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オルフェウス号の伝説  作者: 梶 一誠
19/22

フィリプの海図そして海峡水域へ

エストニアのタリン港を脱出したオルフェウス号とソビエト海軍の潜水艦がバルト海上で邂逅(ランデブー)していた頃、その港内では、未だにドイツ海軍U-X09と情報収集船『ルシュ・タラッサ』号が出口付近において、針路をどちらが譲るのかで一悶着を起こしていた。

「だからぁーこのデカ物が素直に針路をあければいいんだよ!」U-X09艦長であるアルベルト・キュヒナーは艦橋上にあって苛立たしく自分の艦長用の白帽で何回も潜望鏡用のシャフトを叩いていた。

 Uボートの舳先の先には巨大な貨客兼情報収集船の横っ腹があって二隻の船は今にも衝突せんばかりの距離を保ったままであったのだった。

 そこへ階下の司令塔のハッチから顔を覗かせた無線担当の水兵からの

「あのぉ艦長殿、『ルシュ・タラッサ』の船長からであります。”貴艦も潜水艦であるなら連中同様に本船の下を(くぐ)ればよかろう”……だ、そうであります」この報告を受けたキュヒナーは更に声を荒らげて

「それができれば苦労はねえんだよ!いちいち水深を計るヒマがあるならさっさとどけと言ってるんだぁこっちはなぁ!」報告を入れてきた水兵に八つ当たり気味に食って掛かかる艦長に、水兵は亀のように頭を引っ込ませてしまった。

「しかし、連中も思い切った事をしたものですね。この海上バリケードの下を潜る《くぐ》るとは……」キュヒナーの背後でこう言ったのは、先刻まで陸上でソヴィエトの特殊部隊との死闘を演じていた武装SS大尉のシュテルンベルガー。彼の視線は艦長とは別の、自分が切り結んでいた桟橋と基地管理棟との間に広がる区画に注がれていた。そこには自軍と襲撃して来た恐らくはソビエトの工作部隊、そしてポーランド海軍の下士官、ヴォイチェフの遺体を含めて5、6体の遺体が放置されたままになっている。

「呑気なことを言うな!貴官の責任は重大だぞ。シュテルンベルガー君よ」

「ハイ。それに関しては弁明の余地はありませんな。一度は『エニグマ』を手にしておきながら、かたわのガキ共に先を越されることになるとは……」シュテルンベルガーはレオンに体当たりされた下腹部の辺りを見つめて唇を噛んだのだった。

「艦長殿、不味いです。いよいよエストニア軍も混乱から立ち直ったようです。応援部隊が基地外から集合して来ています」シュテルンベルガーのちょうど隣で双眼鏡を覗いて港内の基地施設を監視していた、先任士官のウルリッヒ・ハルトマン中尉もいささか慌てたようにキュヒナーに事態を告げると

「大丈夫ですよ。連中は遠巻きにしているだけです。エストニアをはじめバルト三国自体、我がドイツと正面切って事を構える度胸なぞありません」と、あくまで武装SS大尉は落ち着いた態度を崩さない。

「だと良いがな!」キュヒナーは艦橋にいる二人に背を向けたままでこう吐き捨ててから

「通信兵へ!向こうの石頭に『こちらは一旦後退する。その間に港外へ出られたし』と通信を入れろ」と、伝声管で階下の発令所に指示を送ってから

「エストニア側の抑留を受ければ”軍法会議物”の事態を招くぞとも言っておけ」彼はそう言うなり乱暴に伝声管の金属製のフタを叩くようにして閉めた。

「キュヒナー艦長、今後ですがやはり『ルシュ・タラッサ』号との連携を取って行動するしか有りませんな。あの船の通信機能で広範囲の航空機による索敵を管理運営させる方が適切かと」

「そこいらの段取りは君に一任する。下で電信係を使って構わん……うん?」艦長と武装SS大尉が如何にしてオルフェウスを追跡するかを相談する中、いきなり彼らの頭上から女達の黄色い活気のある声が降ってきて会話は中断されてしまった。

 Uボートの針路を塞ぐように停泊している情報収集船『ルシュ・タラッサ』号。この船はもう一つの顔として補給船、そして士官専用の慰安所としての役目も担っていた。その慰安婦たちがオープンデッキにこぞって並んでは、ここ数日の自分たちの上客であったUボートの士官に手を振っているのであった。女達はお目当ての士官の名前を口にしては、肌の露出度の高い扇情的で艶やかな衣装でアピールしてくる。

「バイバーイ!」、「また来てねぇー」とか、中にはお気に入りの士官の個人名を上げて、自分の衣装の胸の部位をはだけて

「アルベルトォー、アルちゃーん。また、ママのおっぱい”ちゅっちゅっ”しに来なさいよぉ」とか言ってくる大柄のお姉さんもいる。

「エ、エルザちゃん、止めてくれよぉ」自分の名前を出されたアルベルト・キュヒナー艦長はその場で顔を真っ赤にして下を向いてしまっているし、先任士官はお目当ての子を見つけては嬉しげに手を振っている始末。

「シュテルンベルガー大尉!貴様ぁ傾注しろ!」武装SS大尉もまた自分の個人名を呼ばれてその女の子の列に目をやると、これまで自分を甲斐甲斐(かいがい)しく世話してくれた源氏名アリスことニーナ嬢がいた。ただ、その格好を見たシュテルンベルガーは”ぎょっ”としてしまった。ニーナ嬢は何と自分と同じ黒い親衛隊の制服、制帽そして黒のミニスカート姿でしかも手には競馬用のムチを持って尊大に構えているのだった。

「貴様、陸にあがって休暇の時には、うっとこ(自分の所)に出頭せよ!必ずだぞ。この格好で遊んであげるからなぁ」と言ってはムチをびゅんびゅん振るっている。

 シュテルンベルガーは女性版親衛隊姿の彼女に、制帽に手を掛けてから軽く笑顔で会釈してから、自分の胸ポケットに入っている、”弾除けのお守り”を指で叩いて見せたのだ。

「御武運、お祈りいたします!いってらっしゃいませ、あなた!」デッキの手摺から少しだけ離れてから”さっ”と慣れない敬礼をしてみせるニーナ。もう完全に奥様気取りでうっすら涙を浮かべている、そんな彼女に最後に一瞥だけくれてから、彼は艦橋から階下へと降りていった。その手摺に手を掛けながら

「どこのバカだ。あいつへの”お代”の代わりに本物のSSの制服を置いていった奴は。忌々(ゆゆ)しき問題だ」と、呟いた。


「オランダの造船技官たちはいい仕事をしてくれたみたいだよ。エンジンは快調そのもの。飲み水と燃料は満タンだし。それに予備魚雷のほとんどを降ろしてしまったからな、行き脚も早い」

「ヤン、残っている魚雷は何本だ?」このアレクサンデル・コヴァルスキ艦長の問いに、先任士官のヤン・レヴァンドフスキィ大尉は、人好きのする丸顔に渋面を浮かべて

「前部発射管には三本、後部発射管には二本。合せて五本のみです。艦長」と、報告した。

「それだけか……なるほど行き脚が上がるわけだな……あとは?」

「武器らしい武器と言えば、艦載備砲の10.5cm砲用弾丸がざっと30発、7.62mm機銃用の弾帯ベルトが一式だけになる」

「そいつは……どうにも心強いね!?」ヤンの報告に、アレクサンデルは皮肉たっぷりに返答した。

 1939年9月21日、この日の太陽は中天に掛かる頃合いに移り、波は穏やかで西からの微風が心地よい。潜水艦オルフェウス号は昨晩と言うより、払暁(ふつぎょう)に抑留を受けていたタリン港からの脱出を成功させたのち、アレクサンデルとヤンの二人は、見張り当直の水兵に睡眠を取らせてその代わり自分たちのみで、艦橋上にあった。 

「レフの奴が頭を抱えているよ。今の段階の航海では簡易的な略図でも問題ないが……。海図を残してしまったのは少々痛かった。レオンの奴が申し訳なさそうにしていた」

「あの状況ではいたし方あるまいよ。レオンも皆も精一杯やったんだ。モニカと、そして掌帆長しょうはんちょうヴォイチェフもな……」二人は永年の友人であり同輩の男と、オルフェウス号に乗り込んで以来、下働きとしても率先して働き、囚われの血の繋がっていない妹のために若い命を散らしてしまった少女に思いを馳せて、しばらく口を閉じたまま双眼鏡を当てて見張りに没頭した。

 幸いに未だ、ドイツ側、あるいは中立国からの偵察機の飛来、海防艦等のパトロールとも出くわすことなく周辺海域には自分たちしか存在していなかった。

 オルフェウス号は針路を南西に取り、左舷側の水平線上ににエストニア領のヒーウマー島を微かに垣間見つつ浮上航行にて距離を稼ぐべくディーゼルエンジンをほぼ全力運転でバルト海の中央海域を目指していた。

「要するに、問題はあの”ザ・サウンド”だな?」双眼鏡から目をはなしてアレクサンデルが言うのをヤンは黙って頷いた。

 ”ザ・サウンド”と呼ばれる海域はバルト海と北海に通ずるスカゲラック海峡への入り口、スカンディナビア半島の先端とデンマークの首都コペンハーゲンのあるシュラン島との間に存在する幅がほんの数キロしかない狭小な水域の俗称で、ヨーロッパの海の難所の一つである。『海峡水域』とも呼ばれるこの海域の特徴はその深度にある。浅海面(せんかいめん)の水域を標準的なサイズの潜水艦が潜航して通り抜けるのは至難の技であり、まず船底を海底に乗り上げさせて座礁させてしまうことは間違いない。現に、彼らの時代を(さかのぼ)る第一次大戦の折には、この海域を抜けてバルト海への進入を果たそうとした、イギリス海軍のマックス・ホートン中佐の率いる潜水艦E-9号は夜陰に乗じてすり抜けようとした際に、座礁しかけている。(詳しくは筆者の作品『海賊旗の潜水艦』にて)

「ドイツ軍の目を盗んで『キール運河』を通り抜けて北海側へ出られれば問題ないけどな」と、ヤンが双眼鏡を覗き左舷側の海原を監視しながら笑って見せた。

「ドイツのUボートの振りでもするかね?オレ達は少し目立ち過ぎたかもしれん。ドイツ海軍ではとっくに”お尋ね者”だろうしな」含み笑顔でアレクサンデルは返す。

 更にヤンは視線を相棒の傍らにある攻撃用潜望鏡用ポールの先端に移してから

「あと、これはもう使い物にならんしなぁ」彼は艦橋にある攻撃と監視二本の潜望鏡ポールの内、艦首側にある攻撃用の先端部が先刻の貨客船の船底部を潜り抜ける際に接触して見事にひん曲がってしまっているのを溜め息混じりで眺めている。

「構わんさ!オレ達にこいつが必要になるような攻撃作戦を摂る余裕なぞありはしないんだよ……。しっかし海図無しでどうやって『海峡水域』を抜けるかだなぁ……」アレクサンデルはヤンの冗談めかした言葉にも生真面目に返答してみせると、白波を立てて海上を切り裂いていく舳先の方角に視線を凝らした。

 暫し、沈黙のあとヤンが(おもむろ)

「オレク……少しいいか?」と、言ってから制服の内ポケットから一通の封書を取り出して見せた。

「この艦を降りたクナイゼル中佐がオレに預けていったものだ。目を通して欲しい」振り返りざまに付きつけられた封書を受け取ると、アレクサンデルはヤンの表情を伺いながらその内容に目を通し始めてからすぐ様に表情を強張らせて自分の被っている艦長帽を(むし)り取るようにして

「何のことだ!これはぁ」と、語気を(たか)ぶらせて艦橋の鋼鉄製の縁に艦長帽を叩きつけた。

「オレック、あくまで可能性の問題なんだ!そこに記載されている内容がどこまで進展しているかは全くわからない!」

「ヤンよ。貴様はぁいつからこれを知っていたんだ!」アレクサンデルは封書を握りつぶさんばかりにしてヤンに詰め寄った。ヤンのほうも少しもたじろがずに

「『レイス』号が撃沈されて、敵のUボートの追撃を受ける前だった。前艦長はいざという時はオレにオルフェウスの指揮を摂れと命令されたが……。あれからはそんな状況じゃなかっただろう?それにオレは君以外の人間を艦長として仰ぐつもりは無い!」と、(まなじり)を決した表情を崩そうとはしなかった。

 アレクサンデルは永年、親友として過ごしてきた相棒から視線を外して、今一度、封書に目を移してから

「……これがあったから、クナイゼル艦長は何かにつけ子供たちをこの艦から降ろすように指示していたのか……。このままでは、クソッ時間が無い!」

「まだ、その情報部の報告書どおりに事態が進展して完了していると決まったわけではないんだ。間に合うかも知れん……。しかし」この先の言をアレクサンデルは先取りして

「ああ!遅れれば全てがムダになるんだ!モニカの勇気も、ヴォイチェフの犠牲もな!そんなことさせるかよ。いいかヤン、いや先任士官レヴァンドフスキィ大尉、このことは他言無用だぞ。子供たちにこんな残酷な事が告げられるか」

 自分を官姓名で改めて呼ばれたヤンはその場で無言にて威を正し、服命の意志を明らかにして見せた。

アレクサンデルは艦長帽を被り直し、封書を制服の胸ポケットにねじ込むとまた双眼鏡で周辺海域の監視を始め、ヤンもそれに(なら)った。

 オルフェウス号艦長アレクサンデル・コヴァルスキ少佐は何度か首を振りながら、自分の意識を海域探索に集中させようとするが、どうしても封書の案件が脳裏をよぎり、彼は小声でこう呟いてしまうのだった。

「『エニグマ』の、あのコピーと同じ物があと一つ存在する……だと!」


 士官室。今は子供たちの居室になっている区画と艦長室を過ぎた先は、艦首魚雷発射管室となっている。その隔壁扉の手前にある士官専用のトイレから、用を足したマリア・フォン・シュペングラーがおずおずと姿をあらわした。彼女はその扉から手を泳がせるようにして、艦内の耐圧隔壁の内側に走っている各種パイプ、電線コードの束につかまりながら士官室へ歩をゆっくりと進めた。

 マリアは今しがたまで、友人のモニカを失い、またナチス親衛隊の士官から自分の両親がもうこの世にないことを残酷に告げられてしまって意気消沈して再び涙にくれ始めてしまったアンナ・コヴァルチェクの添い寝をしてやっと寝かしつけたところだった。

 マリアとて少し眠っておきたい所ではあったが、目蓋(まぶた)を閉じるとモニカの声が頭の中で甦ってくるのだった。自分の手の感覚には、友人の冷たくなっていく顔の輪郭が残り、闇の中にあってもモニカの目鼻立ちがどうであったか空想での像を結んでは、まんじりともせず目が冴えていくような感覚に囚われてしまっていたのだった。

 少し気だるげな表情で、自分の着衣、七分丈のズボンと吊りベルトの位置を直しながらたどたどしい足取りで士官室の直前まで来ると、マリアは自分の眼前に何者かの存在をその息づかいで感知した。

「……どなた?」立ち止まり、息づかいの主の声を聞き取ろうと身構えているマリアに、その存在は

「いいかげん、その(めしい)のフリは止めたらどうだい!?マリア姉。いや演技派のクソ魔女がぁ」と、居丈高に言ってのけた。

「……レオン!?あ、あんた何を言ってるの!」声の主がレオン・ヴィンデルであると判別したマリアは反射的に声のする方向に視線を移す。するとレオンがやや声を荒らげた風に

「ほら見ろ!そうやって俺の顔をすぐ見つけて視線を合わせやがる。本当は見えてんだろう?マリアよぉ。グダンスクで”潰しのマリア”って呼ばれてた頃から目が見えないフリをして油断させては相手をぶっ飛ばしてきたんだよなぁ」

「……!」マリアは最近少し大人びてきたレオン少年の声色に押されて、抗弁もできずに首をふることしか出来なかった。レオンはそんなマリアにたたみ掛けるようにして

「……前からオレはおかしいって思ってたんだよ。あんたは本当は見えてるんじゃないかってさ!昨日でそれがはっきりしたんだ。目が見えないままであんなに上手に一人で踊れるわけがねえんだ!」

「レ、レオン……待って」

「うるせえ!この”(めしい)の魔女”気取りの嘘付きめ!そうやってオレやモニカを騙しやがったんだろう。モニカを、アンナを従者みたいに使いやがってぇ!神父様や先生をも(たぶら)かして、あのイギリス野郎とグルになって国外脱出を(たくら)んだんだろう?みんなを巻き込んで自分だけは助かろうとして、挙句にモニカは、モニカはぁ…てめぇの生贄(いけにえ)になったも同然じゃねえかよ!」レオンはいつしか彼の心情に沸き起こり、(おり)のように凝り固まってしまっていた負の感情と疑念に身を任せて捲くし立ててから目をぎらつかせてこうも言ったのだ。

「おい!マリア。あんたあのトマス・ハックスリーとやらのオッサンにも足を開いて見せたのかよ……」

 ディーゼルエンジン音が響く艦内に”パシッ”とマリアが咄嗟にレオンの横っ面を引っぱたく音が混じってはすぐに掻き消えた。

「レオーンッ!モニカが生贄だってぇ!その言葉だけはあたし、絶対に許さないからね!」マリアは厳しい態度でレオンと対峙したが、褐色の肌の少年も怯まずに年上の少女に食ってかかる。

「やっぱりだ!見えていやがるから、正確に俺の顔を引っぱたけるんだ。あんたは!」と、更にマリアの顔をねめつけてから

「もう、たくさんだ。オレはあんたとは組まない!この先を嘘つき魔女にいいようにされてたまるかよ!」レオンは踵を返して船尾方向へと歩き始めてしまった。

 マリアはいきなり降って沸いたレオン少年の反駁(はんばく)に、息子の初めての反抗期に戸惑う母親のような心境に陥っては不安に高鳴る鼓動を抑えようとその場で佇みながら、何度か大きく深呼吸していた。そんな彼女の手を取る者が。

 「マリア姉ちゃん。レオンを怒らないでね……」こう言って来たのはアンナだった。マリアは6歳の女の子の手を握り返すと、彼女の顔があると思しき方向に今できる精一杯の造り笑顔をむけて

「大丈夫よ。でもレオンには恨まれちゃったかな……?」と、呟いてからはアンナと供に士官室内の寝棚に並んで腰かけた。

「起こしちゃった?ゴメンねアンナ」こう言うマリアにアンナは首を振りつつ

「レオンは、モニカのことが好きだったの……。だから、今は普通じゃないんだって思うんだよね。誰かに当り散らしていないと気が済まないんだと思う」今度はアンナの方からマリアに

「マリア姉ちゃんは本当は見えているの?」と、レオンがたった今投げかけてきた疑問をアンナがぶつけてきた。

マリアは大きく頭を振ると

「見えてはいないわ。……ただ、日中では光を感じることはできるのよ。でも……わたしの目が像を結んで誰かの、そうアンナの表情が読み取ったりすることは出来ないわ。今は完全に闇よ。潜水艦の中の電灯のパワーでは光すら感じられない……」マリアは言葉を区切って、アンナの両頬に手を添えて

「いつも勘違いされるのよ。本当は見えているんじゃないのかって。家の母親にも『演技するな!』って言われたことがあるの……。昨日の昼間だって踊って見せた時はそりゃ怖かったわよ!でも、モニカもレオンも必死に頑張っていたんだものね。”やるしかない”って腹を(くく)ると以外にやれるもんよね」幼女のほっぺを手の平でぐにぐにとマッサージするみたいにして(いじ)ってから

「アンナが本当はどんな顔をしているのか見てみたい気はするけど、それ以外のことは別に見たくもないわ。何も……。そう、爆弾と血痕だらけの見たくないことばかりよ。今のわたしたちの世界はね」と、言ってから立ち上がりサスペンダーを肩から外して、シャツの第二ボタンまで開けてからズボンを脱ぎ捨てた。いわゆる”彼シャツ”みたいな格好になったマリアは

「わたしも少し眠りたくなってきた。お姉ちゃんが抱っこしてあげるから、もう一回ネンコしようね」アンナの隣に身体をすべり込ませようとする。

「うん、よく判った!マリア姉ちゃんはやっぱ見えていないよね」アンナはマリアの腰に抱き付き豊満なバストに顔をうずめながら

「さっきからフィリプがマリアのお着替えを見てたけど、お姉ちゃん全然気が付いてなかったもんねぇ」と、言うとくすくすと笑った。

「えっ!?嘘ぉ!何処に?」マリアは辺りを手でまさぐっていると、やがてもう一人の少年、フィリプの短く刈り込んである頭髪にぶつかった。それを合図に

「マリアァー、ちょっと頼みがあるんだけどぉー」フィリプが間延びした独特の口調で話し始めたのを聞いたマリアは

「あ、あんたねぇーフィリプ!その人の背後に近づいて黙っているの止めてくれない!」と、きつく注意したつもりだったが彼はそんな事は全く意に介さず相も変わらずへらへらとして、一体誰に向けて相好を崩しているのか判らない空虚な笑みを浮かべるのみであった。


 「で、これをどうしろと……?」航海長のレフ・パイセッキー中尉がマリアから渡されたA4判の紙片の束を見つめては、しきりに首を傾げていた。

「フィリプ、彼が言うにはその紙に書かれているアルファベット順に並べていけば良いのだそうですがぁ」と、マリアは発令所に居並ぶ士官たちの前で、彼女自身も訝しげに言葉を濁してから

「フィリプ!これでいいんでしょ?」マリアは自分の背後で大人たちから隠れるようにして身体を(こご)めてしまっているフィリプ少年に問うが、彼はマリアのズボンの腰辺りを掴んだまま俯くばかりで要領を得ない。

 少し前にマリアにフィリプが頼み込んだことはこの、これまで自分が艦長室を間借りしていた間に書き留めておいた紙片の束のことを、口下手で人見知りが激しい自分に代わって説明して欲しいとの事。

 発令所内の、今はガランとしてしまっている海図台の周囲には艦長のアレクサンデル、副長兼先任士官のヤン、航海長のレフとハスハーゲン機関長が寄り集まって、今後の航海を如何に運航するかの相談中であったのだが、そこにアンナに手を引かれたマリアと二人の背後で小さくなっているフィリプが紙片の束を携えてまかり越してきたのだった。

「確かにこの紙は、前からフィリプにせがまれてオレが彼にあげた物だけど……。一体何に使っているか聞いたことも無かったからなぁ」レフはメガネの位置を調整しながら大きく”a”と書きなぐられている一枚をひっくり返してみた。彼はフィリプ少年のイタズラ書きを”何でオレがこんな物に付き合わされるのか”くらいの気持ちで眺めていたが……。航海長としての観察眼はその紙片上で正確に書き込まれているいつもは見慣れている緯度、経度の数字及び等高線らしき記載を拾いあげた。

「おぉ、オイ!待てよ!?」レフ航海長が驚愕を伴った大声を上げたので、他の士官たちは彼の次の行動に目を見張っていたが、レフは畳一枚分ほどの大きさの、元は海図が用意されていた台上に代用品として用立ててあった書籍類を乱暴に払い落とすと、フィリプの紙片の束を”a、b、c”の順でひっくり返して並べ始めた。紙片は全て”a~I”までの9枚で1セットになっていて、縦3×横3の手順で並べてから裏側にひっくり返してみると、そこには一枚の海図が完成されていた。

「バルト海全図……だ!しかも鉛筆書きの!?」息を呑んでレフ・パイセッキー中尉は丁寧に紙片の一つ一つを指でなぞっては

「ゴトランド島に……。コペンハーゲン、スカゲラック海峡と……凄いぞ!充分に海図としての役目を担えますよ!艦長」こう告げた後にレフは更に興奮気味になって

「他には?」と、マリアから受け取った紙束から新たな9枚分のセットを選びだしては、発令所の鉄の床面に並べ始めた。

「踏まないでくださいよ!あと機関長、この紙をピン止めできる板か何かは積んでないかな?」レフはそう言いながら視線は新たな手書き海図を手順どおり並べていくのに夢中になっていった。

 ハスハーゲン機関長は大声で機関区のメンバーを呼び出して予備用資材から適当な大きさの合板材を持ってくるように指示。あとは士官たちが手分けしてレフの作業を手伝った。

「『カテガット海峡詳細図』、『スカンディナヴィア半島北海沿岸部』に……。いいぞ!『海峡水域詳細図』まである。深度まで書き込んであるじゃないか!細かい無人島の姿図まで全て網羅(もうら)されている……行けますよ。艦長、航海は続行可能です」と、細身のメガネ顔からホッとした安心感一杯の笑みをアレクサンデルらに向けて報告を入れた。

 レフはここまで完璧で、しかも鉛筆書きによる手書きの写し海図なぞ見たこともなく

「何て集中力だよ。完璧じゃないか!フィリプの目は写真機のように全てを写し取れる訳か?」と、感動一入(かんどうひとしお)で、フィリプを熱い眼差しで見つめつつ

「今までオレが海図に艦の位置を書き込んでいたり、針路を計っていたりするのをいっつも傍らでボーっと見ているだけかと思ったら、凄いぞフィリプ。偉い!」メガネの奥の目を細めて満面の笑みを浮かべる航海長にもフィリプは依然、無表情で直接は大人たちと相対せずに

「『エニグマ』の復元作業に飽きると、海図のお絵かきして遊んでいたんですって。どおりで肝心の復元作業が遅れてるなとは思ってたけど……」こうマリアが代弁した。フィリプ自身は褒められたのがうれしいのか頬を少しピンクに染めてもじもじし始めていた。

「マリアァー凄いですよ!失くしちゃった海図が元どおりになっていきますよ」アンナがマリアの手を握りながら目の見えない彼女に捕捉説明してあげている所へ、レオンが機関長の指示で用意してきた合板を携えて船尾区画から入ってきた。褐色の肌の少年は自分がニセ魔女と称した少女の姿を一見するや否や

「ああっ!クソッ(げん)が悪いなぁ」と、聞こえよがしの悪態を吐き捨てるように言ってから、フィリプに向って

「オイ!お前もその魔女といっしょにいると、モニカみたいに取り込まれちまうぜ。おお、イヤだイヤだ」そう言うなりレオンは持ってきた合板をぞんざいに床面へと放り投げた。その勢いで同じ床面に並べてあった海図のパーツ紙片が宙を舞った。

「ああっ!レオン気をつけろ!せっかくの海図がぁ」レフは慌てて海図を拾い集めている、その最中に今までマリアの背後で、気恥ずかしげにしていたはずのフィリプがレオンの傍に近寄ると、いきなり拳を振り上げて殴りかかった。

「何しやがる!このポンコツがぁ」レオンも負けじとフィリプの襟首をつかんでは振り回し始めた。フィリプは日頃、こんな真似はしないのだが、この時ばかりはレオンのマリアへの態度が腹に据えかねたらしい。二人は狭い発令所で取っ組み合いの喧嘩を始めてしまった。

「止めんかい!このバカ共がぁ」機関長が二人を引き剥がそうとする中でも、マリアはそっぽを向いたまま、冷淡に我関せずの態度を取っていた。アンナはおろおろと、取っ組み合う二人とマリアの方を代わる代わる不安そうに見ているばかり。

 そんな子供たちの反応を見て取った、艦長のアレクサンデルは

「ようし。全員、兵員食堂へ来い!」と一喝し、その場を収めたのだった。四人と艦長は後方の兵員食堂へと。残されたレフ、ヤンらは海図を拾い上げては、画鋲(がびょう)を使って合板に臨時の代用海図の作成に余念がなかった。


 取りあえずは、兵員食堂にてレオンとフィリプの喧嘩を収めたあとに、アレクサンデルはマリアを伴って上甲板へと上がった。彼は司令塔のすぐ下に常備されている艦載10.5センチ備砲の照準席にマリアの腰を下ろさせてからこれまでの経緯(いきさつ)を訊ね聞いた。

「モニカを失って、初めて判りました。彼女は持ち前の気配りでわたしの目の代わりばかりでなく、他の兄妹たちとの潤滑油みたいな役割をしてくれていたんだなって……」

 レオンの反駁を、彼に投げかけられた暴言を逐一アレクサンデルに告げたあとにマリアは、モニカを失ってバラバラに成りつつある子供たちの関係性に悩みつつ、大きく深い溜め息をつくと声を上ずらせては

「わたしってば、モニカに甘えてばかりで、今まではリーダー気取りでいい気になっていたんですよね。だから、レオンはわたしの態度が気に入らなくなったんです。わたしは結局、兄妹たちのこと何にも判っていなかった!」ここでマリアは再び嗚咽をあげ始めた。

「レオンは君がモニカを死に追いやったと、思っているようだが」と、アレクサンデルが言うのをマリアは頷いては

「わたしが、グダンスクで『エニグマ』を携えて脱出しようとしたこと自体が、兄妹たちを巻き込んでしまってこのオルフェウスに乗り込んだことの結果がモニカの死に結びついたんですよね。レオンの言ってることは本当で……全部、わたしの所為で」

「お前さん、モニカのことバカにしていないか?」アレクサンデルはいきなり彼女の言を遮って

「マリアよ。聞くがなぁモニカは君にこの艦を降りたいとか、逃亡の旅に出るのを反対したことがあったかね?」

マリアは鼻をすすり上げながらも”いいえ”と(かぶり)をふった。

「オレはなぁ情けないよ。そこまで君の事を信頼してくれて、命まで投げ出して助けようとしてくれた友だちへの、君の答えがそれか!厳しいことを言うが、今のままだったらモニカの決死の行動は全く意味の無い徒労だったてことになるんだぞ。」

「そ、そんな!あんまりです。カピタン・オレク!」顔を上げてアレクサンデルの視線を捜すマリアは、険しい顔つきであらぬ方向をにらんだ。

「では、これをどうするね?」アレクサンデルは彼女の膝の上に『エニグマ』の入った、レオンがヤコブから奪い取ったリュックを置いた。

「オレはそんな物、今すぐ海へ放り投げたいと思っているよ。こんな物のためにモニカと俺の友人ヴォイチェフが犠牲になったことに、やはり納得できんのだよ!オレはなぁ」彼は一度置いたそれをマリアの膝から取り上げようと手に掛けた。するとマリアは

「ダメぇ!止めてください!これは、これはわたしたちの未来です。これまで頑張ってきた証、イギリスへ、今は戦火が及ばない土地への手形なんです」と、覆いかぶさるようにしてその手を拒んだ。

「このためにモニカは死んだぞ!」

「でも、モニカがわたしたち、兄妹たちのために命がけで守ってくれた品なんです!モニカが守ってくれた物を海へ投げるなんてできません!」マリアの態度はあくまで(かたく)なであった。

 アレクサンデルはそんな彼女を見つめては

「そうだよ!マリア。マリアはこれからモニカの残した意志を引き継がにゃならん!モニカが守った物はそんな機械が持つ戦略的な価値なんかじゃ無いよな?」と、その場でしゃがみ込み、マリアと目線を同じにして、優しく彼女の両手を握った。

「はい……」マリアもアレクサンデルの両手に視線を注いだ。

「何だと思うね?」

「わたしたちの未来と……希望です」

「それが判るなら、マリアはこれからモニカの分も長生きしてあげなきゃ。結婚したら自分たちの子供に、白髪が生える頃になったら自分の孫に、モニカの事を伝えてあげないといけないんじゃないか?『わたしには自分の身を省みずに戦ってくれた勇敢な友達がいたんだ』と。胸張って堂々とどこの土地にいっても時代が変わっていってもしっかり話してやれよ。それができるのは君たち兄妹、血の繋がりはないがグダンスクでの絆で結ばれたハンディキャップを持った子供たちにしかできないんだぞ」アレクサンデルはマリアの短く切った金色の頭髪をくしゃくしゃに撫で回した。

「モニカは自分の意志で君たちと一緒の未来を選んだんだ。決してマリアに指示されただけじゃないんだよ。あの子は自分の勇気を行動で示したぞ!それを記憶して君はどうする?涙にくれているだけかな?」

 マリアは一回鼻水を大きくすすり上げると何回も頷いてから

「今は、悔やむよりも前へ進め、という事ですかね?わたしにはまだよく判らないし、それに……レオンは?」目を赤くさせたままでアレクサンデルと視線を合せようと努めた。

「あいつの事は、今は放っておけ!レオンとて馬鹿じゃないよ」艦長はこう言うとマリアの手を取って、肩にリュックを担いで艦内へとエスコートしようとした時

「マリアよ。言っておきたいことがある」彼は歩みを止めた。

「オレ達はタリン港でのUボートとケリを付けるつもりだ。海峡水域を無事に抜け出ることが出来たとしても、連中は『キール運河』を抜けて北海まで追撃してくるだろう。そうなれば魚雷と攻撃手段が限られてしまっているオルフェウスに勝ち目は無い!航行と雷撃が困難な浅海域の条件下での戦いに持ち込むしかない!君の聴音能力を最大限に使うことになるぞ、いいな!」

「ハイ!全力で挑みます。それと相手に喧嘩を売るならいい方法があります」マリアはここで少し白い歯を見せてから

「その『エニグマ』を使って向こうに果たし状を送りつけてやるんです。方法はフィリプが判ると思いますよ」と、不敵に言って見せた。その後にマリアは少しはにかんでからアレクサンデルの手を握り返して

「……あの、カピタン・オレク。お願いがあります」と、言って大きく息を吸ってから思い切ってこう言ったのだった。

「わたしもアンナと同じように”父さん”って呼んでもいいですか?」顔を真っ赤にして耳たぶまで染めたマリアのお願いにアレクサンデルも

「お?おお、構わんよ!いきなり二人の娘の父親になったわけだ」と、快活に笑ってみせた。

「独身なのに、すみません」

「いや、一度結婚してるんだよ、オレは。今年の春に離婚しているんだ」この初めての告白を聞いたマリアはバツが悪そうに目を泳がせて

「知らなかったです。ごめんなさい」と、言った。

「アイツに子供を授けていたら、ちょうどアンナくらいの歳の子供がいてもおかしくないんだよなぁ……アハハッ」アレクサンデルは艦長帽を取って頭を掻きながら

「一度、航海に出るともう”未亡人”みたいな生活に嫌気がさしたんだろう。それで”三行半(みくだりはん)”をもらってしまったという訳なのさ」そう言ってからマリアをまじまじと見つめてから

「君も”潜水艦乗り”なんか旦那に持つなよ。君の父さんとしての初めての忠告だよ」彼は微笑みながらマリアの頬に手を添えた。マリアの方はと言うと少しむくれて

「フランツとの事を言ってるの?もう知らない!父さんのイジワル」プイッと横を向いてしまったのだった。


 


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