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オルフェウス号の伝説  作者: 梶 一誠
16/22

タリンからの大脱出

 「オルフェウス号はどう、もう出てきている?」マリアは9月中旬にしては、真夏が戻ってきたような強い日差しが指し込んでくる朝方の窓辺にたたずんで自分たちの潜水艦が内陸近くのドック施設から移動してくる様子を双眼鏡を使って監視しようとしているモニカに声を掛けてみた。

「モニカが言うには、まだこっちから見える位置には来ていないみたいだよ。マリア姉ちゃん」声を出す事が叶わない茶色のくせっ毛でメガネっ子のモニカ・カミンスカヤは、ベースボール試合のブロックサインのような手の動きで素早く手話で状況を伝えてアンナが代わりにマリアとの意思疎通を図っているのである。

 マリアは一度考えてから、膝をパンッと叩き

「よしっ!先ずは朝食を取ってカピタン・オレクからの指令に備えましょう。ここから基地管理棟に移って食堂で腹ごしらえしてから、暇つぶしに辺りをぶらつくふりをして、連中が押収していった航海用具、海図が収容されている場所が何処なのか目星をつけるところから始めます。いいわね、みんな」

 マリアの行動計画に二人は異論なく頷いたのだ。マリアは自分が腰かけているベッドのマットレスの下から、拳大の真鍮製(しんちゅうせい)のリングにまとめられた鍵の束を取り出した。

「この戦利品を最大限に利用するのよ!私は自由に動けないから二人が鍵に付けられてる名前にある『備品庫』の一本に合う扉を見つけなさいね。そして一度だけ中を覗いて海図と航海用具があるかを確認しておくのよ」

 「了解です」と、二人が頷いてから、マリアは昨日と同じズボンとシャツ姿で立ち上がった。鍵束はシャツとズボンの境辺りにねじ込んで。

「さぁ私たちも作戦開始です!」

 マリアの手にする鍵束。これは、前日に潜水艦内をくまなく捜索したにも係わらず『エ二グマ』を発見できなかった臨検隊が、今度は早朝にマリアたち女の子たちの収容されている医務室病棟にいきなり乱入してきた際に入手できたものだった。 

 兵士たちに乱入されて驚いたアンナとモニカの二人が助けを呼びに行ったのが厚生棟の隣にある管理棟の食堂であって、そこで朝食の仕込みに汗していたいわゆる食堂のオバちゃんたちに「マリア姉ちゃんが襲われるーっ。姉ちゃんが(さら)われるぅー」と、泣きついたのだ。

 危急を聞いた頼もしい援軍は怒りの形相顕わにさせて

「お前らぁ、何してくれてんだぁー!」こう叫ぶなりパスタ用の麺打ち棒やら巨大なオタマを持って一斉にわらわらと乱入しては、兵士共を引っぱたき、ど突きまわして撃退してくれている最中に、モニカが兵士の一人の腰にぶら下がっていたそれをちゃっかり頂戴したものであった。

 兵士たちは「仕事だから!変なことはしないから」と、オバちゃんたちに謝ってから、改めて医務室の病棟を捜索させてもらったという次第であった。

 結局、ここからも彼らがナチス・ドイツの意向で捜索している暗号解読機『エニグマ』を発見することはできなかった。それもそのはずで前の晩にはここを訪れたフィリプ少年の手によって、今またオルフェウス号に戻されていたのだから。

 エストニアの兵士たちにして見れば全くもっての殴られ損であった。


「両舷前進びそーく。機関ディーゼル」艦長アレクサンデルの号令が司令塔上の艦橋の伝声管から艦内中央部の発令所に向けて発せられた。すぐさま船体が目覚めてぶるっと身震いするかのような軽い振動が起こると、最船尾にある排気管から白っぽい煙が立ちのぼりゆっくりと潜水艦は動き始めた。

「前進微速、宜候(ようそろ)」その発令所内では機関長ヤロスロフ・ハスハーゲンが復唱する。

「転進、左-五度へ、よーそろー」、「左-五度、よーそろ」機関長の前の操舵席に座している操舵員が伝声管からの指示を正確に復唱で返す。

 ポーランド海軍潜水艦オルフェウス号の機関は二日前とうって変わって快調そのものであった。発令所でその艦尾方向から聞こえてくるディーゼル機関からの滑らかなリズムがハスハーゲン機関長には心地良いはずのものであったが、彼の視界の中にいる場違いなエストニア軍の兵隊が銃を担いでいる姿はその気分を台無しにしていた。

 臨検隊の兵士たちは艦内の主要部をはじめ、浮上中の甲板にも数名、銃をつがえつつ潜水艦の乗組員を監視しているのだった。

 オルフェウス号は修理用ドックの、外側から見ればロールケーキのような丸屋根の下から残暑が厳しい陽の中にその雄姿を現した。

 「舵、中央!もどーせ」艦橋に立って操艦の指示を出し続けるアレクサンデル・コヴァルスキ艦長は長らく日陰にいたせいで水面と黒々とした艦体からの陽光の反射に幻惑されて手をかざしながらも針路に異状がないか見定めていった。その後ろでは先任士官兼副長のヤン・レヴァンドフスキィ大尉が忌々しげに”ふん”と鼻をならしては

「全く、場違いな連中だぜ!こっちが何をするでも口を挟みやがる」と、ぶつぶつ愚痴をこぼしている。

「ヤン。騒ぎを起こすなと皆に釘を刺しておけよ。特に今日は……辛抱だ」

「わかっているさ。あと、各班は準備完了しているぜ」

「よし、魚雷の積み出しが始まったのを合図に各班は作戦開始だ」

「了解……。あと、女の子たちには?」

「マリアたちには、海図と航海用具の在処(ありか)を探させるつもりだ。無線は使えないし、伝言に誰かを使わすわけにもいかん。そこでフィリプと、むこうではモニカに双眼鏡を預けたんだ。……うまくやるさ。しかしレオンの奴も二人の手話を暗号代わりに使うとは考えたものさ」

「もう、始めてたりしてな。マリアはこちらの考えを簡単に先読みできる娘だ」

「ああ、そうかもな。あの子供たちはオルフェウスには欠かせない存在になってしまったな。ヤン」

 ヤンはここであらためて何かアレクサンデルに告げようとしたが、無言のままで親友である彼を見つめていたが

「……あまり、情が移るといざ、お別れという時に辛くなるぞ。特にアンナちゃんはな」と、意に沿わぬ発言に留めてしまった。

「…うん、その時はその時さ。よーし、あそこか!機関長へ、両舷最微速。転針、右五度、よーそろー」

 今までの狭い水路が入り組んで、奥まっていたドック付近から慎重に針路を変更しながらオルフェウス号は、ようやく海軍基地管理棟とマリアたちが詰めているはずの厚生棟から、その船体が望める位置に到着した。その距離は約300メートルほどで、特に遮蔽物(しゃへいぶつ)になる建物もなくガランとした広場のような空間が広がるのみであった。まっすぐ走ればすぐに桟橋に着くのである。

 その桟橋には、運転席と荷台の間に動力式のクレーンを装備した低床型のトラックがすでに待機していて、民間の配送業者と作業を監督する将校及び工兵隊がその周囲で、潜水艦の動きを見守っていた。

 アレクサンデルの見事な操艦指示で潜水艦はゆっくりと減速して、所定の位置へ右舷側を桟橋に横付けに成功した。それからは甲板上には両海軍の作業員が忙しく立ち回っては、魚雷搬入口を開けて、通常作業とは逆の工程を行なうこととなる。

 監督官の将校とアレクサンデルは、平和的に会釈してから作業の立会いのために甲板へと降りる際、ヤンに小声で「ゴーだ!」と指示すると、先任士官は艦内の発令所へとハッチを慣れた動きで降りていった。

 ヤンは発令所に集合させていた士官、下士官に大きく一つ頷き、目配せすると一斉に彼らは自分のチームの下へ散っていったのだ。

 しばらくすると航海長のレフ・パイセッキー中尉とレオン・ヴィンデル少年の二人が、魚雷の搬出作業で混み合っている船首搬入口とは反対側の後部甲板から脱出用手漕ぎボートを引っ張り出して、海面に浮かべて乗り込んだ。彼らは手に釣竿を持ち、魚篭(びく)代わりに清掃用のバケツを用意していった。

「何をするつもりか?」と、近づいてきた言わずもながのことを言うエストニアの兵隊に

「やることがないからな!」航海長がその兵隊と目も合わせずにぶつくさとこぼしてからレオンに竿を持たせて自分はオールを漕いで、潜水艦を離れていった。

 残暑の厳しい陽光を反射する海面に目を細めながらレフは潜水艦の舳先方向へボートを漕いでいく。途中、甲板に居るアレクサンデルと目が合ったが、艦長の方は素知らぬふりをして軽く頷くのみ。やがて艦の前方、2、30メートル付近でココで初めてレオンは釣り糸を垂れた。この釣り糸には細工が施してあって、魚を釣るための針は無く、(おもり)だけが用意されていた。糸には水深を測るために一尋(ファザム。1ファザムは約1.8メートル)ごとに結び目があって錘が海底に着くとレオンはそこから糸を手繰(たぐ)り寄せて、いくつ分の結び目が沈んだのかを、自分たちがいる箇所の水深がどれくらいかを調査していくつもりなのである。

 脱出工作チームの一つであるパイセッキー班は港外まで潜航したままで抜け出す航路を探り出すための準備を請け負っていたのであった。

「ここは4(ファザム)だよ。レフさん」レオンは結び目を数えて計測結果を報告する。

 航海長はメモ帳を取り出しては、自分たちの船が横付けしてある場所と、港外へ抜ける出口の桟橋までを書き記した大ざっぱな絵図面に深さを記入していく。

「いいかいレオン。最低でも10(ファザム)以上のポイントを探すんだ。位置を変えよう」レフは鼻からずり落ちそうになるメガネを気にしながらオールを漕いでは、確実な潜水艦の脱出用水路のためのポイントを探し出そうと、ちょこちょこと場所を変えていく。

「釣れないなぁーっ。エストニアの魚はしょぼいわぁー」こう、レオンが時折り周囲に、特に潜水艦の上で銃をつがえている兵隊連中に聞こえるようにわざと大声を張り上げた。

(にご)っているなここの海は。2メートル下も見えてこない。まあこの方がおれ達には都合がいいが」

「えーっと、1、2、……いいぞ!ここは12(ファザム)あるよ」レオンは成果の無い釣り糸を手繰っては嬉しそうに身体を揺らしている。

 二人はボートを更に港の外の方に移動させていく。そうこうする内に一時間が過ぎ大分タリン港の外側に接近してきた。その途中でオルフェウス号を足止めさせるようにクレームをつけてきたドイツの貨客船『ルシュ・タラッサ』が本来ならばとっくの昔にこの港を後にしているはずであるにも拘わらず未だに停泊している所まで到着した。

「このデカ物、いつまでここに居座るつもりだ」レフは忌々しげにその黒い船体を睨みつけていると、その甲板に数人の女性の姿が見受けられて、どうみても”夜のいやし系のお姉ちゃん”たちは胸の谷間がくっきり判る衣装を身にまとって、二人の小舟に手を振って来る。

「釣れるかぁ?ボクちゃん」、「もっとこっちへ舟を寄せなぁ」と、暇つぶしにからかうつもりなのか、しきりに声をかけて来てはこっちへ来いと手招きしてくる。

 レフは仕方なしに貨客船のサビで薄汚れた船体が手で触れるくらいの所まで接近した。お姉ちゃんたちを真上に見上げながら、レオンは空のバケツ、今日の成果を見せると女の子達の笑い声が頭上から降ってきた。すると今度はロープが下ろされてきて、数人のお姉さんたちはバケツを結わえろと仕草で合図してくる。その通りにするとバケツはするするとお姉さん達の下へと昇っていった。

 高低差は10メートル近くはあろうか。一度彼女達の姿が見えなくなってしまうととレオンは、何をするつもりなのかと首を傾げつつも、ただ待っているのも芸がないので

「どれ、試しに」と、ここでも偽の釣り糸を垂れてみた。すると海底近くで今までとは違う何か硬い物にぶち当たったような”コーン”と変な音がした。

「はて!?」と、レオンが透明度が低い濁った海面を見つめていると、それと同時に、上からお姉さん達がまた顔をのぞかせて来て、今度はバケツを下ろし始めたのだ。

 バケツには封をあけてある良く冷えたラムネが二本。そしてビスケット、キャンディといったお菓子が入っていた。

「それ飲んでがんばんなよ。ボクちゃんとオッサン」彼女らはそう言うと手を振ってから姿を消した。

「ありがとーう!」レオンとレフはラムネを立って飲みながら、きれいに包装されたお菓子類を小舟にぶちまけた。レフは「オレはオッサンじゃねえぞ」とぶつぶつ言うのをレオンは横目にして思わぬ戦利品にほくそ笑んで、どれから手をつけようかとしゃがんで選んでいると、自分とさほど距離が離れていない海面から”ぽちゃ”と音がして、魚か?と反射的にそっちに目を向けると金属の棒状のものがするすると昇ってきて、先端部の丸いレンズとレオンの目が合った。

 全くいきなりの事に少年は飲んでいたラムネにむせ返ってしまって

「……!!」声を上げそうになるのを必死に堪えて、平静を装いながらそばでラムネの残りを飲み干しているレフ・パイセッキー中尉の袖口を引っ張った。彼に自分たちがいる海底にオルフェウス号とは別の潜水艦もう一隻、潜んでいると教えようと、今一度、海面から上がってきた潜望鏡らしき物体を確認しようとしたのだが、それはすでに姿を没した後であった。


 「!!……目が合っちゃった。」と、ウルリッヒ・ハルトマン中尉が潜望鏡の覗き窓から顔を離したと同時に、反射的に潜望鏡を収納位置に付けた。

「どうしたぁ?先任」ハルトマンの足下のハッチからは階下の発令所にいるアルベルト・キュヒナー艦長からの声がする。

「地元住民の親子連れでしょうか。釣り船の子供のほうとばったり目が合ってしまいました。こちらの存在に気付いたかもしれません……どうしますか?」

「……まずいな。オレ達がここに潜んでいる事を知っているのはエストニア軍の上層部連中のみだ。一般市民にまで騒ぎ立てられるとさすがに動きづらいし」ドイツ海軍のU-X09艦長はしばし、ヒゲをそって肌触りの良くなっている顎をなでながら一考していたが

「ハルトマン、今一度見張れ。あまり騒ぎ立てているなら”上の連中”に捕まえてもらうように指示をださにゃあならん。本来なら我々ドイツ海軍の艦艇は一隻もエストニア領内には存在しないことに建て前上ではなっている。現に我々は頭上の『ルシュ・タラッサ』に接舷しているだけなんだからな。判るなハルトマン」

「了解です、艦長」ハルトマンは潜望鏡のスイッチを上昇にいれて、また覗き窓に顔を付けた。

「……艦長、大丈夫なようです。親子連れは別のポイントに移動、また釣り糸を垂れています」ハルトマンの報告に安堵したように頷くとキュヒナー艦長は一つ溜め息をついて

「ここでのかくれんぼに飽きてきたな。外海に出たいぜ。……シュテルンベルガーの奴め、早いところオルフェウス号と決着(ケリ)をつけてしまえってんだ……」と、言って配管とコードの束が走る、Uボートの内郭船体の天井部を目を向けた。


 「本当ですって!あれはオレ達をレイス号と一緒に沈めようとしたあのUボートに違いないですよ」レオンは先刻、小型ボートに乗って海底の深度計測中に偶然、目撃した潜望鏡の件をアレクサンデルに告げた。しかし、潜望鏡らしき物を認めたのはレオンのみで、パイセッキー中尉は見ていないと言う。

 信じてくれ、確かに目が合ったとたんに奴は姿を消したんだと、自分は今まで連中に気付かれないように平静さを装って戻ってきたんだと、艦長の前で彼は飛び跳ねながら訴えたのだった。

「どう、思うね。ヤン、レフ」アレクサンデルは、甲板上で魚雷の搬送作業を監督しながら、傍に立つ二人の士官に問うた。

「オレは信じたほうがいいと思う。奴らが何らかの方法で補給を受けている可能性は大いにあることだ」ヤンの発言にはレフも大きく頷く。

「エストニア側も奴らが潜んでいることを知りつつ何も言ってこないのも当然なんだよ」と、こう付け加えた。

 アレクサンデルは腕組みをしながら背中を司令塔の外壁に預けていたが、やがて意を決したように

「計画を早める!明日の未明に行動を開始する予定を今夜の0時に発動させる。レフ、ヤン二人は各班長に通達!レオンは午後は計測作業から、マリアたちに接触を図れ。いいな」と矢継ぎ早に命令を飛ばす。

そして、レオンの肩をつかむと

「何とかしてお前は、女子のいる厚生棟に忍び込め!方法は任せる。やってみろ」この言葉にレオンはいたく感激したのか大き頷くとビシッと敬礼して、艦内にフィリプを呼びにいこうとした時に、けたたましいサイレンの音がオルフェウス号から発せられた。艦内火災報知機のサイレンであった。

 レオンは思わずその大音響に耳を塞いでその場で立ち尽くしてしまった。アレクサンデルとヤンは”またか”といった困惑顔を作っては舌打ちをした。

「もーういいかげんにしてくれよぉ!」と言いながら、レオンが今降りようとしていたハッチから姿を現したのはフランツ・ヴァノック一等兵曹であった。彼は甲板に上がるや頭を激しく振って

「もうお手上げっす!連中がむりやり無線機を取っ払ったらこのあり様です!火災検知器と浸水警報センサーの分配機と電源の一部が無線機本体をバイパスしていたらしいんです。さっきから配線を繋ぎ直しているんですが……この通りですよ!」と、言ったきり青空を仰いで途方にくれてしまった。

 迷惑顔をした数名のエストニアの兵士も上がってきては”うるさいから何とかしろ”とフランツに詰め寄るが彼も顔を赤らめては

「うるせぇ!もとはと言えばおまえらの上官が無線機を外せって言ったせいだろうがよ」数名の男共が甲板上で面をつき合わせて睨みあう。一人の兵士がつかみかかる様にしてフランツに文句を言うと、彼は自分の足下を指差しては

「じゃあ、オランダの造船技官をここまで呼んで来いよ!いいか、そうなったら無茶な取り外しを指示したお前らの上官にクレームが行くんだからな!オレは知らないからな」と、言ったきりそっぽを向いてしまった。

 実はこれも偽装工作、脱出及び装備奪還作戦の一部であったのだ。フランツと他数名のチームは無線機取り外しの作業に協力するフリをしつつ、騒音が頻発する工作を見事にやってのけた。

 アレクサンデルはこの様子を見かねた風に、魚雷搬出作業を監督していた将校に近づき無線機を戻せないかと、談判してみた。その途中でもまたサイレンが鳴りはじめてしまってその度に、甲板にいる作業員や水兵も浮かない顔を二人に向けてきた。

 監督官も、”これでは仕方なし”として無線機を艦に戻すように指示。フランツと彼のチームはまんまと無線機を取り返したのだった。

 こういったオルフェウス号の士官、下士官をチームリーダーにして様々な偽装工作が展開されていったのだった。あるチームは、修理用ドックまで戻りそこの工具用棚から金属用のノコギリを拝借してきては、桟橋と潜水艦をつないでいる係留索に切れ目を入れていった。

 別の機関長ハスハーゲンのチームは外をぶらつきながらしきりに電線の位置に目を配り、この港湾施設の主電纜(しゅでんらん)の位置を捜し当てて、そこから基地の各所に向けて走る(どぶ)状のU字抗内にあるその太いコード類をぶった切る斧まで調達してきていたりした。

 そんな中でも艦長のアレクサンデル・コヴァルスキ少佐はエストニア側に協力する姿勢を崩さず対応したため、監督官の将校とは笑顔で握手を交わすほどになっていた。

 アレクサンデルは(かね)てからのこれらの工作に、脱出に邪魔なエストニアの臨検隊と工兵隊をいっぺんに潜水艦から引き剥がす決定打を加えようと、掌帆長ヴォイチェフ・グラジンスキィに近づき、彼の肩を二回叩いた。

 この作戦開始の合図を受けたヴォイチェフは自分の顔を二、三回両手で叩いて、「よし!」と、小声で気合を入れるようにして(つぶや)いてから自分のチームが預かる部署の艦内へと降りていった。そこは魚雷発射管室。彼のチームは信管を外されている予備魚雷を搬出作業中であった。その数は前後合せて合計8本に及ぶ。

 彼らは魚雷を空中に吊り上げるためのワイヤーにノコギリで切れ目を入れて、搬送中の魚雷を途中で落下させるという危険極まりない工作を行なおうというのである。万が一の事があるといけないから、普段は魚雷の先端に信管を装着するのは、本体を魚雷発射管に装備する時だけと決められてはいる。であるからして、当然搬送中での爆発の危険性はかなり少ないのだが……。

 とは言え、不慮の事故を演出しようとしてその結果、トラックに積み込まれた、数本の魚雷の上に落下し、何らかの原因で全部のそれが一斉に”ドカン”といけば、オルフェウス号はもとより周辺の基地施設、子供たちがいる厚生棟までもが吹っ飛びかねないのだ。下手をすれば全員がお陀仏でタリン港自体が何ヶ月も使用不可能になりかねない。……だが、やるしか無かった。

 掌帆長ヴォイチェフは金属用ノコギリを持って、今まさに艦外へと吊り上げられようとしている一本の魚雷に取り付いてワイヤーをその巨躯で隠すようにして切れ目を一筋、一筋つけていく。彼の配下の水兵たちは搬送作業を手伝うふりをして、甲板上でこの作業を監督している兵士から自分たちの親分の作業が見えないようにカバーした。

 掌帆長(しょうはんちょう)は作業を終えるとワイヤーから離れて、”いいぞ上げろ”の意味で頭上で人差し指をくるくる回転させた。船外からクレーンを動かすエンジン音が響いて、ワイヤーがビンっと張りゆっくり巨大な鉄の魚肉ソーセージみたいな魚雷がゆっくり作業班たちの頭上へと上がっていく。

 彼らは”今はまだ切れるなよ。もう少しもってくれよ!”と祈りながら上を見上げた。ヴォイチェフのチームの面々の心臓は早鐘のように打ち、彼らの耳はワイヤーが張り詰めているギリッギリッと鳴る音だけを執拗(しつよう)に拾い続けた。


 「動いたよ!マリア姉ちゃん」アンナがモニカと並んで窓辺に立って、潜水艦の司令塔に控えているフィリプとレオンが示した手鏡を反射させての手話通信開始を意味する光の合図があったことをマリアに告げた。

モニカは双眼鏡を覗き、あちら側で手話での信号を開始したフィリプの手の動きをつぶさに追っていく。

彼女はその内容をアンナに伝え、アンナはそれを声にして盲目のマリアに伝えた。

「読みます。マリアへ、レオンをそちらへ送る。押収品の在処(ありか)を探れ。航海用具あるいは海図のどちらかでも確保せよ。詳細はマリアの指示にゆだねる。成功を祈る!カピタン・オレク以上……です」

 マリアは小声で「了解した……けど」と、言った後は腕を組んで考え込んでしまった。

彼女には懸念が二つほどあった。一つは管理棟の食堂で三人が朝食を摂ったあとにアンナとモニカに探らせた押収品を収めたと思われる備品庫の入り口には係官が一人、初老の守衛が詰めていること。あと一つは厚生棟と、軒を並べている管理棟の正面口に配置されている警備兵の存在であった。この二つをほぼ同時にクリアーしてレオンとあと一人、モニカを備品庫に潜入させるには如何にしたものか、彼女は病棟のベッドの端に腰掛て腕を組んでは見えはしない視線を天井に向けて思案にくれていた。

 アンナはそんな様子のマリアに

「どうするの?手話信号だと、”レオンはいつでもOK!指示を待つ”だそうです」この連絡に意を決したかのようにマリアは一言

「オシッ!」と、言ってから両手で自分の頬をピシと叩いいたから、すっくと立ち上がり

「あたし……ぬ、脱ごうか!昨夜(ゆうべ)の黒い下着つけてぇ!歩くだけで注目間違いないわよね。……どう思う?」興奮してテンパッているのか思案が詰まってパニクっているのかマリアは普段と違いどうにもあたふたしている。

「……マリア姉ちゃん、落ち着け!今度こそ(さら)われるぞっ。面倒事増やすなよ!」アンナが呆れた様な顔でマリアを下から見上げた。

「そうよ!あの贈り物はあんたとあの”もっさい彼氏”のために用意してあげたんでしょうが……。エストニアの田舎者連中を喜ばせてどうすんのよ」不意に上がった声の方に振り向くマリアの見えざる視線の先には、ジーナ・ラディッシュ中尉が立っていた。アンナとモニカが近寄ると彼女の手には見慣れぬ楽器が握られていて

「ああ、これな。マリンバっていう楽器だよ。ちょっと弾いてあげようと思って持ってきたんだけど、何やらさっそくこいつの出番みたいじゃないかね?ええっマリア、あんたさぁ踊れるかい?」

 ジーナは顔を真っ赤にしておずおずしているマリアの表情を楽しむかのように覗き込んだ。


 「向こうでも動きだしたよ。うわぁーマリアってきれいに踊れるんだねぇ。知らなかったなぁ」フィリプが双眼鏡を覗きながら、隣に控えているレオンにいった。レオンもそれを遠目に垣間見ながら

「よし、いいぞ。警備兵の連中も集まっていくぜ」と、言った後にそそくさと艦橋を降りた。手には空っぽのリュックを二人分用意して。航海用具と海図をつめ込むためである。

 フィリプは艦橋の高さからだとちょうど同じ位置に相当する、厚生棟は二階部分の医務室の窓に向って

”レオンが移動を開始する。受け入れを用意”との手話信号を送った。モニカの方も彼の双眼鏡のレンズの中で”了解”を返信してきた。

 結局、エストニア側はこの二人の手話通信に最後まで気付かなかったのだ。見かけても何やら子供同士での手遊びの類かと片付けてしまっていたようだ。

 そこにちょうどヤン・レヴァンドフスキィ大尉が上がってきて、少年の隣で同じ方向に双眼鏡を向けて

「おい、フィリプ。踊っているのはマリアか?あの楽器みたいなのを弾いているのは、あのラディッシュとかいう女中尉なのか!くそっ味方だと思えだって?本当かよ」この言葉を受けてフィリプは

「……大丈夫だと思うよ。ジーナさんの方にも都合があるみたい。理由は難しくてボクわかんないや」そういうと少年は声を上げてわらった。

「ふーん、まあいいか。それにしてもマリアは上手に踊るなぁ、よくもまぁ怖がらないで、目がちゃんと見えているみたいじゃないか。思いっきりがいいのかな。度胸があるよなあの娘は」ヤンはフィリプに向けて言ったつもりが、返答してきたのは、無線機を復活させたことを副長に報告しに来たフランツであった。

「なんでも、あいつは完全に失明するまでの数年は民族舞踊を習っていたそうですから……ああ?誰だぁ!この野郎、フィリプ、それ貸せ!」彼はいやがるフィリプの首から双眼鏡を奪って、覗き込み

「てんめぇ!マリアの腰に手を回すなぁ!近寄りすぎだろうがよぉ!ああーっ今度はどさくさに紛れておっぱい、おっぱい触ったぁー殺す!まじ殺ーす」と、艦橋でフランツは喚き散らし始めた。

 フランツの双眼鏡の中では、今までは厚生棟と管理棟をつなぐ渡り廊下の前辺りで、ジーナが爪弾(つまび)くマリンバの音色にあわせてマリアが一人で民族舞踊を披露していたが集まってきた警備兵らの一人が進みでてはマリアの手をとってくるくる回り始めていた。アンナも(かたわら)で手拍子しては何か歌っているかのようだった。

集まってきた兵士は十名近くになってオルフェウス号の付近からも何名か移動してきては、手拍子を打っては”早く替われ、次はオレだ”と騒ぎ立てている。

 マリアの手をとる兵隊は何かと彼女に密着してはきつめに抱き寄せようとしている。いよいよキスせんばかりに近づいてくると、さすがにジーナがマリンバを弾きながらその”おいたが過ぎる”兵士のケツを蹴り飛ばした。座の中からどっと笑いが起きると、別の兵士が交代でマリアの手をとってまたダンスを始めた。そのパートナーが変わるたびにフランツは騒ぐのだ。

「今度の野郎はぁケツさわってんじゃねえぞぉ!行っていいすか!オレ行っちゃていいすかぁ大尉殿ぉ」双眼鏡を覗きながら鼻息荒く興奮している雄牛みたいな若造を尻目にヤンも双眼鏡を覗きつつ、思案していたがレオンが厚生棟の入り口に到達して、モニカが中に引き入れいるのを視認できるとこう号令を下した。

「ヨシッ!許す。マリア嬢救出を命ずる!エストニアの連中をブッ飛ばしてこい!」

 フランツは待ってましたとばかりに司令塔から甲板へとジャンプ。渡り戸板も使わずに桟橋へと飛び移ると、甲板で彼と同じ光景を見ていて「オレ達だってマリアの手をとって踊ったことなんてないのに」と、面白かろうはずのないオルフェウス側の若い水兵数名もフランツの後を追って駆け出したのだ。

 今、ヤンの双眼鏡の中では砂煙を上げてダッシュしていく、フランツを先頭にした数名の若者たちが映っていた。やがて彼らは兵隊連中の座の中に突撃していく。フランツは真っ先にマリアの腰を抱いていた兵士に飛び蹴りを食らわせて、マリアを奪還。彼女を”お姫様抱っこ”の状態で抱え込んで潜水艦と基地施設の間の周囲300メートル四方の開けた場所を駈けずり廻っている。あっちこっちでエストニアとポーランドの若造同士が取っ組み合い、つかみ合いを始めている。

「オラァかかって来いやぁ!」、「ぶっちめす!てめえぇ!」、「このポリ助野郎どもがぁ!」あちこちでドタバタ喧嘩のらんちき騒ぎが巻き起こっていった。

 もはやミニコンサートの状態ではない。中にはどさくさにジーナ中尉に抱きつこうとする(やから)もいて、そいつはマリンバでめった打ちにされて伸びてしまった。 アンナはそれを遠巻きにして見ながら両手をぶるんぶるん振り回して、ジャンプしながら嬉々として騒いでいるのだった。

「いいぞ!喧嘩の無料見物(ただみ)は大好きだ。レオンも上手くやれよ。ヒヒヒッいいなぁ。もっと騒げぇクソ野郎ども」 

 ヤンはその光景を見てはゲラゲラと大笑い。フィリプも双眼鏡を拾い上げて二人してそのらんちき騒ぎを見ながら

「みんなバカみたいだぁ」と、間延びした声で言うと、ヤンは

「違うぞ、フィリプ君。バカみたいじゃなくて正真正銘のバカだぁ」二人はまた肩を揺らしては大声で笑いあった。

 その二人の10メートルほど船首側では作業中の低床トラックのクレーンで吊られている魚雷がぐらっと傾いたのはその瞬間であった。


 「いいなぁ、オレもあっちに参加してえよぉ」レオンはモニカと連れ立って厚生棟と管理棟をつなぐ渡り廊下を駆け抜けながら呟いていたが、フランツと水兵たちがエストニア兵と取っ組み合いをしているのを横目にしてそわそわしていた。

 モニカはぐいっとレオンの背を押すようにして管理棟の廊下を進んでいく。食堂を抜けて一番奥の区画へ進むと階段が一箇所だけ地下に向けて伸びている。その先が備品庫となっていて階段の踊り場にはデスクがあってそこに守衛として初老の兵隊が一人詰めていた。

 このいかにも実直そうな老兵は、外が騒々しいのに、一向に興味も無く帳簿に向かって黙々と仕事をここなしている。

「外で喧嘩騒ぎしているのに、あのじじい動かねえじゃねえか」レオンはこれは突破は無理かと考え、踵を返して戻ろうしたが、モニカが鍵束をじゃらっと突き出して”まかせろ”と手話で示した。

 レオンはモニカが繰り出す手話を読めるが、自分で発信はできない。みなと一緒にグダンスクの教会では勉強はしたものの「読めりゃ充分だよ。面倒臭くっていちいち手を動かすなんてできるかよ!」と、いったきり技術を習得しようとはしなかったのである。

 二人は守衛の前に来て、鍵束を見せてから

「あのぉ、コイツが外の植え込みの所でこれ拾ったんだけど」と、レオンはモニカを指差した。彼女はぐいっと守衛の顔の前に取得物をかざして見せた。これに初老の兵隊は

「おおっ!ご苦労さんだね嬢ちゃん。失くした、失くしたって騒いでいる奴がいたんだよ。ありがとうな」彼はモニカに破顔一笑してから、騒がしくしている渡り廊下の方を見やってから

「バカどもが!何を騒いじょるか。仕事もせんとまったく」と、今度は顔をしかめた。モニカが鍵束をデスクの上におくと彼はゆっくりと席を立ち

「ちょっと待ってな。お菓子やるから持っていきな」二人に背を向けて、廊下を挟んで反対側の休憩用詰所に姿を消したのだった。

 モニカはその隙にさっとデスク上の帳簿をめくっては保管記録を追った。彼女はオルフェウス号からの押収品は備品庫の扉を入ってから7Bの棚に収納されていることを読み取ってから鍵束をレオンに投げた。彼に”7Bの棚を捜せ”とサインを送った。

 レオンも今がチャンスと階段を降りて半地下になっている備品庫のドアの鍵を開けてから、鍵束をモニカに投げ返してて寄こした。彼はサッとドアの向こうに姿を隠してしまった。

 そのタイミングで初老の守衛が戻ってきて

「あれ、小僧のほうは?帰ったのかい」モニカが頷く。彼はモニカの両手一杯に包装されたビスケットを渡してくれた。

 その時だった。その管理棟の外で繰り広げられていたバカ騒ぎの声が、一瞬止んだかと思うと一斉に驚愕を含んだ大声が沸き起こり、数名の兵士が管理棟の中に飛び込んできて

「ヤバイぞ!警報鳴らせぇ。避難しろ危ねえぞ」と、廊下を二階の事務所の方へと駆けていった。

「また今度は何事じゃい?」老兵の守衛は持ち場を離れてモニカたちがやって来た渡り廊下の方へ歩んでいく。モニカは自分の着ているブラウスのポケットにビスケットを満杯にさせて、彼が自分に背中を向けているその隙に階段を駆け下りて備品庫のドアを抜けて、レオンの姿を追った。

 室内を走ってレオンを捜していると、天井に近い半地下室用の明り取りの小窓の向こうから、緊急避難あるいは空襲警報用のサイレンが鳴り始めた。そのけたたましい大音量が小窓のガラスを震わせていた。モニカはその小窓の真下でテーブルを動かそうとしているレオンを発見して、近寄ると

「モニカか。ちょうどよかった手伝え!こいつを台にしてあそこの窓から外にでるからよ。航海用具は取り返したぞ」二人はテーブルの両端を持って、十枚ほど並んでいる小窓の一つ、入り口のドアからは棚類の影になって見難い箇所の下に移動させて、レオンはテーブルによじ登って小窓から顔をだして外を眺めた。

「何があった?外はひでえ騒ぎになってるよ。みんなオルフェウスの近くから逃げ出してくる!」レオンは人間の足下付近の視線から外の喧騒具合(けんそうぐあい)を垣間見ていた。サイレンはもう止んでいるが、今まで取っ組み合いをしていた水兵連中と、マリアを抱えたままのフランツはまた潜水艦のほうへ走って戻っていくのが見えた。またそれとは逆にエストニアの臨検隊と工兵隊は作業を投げ出したのか、数十名が一斉に基地管理棟、すなわちレオンがいる施設まで走って退去してくる。

「いいぞ!今のうちだぜ!思った通り、ここから出れば直接地べただぜ」と、言うと身体を小窓から繰り出してからモニカの方に手を伸ばして、航海用具であるコンパス、六分儀、定規、計算尺といった備品を詰めたリュックを求めた。モニカもテーブル上のそれを引っつかんで投げるようにして渡すとレオンが

「この窓だけは鍵を閉めるな。時間がないから海図は夜にもう一回ここから忍び込むからな……。お前はドアから普通に抜けて外からここの鍵を掛けておけ!夜まで怪しまれない様にするんだぞ!じゃあな」と、姿を消したと思いきや、彼は去り際にモニカに向けてはにかんでこう言ったのだ。

「お前、そのワンピース、よく似合ってるぞ。少しだけレディに見えるぜ」にっこり微笑まれたモニカのほうは頬を赤らめて声はだせずとも、口の動きだけで”うるせえ、早く行けよ”と言ってからべーっと舌を出した。

 モニカはテーブルから駆け下りてから一目散に備品庫のドアを目指した。そしてそれをそーっと開けて、階段の上の方を(うかが)った。守衛の老兵はまだ戻ってはいない。彼女は素早くドアを抜けて守衛のデスク上に未だに残っていた鍵束をつかんではドアの所に飛び降りるようにして身を翻して、鍵を外から掛けてから、何食わぬ顔をして用済みの鍵束をデスクに戻したのだ。

「いやぁーっとんだマヌケもいたもんさね。業者の連中が魚雷を一本落っことしちまったみたいだよ。嬢ちゃんも危ないから、今日は外には出なさんな」守衛はゆっくりと渡り廊下からモニカの方に向かってきたので彼女は怪しまれないように荒くなっている息を整えるのに必死に深呼吸をくり返した。


 「お前らはぁーこの落とし前どうつけてくれるんだよ!」と、臨検隊の将校と配送業者でクレーンを操作していた担当者を前にして仁王立ち腕組みした格好のヴォイチェフ・グラジンスキィが()えた。

 可哀そうな二人は首を(すぼ)めたまさに亀。二本足で立つクマは甲羅の中に手足を納めたままダンマリを決め込んでしまっている二人を頭上から睨みつけては

「魚雷だぞ!魚雷!とにかくこうなっちまったらこの厄介物はなぁここでで分解するしかないんだよ。こいつが作業中に吹っ飛べば確実に死人が出ることになる」ヴォイチェフは迷惑千万この上なしといった態で、先刻から小さくなっているエストニア側の二人をさらに萎縮させていく。

 オルフェウス号の艦長であるアレクサンデルはこの不手際の結果で桟橋に転がっている一本の魚雷の周囲を慎重に歩いては破損の状況を確かめつつ

「まあ、スクリュー側から落ちたのは不幸中の幸いでした。作業員の方々にも怪我人も出てはいないようですし」と、言った。

 彼はこの段階にあってもエストニア側に対して柔和で協力的な態度を変えることなく、ヴォイチェフの隣で両手を後ろ手に組んで、軍と民間の責任者二人と向き合うと

「とにかく、魚雷の回収と艦内の武装解除は一時中断するのを了解していただきたい。オルフェウス号は万が一を考慮して若干の移動をさせますし、魚雷本体の炸薬を解除するのは我々の手で行なうのが良いでしょう」アレクサンデルが具体的な処置を伝えてから更に

「あの魚雷の周囲には誰も近づかないように我々が監視をつけます。確実に安全が保障されるまでは臨検隊をはじめ軍関係と港湾関係者の我がオルフェウス号への立ち入りを制限せざるを得ないことも合わせて了承願いたい」

 本来ならば怒り心頭で怒鳴り散らされても文句が言えない立場となっているエストニアの将校も、落ち着き払っているオルフェウスの艦長から建設的な意見を提示されれば、これに頷く他はなかった。

 アレクサンデルは彼らを引き取らせる際に、明日の早朝から魚雷の解体作業を行なう予定であるとのでっち上げの情報を与えると、臨検隊の将校は了承の意を敬礼で示してから引き上げて行ってしまった。民間業者は残りの魚雷を荷台に積載させた低床トラックで走り去る。

 その光景を見ながら、今度はヴォイチェフの方がぐったりと肩を落としてから、口の中から臓腑を吐き出すような勢いで

「もーうやだ!オレクよ。オレは今日一日で10年分の寿命が縮んだぞ!あの魚雷を吊っていたワイヤーが切れた瞬間はもう思い出したくもないよ」と、鋼鉄のウナギが落下した時の自分の恐怖を吐露して見せた。

 アレクサンデルはそんな頼もしい部下であると同時に友人の彼の背中を叩きながら

「お見事でした。まさに絶妙な位置とタイミングで落っことしくれたもんだよ。意外だよ。君に妨害工作(サボタージュ)の才能があるなんてな」と、快活に笑ったが

「よせやい!二度とゴメンだからな」ヴォイチェフ掌帆長はほぼ涙目で返してきた。

 ささやかに笑った後、アレクサンデルはその細面を真面目な面構えにもどして彼に

「これで、今度はこちらが主導権を握ることになったわけだ。このチャンスを逃す事なく、今夜0時に状況を開始する!もう一度今後の行動を確認するために各班のリーダーを発令所に集めてくれ、掌帆長」こう指示する艦長にヴォイチェフはすっくと姿勢を正して

「了解であります。コヴァルスキ艦長殿」さっと敬礼して艦内に向ったのだった。


 「傾注しろ!諸君今日はまことにご苦労だった。各班はそれぞれ決められた工作に(のぞ)みほぼ成果を得た。いいか!我々は予定通り、日付が変わる今0時に脱出作戦を開始する!各員に告げる。如何なる障害があろうとも我々は自由を取り返す。必ず一人も洩らさずにこのタリンからの脱出を果たし、故郷を取り戻すために、征服の脅威に怯え、不当な迫害に(さら)される同胞の希望の星となるんだ!バルト海を、スカゲラック海峡を越えてイギリスに樹立されたポーランド亡命政府に忠誠と義務を示す。いいな!軍人としての本分、男子の本懐を全うせよ。行くぞぉ!」艦長アレクサンデル・コヴァルスキィ少佐は、艦内放送のマイクを通じてオルフェウス号に集う全員にこう宣言した。

「ウラー、ウラー、ウラァー!」彼が詰めている発令所はもとより、艦内の各所から賛同の万歳三唱が沸き起こり、そこに集う士官、下士官、水兵たちは一斉に艦長に対して敬礼したが、その中で盲目の少女、マリア・フォン・シュペングラーだけが手を前に組んだまま冷静にアレクサンデルの顔をじっと見つめていた。彼女は昼間のフランツたちが巻き起こした喧嘩騒ぎにかこつけて、お姫様抱っこされたまま”戦利品”よろしくオルフェウスに連れてこられたままであったのだ。

 アレクサンデルは一種、自分を非難しているような視線を向けてきているマリアに気付き

「どうした?マリア……。何か不満があるか?」と、訊ねてみると彼女は無言で自分の左手に記されている記号と数字を彼に向けてから

「私には、この電算機”ボンバ”の在処を記した個人金庫のコードがあります。そして……『エニグマ』本体も完成させました。あなたと海軍さんたちは今すぐにでも強制的に出港だってできるんじゃありませんか?アンナとモニカを陸地に残したままで……。そうでないと言い切れますか?任務と国の利益を考えればその方が、よけいなお荷物を置いていった方が都合が宜しいんじゃないですか!そうならば私はあの子たちとここに……」

「いいかげんにしろ!マリアァー!」普段から物静かで誰に対しても声を荒らげることの無かったアレクサンデルの怒声が発令所に響き渡って、マリアをはじめ誰もがその気迫に押されて身を(こご)めてしまった。

「オレは、今、たった今『必ず一人も洩らさず』って言ったぞ。いいかげん自分たちを”お荷物”と卑屈に考えるのは止めろ!」アレクサンデルはマリアの方に歩み寄る。誰もがマリアが一発ビンタでもされるかと身構えたが、彼は黙って14歳の女の子をその(かいな)の中に抱きとめて

「何でも先読みして一人で気を張るんじゃないよ。もっと…こう…甘えていいんだよ。まだまだ……子供でいいんだよマリアは……な」こう彼女の頭をなでながら囁くと、マリアはアレクサンデルの海軍士官の制服の胸に向って

「だってぇぇー!だあってさぁぁぁー!!そうするしかなかったんだぁー!大人たちの顔色を伺うにも耳だけを頼りにしてさ、大人たちの声を、その奥の何を考えているのかも一人でぇー、必死になって生きてきたんだよー!そうでなきゃ捨てられちゃうんだよぉー怖いんだよぉぉぉ」力の限りの声を張り上げて泣き喚き始めたのだった。

 マリアは誰も(はばか)ることなく、恐らく姉妹のように暮らしてきたアンナとモニカにもこのような姿なぞ見せたことなど無かったの如くに叫んだ。

「あ、あたしの子供時代は……、あの夜に終わったんだ!ジジイに犯されたあの晩にね!あ、あ、あたしはぁ何度も『助けて!父さん』、『怖いよ父さん!』って何度も呼んだけどぉ……もうその頃には父さんがどんな顔をしていたかも覚えていなかったぁ」

「……うん」と、ただただアレクサンデルはマリアの背中を擦ってやるしかなかった。

「母さんは、母さんはぁ隣の部屋にいたんだよぉーでも、でも来てくれなかったんだぁー。あとでこう言われたんだよ『お前のほうから誘ったんじゃないのか』ってさぁー、ちくしょう!ううわぁぁぁ」

 マリアの告白に誰もが声を失い、頭を垂れた。誰もが彼女に何も言ってはやれなかった。フランツはその場でしゃがみ込んで膝を抱え込んで泣き始めてしまう始末であったし、その雄叫びに似た感情の発露は、未だに艦橋にあって、厚生棟のモニカ、アンナと手話通信を行なっていた男の子達にも届いていた。やはり二人も袖口を涙で濡らしていた。

 マリアの大人びた、と言うよりまるで人の心を射抜くような魔力に似た雰囲気と存在感を醸成させ、彼女の胸のうちに増殖してきた(おり)のようなどす黒い感情は嗚咽となって、アレクサンデルの胸に叩きつけられた。彼は根気良く何度も、肯定も否定もせずにただただ黙したままマリアの背中をゆっくり優しく赤ん坊を寝かしつけるときのように叩いてあげてやるしかなかった。

 泣くだけ泣いて、喚くだけ喚いて、それだけでは決して、そう決して拭い去れはしない過去の辛い記憶は今の時分には少しだけマリアの感情の深淵に隠れた。

 泣きじゃくり、鼻をすすってからやっマリアは顔を上げてアレクサンデルの顔のある方に目を向けた。やはり視線その物は、今自分を抱きとめてくれている大人のそれとは若干ズレてしまっている。

 アレクサンデルはここでようやく口を開いた。

「なぁマリアよ。オレ達の姫様よ。よく聞いておくれなぁオレ達は海軍の軍人である前にな、”海の男”だと思ってる。そうありたいと思っているよ。その海の男がな、仲間を置いて、しかも子供を置き去りに出港したとあっては笑いものよ。立つ瀬が無いんだわぁ……お願いだマリア、オレ達を一端(いっぱし)の”(おとこ)”にしちゃくれないか」と、その後には

「この艦を降りますって言っても、ダメだ。もう最後まで付き合ってもらうからなぁ、このオルフェウス号と乗組員は、もうずーっと前からマリア姫とチビ従者たちの騎士団なんだよ」彼のこの言葉に、姫様は何度も大きく頷いてから

「ごめんなさい。……でも怖かったんです。ずーっとそうでした。いつの間にか一人にされて放っておかれて、何も音のしない中でいつまでも、いつまでも暗闇と静寂に取り込まれて……。だから、声のする相手には不気味に思われるくらい、しつこく目で追うくせが付きました。母にまで”お前は魔女みたいだ”って言われたこともありました。そして最後には棄てられたんです……」と、声をしゃくり上げながらいった。

「魔女……か。オレには、いやこのオルフェウスにとっては幸運の女神様だと思っているよ。現に君はその聴覚でこの艦を救ってくれた。他の子供たちだって、グジニャ港を出たときに行方不明になった乗組員の不足の穴をしっかり埋めてくれている。君たちがいなくなったら困るのむしろオレ達さ!」

 アレクサンデルは身体をマリアから離して両肩に手を置いて、小さい卵形の顔をまじまじと見つめてからある変化に気が付いて

「あれ、マリア……お前、髪切ったの?」いきなり甲高い素っ頓狂な声を上げたアレクサンデルに発令所に居合わす全員から一斉に”今さらかよぉ”との反応があがったのだ。

 マリアはその声に両手で口を押さえてくすくすと笑ってから

「……ありがとう。不安で怖いこともあったけど、この潜水艦に乗り込めて、皆さんに会えたことに今は、神様に感謝したいです」と、いった。

「それでいいんだよ、マリア。航海のことはオレ達に任せろ!それと……な」アレクサンデルはまた彼女の顔を見つめてニヤッとすると

「オレは今の髪型のほうがかわいいと……思う」少し顔を染めて気恥ずかしげに言う彼に、発令所の面々から”ショート大好き派”の拍手と”ロングが良かった派”のブーイングが同時に上がったのだった。するとそこに、発令所の上の司令塔ハッチから、上下逆にした格好でレオンが首を出してきて

「あのぉ、マリア(ねえ)に連絡だよ。モニカから『もう暗くなるから手話通信は終わりにする』ってさ。それと『エストニアの連中がマリアがいないと騒いでいる』だそうだよ。マリア姉、どうする?」

 マリアは涙でぬれた頬を袖口で拭ってから

「一度、向こうへ戻ります。レオン、案内を頼むわね」と、言って船首側ハッチに向けて移動しようとすると「どうぞ、姫様」と水兵の一人が自分の肘をつかませてエスコートして行った。


 「落っことした魚雷ごと吹っ飛んじまえばおもしろかったのに」ポーランド海軍の脱走兵であるヤコブ・マズゥールが双眼鏡を覗きながらこう呟いた後に、隣にたたずんでいたカール・フリードリッヒ・フォン・シュテルンベルガーSS大尉は彼の手元からそれを乱暴に奪い取って今度は自分が覗き込み

「貴様を船倉から連れ出してやったのは自分の懐かしい艦を見物させるためではないのだぞ」と、いった。今、シュテルンベルガーSS大尉の視界の中には、エストニア側からの臨検を受けて拿捕されているはずの潜水艦の姿が映っていた。

 二人は今、ドイツ船籍の貨客船『ルシュ・タラッサ』号上にあってその船尾デッキから、数百メートル離れた桟橋に横付けされているオルフェウス号の魚雷撤去作業を監視中であったが、それも終盤に掛かってきた。夕刻を過ぎて辺りには夜が確実に勢力を増し始めていた。

 潜水艦の近くには、作業をする者とて無く落下した例の魚雷の周囲には二人の水兵が腕を背中に組んだ姿勢で、噂を聞き及んで興味本位で近づこうとする大バカ者がいないように警固している。

「で、どうなんだよ。あと、あの艦にはもう魚雷は残っていないのか?」と二人の背後から詰問してきたのは、ドイツ海軍Uボートソナー員のフリッツ・ブランドルであった。

「あぁん?」ヤコブが声の主のほうに面倒臭そうに振り向くと、いきなりブランドルの鉄拳制裁を受けた。

「口のききかたに気を付けろ!このボルシチ野郎が」ハゲ頭でヒゲ面、2メートル近い巨漢のブランドルは、普段からの赤ら顔をさらに真っ赤にさせては、ヤコブの襟元を付かんで(ねじ)り上げるように締め付けた。

 「フリーッツ、口が利けなくなるまで殴っちゃだめ」シュテルンベルガーが悠長にブランドルを諌めても彼は力を緩めない。

「ちょ、ちょっと待てよ!このハゲめ。あ、あれを見てみろよ。今、オルフェウスから降りた女とガキが二人いるだろう」ヤコブが潜水艦オルフェウス号から、今しがた降りてきた一団を指差した。

「おやぁ……ずい分な美人さんがいるじゃないか。それと坊主が二人……か、説明しろ。ヤコブ君とやら」シュテルンベルガーは双眼鏡を覗きながら、フリッツ・ブランドルにヤコブを放すように指示して、大男は鼻ヒゲの男を乱暴に突き放した。

 シュテルンベルガーの向けるレンズの中にいるマリアは一度、宿舎代わりの病棟に戻るために、両脇にレオンとフィリプ、二人と手を繋いで桟橋からの帰路を行く途中であった。もちろん二人はマリアのエスコート役である。

「いいか、あの金髪の少女がな、マリアだ。あいつが今回の『エニグマ』移送作戦と、ガキ共のリーダーだよ。そしてあんたらとバルト海での魚雷戦では臨時のソナー員を務めたんだ!」

「ドイツ系ポーランド人らしいが、生粋のアーリア民族としても通用するな…惜しいな。年はいくつだ?」

「確か……14だったと思う」

「14!?。17、8歳に見えるし、発育がいいみたいだな……。この娘はロング・ヘアーのほうが似合うかもしれんな」マリアを始めて肉眼でとらえたシュテルンベルガーの感想にヤコブがニヤつきながら、

「そうなんだよ!あの年でいいおっぱいしていやがるんだよ」と、馴れ馴れしく言うと、間髪いれずにブランドルが彼の腰辺りを小突いてから、ブランドルは

「あの、娘っ子(あまっこ)が向こうのソナー員だと!?ポーランド海軍にはちゃんとしたソナー員がいないのかよ」と、ヤコブに詰め寄る。

「いるよ!フランツっていう若造の兵曹がな。あと一人ベテランがいたんだが、そいつはグジニャで行方不明のままだ。恐らくは空襲で死んだのかもな」

「あんな女の子が、あの時の……。ずい分勘のいい奴がいると思っていたが」

「驚くなよ!あのマリアは盲目だ!そのせいなのか聴覚が異常に優れている。普通は聞き取れない微妙な変化も確実に拾うぜ」

 この言葉には、ドイツ軍の二人は声を失ったのだ。

「で、あの小僧二人は?」シュテルンベルガーは顎をしゃくった。

「肌の浅黒い方はレオンだ。トルコ系のガキ。まあ、ハシッコイ奴でね艦内では雑用兼機関区助手だ。頭も悪くない。気が利くほうだな」そして彼はもう一人を指差し

「あと一人がフィリプ。頭のネジが一本以上抜けてるおかしい小僧だが……」ここでヤコブは口を閉じた。フリッツが先を続けろの意で、今度は彼の頭を小突く。

「止めてくれ!ちょっと信じがたい話だが、あのフィリプがオレ達の潜水艦に乗り込んで来た時にはバラバラの分解状態で運ばれてきた暗号解読機を、復元させていたんだよ。しかもたった一人で!」と、ヤコブは自分が知り得る情報をドイツ側に暴露していった。

 「よし!貴様の情報を買おうじゃないか。これからの我々への協力次第になるが、上首尾の場合にはドイツへの正式な入国と帰属の手続きをとってやろう、どうだ」シュテルンベルガーは双眼鏡を放してヤコブのほうを見た。

「願ったり叶ったりだぜ!異論はねえですぜ」と、ヤコブ。

「祖国への忠誠心と愛着のない人間は信用できないね」フリッツが軽蔑の色を深くさせてヤコブを睨みつけるとヤコブは

「祖国…か!おれの故郷じゃよぉ羽振りが良いのはユダヤ人の豪農ばかりだったよ。小作だった俺の両親は馬車馬みたいに働かされてよぉ!お袋なんざ、毎晩のように……この後は…言いたくねえ!」履き捨てるようにフリッツに食ってかかった後に彼はシュテルンベルガーの目を真正面に捉えて

「オレは自分の信条でここに来た!俺の国から連中を追い出すチャンスだと思っている。国の臆病な連中は黙ってはいるが、おれと同じ考えを持つ奴は大勢いるんだ。それと……やっぱり”勝ち馬”に乗らなきゃだぜ。消えいく祖国に未練も義理もねえんだよ。親衛隊の旦那」と、言ったのだ。

 今日は朝からクリーニングを掛けたきっちりとした黒の武装SS、親衛隊の制服に身を包んでいたシュテルンベルガーはヤコブをしげしげと見つめてから

「『エニグマ』は、あそこにあるな」と、問う。ヤコブは大きく頷いて

「間違いなくある。あのコヴァルスキ艦長とマリアが上手くやったに違いないよ」この返答にSS大尉は何度も頷いてから、さらに

「いつ、動くと思うか?」この質問にも淀みなくヤコブは

「恐らくは、今夜だ!」と、答えて見せたのだった。フリッツは「何故、判るんだ?」逆に彼に詰め寄るとまたしてもヤコブは潜水艦の方を指差して

「見ろよ。水兵連中がビール片手に甲板に上がってきているだろう。あの艦長は何か事を起こす前にああして景気づけにビール、ワインの酒類を振舞うんだよ。だからだ」

 なるほど、ヤコブの言うとおり、潜水艦の甲板にはさっきまで見えなかった人影があり、空になったビール瓶を海中に放り投げている姿があった。放置された魚雷を監視する水兵もビールをラッパ飲みしている真っ最中であった。

「いいだろう。手伝っていただこう。えーヤコブ?」

「ヤコブ・マズゥールだよ、旦那」と、言ってからヤコブは

「グダンスクの映画館で、ユダヤ人共がドイツで追い立てられるニュース映画を観ては胸のすく思いがしたものさ。今度は実際にオレがそれをやってかまわんのだろう?」こう言うと自慢の鼻ヒゲが引きつるほどの不気味な笑みをシュテルンベルガーに向けたのだった。


 

 


 



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