやるか」アレクサンデルが戦火に焼かれる村から流れ来る黒煙にむせながらつぶやいた。

「どうします?トマス・ハックスリー氏もあの中でしょうか?」レフが副長と同じように業火に顔を照らされながら不安げに言を発した。

「灯りだ!ほら、桟橋の突端だ」ヤンが鋭く指さす方角には誰かが懐中電灯の白い明かりをこちらに向けて何回も大きく円を描いている。よく目を凝らすと、その灯りは桟橋の影になって判らなかったが一隻の漁船から発せられていた。

「左、前進微速、とーりかーじ」潜水艦はゆっくり漁船の方へ舳先(へさき)を向けた。漁船もこちらに近寄ってくる。互いの舷が触れそうになるくらい接近すると、光の合図を送ってくれていたのは一人の老人であることがわかった。

「遅いじゃないか!海軍さんだなぁ?まさかドイツの潜水艦じゃあるまいな」ゴム製の胴長を着込んだ小柄の老人は赤ら顔の下半分を白いヒゲに覆われていた。彼は漁船のキャビンから大声を張り上げている。

「大丈夫だ。ポーランド海軍のオルフェウス号だ!アルメ…の人だね。我々はイギリス人を探している心あたりは?」艦を代表してアレクサンデルが訊ねた。

「グダンスクから疎開してきたコヴァルチェク神父様の客人と奥様を沖合いで停泊しているスウェーデンの船に送り届けて戻ってきたら……この有様だぁ!わしの孫娘も娘夫婦も桟橋で転がっていやがる!ドイツ軍のクソッタレ共がやったんだ!わしらが何をしたって云うんだよ!海軍さんよぉ!」老人は肩をいからせ、声の限りにわめきたてた。操舵輪を持つ手が怒りに震えているのが司令塔の上からみても分かった。

 アレクサンデルはこの老人にどんな言葉を掛けたら好いか、躊躇(ちゅうちょ)したまま口をつぐんだ。老人は大きく深呼吸してから続けた。

「……これは神父様の奥様の話だが、本当はあんたらの潜水艦がその客人を迎えに来る手はずだったらしいが、ドイツ軍の空襲でグジニャが潰されたって話を聞いた神父様がな、一人でグダンスクまで戻って代わりの船を捜してきたらしい……。そいつが3時間くらい前に沖合いに着いたんだよ。こいつの無線に連絡があってな、片道一時間の随分沖のほうまで出張って来たんだ」

「その船がアウローラ号かね…?」副長の問いに(うなず)く老人。

「ああ、そうだよ。奴らは神父様からこの港に家族とその客人が隠れている事を聞いておきながら、丸一日無駄にしやがった。コヴァルチェク神父様はよぉ、こんな辺鄙(へんぴ)な田舎にもわざわざ礼拝に来てくだすったんだ。義理があるでなぁ、お手伝いしたんだよぉ。イギリス人かどうかわかんねえが、大分深手を負った身なりの好い外国人がいたよ。あとは神父様が面倒みてた子供らと奥様を確かに乗せてここを出たよ!」

「その船は…?」行き先を聞こうとしたアレクサンデルに老人はまた激昂して

「ストックホルムまで難民を運ぶそうだよ。あの罰当たりなスウェーデン人めらが!人の弱みに付け込んで一つ商売をしようってんだよ。戦争に(かこつ)けて全く!船には人が満載だった……。だから一日遅れたんだわい。あれじゃ行き脚は相当鈍いな!……あんたらは…本当の海軍だな?ドイツ軍じゃないな?」と念を押す老人はアレクサンデルの顔をじっと見つめている。

「どうした?爺さん。そうだよポーランド海軍に間違いないよ。もう帰る港も無い!壊滅したよ」アレクサンデルがこう云うと、老人は指だけで”こっちへ来い”と合図した。

 二人が漁船に移ると老人は「荷を預かっている」と告げた。


「……航海の無事を祈るよ」それだけ云うと老人は舵輪を回して潜水艦から漁船を離して、自分の生活があった港に戻ろうとした。

「爺さん!すまない……どうするつもりだ?」アレクサンデルが声の限りに去りゆく漁船に声をかけると、それに応えて老人がキャビンからどでかいクマ撃ち用の猟銃を構えてでてきた。

「漁のジャマをする(しゃち)どもを追っ払うためのもんだが、これでドイツ軍と刺し違えてやる!腕は確かだど、オレは!鯱の背びれに何度も穴を開けてやったもんさね。もう、家族もねえ!村も友達もねえ!みんな戦争がさらっていっちまった!…じゃあな。元気でやりなっせえ海軍さん」

 老人はキャビンに消えると同時に、オルフェウス号の司令塔の面々は思わず去り行く漁船に向けて敬礼した。覚悟を決めた老人を引き止める事などかなわない。彼らが協力してくれた同胞にしてやれることはこれが精一杯であった。

「レフ、ストックホルム行きの定期航路の目星はつくか?」アレクサンデルは敬礼を解くとすぐに航海長に問い質した。

「機関、ディーゼル。両舷前進全速!面舵いっぱい」その隣でヤン次席士官が発令所に下令。

「ハイ、すぐに。おおかたの目星はすぐ付きますので」レフ・パイセッキ中尉は云うが早いか階下へ降りていった。

「急ごう!ドイツ軍にとっては何か持ち出されたら都合の悪い品を持っているらしい……。今の状態で先を越されたらもうアウトだ!」

「オレク、……難物だな、色々と」

「今は、グダンスク湾を出て敵の偵察機が来ない海域を目指す。一路、ストックホルム方面へ進路をとろう」

 アレクサンデルは舳先(へさき)から白波をたてて航走し始めた潜水艦の司令塔の縁に手をかけ、月夜の灯りで銀色に耀(かがや)く水平線に目を凝らした。日が昇れば恐らく勤勉な敵の偵察機が朝一でこちらを発見して、運が悪ければそのまま空襲を受けて海底に招かれてしまう恐れもある。彼は()れる気持ちを抑えつつ、辛抱強く双眼鏡を覗き続けた。


 

  

 

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