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オルフェウス号の伝説  作者: 梶 一誠
18/22

モニカの声

「遅い!何をしていた」ジーナ・ラディッシュ中尉は、本来、自分の配下にある特殊部隊に向って声を荒らげた。叱責を受けているほうの特殊部隊の隊長は自分たちが扮しているエストニア国防軍の制服姿を彼女に披露しながら、全然悪びれるようすもなく

「えーっなかなか装備が揃いませんで。まさか赤軍兵士の格好で突入する訳にもいきませんですしね」と、いささかふざけたような軽いノリの調子で受け答えしているのだった。

「こだわり過ぎなんだよ。マスターは!」と、ジーナは先日マリアと他の女の子たちにいろいろ施しをしてやったカフェ兼雑貨屋のマスターとしてエストニア社会に潜り込んでいるダンディな工作員に苦言を呈した。

 マスターはエストニア軍のヘルメットの下からにこやかな笑顔のまま、この扮装を心から楽しんでいる様子で、彼女に先ほどジノヴィエフ准将に奪われたトカレフを手渡した。

 マスターを隊長とするソビエト軍屈指の潜入特殊工作隊(スペッツナズ)はジーナを含めて8名。うち1名は女性、雑貨屋ではマスターの女房役の女性であった。

 彼らの仕事は鮮やかで、深夜における通常勤務として詰めているおおかたの兵士は武装解除されてしまい、小火(ぼや)騒ぎに忙しい管理棟の一室に閉じ込められた。ジノヴィエフ准将はマスターの部下に拘束されて、彼らが乗りつけてきたワーゲンの後部座席で未だに憤懣(ふんまん)やるかた無い様子だった。

「だから、高く付きますぞと忠告したのに」彼女は自分のトカレフを点検しながら車内で踏ん反り返っている高級士官を冷酷な眼差しで一瞥すると、マスターの女房役に

「奴は……始末しろ!詳細は任せる」と耳打ち。女房役の工作員は黙ってジーナに軽く敬礼してから

お店(アジト)を出る直前に、我が軍の『L-17』と『L-52』との無線連絡がつきました。二隻とも、タリン港外にて待機するとの事です」と、告げるとジーナは一度、眉間に皺をよせるような表情を工作員にみせてから

「『L-17』だと!?」ジーナはバツが悪そうに頭を掻き始めた。

「ハイ、大尉の弟君、マヤコフスキィ中尉が副官を務めておいでの艦です」必要な要件だけを告げると、彼女はワーゲンの運転席に。車はゆっくりと基地の外へと動き出した。

「”死人に口無し”だ。奴の遺体で我らの後始末をつけさせてもらおう。理由は何とでもなる」ジーナの目はワーゲンのリアウィンドウに注がれていた。そして、残ったメンバーに振り返ると

「急ぐぞ!バルト三国連盟の駐在武官であるとしてドイツ側を制圧するんだ。ポーランド海軍の潜水艦の脱出を援護する。続け!」この号令一過、ジーナは踵を返してオルフェウス号とドイツUボート側が対峙している現場へと走り始めた。

 その時、電源という電源が落ちてしまってすっぽり闇に包まれている基地管理棟と桟橋に広がる区画の周辺から、立続けに銃声が二発とどろいた。

拳銃か!?ジーナは音から判断したが、

「ダメェー!モォ二カァァー!」暗闇の奥から聞いたことのあるアンナの絶叫がジーナの耳に届いたのとほぼ同時に今度は”ガウン”と別の銃声が聞こえたのは現場と思しき地点まであと200メートルの地点に来てからであった。

 一瞬、小さな火花が桟橋の方角で上がったかに見えた。次には耳をも(つんざ)く大音響と爆煙が猛然と吹き上がったのだった。自分たちが目指す暗闇の方角から白く濁ったような土埃の壁が迫ってきた。

「伏せろぉー!」ジーナは突入しようとしていた部下たちと供にコンクリ製の地べたにダイブ。爆発の衝撃波をすんでの所でかわした。

「あ、あれを!」隣で伏せているマスターが指差す方向には、天空高く舞い上がっている一つの巨大な火の玉があった。これを見たジーナは、 恐らくオルフェウス側の連中が日中に事故として一騒ぎおこした魚雷をライフルで撃ったであろうことを一瞬で理解した。

「無茶しやがる!あれは魚雷の弾頭部分だぞ!」ジーナが叫んだ。

 ジーナの見立ては正しかった。アレクサンデルの命令で掌帆長(しょうはんちょう)ヴォイチェフ・グラジンスキィは見事に魚雷本体の中央部、何十気圧もの圧搾空気(あっさくくうき)が詰めこまれている気嚢(きのう)タンクのみを撃ち抜いていた。これだけでも相当な威力である。もし仮に弾頭部の炸薬が反応して誘爆していたらオルフェウス号もそれと対峙しているナチス側も含めて集団で仲良く焼身自殺に成りかねなかった。それくらい危険な賭けであったのだった。

 そして弾頭部は海のほうへ、ドイツ海軍の航洋型潜水艦ⅦBタイプU-X09の舳先近くの海面に落下!水中で爆発した。凄まじい水柱が高々と上がり海底の土砂が巻き上げられてUボートの船首部分を下から突き上げた。

「クソッ!このポーランドの罰当り共め!なんて事しやがる!両舷後進半速!いったん離れろ」と、艦全体が揺れる中でUボート艦長であるアルベルト・キュヒナーは先ずは自艦の安全を優先させることを判断。少し距離をおくこととした。

 この魚雷爆発の轟音は深夜の(とばり)がすっかり降りていたエストニアのタリン港と市街全体の目を覚まさせる事となった。空襲警報のサイレンが鳴り響き、敵の爆撃かと勘違いした街の防空隊がいるはずも無い敵機を追い求めて何条ものサーチライトの光の束で上空を照らし始めたのだ。

 オルフェウス側の狙撃がもとで巻き起こった砂煙と埃のヴェールの中へ、伏せている自分のすぐ脇を一人の少年が今しがた銃声がした方へ駆け抜けていくのをジーナは見た。

「レオン君か!?待て」

 レオンは彼女の声を意にも介さず煙幕の中へ、奪回した海図が詰め込まれ、大きく膨れたリュックを肩に担いだまま姿を消した。ジーナもその後を追うべく立ち上がると、マスターが近寄り

「大尉殿!乱戦になりそうですよ。……これを」彼がジーナに手渡したのは刃渡り30センチほどの短剣でカットラスと呼ばれる近接戦闘用の武器であった。

「トカレフよりこっちのほうがお得意でしょうから。『疾風(はやて)のマヤコフスカヤ』の腕前、とくと拝見」こういうマスターに、ジーナは

ダァーッ(ああそうさ)!それと、全員の発砲を許可する。状況を開始せよ」ニヤッと笑うと、サッと姿を消すように駆けレオンの後を追った。

「聞いてのとおりだ。行け!ソ連の特殊部隊(スペッツナズ)の力をナチス共に見せてやれ!捕虜は要らん」そう部下に下令するとマスターを含む全員が、好く統制された猟犬かオオカミのように駆け始め砂煙の中に突っ込んでいった。


 「あれしきの事で私が(ひる)むとでも思ったかね?艦長殿。アンナちゃんのお友達の勇気は認めるがね、あまりにも無謀だよ……。だから、こうなる」カール・フリードリッヒ・フォン・シュテルンベルガーSS大尉は二発の銃弾を放ったモーゼルの銃口を、それをまともに受けて血だるまになって、アレクサンデルの胸に抱きかかえられているモニカから、ゆっくりと彼の顔面に向けたのだった。

「そこのデカイの。見事な腕前だったがね。魚雷を撃ったあとに、アンナちゃんの身を案じてわたしを撃てなかったようだなぁ。そこが甘いんだよ!お人好しのバカ共め」シュテルンベルガーは未だにライフルで自分を執拗に狙うヴォイチェフの方に冷たい目線だけを向けていた。

「いいかげんに立ちたまえよ!同胞諸君。こけおどしだと分からんのか!」SS大尉に活を入れられて、魚雷の暴発の影響でその場で伏せていたヤコブや、貨客船『ルシュ・タラッサ』からの応援部隊の面々は恐る恐る立ち上がる。

「ちくしょう!ビビってねえぞ!オレはよぉ」ヤコブの強がりにシュテルンベルガーは侮蔑の視線を傾けるのみ。そして、アレクサンデルと負傷して意識の無いモニカと、ライフルで対抗して威嚇(いかく)するヴォイチェフの三名を取り囲むようにして応援部隊は銃を構えた。

「……少し気が変わりました。このあとの事は、ご安心を少佐殿。マリア嬢は血縁関係と系図を確認した上で我らの仲間になるための再教育を……。アンナちゃんと他の子供たちはわたしが責任を持って預かります。その上で今度、ポーランドで新しく開設される施設に入ってもらう予定です。美しく且つ健全で計画的な我々の管理下にあるユダヤ人専用施設です。そう、確か名前は……『アウシュヴィッツ』でしたね」

 後年、ユダヤ人の絶滅収容所として全世界に知られることとなる忌まわしい施設の名をシュテルンベルガーが口にした時であった。何とか打開策を見出さんとナチスと対峙していたアレクサンデルの、モニカから流れ出る血で真っ赤になった胸元から、誰も聞いた事のない獣のような不気味な濁音が発せられたのだった。最初は小さく、呪文のようであったがやがてそれは大きくしっかりとした言葉となった。

 それこそは正にモニカ自身が生まれて初めて己が意志で発した言葉だったのだ。

「がぁえぇぜぇぇー!」、「ア゛ーンナ゛をー、がぁえぇぜぇぇー!」自分を撃った男に全く怯む様子もなくモニカは傷つきなおも牙をむく猛獣のようにかっと目を見開き、己が血で真っ赤になっている腕をシュテルンベルガーの方に伸ばしては未だに発音が上手にできないままで猛々しい呻り声を上げ続けていた。

「モ、モニカ止せ。喋るな!身体がもたないぞ!」アレクサンデルは彼女を落ち着かせようとするが、モニカはなおも彼の腕の中から抜け出そうとして足掻いてはSS大尉の姿を求め、吼え続ける。

 神の奇跡の成せる業か?それとも意識の無い間に自分の命を引き合いにだして悪魔との契約でも交わしたのであろうか。彼女は己が言葉を得た。12歳の少女とは思えない声色で腹の底から搾り出される声量に、アレクサンデルは抱えている彼女の体をいっそう強く抱きしめた。それでもモニカは大の大人でも身動きが取れなくなりそうな苦痛をも、まるで意に介してはいないようだった。

 そのモニカの血走った視線に捉えられたシュテルンベルガーは、今初めての恐怖を覚えた。彼は息を呑み無言で二、三歩下がってから

「撃て!」と、ヤコブと応援部隊に号令した。

 魚雷の暴発で発生した砂煙の煙幕は少しづつ海からの微風に流され始めていたが、依然もうもうと辺りに立ちこめていた。その中でヤコブが真っ先に自分の拳銃を、ライフルで威嚇するクマ親父ことヴォイチェフ・グラジンスキィに向けて

「じゃあな!クマ親父さん。人型の毛皮になるがいいぜ。買い手が付くかは知らんがな」持ち前の下卑た笑いを口の端に浮かべて狙いを絞り、引き金を引こうとした瞬間に

「ヤァーコォーブゥーッ!」この叫び声とともに裏切り者の背後の砂塵のような煙幕から褐色の肌のレオン少年が飛び出してきて自分が担いできたリュックを腰だめに”ぶん”と振り回し、ヤコブの顔面にヒットさせた。

 顔面へのいきなりの痛撃にヤコブは仰向けに倒れつつ反動で頭上の空中に銃を撃った。彼は片手に持っていた『エニグマ』入りのリュックをコンクリートに覆われた地べたに取りこぼしてしまった。レオンは投げ捨てた海図の入ったリュックの代わりにそれを胸に抱きかかえると、今度はアンナを捕まえている武装SS大尉の黒い制服に向って

「うわあああぁーっ!」と、シュテルンベルガーの下腹部に体当たりをかました。これには流石のSS大尉もたまらずその場でよろけた。レオンは恐怖で硬直しきっているアンナの肩をゆさぶると

「走るぞ!来いアンナァー!」6歳の幼女の小さな手を取ってレオンはアレクサンデルとモニカがいる方向へと走り始めた。

 アンナとレオンが自分の方に向って走ってくるのを見定めるとモニカは今度は力なくアレクサンデルの腕の中でぐったりとし始めてしまった。

「モニカ!眠るな。しっかりしろ!」オルフェウスの艦長の言葉にモニカはただ頷くのみ。彼はたった今、奇跡に匹敵する生命の底力を垣間見せた少女と、レオンとアンナを伴いつつ潜水艦のほうへと退避を始めていた。

 二人の応援部隊の隊員が疾走するレオンとアンナに狙いを定めたが、一人はヴォイチェフがライフルでヘルメットごと頭を吹き飛ばした。そして、もう一人は大リーガーさながらに足からスライディングしてきたジーナ・ラディッシュ中尉に背後から両膝の裏側を蹴られた。

 強烈な”膝ウラ打ち”を食らわされたその男は仰向けに倒れるやいなや、カットラスを構えたジーナが馬乗りに、彼女の両膝はその男の腕を小銃ごと胸板に押さえつけ反撃できないようにしてから、ジーナはカットラスで男の首の頚動脈を一分の隙も無くザクッと()いだ。

 首から生温かい血飛沫を上げながら一体何が起きたのか判っていない様子の隊員に彼女は静かに流暢なドイツ語で

アウフ ヴィーダゼン(じゃあな!)」と、言った。

 オルフェウス号にとっては裏切り者のヤコブ・マズゥールが計らずも発した銃声が合図になって、ソ連側の特殊部隊とドイツ兵の間で乱戦が始まった。銘々が己が銃剣やら備え持っていた短剣でのもみ合い斬り合いがそこかしこで展開されていった。

 ジーナは跳ね上がるようにして立ち上がり、次に黒い制服の親衛隊の士官に狙いを定めた。

「ハァイ!親衛隊の優男(やさおとこ)さん、お初かな?それともバーでお会いしましたっけ?」ジーナは獲物を前にしたヤマネコのように態勢を低くして、じりじりと距離を詰める。

 シュテルンベルガーのほうも一目で、この女は手練(てだれ)の者だと見抜き

「いやぁ君ほどの美人なら忘れたりしないと思うがね!」言うや否やモーゼルの一撃を見舞うも、ジーナは左に体をかわすと

「あらやだぁ!ドイツのイケ面と出くわすと判っていたら、こんな野暮な軍服じゃなくってもっと身体のラインがわかる黒いレザースーツでも着てくるンだったわぁ」うすら笑いを浮かべるジーナだが、目だけはしっかり武装SS士官の動きを(つぶさ)に追いながら、カットラスを逆手に握りかえしては、その刃先を舐めた。

「光栄の至り!でもわたしとしては”裸エプロン”でお会いしたかったですな」こう言うとシュテルンベルガーはわざと自分のモーゼルを前に差し出し、ジーナに見えるようにして手からゆっくりとそれを手放した。彼女は反射的に強く印象付けられたその大きなドイツ製の拳銃が”ゴトッ”と音を立てて地べたに転がるまで目で追ってしまっていた。

 ”ハッ”と己が不覚に気付き、ジーナが本来の獲物に視線を移したとき、彼女の眼前には黒い疾風(はやて)が迫って来ていた!視線の右奥からキラリと一閃光るものを感じた彼女は仰向けに倒れこむようにして、自分の顎の下を狙って繰り出された(やいば)をすんでの所でかわした!

 ジーナはネコのようにしなやかに身体をねじり、もう一度体勢を立て直してから

「”裸エプロン”は…無理かなぁ。ママに叱られちゃうしねぇ」と、目を細めて見せた。

 シュテルンベルガーも自前の腰の短剣、柄の先端に髑髏(どくろ)の装飾を施した豪奢な逸品を構えては

「わたしもこっちが得意でね……。遊び相手がいてくれてうれしいよ」彼は目の前の俊敏なヤマネコを冷たく光る碧い瞳で捉えては、ほくそ笑んでいた。

 深夜0時に行動を開始したオルフェウス号側の脱出工作によってタリン海軍基地の電源は未だに復旧されてはいなかった。エストニア側の基地防衛の任にあたる守備隊は、停電、火事、原因不明の爆発事故、そして基地内で発生している銃撃を含む乱闘騒ぎとたて続きに発生する事態に混乱する一方で、具体的な方策を採りきれないままに右往左往するばかりであった。

 闇の中で天空からそそがれるは、満月の青白い光のみ。

 ヤコブはその月を眼中に捉え、たった今我が身に起きた事を想起した。自分が忌み嫌うトルコ系の少年に痛撃を喰らわされて仰向けにぶっ倒れている自分。そして、今まで自分が手にしていた『エニグマ』も失われて、これもレオンとかいうクソガキが持ち去ったことに気付いた彼は猛然と起き上がってはその少年の姿を捜した。

 レオンはアンナの手を引いて、オルフェウス号へと走り去っていく。

「薄汚い茶色のガキが!」ヤコブは自分の拳銃で、レオンの背中に狙いをつけて躊躇無く引き金を引いた。だが、弾丸はレオンの背中ではなく去り行く二人とヤコブの間に立ちはだかり盾となった、ヴォイチェフ・グラジンスキィの厚い胸板に喰いこんだのだった。

 ヴォイチェフもライフルを正射してヤコブに反撃するも弾は逸れてしまった。その後は力なくその場で膝をついた。彼の視線の中でヤコブは尻餅をつき、

「うひゃー!ひゃぁー!」と、自分の体をしきりにさすってはヴォイチェフが放った弾丸が当たっていないかを無様に確かめている最中。

「ヴォーイチェェーフ!」彼の背後から、アレクサンデルの叫びが。

「行けぇぇー!無事な航海を祈るぅ!」そう言うなりヴォイチェフは震える膝を押して立ち上がると、ライフルを投げ捨てた。彼の足下にはみるみる血だまりが……。

 もはや、これまでかとの覚悟を決したヴォイチェフの耳に

「戻れぇー!ヴォイチェェーフ!」、「掌帆長(しょうはんちょう)殿ォ!走って!」オルフェウス号からのヤンとフランツの声が届いた。

「……こりゃぁヤバイなぁ」かれはそう呟くと渾身の力で、眼前の裏切り者へと飛び掛り、その細っこい首に手を掛けた。ヤコブは思わぬ自分のかつての親玉である掌帆長の逆襲に手足をバタつかせた。

「この、下衆野郎がぁ!海軍のツラ汚し。お前のいいようになぞ……させるかよぉ」血の気が失せて顔色が白くなってもヴォイチェフは手の力を緩めようとはしなかった。ヤコブは白目を浮かべつつあった。

 これが昔話ならズル賢い性悪キツネの上に圧し掛かって懲らしめる森の主であるクマみたいに見える。たいがいは性悪キツネが退治されるのだが。今回そのキツネの手には……。

 銃声がさらに二発!さすがの頑強を誇るクマ親父と称され水兵たちから畏敬の念で見られていたヴォイチェフ・グラジンスキィも力なく、ヤコブの身体の上に覆いかぶさったままで、遂に命の灯を無念にも寸断されてしまった。

「くそったれが!どけぇ」ヤコブは自分に圧し掛かる彼の巨躯を払いのけると、自分のイラつく感情も顕わにさせて仰向けになっている元同胞の遺体のわき腹を蹴った。再度ヤコブは何とかレオンとアンナに銃口を向けたが、二人とそれにアレクサンデルたちは、もう潜水艦にたどり着いてしまっていた。

 舌打ちをして、ヤコブは辺りを見回すと、すでに襲撃者たちは自分たちの応援部隊をあらかた始末していた。シュテルンベルガーは未だ軍服姿の女と切り結んでいる真っ最中。

「相手が悪いぜ。どうする……」おろおろしながら彼が銃口を正体不明の襲撃者にむけると、海の方角からライフル銃の連射音。ヤコブの周囲に土煙が、コンクリートの破片とともに沸き起こったのだった。襲撃者の何名かはこの銃弾に倒れた。

「アッぶねぇ!オレに当たったらどうするぅ!」ヤコブは海の方角へと喚いた。

 これはU-X09からの援護射撃であった。一度、退避したドイツのUボートは味方の危急を知り、オルフェウス号への針路妨害より先に同胞の救出を優先させたわけである。

 「いったい、どこの連中でしょう?エストニアの部隊とも思えませんが」U-X09の吹きさらしの艦橋でこう艦長のアルベルト・キュヒナーに訊ねたのは、先任士官のハルトマン中尉であった。

「恐らくは……ロシアの連中だろうな。危なっかしいスパイ連中を市井(しせい)の中で潜ませておくことくらいのことはどこの国でも当然のことだ」と、言ってから艦橋と甲板から自動小銃とライフル銃で銃撃を加えている水兵たちに

「大尉殿には当てるなよ!他はかまわんがな。ハルトマン!接舷させろ。シュテルンベルガーを回収する。あと、あのマヌケもついでに」

「例のオルフェウスへの牽制はよろしいので?」怪訝そうな顔をしているハルトマンにキュヒナーは

「あれを見ろ!中尉」港外に近い防波堤が切れる先端部あたりを彼は指差した。

「なるほど。『ルシュ・タラッサ』の”通せんぼ”ですか」

 Uボートがこの港内で浮上して姿を曝け出したのちに、かねての手はず通り、ドイツの潜水艦隊用補給艦はその優雅で巨大な船体をのろのろと動かしては、タリン港と外海との接点付近に停泊させていたのだった。

「連中も足掻いてはみたものの、結局、バルト海への脱出は不可能だ」と、キュヒナー艦長は双眼鏡をシュテルンベルガーの方に向けた。

「武装SS大尉殿のデートは終了らしい。ハルトマン、合図を送れ」

 キュヒナー艦長の視界の中では形勢不利と判断した女の短剣使いは、同胞の大尉と切り結ぶのを止めて、距離をとると今度は潜水艦オルフェウス号に向けて走り出していた。


 オルフェウス号の艦橋では、副長のヤンが最早、動かなくなってしまった同僚の遺体を憤怒の形相で見つめ、震える手で艦橋の縁を握りしめながら

「出港!両舷前進微速。左-5度へ!」と、伝声管を通じて発令所へ下令したあとは俯いたまま

「スマン!……ヴォイチェフ」この声は轟音を上げはじめたエンジンに掻き消された。

「例の女中尉が乗り込もうとしていますが……どうしますか?」 

 ヤンのすぐ後ろでは、航海長のレフがナチスとの死闘を演じていた、ジーナがこちらへ走り寄ってくるのを認めた。

「乗せろ!あれも衛生管理隊の女だ。モニカの治療にあたらせるんだ!それに彼女の”もう一つの顔”にも聞いておきたいことがある!」この言を受けて、レフは甲板でマリアや、レオン、アンナそして負傷したモニカを抱きかかえたアレクサンデルを迎え入れていた水兵にジーナの乗船を手伝うように指示した。

 ただ、ジーナはそんなサポートなぞ必要もなく、カモシカのような鮮やかなジャンプで甲板に飛び移ったのだった。

「全員の乗船を確認しました!」下の甲板からの水兵の報告が上がってきた。

「レフ!ここからは君に任せる!脱出できるな?」突然友人であるヴォイチェフを失い、それを意識の中で納得できずに心ならずも、未だに憤然として声を荒らげてしまっている副長に航海長は

「大丈夫ですよ。レオンと昼間に潜航可能ポイントの割り出しに成功しています。……それに、ここで失敗したとあっては掌帆長(しょうはんちょう)に、あの人の英霊に怒鳴られてしまいますしね……」彼も最後のほうは声を僅かに震わせていた。

「そうだな……。潜航可能ポイントに達したら、発令所へ降りろ。ここを頼む」ヤンは艦橋の最前列に居並ぶ伝声管の前をレフにゆずった。

「針路、さらに左-5度へ、ポイントAを通過した。……もどーせぇ舵中央!このまま前進微速!」

「クソッ!ドイツ船籍の貨客船が、外海への出口をふさいでいる!何としてもオレ達を行かせたくないらしいな、嫌がらせが得意な連中だ!」伝声管で針路指示しているレフのすぐ後ろで、ヤンが大声を上げているが、レフはそれに頷きながらも

「いけますよ!奴の舳先の下、ギリギリの海底を這うようにして通過しますよ!ポイントB通過した。

舵手へ転進!針路右-10度へ」その後、彼は背後の副長に目配せした。 ”そろそろ潜航開始です”の航海長の意を汲んでヤンは先に発令所へ下りた。

 「艦長!レフの指示あり次第、潜航を開始する。いいな?」ヤンは発令所に降りてすぐに、アレクサンデルの姿を認めて了解を得んとしたが、アレクサンデルはただ発令所に佇んだままでその防水隔壁、舳先側の向こう士官室に力なく目を向けている。

 その方向からは、モニカの、あの口の利けなかったはずの少女の呻き声が絶えず流れてきていた。

「オイッ!正念場だぞ。艦の指揮を取れ!」ヤンはわざとアレクサンデルの眼前に立ちはだかって、正面きって苦言を呈するが、彼自身はヤンの目を見ようとはせず、おざなりに頷くだけ……。

 ヤンは”かっ”と目を見開き、アレクサンデルの胸倉をわっしと掴んでは渾身の力でねじ上げると

「艦の!指揮をー取れぇぇー!」と、発令所に詰めている乗組員が一斉に振り返るほどの大声を上げていた。アレクサンデルもヤンが自分を絞り上げている両の手を振り払って

「レフはぁ!?」憤然と対峙した。

「奴が降りてきたら潜航開始だ。行くんだよぉ!オレク。今はタリン港を脱出する事だけ考えろ。艦の指揮はお前しか取れないんだ。いいな!」

 そう言いおわるやいなや、艦橋から航海長のレフが

「Cポイントを通過しました。タリン港の深度はここから15(ファザム)(約27メートル)を越えます!艦長」発令所上の水密ハッチを閉じながら報告を入れる。

「了解した。機関長へ機関をディーゼルからモーターへ!潜航開始、深度25へ。」意を決したアレクサンデルはここで一つ大きく息を吐いて

「両舷前進半速!ドイツ側の汽船の喫水線(きっすいせん)下を抜ける!全員衝撃に備えろ。多少乱暴でもやりとげるぞ!航海長、舵中央(ミ・ジップ)へ」この号令の後、各部署の担当者が目まぐるしく動き始めた。レフはストップウォッチを片手に、秒単位で移動ポイントを計測を始め、機関長は操舵員に細かく潜舵の角度を指示。ソナー員であるフランツは聴音機で海底から発せられる微妙な砂が巻き上げられる音源を探っていた。

「もう数秒でDポイントです。例の客船が真上に来ます」

「来るぞぉ」アレクサンデルの注意喚起のあとに、船底部が海底に触れて潜水艦全体が激しく突き上げられる。爆雷攻撃を間近に受けたように、一度電源が落ち、配電盤がショートして煙を上げはじめたが、アレクサンデルは更に

「両舷前進強速!フルパワーッ!抜けろぉ」と揺れる発令所内にあって身体を維持しながら尚も強行策に打ってでた。すると次に、自分たちのすぐ上で金属同士が耳をも劈く擦過音が発生し始めた。

「潜望鏡が奴の船底とぶつかっているんだ!不味いぞ。一度バックして……」この言は機関長のヤロスロフ・ハスハーゲンであったが、

「オレはフルパワーって指示したぞ!機関長。このまま行けぇ」艦長アレクサンデル・コヴァルスキ少佐は己が手を潜水艦を上下縦方向に貫くようにして設置されている潜望鏡収納塔に手を置きながら声を荒らげた。

「了解!艦長。針路そのままぁ!」こう言ったのは副長、先任士官のヤン・レヴァンドフスキィ大尉。彼もアレクサンデルの潜望鏡収納塔の反対側で腕を組んだままで立ち尽くしていた。そして、視線鋭く、目付きを尖らせて艦の進行方向だけを見ている親友であり、上官の男を一瞥してゆっくり口の端をあげたのだ。

「さっきはすまなかった」このヤンの言葉にアレクサンデルは首をわずかに横に振って

「当然の処置だ!気にしなくていい。オレが逆の立場でもああするだろう」と、言った。

 艦内ではモーターの甲高い回転音が支配して、艦が前方向に無理やりすり抜けようとする度に彼らの頭上から”ガリガリ”と耳ざわりな金属音、そして船底部からは海底を(えぐ)りながら進む鈍い音と振動が続いていたが、ある一点でふいにそれらが同時に収まったかと思われた瞬間に、今度はオルフェウスの乗組員全員が艦全体が”ぐん”と、大きく前方向に飛び出したことを感じ取った。

「抜けたぞぉー!」艦内の誰彼から自然と歓喜の声が上がると、次には

ウラァ(バンザイ)!ウラァー!」たちどころに喝采が沸き起こったのも束の間、発令所から急激にその歓喜の熱狂は失われていった。

 発令所に姿を表したのは出港寸前にこの潜水艦に乗り込んできたエストニア海軍基地のジーナ・ラディッシュ中尉であった。彼女は自前のタオルで自分の手を拭いながら立っていたのだった。彼女は何も言わずにただ艦長のアレクサンデルに顔だけを士官室のほうへ向けて”こっちへ”とジェスチャーして見せた。

 発令所の一同はそれが何を意味するのかを悟った。そして誰も何一つ言葉を発することが出来なくなった。今までの脱出航海での喧騒が収まると士官室、子供たちが寝起きする区画からは、マリアの泣き声が、レオンの「ちくしょう!ちくしょう!」と、喚くのが聞き届けられたからだ。

 アレクサンデルは無言で彼女の後に続いて、士官室のほうへと足を向けた。

 その後の操艦指示はヤンが引き継ぎ

「あと10分潜航のあと浮上。あとはディーゼルで航走する……オイッまだ油断はするなよ!」と、両手をパンと打って皆の気持ちを航海に専念させようとしていた。

 士官室に向いながらジーナが彼に告げた事実にアレクサンデルの歩みは一瞬途絶えた。

「はっきり言おう。モニカは……肝臓を撃たれている。それと太ももの頚動脈だ。……すまない。マリアは嫌がったが、止むをえん、モルヒネを投与した」

 これは、もう手の施しようが無いとの意味であった。命の灯が消えるまでの苦悶と激痛を和らげるための最終的な医療措置を、ジーナは選択せざるを得なかったことを聞かされると、艦長はは何も言わないまま彼女を追い越すようにして士官室の、その寝棚のカーテンを開けた。

 アレクサンデルの目に入ってきたのは上下二段になっている下の寝棚に上半身を包帯に巻かれたモニカ・カミンスカヤ。肌がもう血の気が失せて異様に白くなっていた。そしてモニカの手を取って泣きじゃくるマリアは

「誰ですか?カピタン・オレク?」と、士官室に入ってきた彼の足音を聞き分けて問うと、彼のいる方向に手を泳がせるようにさせてから、制服のズボンの端をつかみ

「ジーナさんが、ジーナさんが……モルヒネを打ったってどういうことですか?眠らせるだけですよね?ねぇ!教えてよぉカピタン!死なないってモニカは死なないって言ってよぉ!」そういいながらマリアは掴んでいる彼のズボンを引きちぎらんばかりに何度も引っ張った。

「……済まない」アレクサンデルはマリアに詰め寄られる度に、うつむいてはこう繰り返すしかなかった。マリアは徐々に声を大きくさせ、膝立ちの姿勢でアレクサンデルの腰のベルトを両手でつかむと

「何で、何でモニカが酷い目に遭うのよ!何でいっつも銃がわたし達に向けられるの?戦争だから?ドイツ軍の『エニグマ』を持っていたから?それを持って逃げようと言ったわたしが原因で彼女の身に不幸を招いたせいなの?」彼女は一気にここまで捲くし立ててから、声のトーンをぐっと下げて

「……それとも、これがわたしたち、世間の連中が言う”かたわ者”への、このろくでもない戦争だらけの世界が出した答えなんですか?」と、いった。

「止めなさい!マリア。それよりモニカに語りかけてあげて……。抱いてあげてちょうだい」答えに窮して無言のアレクサンデルに代わってこうマリアに諭したのはジーナであった。

「マァーリィアー……。どこぉ?わたし、少しらくになってきたみたい……聞こえるぅ?わたしの声変じゃなぁい?」

「聞こえるよ!とっても素敵な声してるんだねモニカはぁ……」背後の寝棚に横たわっているモニカの声にすぐさま反応したマリアは寝棚の下、床面に膝をついて彼女の手を取ってから、覆いかぶさるようにして頬をよせた。そして

「何で、こんなに冷たいのよぉ……。大丈夫よ!みんなでイギリスのブレッチェリー・パークっていう所に行くのよ。ハックスリーさんが言ってたでしょ。きっと素敵なところよ。ね!?」と、言ってからまた嗚咽を上げはじめた。

「わたしね……神様にお願いしてあったんだよ。生きている内にみんなの名前を呼べるようにして下さいって、叶ったねぇ」そう言うなりモニカは横臥したままで両の手を空に泳がせては

「レオン、フィリプ……わたしの大好きな妹、アンナ」と血は繋がってはいないがれっきとした自分の兄妹たちの名を呼んだのだ。

 フィリプは泣きじゃくりながらモニカの手を強く握った。

 レオンも鼻をすすり上げながら

「このメガネ女。大人になったらちゃんと”べろちゅー”かましてやっからよ。死ぬなよこのバカぁ」こう言ったきり士官室の隅っこで膝を抱えて丸くなってしまった。

「へへっ!わたしレオンに告られたのかなぁ?……アンナ、アンナァー」モニカは自分の妹分であった最年少の女の子を呼んだが、アンナは少し離れた所にポツンと佇んで、皆の様子を遠巻きに見ているだけ

「イヤだ!」、「イヤだぁ」彼女はまるで感情がこもらぬ抑揚の無い言葉を呪詛(じゅそ)のようにただ呟くのみ。やがて、アンナは両頬を引きつらせて、目は焦点を合わせずに天井をむいては”ケタケタ”と笑い始めた。それはどこか小さいアンナの脳のどこかが完全にいかれてしまって均衡を失ってしまったかのようだった。マリアはその異様な声に敏感に反応して

「ア、アンナ!わたしの所においで!抱っこしてあげよう」声をかけるも当のアンナは姿の見える幽鬼のようにふらふらと周囲を歩き回る。笑いながら彼女は

「もう、父ちゃんいなーい。母ちゃんいなーい。モニカもバイバイ。みーんなバイバイ!アンナは一人でしゅうようじょぉー、えへ、えへへぇ」

 ジーナ・ラディッシュ中尉はこのアンナの尋常ではない症状に

「無理も無い!ショックが大きすぎたようだね。アンナちゃん、わかる?ジーナだよ」と、呼びかけるも効果は無くアンナは夢遊病者のようにあてどもなく艦内をウロウロしては奇声を上げ続けた。

「アンナ、あなた……なぜ、神父様と先生が、もういないって……どういうこと?」マリアがアンナのうわ言の内容に、気付いて問い正そうにもアンナは的確に答えられる状態ではなかった。その問いに答えたのはモニカであった。

「黒い制服のナチスが言ったの……。アンナにね、直接自分が手を下したって言ったのよ。神父様と先生を殺したと、だから……わ、わたしはアイツに飛び掛かっちゃったんだ」モニカの表情が曇り始めた。意識が朦朧(もうろう)として、モルヒネの効果は彼女の全身に巡っていった。

「アイツか!?わたしと切り結んだあの武装SSの男か!あの外道め。こんな小さい子に(むご)い事を……。(まず)いな、アンナちゃんを今のうちに正気に引き戻さないと、いつまでもああしていると精神が破綻してしまう」ジーナはアンナを抱きかかえようとするが、するとアンナは全身の毛を逆立てるように怒りを顕わにさせて牙をむくような険しい顔を見せる。するとまた、すぐに薄ら笑いを浮かべては狂気を含んだ徘徊を再開した。

 アレクサンデルはすっとアンナの前に立ち、しゃがんで彼女と目線を同じ高さにしてから

「アンナ、父ちゃんだよ。わかるかい?父ちゃんはここにいるよ。どこにも行かないからなぁアンナ、キスしていいかな?」と、両の手を大きく広げてみせるとアンナの方から吸い寄せられるみたいに近寄っていった。かれはそうっとアンナの小さな両肩に手を添えてからゆっくり、両の頬に親が子供を寝かしつける時と同じようにキスをした。

 アレクサンデルはいつもならアンナから”父ちゃん”と呼ばれていても苦笑いをするだけであったが、今回は初めて自分からアンナに向ってそう告げたのだった。そして両の腕で優しくその身体を包み込んだ。すると、アンナは”パッ”と何かを思い出したかのような表情を浮かべた後に、虚ろな目の焦点がしっかり彼の肩口に注がれて、さらに口を大きくへの字に曲げると(せき)を切ったように「ワァァァーッ!」と形振り構わずに大声で泣き始めた。

「そうだ!いいよ。思いっきり泣くといい!大丈夫、一人じゃないからな」アレクサンデルは何度か背中を擦っては立ち上がり彼女を抱きかかえたまま、頬ずりまでした。しばらくはそうしていたがやがてアンナは彼の腕から逃れるように身を反らせて

「父ちゃん、おヒゲがジョリジョリして痛いですぅ!」と、正気を取り戻したいつものアンナが彼の腕からひょいっと逃れて飛び降りるとモニカが横たわる寝棚に駆け寄った。

 ジーナはアレクサンデルに向って安堵の表情を浮かべては”もう大丈夫”と何度か頷いてみせた。

 「モニカ、モニカ!」アンナはもう半分以上、意識を失いかけているモニカに抱きついた。

「アンナ、わたしの大好きなアンナ」この言葉を最後にモニカ・カミンスカヤは言葉を発することも叶わなくなって、アンナの目の前でいつもの手話を使って震える手を繰り出して必死に、でもゆっくりとここまで一緒に暮らして、戦火を逃れ、潜水艦での逃亡生活を送ってきた兄妹たちに最後のメッセージを

”みんな大好き”と送ってからついに、こと切れたのだった。

 他の四人の兄妹たちはもう何も言えなくなってしまった、アンナにしてみれば二番目の姉を、マリアからすれば”中の妹”の腕をとり、それぞれが頭を撫でたり、冷たくなりつつあるその頬にキスをしては、静かに涙にくれた。

 アレクサンデルはこのまましばらくは彼女らをそっとしておくために、ジーナに黙って発令所まで来るように手で合図して見せた。ジーナも少し涙ぐんでいて真っ赤にさせた目を彼に向けて頷いてから後に続いて士官室を後にした。

 「不手際だった。本来は君たちの脱出作戦を傍観しつつ、ドイツからの妨害をカウンターアタックで制圧する予定であったのだが……」

 発令所ではジーナを取り囲むようにして士官と水兵が佇んで、彼女の言に耳を傾けていた。

「君は、エストニアの人間では無いな!答えてくれ。ソビエトから派遣されたスパイなのか?」ヤンが彼女の前に立つ。

「スパイと言うより、監視者(モニター)と言った方が適切だがね。その通りジーナ・ラディッシュはエージェントネームだ。わたしの本当の名はアンナ・ヴィクトリアーナ・マヤコフスカヤ。階級は大尉。ロシア人で出身はレニングラード。NKVD(内務人民委員部)所属よ」

「お前達、ソビエト連邦はヒットラーとグルになって東からおれたちのポーランドを侵略している真っ最中じゃないか!味方面しやがって、信用できるかよ」ヤンが彼女の前に拳を差し出しては強く詰問する。周囲の水兵、兵曹連中も彼女の態度如何ではいつでも飛びかかれるように身構えていた。そんな中でもジーナことマヤコフスカヤ大尉は落ち着きはらって

「事態は常に進行している。我々は次の段階に向けて事態の進展に目を向けている……(つぶさ)にね」と言うとヤンが繰り出してきた拳を両手で柔らかく包んでは下に降ろさせた。

「次の段階とは?」こう切り出したのはアレクサンデル。

「近い将来には、我々ソビエト連邦はナチスとの戦端を開くことになるだろう。ナチスは常に”共産主義の徹底した排除”を標榜している。『この大陸に二つの陣営は並び立つことは決して在り得ない』これは、わたしのボス、内務人民委員部局長ラブレンチェ・ベリヤ氏の言だ」

 発令所では声を発する者はなく、マヤコフスカヤの言葉が次に何を言うのかに耳をそばだてた。

「わたしが君たちをサポートせよとの指示を受けたのはほんの数日前だ。以前の命令の通りだったら抑留を開始した日にオルフェウス号はエストニア海軍に下渡(さげわた)されて、君たちと『エニグマ』は我らの管轄化に入ることになっていたがね……」

「モスクワは何を意図しているのか」

「来るべき対ドイツ戦への布石として、連合国側イギリス、フランスに恩を売っておきたいのだろう。ま、どちらから手を出す事になるかはわからんが……。コヴァルスキ少佐、(よろ)しいか?」伝えるべきを伝えたマヤコフスカヤはオルフェウス艦長に

「モニカ、彼女の遺体はわたしが引き取りたい」との、提案を投げかけてきたのだった。

 アレクサンデルを除いたほぼ全員が顔色を変えて、彼女に詰め寄ろうとしたが艦長が黙ったまま皆を制してから何故かを問うと、彼女は目を伏せたままで

「笑ってくれても構わない……。個人的にオルフェウス号の子供たちが気に入ってしまったんだよ。わたしはね。サポートしきれずにモニカとそちらの下士官を失わせてしまったことは非常に残念だった」と、言ってから

「モニカの遺体をこの冷たいバルト海に放出することが忍びないのだよ。わたしはね。これだけの騒ぎを起こせばもうエストニアには戻れん!一度レニングラードへ帰還するしかない。彼女の遺体はわたしの故郷でしっかり埋葬するつもりだ」こう付け加えて大尉は口を閉じた。

 発令所では重苦しい沈黙が訪れた。ソビエトの女性士官の提案を飲むべきか否か、誰もが決めかねていた。そこに

「お願いします。ジーナさん」皆が声のする方向を見やった。マリアがアンナに手を引かれて立っていた。二人とも未だに目を赤く晴れ上がらせている。

「わたしも、ジーナさんと同じ気持ちです。モニカを、彼女だけをこの暗い海底に置き去りにするのはやはりいやです。……」マリアはそのまま発令所の中央に歩を進めて、ジーナことマヤコフスカヤの前に来ると

「約束していただけますか?モニカを大地に、ロシアの大地に永眠させてあげることを」こう告げるマリアと彼女の手を引いているアンナの目をみつめて

「約束しよう。君たちとモニカはわたしの勇敢な友達だよ。必ずレニングラードまでつれていくよ」彼女は二人の肩をぐっと抱き寄せたのだ。

「でも!?ジーナさんどうやって、レニングラードまで?」マリアの問いにマヤコフスカヤはソナー員のフランツ・ヴァノックの方に振り返ると

「フランツ君と言ったね?君はもう気付いているんじゃないか?」と言った後に、フランツは

「ハイ。我々がタリンを脱出してからすぐに、正体不明の潜水艦二隻の追跡を受けていました。今は浮上航行中ですので聴音は無理ですが、恐らくはオルフェウスの真後ろについて来ているはずです」との聴音結果の報告を入れた。

「それこそが我がソビエト海軍、第一バルト海戦隊の『L-17』と『L-52』だ。わたしを迎えに来たのと対Uボートへの牽制のためにわたしが待機させておいた。大丈夫だ!わたしがここにいる限りは攻撃はしないよ。いわばわたしは人質同然なんだよ」と、マヤコフスカヤ。

「マリア、本当にいいんだな?」艦長の言にマリアはしっかりと頷くと、アレクサンデルは意を決した。

「マヤコフスカヤ大尉、先方の潜水艦と連絡を。モニカの亡骸を包むのをヴォイチェ……いや、済まない」彼は思わずタリン港で逝ってしまった友人の名前を出しかけてしまい”ふうっ”と溜め息をついた。

「オレとフランツでやろう。来いフランツ」ヤンがその作業を請け負ってくれたのだった。

 冷たく真っ白になってしまったモニカの遺体をヤンとフランツ、そして水兵二名が包んでいくのを手伝った。シーツを破いて太い包帯状にしてくるんでいく。マリアがそっとモニカの顔から形見になってしまったメガネを取った。アンナと他の子供たちはその作業を見つつ、すっかり(まゆ)に包まれてしまったようになったモニカを見つめたアンナが

「モニカってこんなに小さかったかの?」と、誰に言うでもなく呟いたのだった。

 時刻は未だ深夜といってよい時刻であったが、あたりはうっすらと白み始めていた。あと二ヶ月もすればこの北欧の海は極端に夜の短い白夜に近くなっていく。

 オルフェウスの右舷側の暗い海から一隻のソビエト海軍の潜水艦が浮上してきた。複穀式と呼ばれる船体を持ついささか旧式の潜水艦のセイルには明らかにソビエト海軍を誇示する赤い星のマークがあった。星マークの隣にはI-17と同じ赤文字で記載されている所から、この艦が大尉の話していた『L-17』と思われた。

 ジーナ・ラディッシュことマヤコフスカヤはオルフェウス側が用意した脱出用のボートに、モニカを抱えたまま乗り込み、水兵の二名がオールを漕いで、先方の艦へと移動を開始した。

 乗組員たちと、マリアと他の子供たちは甲板に立ち、友の亡骸と最後の別れを噛みしめるようにしていた。士官たちは艦橋からこの様子を伺っていた。

 先方の潜水艦からも士官が艦橋に立ち、水兵の一人がマヤコフスカヤからモニカの遺体をくるんだ繭状の物を預かるとそれを大事そうに抱えて艦内に降りていった。彼女は自国の潜水艦の甲板に立ち一度、こちらに振り返ると気を付けしてから”サッと”敬礼を向けたのだった。彼女の動きに合わせて、ソ連艦の士官たちも敬礼している。

 オルフェウス側もヤン先任士官による「マヤコフスカヤ大尉に対し敬礼!」の号令一過、士官と乗組員全員が一斉に敬礼を返したが、マリアだけは他の乗組員同様に敬礼を返そうとしている兄妹たちの動きを察知しては

「敬礼なんてしないで!止めてちょうだい」厳しく叱り付けるようにピシャリと言ったのだった。そして

「わたし達は軍属じゃないのよ!モニカもそう。だから彼女が神様の所にまっすぐ行けるようお祈りしてあげてほしいの」マリアはそう言うと十字を切り、あとは胸の前で手を組んでは真摯に頭を垂れたのだった。一番年少のアンナを初めとした子供たちもマリアに続いた。

 この後、『L-17』は反転してオルフェウスとは逆方向に方向を転換した。マリアは甲板に立ちながらオルフェウス号とは異なるディーゼル音の方向に(めしい)た目を向けていた。


 「ずい分、大事そうに抱えてきたあの荷物はなんだい?姉さん」と、マヤコフスカヤに訊ねてきたのは彼女の腹違いの弟にあたるこの艦の副長を勤めるユリウス・ヴィクトル・マヤコフスキィ中尉であった。

艦橋には今は姉と弟の二人のみとなっていた。彼女は艦橋の縁に背中を預けたまま、ゴロワーズの最後の一本に火をつけて紫煙を噴き上げた。

「わたしの友人で小さな勇者だよ。粗略にするなよ。ユースフ」マヤコフスカヤはそう言いながら視線は去り行くオルフェウスの小さくなっていく影を追っていた。

「また、その名でオレを呼ぶぅ」と、弟とは言え、華奢で繊細にみえる姉とはまるで容姿が異なるごっつくて四角い顔を曇らせた。

「しかし、オルフェウスを見逃すことなく追跡できたことは上出来だった。助かるよユースフ、下手をすればわたしも無事でいられたかどうか、あの子の遺体を引き取ると言ったから無事に移動が出来たようなものだからな」彼女は暗い海を見つめては煙を口から流していく。

「結局、わたしはモニカの遺体に救われたんだ……。そう思わんかユースフ」と、姉は弟に意味深な笑みを向けたのだった。

「一度、レニングラードに帰投する。そしたら母さんが顔を見せろだと、姉貴」

継母(かあさん)が!?アリョーシャさんとは……ちょっとなぁ。どうせ、見合いでもしろって言うんだろう?」

「たまには俺の顔も立ててくれよ!あれでも姉さんのことは気に掛けてるんだからな。それと…ユースフって呼ぶなよ」

「あぁん?黙れ。あたまに『マヌケ』、『バカ』がつかなくなったことでも出世したんだと思うがいいさ、ユースフ君よ」弟に対しては全く遠慮のない姉はゴロワーズの吸い指しを海に向って放り投げて

「ああ、ちっくしょう。これで洋モクともしばらくお別れかぁ」と、言うと艦橋から階下へとハッチを

降りていったのだった。

 これより約一年半ほど過ぎた1941年6月22日に、アンナ・ヴィクトリアーナ・マヤコフスカヤの予測は的中することとなる。この日、満を持したアドルフ・ヒトラーは世に言う『バルバロッサ作戦』の発動を指示。ここに独ソ戦がスタートした。ソ連側で言う『大祖国戦争』と称されるこの戦いにおいて、彼女の故郷レニン・グラードはドイツ軍に包囲され長らく飢えに苦しんだ。最終的にドイツ軍を追い払うことが可能になったのは1944年1月になってからであり、包囲攻略に耐え抜いたソ連軍が圧倒するその時まで続いた。その最中にアンナ・ヴィクトリアーナ・マヤコフスカヤ大尉の消息は途絶えてしまっている。

 レニン・グラード市街はもとよりその周辺部に到るまで攻撃に曝されつづけた結果、多くの施設、街の外観は破壊し尽くされて元の原型を保っている箇所はほぼ皆無であった。故にマヤコフスカヤがモニカ・カミンスカヤの遺体をどこの墓地に葬ったのかは遂には判らず仕舞いになってしまったのであった。

 

 

 

 

 



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