表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
オルフェウス号の伝説  作者: 梶 一誠
17/22

タリンからの大脱出②

 マリアと少年二人が厚生棟の入り口についてから

「ここからは自分だけでいけるわ。壁や手摺りを伝っていけば大丈夫だから、二人ともありがとうね」と、マリアは言ってから何故か彼女は上機嫌で、二人の男の子のほっぺにキスをした。

 レオンとフィリプは普段、あんまりこうした接し方をされた事がなかったので、ビックリしてその場で石みたいに硬くなった。

”はて?これはどいうい事か?”と二人は顔を見合わせたが、思わぬ幸運にニンマリとして顔をほころばせてから、レオンは部屋の方角に向うマリアの背中に声を掛けた。ある物を手渡すのを忘れそうになったためだ。

「な、何よ?」マリアにかけよったフィリプが一つの紙袋を手渡した。わざと彼女の手に閉じている袋の上側を握らせて。

「コイツを作戦開始の午前0時の前約30分前に部屋に放つんだぜ!、マリア姉」レオンが言うのをマリアは怪訝(けげん)そうにして

「何が入ってるのよ?」と、問うてから袋を縦にふると、中で何かが暴れていて、それと同時に”キューキュー”と鳴き声もしている。

 マリアはこの鳴き声にピンと来たらしく

「コウモリね!?何処にいたのよ、こんなの。もーうっ、アンナが騒ぐわよ。あたしはどういう生き物か見られないからね、どうってことないけどさ」と、言った。

「それが狙いさ。コイツを部屋に放ってアンナとモニカを騒がせる。できればジーナさんと兵隊連中を引きつけてほしい。その間に、オレとフィリプが昼間に忍び込んだ備品庫にもう一度、潜り込んで海図を取り戻すんだ」レオンの段取りを聞いてからフィリプが

「コイツねぇ潜水艦の中を自分の(ねぐら)と勘違いして潜り込んだんだ。レフさんが捕まえたんだよ。僕がもらってね、名前をつけてあげたんだよ。”ピッピちゃん”って言うんだ」得意げに胸を張るフィリプの声にマリアは少し首をうなだれてこう言ったのだ。

「……ピ、ピッピちゃん?コイツが!?フィリプゥ~あんたの感覚だけは、あたし判んないわぁ」

 マリアがぶつくさ言いながらも紙袋を持って、壁と階段の手摺りを伝って二階の医務室に向うのを見てから、レオンとフィリプはすっかり暗くなった、管理棟前の広場を走ってオルフェウス号へと戻った。

 そして、その真夜中の時間が訪れたのだが、二人とマリアの思惑とは別の闖入者(ちんにゅうしゃ)が病棟を強襲した。それは長い触角をもった茶色いボディで床をコソコソと走り回るアイツであった。

 「ゴキブリがいるぅー!イヤだぁーマリア姉ちゃん」それを発見したのはモニカで、彼女は青い顔をしてアンナに報せ、そしてアンナもパニックとなってマリアに抱きついた。

「ゴ、ゴキブリィー!だ、ダメ、ダメーッあたし、アイツは無理です。あああー何処にいるのよぉ!アンナァ、モニカ!ジ、ジーナさん呼んできてぇー」

 不思議なもので、盲目のマリアには見えていないはずのゴキブリという生き物の存在は、まだ目が見えていた頃の記憶の中でしっかり不気味な茶色い羽虫が部屋を飛び回るという印象を強くマリアの脳裏に刻みこんでいたのだった。その時、幼少のマリアの素足にそいつはビタッと止まり、膝のあたりを這い回ったという忌まわしい記憶が彼女をいっそう混乱させた。

 ちょうどその頃合いにはベッドが並ぶ病棟の壁一枚を隔てた隣、診察室においてエストニア軍管区の衛生管理中隊付き医務官としての残務処理をしていたジーナ・ラディッシュ中尉がこの騒ぎを聞きつけて

「どうした?……ゴキブリだぁ?どうってことないわよ。……どれっと」彼女は病棟のドアから中の子供たちの様子を伺ってから

(なるほど!今夜が脱出作戦決行というわけ……か)と、合点がいったらしくほくそ笑んでから、この茶番に付き合うこととしたのだ。

 なぜなら、子供たちがすっかり外出着で待機していて自分のベッドの下には下着と着替えをつめたリュックが用意されていたからだ。

 彼女はゴキブリ退治するためのモップを取りに、病棟の廊下に設置されている掃除用具入れのロッカーの扉を開けた。その音を聞き分けたマリアが、「あっ」と声を上げた。

 マリアはフィリプから渡されたコウモリのピッピちゃんを入れた紙袋を、アンナの目の付かないように、所定の時間がくるまで隠しておこうと、そのロッカーに袋ごと放りこんでいたことを今さらながらに思い出したのであった。

 コウモリの方にしてみれば、帰る塒を間違えたばかりに人間に捕らえられて狭い紙袋に押し込まれたのだ。野生の生き物はタフである。かの生き物は紙袋の封鎖を自力で破り飛び立つ好機を待ちかねていた。そこにジーナが扉を開けてくれたのだ。そいつは勇んで暗い廊下に飛び立ったが何かにぶつかり爪のついた、マントのような皮膜がついた腕でしがみ付いた。……それはジーナの頭部であった。

 ジーナ・ラディッシュ中尉こと、モスクワから派遣されてきたソビエト連邦内務人民委員アンナ・ヴィクトリアーナ・マヤコフスカヤ大尉の本名をもつ、妙齢にして頭脳明晰な彼女にも一応苦手なものは存在しているわけでこの場合においては、彼女は自分にとって決して相容れない不倶戴天(ふぐたいてん)の敵と鉢合わせしてしまったことになるのだった。 

 管理棟の半地下室、その明り取り用の小窓付近で闇の中に潜んでいたフィリプとレオンは、厚生棟の二階部分の灯りがついたのを見てから、聞きなれた自分たちの姉妹のように暮らしてきた女の子たちとは違う女性の悲鳴を聞いたのだった。

 けたたましいそれと助けを呼ぶ(わめ)き声がその灯りのある部屋から発せられて、数名の夜勤番の警備兵が

「何事か?」と、駆けつけていく。

「よっしゃ!?行くぞ!フィリプ。ついて来い」レオンは昼間のうちに鍵を掛けずにおいておいた小窓から中に忍び込む事に成功。フィリプがその後に続く。

 備品庫の中の配置は、特に自分がモニカと潜りこんだ時と変わってはおらず、二人は台にしてあった、長テーブルを使って床に降り立った。

「さすがに暗いな……ランプ、持ってきたな。そいつを点けろ」

 レオンは昼間のうちに見つけて置いた、例の7Bの棚を捜したがやはり真っ暗で要領を得ない。辺りをキョロキョロさせながらフィリプの灯す明かりを待ったがいっこうに点く様子がない。フィリプはたった今ランプの形状の虜になってじーっとそれを闇の中で手探りしている。いつもの悪い癖だ。

 レオンは「貸せ!」と言ってから彼からそれを引ったくり、慣れた手付きで灯りをつけた。彼はそれを床において、7Bの棚を探し当てて海図を折りたたんでは自分が持ってきたリュックに詰め込んでいく。その間、フィリプは柔らかで温かみのする楕円形のガラスケースの中で、ゆらゆら揺れる灯に魅せられ、何も手がつかない状態で無言でランプ本体を手に取って立ち尽くしていた。

「レオン……。海図ならボクのがあるよ……。そんなの要らないかもよぉ……」と、小声で呟いていたが、レオンには全く届いていない。そして、彼自身も眼前の物体の形状に魂を奪われたようになっていった。

 海図は何種類もあって、バルト海全図、フィンランド湾拡大図、スカゲラック海峡拡大図など様々で紙質その物が硬く、折りたたんでリュックに詰め込んでいくのも結構難儀であったのだ。それでもようやく最後の一枚を押し込むと同時に、

「ああっ!」と、レオンの耳にフィリプから発せられた驚愕の声が届いた。

「バッカ野郎!何してやがる!」レオンの目には自分の足下にランプを転がせてしまい、こぼれた燃料の灯油に灯りの炎が引火して、火の絨毯(じゅうたん)が広がっていく様が映しだされていた。

 フィリプは何事が起きたか、自分では把握できずに備品庫の床面に広がって、辺りの棚に保管されている書類の束が入っているダンボールに燃え広がって行くのをただ見つめるのみ。

「火付けまでしろ、なんて言われていないぞ。このマヌケ!」レオンはみるみるうちに広がる炎にもはや為すすべなしと判断して、その光景を眺めている仲間に

「逃げるんだよ。ここを出るぞ!」と、フィリプの襟首を引っつかんで、開け放している状態の小窓のほうへと移動させて彼を先に外へと出してから、燃え広がる炎を一瞥(いちべつ)した。それはもう、備品庫の棚をまるまる一つ飲み込んで、天井にまで届く炎の柱と化し、備品庫内に充満していく煙がレオンの呼吸を乱していった。

「火付け…だ。……わざとじゃねえけど放火しちまった……やばいぞ」彼は”ええい”と今の自分の迷いと後悔の念を振り切るようにして外へと出た。

 二人はそのまま移動して厚生棟の壁に張り付くようにして待機。海図を詰め込んだリュックはレオンが背負っていた。

 厚生棟の中ではジーナ・ラディッシュ中尉の「何とかしろー!そいつを捕まえろー!早く追い出してぇ」と、集まってきた夜勤の兵隊に金切り声で指示、というより混乱しきって声を張り上げているのが彼らの耳にも届けられた。

 後は、ここでマリアたち女の子が、入り口までくればこの混乱に乗じて潜水艦まで彼らが、脱出のエスコートをする予定になっていた。そして、レオンは次の段階を待った。

 今度は、二階の病棟はもとより、管理棟の事務所から電燈が点いていた様々な箇所がいきなり闇が降ってきた。基地周辺区域はいきなりの停電に襲われたのだ。

 これも脱出チームの工作の一つ。機関員の班が、きっかり作戦開始の9月21日午前0時ちょうど、昼間に探り当てておいた、主電纜のコードを斧で断ち切ったのだった。

「ハスハーゲンのおやっさんのチームだ……上手くやったな」と、呟いてから今度は周囲に響く大声で

「火事だぞぉー!」このレオンの叫びに、いきなり停電になって混乱している所に今度は火事騒ぎである。基地事務所が入っている管理棟もその隣の厚生棟も、人が頻繁に出入りして大騒ぎになっていったのだった。

 「基地施設のほうは動いたぞ」ヤンが、艦橋から報告をアレクサンデルに入れてきた。彼の頭上には満月である。周辺の灯りは全て落ちてしまって、闇夜を照らすのは白くおぼろげな光のみ。

「子供たちは?」発令所からのアレクサンデルの声に、ヤンのほうは月明かりのみを頼りに、厚生棟の入り口の方に目を凝らす。

「マリア……が出てきた。フィリプが手を取ってこっちに走ってくる。アンナとモニカはまだ入り口の辺りで待機している。うまいぞ!連中は子供たちにかまっていられないみたいだ」と、ヤンから子供たちの脱出が始まったことを告げられたアレクサンデルは

「よし、エンジン始動。(もやい)解け!あと、ヴォイチェフとフランツは彼女達を迎えに行け!念のためヴォイチェフはライフルを携行しろ!士官は自前の拳銃を用意」と、指示。また彼も子供たちを迎えに艦の外に通ずるハッチを抜けた。

 アンナとモニカは二人で手を繋いで、厚生棟の入り口から出てレオンが潜んでいる建物の影に身を潜めていた。

「いいか!マリア(ねえ)はどうしても移動に時間が掛かる。先に行かせたほうが得策なんだ!次はオレ達三人が、一気に走りぬけるからな」レオンは二人の女の子に手順を説明してから、さらに身体を低くするように二人に指示した。

 三人の視線の先には、頼りない足取りで潜水艦へと走り行く二人が。そこに、オルフェウス号からの迎えが辿りついてマリアはフランツの胸元へと飛び込んでから、また昼間のようにお姫様抱っこで艦内へと運ばれていく。

 レオンの目にはクマ親父ことヴォイチェフの巨躯が小走りでこちらに向ってきて、手招きをしている姿が映っている。彼は一度、周囲に注意をはらった。今、エストニア側の連中は皆、厚生棟から管理棟の小火(ぼや)騒ぎにかまけていて子供たちが脱出を意図していることなぞ、誰一人として眼中にない様子を確認してからレオンは

「よし、行くぞ!みんなヴォイチェフさんの所まで走れ!」と、アンナとモニカを掌帆長の下へとダッシュさせた。モニカとアンナの背中には自分たちの着替えが満載されたリュック。アンナはジーナに買ってもらった熊のぬいぐるみを抱えて走っていく。

 レオンもいざ、走り出そうとする前に、もとはと言えばフィリプの失敗ではあるが、謀らずとも自分も消し止める事が出来なかった火事のことが気にかかり、足を止めてエストニアの兵隊やら事務員たちが消火器、バケツに水を満載して管理棟の周りを右往左往するあり様に目を奪われ、暫しの間

「まずいよなぁ……。脱出作戦とはいえ、火付けは、やっぱりヤバイよな」と、後ろ髪を引かれる思いに(さいな)まれてしまっていた。

 それでも、彼は心の中で”すんません!”と詫びを一言入れて、二人を追おうとしたとき、彼の闇に慣れきっていた目は、何の前触れもなく出現した真っ白い小さな太陽のような猛烈な光に幻惑されて、彼は反射的に身をまた厚生棟の壁に寄せてしゃがみ込んでしまった。

 それは閃光弾であった。

 いずこからか発射された、その一発は深夜の闇に覆われていた港湾施設全体を瞬時に照らし出し、その光を目で捉えた者は一様に視界を奪われてしまった。

 時間にしてはほんの一分ほどであったが、その光源を垣間見てしまった人間がもとの暗闇に目が慣れてから見え始めた情景はそれまでとは一変していた。

 厚生棟の影から走り出た二人の少女はとっくにヴォイチェフ掌帆長の下にたどり着いているはずであったのだが、彼の数十メートル先にはまるで降って沸いたかのごとくに一台の黒塗りのメルセデスが。

 アンナとモニカが抱き合ってたたずむほんの目と鼻の先でメルセデスの運転席のドアが開いた。その時に次の二発目の閃光弾が空中で花開き、そこから降りてきた人物の顔がくっきりと映し出された。

「ドイツのお兄ちゃん!?」と、アンナが口走ったあとに、”ドイツのお兄ちゃん”と呼ばれたナチス親衛隊、武装SSの黒い制服姿の若者がにっこりと、女の子に微笑みかけて

こんばんは!(グート・アーヴェント)アンナさん」と、言った。


 閃光弾の一発目が空中で散華していた頃合いに、ようやくジーナは自分の天敵でフィリプ少年が”ピッピ”と名付けたコウモリを二階の窓から放逐することに成功した。

 ほっと息つく間もなく、さらに二発目の強い光源の影響で視界を遮られるようにして彼女は、基地敷地内に見慣れぬメルセデスと、ドイツ軍将校らしき若者がアンナとモニカに銃を突きつけているのを見たのだ。

 ジーナはすぐさま階下に駆け下りて、消火作業に没頭している兵たちに

「小隊、集まれ!基地内に侵入者。ドイツ軍だ!」と、叫んでは自らも拳銃トカレフを抜いて集まった兵らと供に現場に急行、アンナたちの危急を救わんとしたが、一人の人物が一行の行く手を(はば)んだのだった。

 タリン軍管区の陸海軍総監ジノヴィエフ准将が手を後ろに組んで立ち尽くし、彼女らに睨みを利かせていた。明らかに手を出すなとの意を含ませてその場で立ち尽くす上官に彼女は

「どいて下さい!准将閣下。我が国の主権を侵害しています。ドイツの連中は」と、やや高飛車な物言いで詰め寄るが、准将は付き従えてきた衛兵にあごをしゃくって、彼らにジーナの手から拳銃をもぎ取らせた。それを兵から受け取った准将は彼女のトカレフを品定めするかのように、手で愛でながら

「我が国の主権だと!モスクワの女狐の分際でほざくな!この件に関しては大人しくしていろ。これは警告であり、抑留した潜水艦の件は我々エストニアの外交的処置の一環として処理する!」と、声を荒らげるが彼女の顔をみようとはしなかった。

「この外交的処置の一環とやらは高く付きますよ」と、ジーナ・ラディッシュ中尉は、両手を上げながらも、不敵に笑ってみせた。


 アレクサンデルはオルフェウス号の甲板から自分の艦と、その周囲を見回した。閃光弾の二発目が炸裂した時には、まずドイツ海軍の潜水艦UX-09が近傍に浮上してきた。ドイツ海軍の水兵はUボートの甲板上に装備されている8.8cm砲に取り付き発射態勢をとり始めていた。彼我の距離はざっと300mほどで自分たちの左舷側、舳先方向に停泊している。

 次に厄介(やっかい)なのは、ドイツ船籍の貨客船『ルシュ・タラッサ』から発進した数隻のボートが近くの桟橋に横付けして、十名ほどの武装した兵隊を送り出してきてはアンナとモニカを捕らえている親衛隊の将校たちを遠巻きにして、騒ぎに感づいて押し寄せてくるであろうエストニア兵を牽制(けんせい)しようとしていること。

 ただ、この時点でもエストニア側の動きは全くない。そして、その親衛隊SSの将校の(かたわら)には、元の自分の部下がいたことが、彼には痛手であった。ヤコブ・マズゥールはポーランド海軍の水兵の制服から一般市民の服装に替わり、今は一番年下の女の子、アンナの黒い髪を鷲づかみにしていた。

 「その子を放せぇ、この裏切り者の外道(げどう)がぁ!」大声を張り上げたのはヴォイチェフ・グラジンスキィ掌帆長。彼は臨検を受けながらも何とか隠しとおしてきた貴重なライフルを構えてナチスの将校に狙いをつけた。

「ああ!どうも。クマ親父殿、自分はこのたび趣旨変えすることにしまして、ハイ。こういった事になりましてねぇ」ヤコブは、ヘラヘラ笑いながらかつての自分の親玉であった大男に向って小バカにするように答えた。そして彼は自分の手の内にある、泣いて嫌がるアンナの頭部をわざと振り回すようにしてから

「こちらのドイツの旦那方の用件はぁ、知恵の足りないアンタよりコヴァルスキィ艦長殿のほうがご存知だと思いますけどぉ」と、言って勝ち誇ってはさらにニヤついている。

「俺の希望は、ユダヤのチビ助とかたわ者のメガネブスじゃなくてマリアちゃんを捕まえたかったんだけど、例の『エニグマ』とマリアをこっちへ寄こしな!マリアはオレ達が有効に楽しませてもらう」下卑(げび)た笑いを浮かべながら勝ち誇るヤコブのケツを、シュテルンベルガーが乱暴に蹴り上げた。

「調子に乗るな!劣等人種が。彼女は我々と同じ優秀なアーリア人の血を引いている可能性のあるドイツ系の女性だ。勝手にお前の(なぐさ)み者にできると思うな!」武装SS大尉はヤコブの手から、アンナを取り返すと彼女の乱れた髪の毛を撫でながら

「ごめんなぁ。痛かっただろう?」と、言ってからオルフェウス号の下士官に向き直って

「失礼した。やっとお会いできましたな、潜水艦オルフェウス号の皆様。私はドイツ第三帝国、国家保安本部ラインハルト・ハイドリヒ長官直属、第四局に配属されておりますカール・フリードリッヒ・フォン・シュテルンベルガーSS大尉と申します」と、あらためて名乗ったシュテルンベルガーはあくまで柔和な態度を子供たちに示しながら

「もう、言わずともお解りでしょう?ご協力をいただきたい。こちらとしても目的の、情報部と我が国家保安局の戦略的成果である『エニグマ』を手に出来ればそれで良いのです。このお子様たちはお返しする。その後、どの国に亡命しようとしてもこちらは預かり知らぬこととして処理してもかまいません」

 シュテルンベルガーはこう言いながらも、自前のモーゼル拳銃の銃口をアンナに向けている。アンナはSS大尉に、モニカはヤコブに肩をつかまれ拘束されてしまっていた。ヤコブにも拳銃が握られている。

「交換なら応じよう!『エニグマ』ならくれてやる!但し二人揃って解放しろ!」と、アレクサンデルはライフルを構えているヴォイチェフの脇に来て、昨日中に潜水艦の内部で隠しおおせていた『エニグマ』の入ったリュックを携えてきていた。

 オルフェウス号の艦長はそこから数メートル歩いてから、その場で立ち止まった。彼と囚われの子供たちの間にはまだ十数メートルの隔たりがあった。

 アレクサンデルはまた数歩先に進んでから

「ヤコブか!?取りに来い。ここまでな!モニカも一緒に連れて来い!現物を確認したらその場で、今度はアンナを放せ!でなければ……こうするまでだ!」と、彼は自分が用意してきた拳銃の銃口を、自分たちがいる所から百メートルほど後方の桟橋に搬送作業中に事故に見せかけて落下させた一本の魚雷に向けた。 

 数十気圧もの圧搾(あっさく)空気と300キログラムに及ぶ高性能爆薬の塊は鉄製のカバーに覆われてはいるがそれも数ミリでしかない。銃弾のショックで気嚢(きのう)部分に亀裂が入れば、連鎖反応で爆発しかねない。エストニアの邪魔な臨検隊を遠ざけるための工作が、このような事態になっても有効な駆け引き材料となりうるとは、計画した本人であるアレクサンデルにも想像が付かなかったが、咄嗟(とっさ)に彼はそれを選択したのだった。

 シュテルンベルガーも彼の意図を不気味に感じとって、目元を険しくさせ潜水艦の艦長を睨みつけていたが、やがてヤコブに取りに行けと顎で指示した。ヤコブは肩を押さえているモニカごと引き摺るようにして、アレクサンデルに近づき、引っ手繰るようにしてリュックを彼の手から奪い取った。

「後悔はしていないのか?ヤコブよ」かつての部下であり、同胞の一人であると信じてきた男にこう語りかけた。ヤコブのほうはうすら笑いを浮かべたままで

「オレはな、ユダヤ人やら他の余計な野蛮人どもにも寛大な良い子面を見せるあんたに虫唾(むしず)が走っていたんだよ。後悔はねえ!裏切りゴメンだよ。チーフ・オレク様」ヤコブはそう言うと、自分が引っ張ってきたモニカを投げ返すように彼に預けて、そのまま後ずさりして武装SS大尉ともう一人の人質、アンナの方に退いていく。ただし目だけはアレクサンデルと、彼の後ろでライフルを構えて狙いをつけているヴォイチェフから離そうとはしなかった。

 武装SS大尉とヤコブの周囲には、いつの間にか『ルシュ・タラッサ』からの武装兵が取り囲み始めていた。彼らはあくまでエストニア側を警戒してか交渉にあたる大尉には背を向けて、基地施設の動きに注意を払っていた。

 ヤコブがリュックの口を開き、中身をシュテルンベルガーに見せた。確かに中には『エニグマ』が。

シュテルンベルガーは満足気に大きく頷いているのを見ながらアレクサンデルは自分の腕の中にあるモニカに

「後ろへ下がるんだよ。マリアが見えるか?」と、あくまで自分の目線はドイツ側に向けたままで告げると今度はオルフェウス号のほうから

「モニカ!こっちへ来なさい。あたしが見えるでしょう、早く!」先刻からの船外での緊急事態を聞きつけて、居ても立ってもいられなくなったマリアが、甲板から桟橋まで連れて来てもらって辛抱堪(しんぼうたま)らずに声を張り上げている姿がモニカの目に映ってはいたが、彼女はアレクサンデルの背後で”キッ”とヤコブとドイツ軍の将校をにらみ付けた。まだアンナが戻ってきてはいないのだ。それまでは自分もここを動かないと、モニカ・カミンスカヤという少女は声を上げる事はできないが憤怒の形相で己が固い決意を示していた。

「本物だろ!これしかもう無いんだ。さあ、アンナを放せ!そしてそれを持って立去れ、ドイツ軍」アレクサンデルが言うのを受けて

「感謝しますよ。少佐殿、この実物を拝むのは私も初めてですよ。……見ごとな復元作業ですね。でも、ずい分と簡単に子供たちの手柄を手放すじゃありませんか。……何故です?」と、シュテルンベルガーはアンナをまだ手放そうとはせずに、自分の手元で彼女の黒髪を(いとお)しげに撫でている。

「オレにしてみれば、そんな機械なぞどうでもよくなった。本来なら我が海軍司令部の最後の司令だ。何としてもやり遂げなければという気持ちではあったよ。でも、今はそんな物よりもっと重要な使命があることに気がついた」アレクサンデルはじっとナチスと裏切り者の手の中にある少女の目をじっとみながら言ったのだった。

「……まさか、この子供たち。ただの、この薄汚れた難民の子供を救い出すのが使命だとでも言うのですか!」シュテルンベルガーは鼻であざ笑うかの如く口の端をゆがめて見せた。

「そうだよ!さあ返せよ。ナチスのシュテルンベルガーとやら。貴様たちが手にしているガラクタを持って失せろ!所詮は人間が作った物だ。代わりはいくらでも作れるが、子どもたちはそうはいかない!だからその子を返せ」アレクサンデルは両手を一杯に広げてさらに二、三歩前へと歩みだす。そして、自分の胸を親指でぐいっと指して、こうも言ったのだった。

「オレのここが言うのさ!子供は全ての希望なんだ。未来なんだってな。返せよ!おれたちの明日を、未来を返せ!子供たちの無限の可能性に気付けない、いや決して認めようとはしない貴様らにいったいどんな世界が築けるのか?オレはお前らナチスに未来を預けるつもりはないぞ!」

「父ちゃーん!」アンナは叫んだ。そしてアレクサンデルの下へと走りだそうとしたが、シュテルンベルガーの手がいっそう強く、彼女の肩口をつかんで放さない。そしてこの声を耳にした親衛隊のSS大尉は、上から女の子の顔を、悪辣にゆがめた笑顔で覗き込み

「父ちゃん!?変だなぁ……。アンナちゃんのお父さんはヨブ・コヴァルチェク神父様で、お母さんはワイダさんって言うんだよねぇ?」と、自分の発言でこの女の子がどんな反応を示すのかを楽しむかのような冷酷な碧い眼が彼女の瞳を捉えていた。

 アンナはいきなり自分の両親の名前がなぜ、このドイツ人の若者から発せられたのか。目を泳がせて口をあんぐりさせるばかり……。そこにシュテルンベルガーは追い討ちを掛けるようにして

「コヴァルチェク神父様とその協力者、それにワイダさんはね、お兄ちゃんが始末したんだよ!直接ね。君のお父さんはグダンスクで、お母さんは『アウローラ』号ごと海に沈めたんだよ」

「止めなさい!それ以上言わないでぇー!」マリアは叫んだ。彼女はグダンスクで別れた親代わりに養育してくれた大人たちの悲惨な運命を薄々とは感じていたが、確証が得られなかったそのことは一切アンナに告げられるはずもなかった。できればそのまま数年は、アンナ自身で気付ける年になるまでは触れて欲しくない事柄であった。これはモニカにも当てはまる事柄でもあったのだ。

「い、イヤだぁぁー!ウソだぁぁー」アンナは自分で抱えてきたクマのぬいぐるみを押し潰さんばかりに身体をよじって泣き叫んだ。

「き、貴様ぁ!アンナに何を言ったんだよ!」ヴォイチェフは数歩、前へ出てはシュテルンベルガーにライフルの銃口を向けて恫喝したが、当の本人は涼しい顔で

「大丈夫!アンナちゃんもお兄ちゃんが、ご両親の下に送ってあげます」と言ってから、モーゼルの撃鉄を起こした。この音が合図で一斉にドイツ側の兵隊が、今度はアレクサンデルたちに狙いを定めてライフル、小銃を構えた。

「甘いな!少佐殿。一度、我らの最高機密を垣間見た者を生かしておくものかよ!」シュテルンベルガーがアンナの後頭部に銃口を”ゴリッ”と押し当てた時、アレクサンデルの後ろで控えていたモニカが彼の脇をすり抜けて、武装SS大尉へと飛び掛った。

「ジャマなガキだな」シュテルンベルガーが素早く、標的をアンナからモニカへと転じて引き金をひこうとした瞬間、アレクサンデルは大声で命令を発した。

「ヴォイチェーフ!魚雷を撃てぇぇー」

  

 

 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ