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オルフェウス号の伝説  作者: 梶 一誠
15/22

レニングラードより愛を込めて

 タリン港から北東に伸びる旧市街区へ向う石畳の道路を二人の少年が、背中にリュックを背負ってとぼとぼ歩いていた。辺りはすっかり夕闇が迫る時間となり、二人が振り返って自分たちが後にして来た港を見れば真っ赤に染まった海原と、水平線の縁と昼間よりずっと膨らんで見える夕陽の残照とが一体になってゆらゆらと溶け出したみたいに見えたであろうが、そんな余裕は全く無く二人は前の方だけ見てもくもくと歩き続けた。

「レオン、レオンってばちょっとゆっくり歩いてよ。背中の荷物が重いんだよ、分かってるくせに」フィリプはぜいぜい息をつきながら相棒の肘をつかんだ。

 もう一人、レオンと呼ばれて肘をつかまれている少年の方はその手を振り払って

「うるせぇ、黙って歩け。急がなきゃならないのはわかっているだろう。お前の持っている『エニグマ』をエストニアの連中も狙ってるんだからな!」レオンはフィリプの尻をけっ飛ばすようにして追い立てた。

「くっそー!潜水艦から見ているともっと近くに感じたんだけど……こんなに遠いとは思わなかったぜ。けっこう歩いたはずだけどな」夕陽を背中にあびて、二人の影は彼らの身長の5倍くらいは長く伸び上がって石畳の道に掛かっている。

「辻馬車も、トラックも通らないか……」

「でも、さっきは危なかったね。ぼ、ぼく固まっちゃたけどレオンがいてくれて助かったよ」

「お前さ、もう少しビシッとしろやぁ。もっと……こう、機転を利かせろっつーの」

 二人はまた黙々と歩き始めた。

 レオンとフィリプ二人の少年をエストニアの臨検隊が押しかけ始めたオルフェウス号から脱出させたのは先任士官であるヤン・レヴァンドフスキィ大尉のとっさの機転であった。彼は兵員輸送トラックがドックに到着するやいなや二人を呼び寄せて『エニグマ』の完成品をフィリプのリュックに積め、その上から自分と女の子達の乾いた洗濯物をつめ込んでから、臨検隊の将校とアレクサンデルとヴォイチェフが揉めている隙をねらって、艦を降ろさせたのだった。

 ドック施設周辺を抜けるときは周りを裸同然の水兵たちが彼らを隠すようにして金網製の扉から送り出してくれた。それから基地正門を出る時は、ちょうど基地内に出入りしている軍属とは別の、一般の事務職員やら、食堂の調理員、給仕たちが自宅へ帰る途中で二人はその人ごみに紛れて、うまく通過してしまおうとしたのだが

「おい、君たちどこへ行く?」と門衛の兵隊に呼び止められたのだった。

フィリプはここでいつもの対人恐怖症に似たいつもの症状が出て、まともに声も出せずに兵士の顔を瞬き一つせずにただただ凝視して口を震わせているのみ。

 兵士は乱暴にフィリプの背中のリュックを開き、中身を見ようと手を差し伸べようとした。その中にはつい先日、フィリプが完成させたドイツの暗号解読機『エニグマ』のコピー品が、その上には自分たちの今日洗濯したての下着類がかぶせてあるのみだった。

 フィリプは何も言えずに、体全体を石のように硬直させるだけ。

「ああーっ面倒くせえなぁ!ほらぁ」と、いきなり周囲に聞こえるような大声で、レオンが自分が担いでいたリュックの紐を解き、ひっくり返して中身を、兵士の足下に全部ぶちまけた。

 どさりと、女の子たちのこれまで着ていたブラウス、シャツ、ソックスなどが兵士のブーツの周りに散乱させたレオンは頭をぼりぼり掻きながら

「この基地のエライ人がね、全部女の子たちの所へ持って行けってさ!厚生棟にいったら街へ出たって聞いたから、直接届けるんだよ」と、口からの出まかせをこれまた大声で言いながらこれも、これもと兵士の前に、洗濯物の類を披露して見せていると、数人の大人たちが兵士と子供たちのやり取りに足を止めた。

 レオンはこのタイミングを逃さず、一枚の洗濯物をつかんで兵士とやじ馬に見えるようにぐいっと差し出した。三角状のピンクの女物の下着……あれだ。

「これ、マリア姉ちゃんの、そのパンティーってやつだと思う。まだあるけど、おっちゃん一枚あげようか?」これには周囲の大人たちから笑いが起きた。

 兵士は顔を赤らめてさらにバツが悪そうにしてから「いらねえよ。ほら、早く行けよ!」と言ってレオンが散らかした洗濯物を周囲の大人たちと拾い上げてはレオンのリュックにつめ込んだ。

 こうして彼らはまんまと『エニグマ』がエストニア側に発見されるのを防いだのだった。

 「お前さ、もう少し人とうまくやれねえとこの先困るぜいろいろとな」レオンが兵士を前にした時のフィリプの醜態(しゅうたい)ぶりを思い起こして苦言を言えども、フィリプはこれまでと変わらないマイペースで

「わかんないやぁ。ぼ、ぼくはずーっとみんなと一緒に暮らしていけたらいいと思うだけぇー」間延びした口調でぼそぼそと言ってから、今度は珍しく自分から「レオンは?」と、訊ねた。

「オレはなぁ、見ての通り肌の浅黒いトルコ系よ。ポーランドじゃまともに扱っちゃもらえなかった。だからこの旅は国をでる好機(チャンス)だと思ってるぜ。イギリスに渡ったら勉強して、戦争が収まったらアメリカへ行くんだよ。そこでオレは”馬主”になる!」レオンは二人で石畳の坂道を昇りながら、しっかり自分の夢見る将来を、誰にも言ったことが無い事柄を初めてこのボーっとした少年に発露したのだった。”馬主になる”の宣言では大きく胸を張って鼻息が自然に荒くなった。

「牧場やるならさ農耕馬より羊のほうがいいんじゃなーい?」この間の抜けたフィリプの発言にレオンは

「バカ!馬は馬でもサラブレッドだよ!俺の言ってるのは。海の向こうのイギリスやらアメリカじゃな、いい血統の馬同士を交配させて優秀な競走馬を育ててよぉ一儲けしている連中がいるんだよ。わかるぅ?」と、食って掛かった。そして

「お前のポンコツぶりも磨きが掛かってきたぜ。……まったく。おい、車か馬車が通るかよく見とけよ。街まで乗っけてもらおうぜ」ここで会話を区切ってまた二人して歩き始めた。

 あたりの異国の情緒に目をむけて感慨に(ふけ)る余裕などありもせず、レオンは自分が繰り出す足先と流れ行く相も変わらぬ石畳の大小の石礫(いしつぶて)の並び具合しか目に入らない。

「あ、車が一台こっちに来るよ。乗せてもらおうよ」フィリプが高い城壁に囲まれている市街区からこちらに向かってくる自動車のライトに気がついた。辺りはだいぶ暗くなってきていた。

「バカッ!港の方に戻ってどうするんだよ。俺らの後ろを見張るんだよ」レオンは呆れて首を振りながら歩を進めていると、前から来る車が自分たちの数メートル先で停車した。

 まずい!また別の追っ手が掛かったのか?と、レオンは身構えた。二つの強力な光源が彼らの視界を遮らせたがそのライトの向こうから聞きなれた声がする。

「おーい!フィリプとレオンだぁ。どうしたの?」その声はアンナ・コヴァルチェクだった。

 フィリプが声のする方向へと手を振りながら歩いていく中、レオンはキューベル・ワーゲンのヘッドライトから身体を少しズラして見てみると、確かにジーナ・ラディッシュ中尉が運転手で隣にはアンナとモニカが自分に向って白い歯を見せて手を振ってきている。後部座席にはマリアとフランツ。

 レオンは運よく向こうの方から自分たちを探し当ててくれたことに、今まで気が張っていた感覚が急に解けて足下から夕暮れの薄闇が迫ってきた大地に全身の気力が吸い取られるような脱力感を味わったのだ。彼は自分が姉と慕うマリアが、にこやかに”おいで”と手招きするのを見て思わず声を上げて泣きそうになるのを必死に堪えた。

 エストニアの中心都市タリンを(いにしえ)の中世より外敵から防いできた北欧バルト族の石工たちが丹精込めて造成し続けてきた城壁は夕陽の残照を受けて暗いオレンジ色に映えていたが、城壁を区切る城門と、等間隔で城壁の上にそびえ立つ赤色に染め上げられたとんがり帽子のような尖塔だけは蝋燭(ろうそく)の炎のように夕陽の光を反射して煌々(こうこう)と薄暗い夜空を(とも)しているかのように見えた。

 

「抑留された……か。で、皆は無事なのね」マリアのこの問いに無言でレオンは頷いてから

「今のところはね」と、付け足した。

 オルフェウス号の子供たちとフランツ、そしてジーナ・ラディッシュ中尉は子供たちが宿舎代わりにしている医務室にあって一つのベッドを囲んでレオンが話してくれたこれまでの抑留の経緯に耳を傾けていた。ワーゲンに拾われた二人を乗せて基地内に戻ってきた面々は何食わぬ顔をして、今日は楽しかったと口々に喋っては周囲を欺き、この一室に集っていた。

 基地内の施設に入ってしまえば後は女の子たちは比較的自由に過ごせていた。中尉が世話役として目を光らせているはずというエストニア側の関係者の認識もあって、医務室の周囲や厚生棟の内部には兵員は配置されてはいなかったのだ。

 レオンはこの先を続けて好いものか、オルフェウスの面々と一緒にいるジーナ・ラディッシュ中尉をチラチラと見やった。この視線を感じたジーナが

「先を続けなさい。大丈夫よ。私はここの連中とは立場を異にしているから……味方と思ってくれていいわ」と、言ってもレオンは口をつぐんだままでマリアの反応を(うかが)っている。

「立場を異にしているとは、どういう意味ですか?」

「味方と思えって言われても、すぐに信用できるものかよ!上官に”ご注進”って場合もありうる」

マリアとフランツが立続けにしごく当然とも言える懸念を発言するのを受ける形となった、ジーナは少しの間目をつぶっていたが、やがてゆっくりと大きく一つ息を継いでから

「無理も無いわ。まぁ、いいでしょう……。私の本当の名前はね、アンナ・ヴィクトリアーナ・マヤコフスカヤっていうの。階級は大尉よ。ロシア人で出身はレニングラードなのさ……。ソビエト連邦の内務人民委員NKVDの所属でこのタリンに派遣されているわけ。……いわば」ここで一拍おいてから

「女スパイってやつよ。……」この発言に一同は一斉に口を(つぐ)み、息を呑んだが只一人、アンナだけは興味津々でジーナこと自分と同じ名を持つ女性に嬉々として、ぬいぐるみを抱っこしたままでまとわりつき

「シュ、シュパイなんですか?ジーナさん。カッコいい!」と、いってから更にこう質問攻めにした。

「い、いつもはミニスカートで、その中、太股(ふともも)のところにちっちゃい拳銃があって、バキューンって撃ったりするですか?あ、あと胸の谷間に小型カメラ仕込んでて夜中に書類の写真をパシャパシャするですか?おおおーっあたしと同じ名前の女スパーイさんだぁー」

 興奮冷めやらぬ様子で目を光らせるアンナに、ジーナのほうが眉間に皺をよせて

「アンナちゃん、あんたどんな劇画や映画を見てきたのよぉ……。そんな格好はしません!言い方が悪かったかなぁ?えーっとねスパイって言うよりモニターね!監査人って言ったほうが適当かも」こう取り(つくろ)ってはアンナの変なイメージを(ぬぐ)おうとしているジーナこと、マヤコフスカヤ大尉の言動を他の面々は未だ鵜呑(うの)みにするわけにはいかずに押し黙ったままでいる。それを察してジーナは

「とにかく、このエストニアの現状はずい分とナチス寄りに転向しつつあります。私の母国ソビエト連邦はそれを良しとはしないでしょう。その意向を踏まえて私はあなた達に協力を惜しみません!それは信用してもらっても構わないわ。……それと」またジーナはここで”ふうっ”と間隔を空けてから

「あなた方が”何を”(たずさ)えて故国ポーランドを脱出したのか、私は知っています」この発言は誰あろう、マリアに向けてのジーナことソビエト連邦内務人民委員アンナ・ヴィクトリアーナ・マヤコフスカヤ大尉が放った矢の一言であった。

 この座の実質的なリーダーであるマリア・フォン・シュペングラーは無言のままで発言者のほうにその(めしい)た碧い眼をゆっくりと向けた。

 ジーナはその不気味な蒼の輝きに射すくめられて戦慄を覚えた。見えているはずの無いマリアの視線は自分の茶色の瞳を確実に捉えつつ、やがてこちらの意図を”見抜いているぞ。完全に吸い尽くしたぞ”と言わんばかりに、次第に細くなって口の端にうっすらと笑みすら浮かべているではないか。

 大昔から深いロシアの森の奥に住んでいると信じられてきた『バーバヤガー』と言われる人食いの魔女が実在するならばきっとこんな目付きで、自分の基に迷い込んできた獲物を見据えるに違いない、そんな印象を強く受けたジーナだったが、その静寂をマリアの脇に佇んでいたフランツが破った。

「ふざけるなよ!何が『それを良しとはしない』だ!お前らは結局、ナチスと組んで東からオレ達の国を侵略している真っ最中じゃないかよ」フランツはベッドを挟んでいるジーナに食って掛かるが、マリアがそれを手で制して

「黙って、フランツ。……良いでしょう。あたしはあなたの言葉を信じます」と、静かに言ってからフィリプに彼の荷をベッド上に乗せるよう指示した。更にマリアはレオンに「……見せなさい」と、言った。

「マリア!」フランツが抗議しようとするのを彼女は今度は人差し指でそっと彼の唇を制してから無言で目の動きだけで”大丈夫”と告げ、愛犬を(なだ)めるように頬に手を添えたのだった。

(なるほど!やはりこの娘が全てを握っている。手強い!しかし(さか)しいリーダーだよ)ジーナは自分の人を見る眼力が間違いない事に秘かに悦に入った。

 レオンがその結び目を解いて、二人が必死にエストニア側から守り抜こうとした品を、一度は完全に分解されたが今一度、フィリプ少年の凄まじい記憶力と人並みならぬ集中力によって復活されたドイツの暗号解読機『エニグマ』を披露して見せたのだった。

「…これが『エニグマ』か。初めて見るが、思っていたより小さいんだな。タイプライターの半分くらいか」これがドイツ軍が必死に追跡しその存在を奪還するかあるいは破壊するかを躍起になり、エストニアを初めとするヨーロッパの中立国、そしてソビエト連邦をも注目させている暗号解読機を見たジーナの感想であった。

 なるほどアルファベット26文字を打ち込む黒地に金色の文字で彩られたキーとと0~9までの数字を印字された真鍮製のローターが3列に並んでいる。それを取り囲む機械その物の黒々と輝くボディーは一見すると小型のタイプライター。現在21世紀のノート型パソコンにコンパクトタイプのプリンターの厚みを持たせたほどの大きさでしかない。

 タイプライターとの大きな違いはキーパンチ部分の背後、本来なら印字する紙を挟みこんで文字を打印する部位が無く、その代わりに電極プラグを差し込む穴が十数個空いている点だ。

 このドイツ軍の最高機密である『エニグマ』には陸軍、空軍向け、そして海軍向けの三種類が存在していたのであるが、陸空軍に関しては、絶えず偵察機を飛ばし、斥候部隊(せっこうぶたい)を展開して敵軍の動向を探り、或る程度の進撃コースまたは航空機の航続距離と規模からどの方面に空襲を意図しているか大方の察しはつくが、海軍特に海に潜んで自国のシーレーン、船舶の輸送航路に待ち受けるUボート戦隊の行動を探るのは至難の技であり、これに関しての有力な防御策は実質的に、ドイツ海軍Uボート艦隊司令カール・デー二ッツ提督から発せられる暗号電文、いわゆるエニグマコードを傍受、解析するしか手が無かったのである。

 これが、この存在こそが第二次大戦中、イギリスの戦時内閣首相ウィンストン・チャーチルをして

「私が、真に恐怖を感じたのはまさにUボートの脅威のみであった」と言わしめる元凶その物であったのだった。

「そう、これが私たちが大人たちから受け継いだ大事な任務です。ポーランドのグダンスクを脱出してオルフェウス号に乗り込めたのもこれがあったおかげなんです。これはいわば私たちの”命”であり”未来”なんです。……これを連合国側に渡して、かの地での身分を保証してもらうための……ね」そう言うとマリアは悲しげに目を伏せた。

「結局、ずるいんですよ!子供たちはともかく、私はこの『エニグマ』を得て故郷を捨てて逃げてきたんですよ。自分たちだけで。他の人たちが戦っている時に。多くの罪の無い人たちが家を追われて彷徨っているのに……卑怯って言われても仕方ないですよね」

 フランツはマリアの肩をやさしく叩いている。ジーナはそんな二人を見ながら

「…そうかな?私は共産党員で無神論者だけどね。もし神様がいたとしてマリア、神様はあなたにこの『エニグマ』という試練を与えたとしよう。君はその試練から逃げたかね?……違うよね。むしろ今日まで君たちは試練に挑んできたんだろ。戦ってきたんじゃないかな。それなら卑怯じゃないと私は思うね。もし、この世の人々にそれぞれ定めという物があるのなら、皆がそれぞれ持つ己が務めを果たすだけさ!君たちも、そして私もね」と、言ったあとジーナはレオンに、手を振って次の話を進めるよう促した。

 レオンは一度頷いてから、潜水艦オルフェウスを離れる前に、先任士官であるヤン・レヴァンドフスキィ大尉から女の子たちに伝える内容の話を続けたのだ。要約すれば以下のようになる。

 ①オルフェウス号から押収されたのは、航海用の海図一式、コンパス、定規、六分儀といった航海に必要な用具類。ライフル等の銃火器、弾薬類、であること。

 ②艦長のコヴァルスキ少佐以下全員は何らかの手立てを持って、抑留しているエストニア側を(あざむ)き脱出を企図している。子供たちもそれに備える事と『エニグマ』は出発の時までマリアの手元におくこと。

 ③予定では明日からオルフェウス号は修理ドックを出て、積載している魚雷を降ろすために桟橋に接舷して作業をする予定である。君たちがいる厚生棟からも潜水艦が見える位置につける。誰か一人が絶えず見張り、こちらからの連絡、合図を洩らさず確認する事。

などを説明したあと

「いいか!オレとフィリプも、カピタン・オレクの振り分けでちゃんと明日から任務があるんだ。みんなでいろいろ手分けして脱出と出港の準備を秘密作戦を始める予定なんだよ。フランツ兄ちゃんもね、無線機に仕掛けをしてエストニアの兵隊を混乱させて艦内から追い出すように仕向けろだってさ」と、言ったあとに

「こちらからの連絡はフィリプが手話を暗号代わりに使うことをオレが艦長に進言しておいた。こっちではモニカ、君がそれを受けろ。これを使え。そしたらアンナがマリア姉にその内容を伝えるんだ。いいか間違えるなよ。明日は午前の9時ごろから移動が開始される予定だからな」自分のリュックから双眼鏡を取り出してモニカに直接手渡しした。

 一応、全ての連絡役としての仕事を完了させるとレオンは”はぁーっ”と大きく安堵したように息を吐くとフィリプに艦に戻るべく声を掛けた。

「点呼があるんだ。それまでに戻らないと」彼らは荷物を昼間に洗濯済みの女子の下着類をその場に山積みしていった。

「レオン君、基地の連中は一度、潜水艦内を捜索しているんだよね」ジーナが問うと彼は軽く頷いた。

「フィリプ君、『エニグマ』は君がもう一度潜水艦に隠しておくほうがいいね」エストニアの衛生管理中隊を仮の姿としている女中尉はエニグマをベッドのシーツでくるっと覆ってから端を縛り付けてから言った。

「そうですね。一度、捜索した艦内にまた、乗り込んでくる可能性は少ないな。むしろ今度はこっちこの部屋が危ないかもしれない」これはフランツの言。

「フィリプ、訳を話してカピタン・オレクにうまく隠してもらって」マリアが言うとフィリプは自分のリュックにその機械を詰めなおして背負い始めた。

 三人の男子が医務室を出る時にフランツはそっとマリアに寄り添ってから

「いいか、合図を待て!オレ達だけで出港することは無いからな。必ず連れていくから」と、言うとマリアは彼の手をそっと握り、彼の太い指を自分の指に(から)めながら

「うん、待ってる」と下を向いたままつぶやいた。

 アンナとモニカは3人を厚生棟の入り口まで送るために医務室を出た。部屋に残ったのはマリアとジーナの二人になった。

「あの子達はいません。本当は何を考えていらっしゃるんですか?」と、ベッドの脇に腰かけて年上の女性に恐る恐る尋ねてみた。これにジーナは全く屈託のないようすで

「我らの指導者である同志スターリンは、ドイツの独裁者を信用してはいないのよ。これ以上彼が勝ち続ければいずれはソ連との戦端が開かれるだろうと読んでいる。今のうちに、ギットレル(ヒットラーのロシア読み)の足を引っ張っておきたい。連合国のイギリス、フランスにもいい顔をして恩を売っておきたいって所なの」と、言うとマリアの隣に座を占めてから肩を抱いた。

「あんたは私にあの『エニグマ』の実物を見せてくれたからね。あれで私はマリアは信用できる。サポートしてやると決めたんだよ」

「そうですか。それと、ジーナさんは最初はこのエストニアに実家が在るって……。これも嘘なんですか?」

「うん。君たちに用意した服の(たぐい)は、さっきの店の主人が揃えてくれたものだよ。もっとも彼がどうこれを工面したのかは私は知らない。あと弟が居るってのは本当だよ!」

「へーっ。そうなんですか、お名前は?」

「うーん……私はユースフって呼んでたわよ。ユリウス・ヴィクトール・マヤコフスキィって言うのよ」これを聞いたマリアは目を白黒させてから

「ご、ごめんなさい。知らぬ事だったとは言え……ほんっとにすみませーン!」ついさっきまでフランツを駄犬ユースフの綽名でこき使ってきたマリアは、ジーナに(すが)りつくようにして彼女に詫びたが、ジーナ本人は逆にマリアをその(かいな)の中に抱き寄せて

「アハハッ!好いってば。おたくのユースフ君に負けず劣らず私の弟のユースフもマヌケだからさ」そう言ってからマリアのショートカットにした頭を撫でながら

「いいかい……。戦争はすぐには終わらないだろう。あんたと妹たちが逃げた先でもドイツ軍の猛威が迫ってくるかもしれない。でも、負けんじゃないよ!妹、弟たちとしっかり手を繋いで生きていきなさい。これは同じ女としてのエールだから。ホント言うとさ、昔っから私はあんたくらいの年の妹が欲しかったんだよ」ジーナはマリアの頬にキッスをしたのだった。

「ありがとう、ジーナさん。それともアンナさんって呼んだほうがいいかしら」

「ジーナでいいわよ。安心しなさい、私の仕事としてキッチリあなた達をここから送りだしてあげるから。さてと、事務所に顔を出して来るわね。エストニアの連中にガセネタつかませてくるから」彼女はマリアの背中をぽんぽんと軽く叩いてからその場を辞去しようとしてからドアの辺りで立ち止まって

「今夜のうちに荷物をまとめておきなさいね。あの子たちも……。明日は時間が読めないから、いつでも行動できるように、ね!」そう言付(ことづ)けしてからジーナは医務室を後にした。

 それからすぐにマリアの血の繋がらない妹分の二人が医務室に戻ってきたが、アンナのほうがやけに気持ちが沈ませていることにマリアは彼女の息遣いと周囲に帯びている不安のような物を微妙に感じ取った。こういう時は彼女を膝の上に乗せて抱いてやったほうがいいのでマリアは先ず、アンナを呼び抱き上げた。

 アンナはマリアの腕の中で少し怯えたようにぼそりと

「ドイツ人が……いた。若いお兄ちゃんでね。ここに帰って来る時にね、その人たちが乗っていた大きい黒い車とぶつかりそうになったの」こう言ったあとアンナは震え始めた。

 アンナの話によれば、女の子二人は基地と厚生棟を港湾施設から隔てている金網式の扉まで送っていったのだそうだ。その帰りに事は起きた。黒塗りのメルセデスに跳ねられそうになったとのこと。その車に乗っていたのはドイツの軍服を着たおじさんとスーツ姿の若い人で、アンナ自身は怪我もなく無事であったし、降りてきた若い方のドイツ人は優しく接してくれて言葉使いも柔らかく、アンナは彼に名前と年齢を聞かれて素直に答えたという。

「そのお兄ちゃんの目が怖かったの……。アンナ・コヴァルチェクですって答えた後の碧い目がにやっとしたの……そんな風に見えた」

 マリアはただ黙ってアンナの背中を優しく母親が幼子を抱いて寝かしつけるようにしてリズムをつけて叩いてやると、アンナは気が済んだのかぴょんと後ろに跳ねるようにして姉の膝から降り立った。

「うん、もう大丈夫。ありがとうマリア」その声はいつもの快活さを取り戻したようなので

「さあ、明日に備えて今日買ってもらった荷物をみんなでしまっておきましょう」と二人を片付け仕事に促したのだった。

 三人はジーナ・ラディッシュ中尉からの好意で送られた荷物を袋から解いてそれぞれの戦利品を披露し合いながらリュックに積めていった。アンナもモニカもマリアと同じ一つのベッドに車座になって。

 マリアの手がジーナが例のカフェ兼雑貨屋で買い入れてくれたピンクの紙袋を開けて、中の品を取り出したのだが、彼女はやけに他の着衣と違い材質が薄く手触りが滑らかなのに首を傾げて、手の感覚のみでその正体を探っては

「…?何これ、薄いし、ヒラヒラが多い気がするわねぇ?何これはショーツなわけぇ。面積小さくねぇ?ひ、紐で止めるのかしら?」と、ブツブツ言っているマリアを尻目にモニカが、顔を真っ赤にさせてからアンナの肩を指でつんつんしてから、いつもの手話でサインを送った。

 アンナはそれを受け取ると何の臆面もなく

「あのねぇ、マリア姉ちゃんが今、手にしているのはいわゆる『勝負下着』って奴なんだってぇ。モニカが言うにはねぇ……フランツ兄ちゃんが見たらめっちゃ喜ぶんだってさあ。あの時に……」

「し、勝負下着ぃ!?(ちまた)でいう所のエレクトランジェリー(勃っ立つ下着)って訳?アンナ、モニカこの下着の色は?」

「ノ・アールゥー(黒)ですうー」アンナが楽しげにベッドの上で跳ね飛んでいる。

 モニカがマリアの傍に寄ってきては彼女に着てみろ、着てみろとその黒のエロ仕様の下着をマリアの身体に宛がってくる。

 マリアは「えぇーっ」と、言いつつも毛布を頭から被ると、ジーナからの心づくしの贈り物を試着して見せた。

「ど、どうよ?」マリアは白いシーツの上で膝立ちになって毛布を払い落とした。ほぼ透け透けの黒いランジェリー、ブラの部位はピンクの乳首がうっすら見える。その面積が小さいので胸のふくらみを隠しきれていないのだ。その下からヘソが隠れるか際どい所までヴェールに覆われていて扇情的なデザイン。そしてショーツもやはり肝心の部位まで透けているのだ。デルタポイントはほんの申し訳程度の面積しか用意されていなかった。腰がくびれている辺りからフリルのついた紐で留めてあるだけ。まあ、これをまともに見た健全な男子ならば間違いなく本能を全開にして抱きついて来てはそれなりに二人で盛り上がってしまうこと請け合いであろう。

 モニカはその姿をまじまじと見つめてからアンナにマリアへのアドヴァイスを送るように手話を発信した。

「モニカからでっす。あのねぇ下の”おけけ”はきっちり処理したほうが効果的かもだってさ」と、言ってからアンナはまた

「マリアのスッケべー!お姉ちゃんはエッロイー!エロエロマーリーアー」自前の節でデタラメの歌を披露して踊っているのを、顔を真っ赤にして彼女を睨みつけたマリアは

「もーう!寝ろぉチビ助ぇ。いやぁぁーもう、ジーナさんの所為だぁぁー」こう言ったきり毛布を頭から被ってしまった。

 

「うれしいやんかぁ、あんたUボートの方に帰らんと、うっとこ(自分のところ)来てくれるなんて」ニーナはドイツが情報収集船としてバルト海に駐留させている貨客船『ルシュ・タラッサ』号の自分のサービスルームに寄ってくれたシュテルンベルガーの上着を、新婚の夫を世話する妻のように背中から脱がせてやった。そして今度は前に向いてネクタイに手を伸ばす。

「これを返しに来ただけだよ」シュテルンベルガーはよく手入れされているベッドの上に放られたスーツに目をやってからニーナを見た。彼女は鼻歌まじりでネクタイを自分の肘にかけてはシャツのボタンを外してから

「前のお客がお代の代わりにな置いていったこのスーツ、ピッタリやったなぁ。とっておいて良かったやんねぇ」ニーナはエプロン姿で彼の世話を楽しげに焼いている。

「あんたのあの黒いごっつい親衛隊の制服なぁ、船内のクリーニングサービスに出したでなぁ。今頃はスチームアイロンかけてる頃やろ」

「なっ、お前ぇわざと遅い時間にクリーニングに出したな!」この問いにニーナはにやにやしながら即答はせずにシャツ姿の自分の好い人の腕を取って、船外を望める舷窓わきの二人掛けテーブルに誘った。そこにはドイツ風の家庭料理とワインがセットになって用意されていた。

「ワインを用意しといてんけんど、ビールの方が好きやったかいな?」

 シュテルンベルガーは無言で彼女が用意してくれたジャーマンポテトにがっつき始めた。その食いっぷりにニーナは目を細めては彼の仕草を記憶に焼付けようとじーっと見つめていた。

「今日の仕事は?うまく運んだんかいな。一度部屋出て行ったと思ったらすぐに戻ってきて『この格好じゃ目立つから何か無いか?』って言うんやもんなぁ、あたい慌てたわいね」料理のわきに添えてあるグラスにワインを注ぐニーナ。赤紫の液体がグラス半分まで満たされると、今のひと時だけの旦那様は

「半分はエストニアのマヌケ共に腹が立ったけど、ここに帰ってくる前にいいことがあったよ」と、言いながらワイングラスからその芳醇(ほうじゅん)な香りを楽しみつつ、その深い味わいを(たしな)んでは

「上物だね。それに料理もいいな。薄味でオレ好みだよ。ここのコックの味付けはソースべったりの濃い目と思っていたけどね」更に一口ワインを喉に注ぎ込む。

「そのワインな、あたいがここのボーイに小遣いやって船倉からわざわざ持って来させてんよ。あとジャーマンポテトはあたいがここの炊事場を借りて作ったンぇ」ニーナが全くの商売っ気抜きで自分の好い人に気に入ってもらおうと努力してくれたことに、彼はグラスを彼女に掲げて

「ありがとう!ニーナ、そしてあの女の子にも乾杯だ」と言ってからグラスのワインを飲み干した。

 ニーナは彼の傍によって、ワインを注ぎながらエプロンの端を使って彼の口元の残る脂分を拭ってあげた。その下からは白いストッキングにガーターベルト。着衣らしきものはそれしか見当たらない。

「だれぇ?その女の子って」ニーナはそう言いながら、ワインを持っている別の方の手を彼の耳へと伸ばしていく。彼の返答次第ではそれをいきなり引っ張り上げるつもりらしい。

「大丈夫さ、小さいユダヤ人の女の子、アンナ・コヴァルチェクちゃんだよ。6歳だって」と、言ってから冷酷で研ぎ澄まされた碧い眼光鋭く、血の色のワインに視線を注ぐシュテルンベルガー。

「やっと……会えた。神父とあの奥様の娘だ。あれは間違いなくあの子達の下にある!」彼は静かに声を潜めてはいるが、目だけは夜陰に潜む猛獣の如く怪しく光らせている。

 ニーナはそんな彼から離れてベッド脇のクロークから、自分の好い人専用のタオル地のナイトガウンを取り出してはそれをていねいにベッドの上に置いてから、ガウンの腰紐を取って口にくわえて見せ、彼のほうにエプロンの端をヘソの上あたりまで両手でたくし上げ、めくって見せた。

当然ながらヘソ下の部位の恥ずかしい毛が顕わになっている。

「あのさぁ、この時間から”裸エプロン”ってどうよ?」そんなシュテルンベルガーの台詞にもニーナは腰をふりふりして

「う・れ・し・いくせにぃー」と言いながら楽しげに笑っているのである。

 シュテルンベルガーは”まぁ全ては明日だ”と割り切って今夜の楽しい宴に興ずるべく、残りの料理にがっついた。




 


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