表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
オルフェウス号の伝説  作者: 梶 一誠
14/22

エストニアの罠


1939年9月19日。時刻はちょうど10時を過ぎた頃合いに、アレクサンデル・コヴァルスキ少佐は補給と修理完了の謝辞を述べるべく、タリン海軍基地の司令部を訪れていた。入港期限の24時間の正午が間近に迫っていたのだ。それとこの訪問には子供たち、特に女の子たちを引き取る意味合いもあった。

 ただ、彼はその事務所に居座る太った中佐から突然発せられた異な言葉を聞いて困惑した。

「出港ができないとは、どういうことですか?ロスコフ中佐」この当然至極の潜水艦オルフェウス号の新任艦長の詰問に対して、いかにも人の良さそうな中間管理職然としているロスコフ中佐は昨晩、上司との報告の際と同様に、ハゲ頭の汗をしきりに拭いながら

「現在、このタリン港に一隻のドイツ船籍である『ルシュ・タラッサ』号という貨客船が停泊しているのですが、この船は本日の夕刻6時に出港予定なのです……。出港の申請はあちらの方が先なんです。国際法に従えば、交戦国同士の艦船の出港には6時間の間隔を空けなければならないとあります……。よろしいかな、ですから」

 故にオルフェウス号の出港は今晩の深夜0時を過ぎてからでしか許可できないとの事。中佐は中立国エストニアの立場上、ハーグ協定を尊守しているだけであると、許しを請うようなジェスチャーで彼の目の前で大きく手を広げてみせた。

 アレクサンデルは彼の態度とその取って付けたようなもっともらしい理由に、こちらの出港を遅らせるための何らかの意図を感じ取っていたが、そんなことはおくびにもださず

「その件は……まぁ了解しました。では子供たちを艦内に収容します。会わせてください」この要請にも中佐は、あいまいな造り笑顔で

「ま、まぁ慌てる事はありますまい……。じつはこれから、昨日あなたともうお一人に失礼をしたジーナ・ラディッシュ中尉の提案で子供たちを連れて旧市街区の市場(マーケット)に連れていくことになったのですよ」と告げてきた。

 これにはアレクサンデルもいささか憤慨気味になって

「こちらには一切連絡がないことだ!」と、詰め寄ったが中佐は彼を(なだ)めるようにまた両手を広げてみせて

「中尉の話ですと、女の子にはそれなりの旅支度が必要だと、特にマリア嬢にはね……。お解りかな?お代は全部、彼女がもつそうですよ。これもこちらの善意と受け止めて欲しいですな。少佐」彼はにこやかに自分が腰かけているソファの背もたれに寄りかかった。

 相対しているアレクサンデルは、下唇を噛み、目を剥いて中佐をねめつけた。そして

「では……こちらから介添え人を一人付けさせていただく。ご存知のとおりマリア・フォン・シュペングラー嬢は盲目というハンディキャップを負っています。サポートをする人員がいた方がいいと小官は判断します。フランツ・ヴァノック一等兵曹という若者です」と、アレクサンデルは今できうる彼なりのエストニア側への対抗策を講じたのであった。

 昨日のタリン港への上陸以来、ジーナ・ラディッシュ中尉なる女性のペースで事が運ばれていることが、アレクサンデルにしてみれば不満と不安が募るのを拭うことができずにいたのだった。

「兵曹ですか?……失礼ながら、どういう?」

「ご心配にはおよびません。コイツは女に対しては全くのヘタレでして、マリアからすれば……下僕ですな。いや、最近は『ユースフ!』と呼ばれて飼い犬同然の扱いですから、うちのお姫様たちの従者と言うより荷物もちにはもってこいの若造でして」アレクサンデルはこう言うと、自分から声を上げて笑い始めた。これにつられて中佐もタイコ腹を揺するようにして笑い始めた。2人の声だけが執務室内に響きわたっているが、目は互いに笑ってはいなかった。

 この後、アレクサンデルはこの場では中佐の置かれた立場に一応忖度(そんたく)した態度を取って、その場を辞去したのだが、口うるさい客人が執務室を退出するや否や、太ったハゲ頭のロスコフ中佐はその体躯を揺すりながらデスク上の黒電話に飛びつき

「准将!……はい。仰せのままに……であります。はっ!日没までには……必ず」と、報告を入れてから受話器をおいて、それから今一度、それを耳にあてて

「ドイツ大使館へ繋げ。駐在武官を呼び出せ」と交換台へと連絡をつけた。


昼飯もそこそこにして、フランツ・ヴァノック一等兵層は修理ドックの隣に併設されている管理棟から、タリン海軍基地の厚生棟へと小走りで移動していた。艦長から、すぐさま子供たちのエスコートをする様にとの指示を受けたためだ。かれは身だしなみを細かく気にしながら歩を進めた。

「『あの女中尉は、何をするか分からん。子供たちが拉致されることなど無いように監視するんだ。何もないようなら、荷物持ちでもして来い』って艦長は言ったけど、兵隊連中に囲まれたら、さすがにお手上げなんだけどなぁ」彼はぶつくさ言いながら、水兵の制服から私服に着替えてしきりに、ジャケットの袖口やら脇の下の自分の体臭を気にしていた。

 管理棟内のシャワールームを使い、ヒゲもきれいに手入れした。艦長アレクサンデルから、エストニアの女中尉に汚い格好(なり)を見せて(あなど)られるなと、注意を受けてきたこともあるが、フランツにしてみればそんなエストニアの中尉よりマリアに嫌われないようにするための配慮の意味の方が大きかった。

 小さいチビたちのオマケもついているが、あの小汚い潜水艦を離れて異国の街をマリアと寄り添って歩ける。彼女に自分の肘をとらせて、背中まで伸びた長く艶やかは金髪をしたおとぎ話に出てくる妖精のような少女とのデート気分を味わえる筈であると、彼は顔のタガがゆるみっ放しのままでいそいそと歩を進めたのだったが……。

 「何だよぉーっ。マリアー!か、髪切っちゃったのかよぉ」

 厚生棟前にエンジンを掛けたままで停車中の、キューベル・ワーゲン(ドイツ版ジープのような汎用車)にお目当ての子供たちとジーナ・ラディッシュ中尉を発見して駆け寄ってきたフランツの第一声がこれであった。

 デザートカラーのワーゲンの運転席には、カーキ色の軍服姿のラディッシュ中尉、その隣には真新しい白地に小さい花柄の可愛らしいワンピース姿のモニカが。髪も丁寧に(くし)が入れられて小さい花の形の髪留めをしている。さらに、中尉とモニカに挟まれる形で最年少のアンナがちょこんとお行儀良く座っている。こちらも今まで伸び放題の黒髪を()いて手入れしてあって、小ざっぱりになっている。潜水艦内で日々を過ごしていた時に比べれば雲泥の差である。アンナも昨日から中尉の”着せ替え人形”と化した結果で、今は晩夏に相応しい明るい水色のふわっとしたデザインのワンピ姿で、おしゃれに唇に少しの紅をさしている。

 2人はフランツの姿を認めると、にこやか元気一杯で手を振ってきた。ラディッシュ中尉は一度、頭から足先までフランツなる青年、と言うより少年に近い若造を見て取ると、軽く落胆したような表情を浮かべてからぞんざいに顎をしゃくって”後ろに乗れ”と指示した。

 フランツは口をあんぐりさせたまま、中尉の後ろの後部座席に座を占めた。当然その隣にはマリアが。彼女は腕組みしたまま耳たぶまで真っ赤にしながら車外の方に顔を向けたままで、彼の方を向いてはくれないのである。

「もったいねぇー……」このフランツの一言に

「うっさいわねぇ!このほうがいいのよ。長い髪だと、湿気をすって重くなるし、ちょっとした所ですぐ引っ掛かって面倒くさかったんだからぁ」と、食って掛かってきたマリア。彼女はここで初めてフランツの方に顔を向けた。顔中真っ赤である。

 キューベル・ワーゲンは待ちかねたと言わんばかりに急発進。ラディッシュ中尉のせっかちな気性を丸写ししたかのように狭い基地内の道路をタイヤを鳴らしながらぐんぐん加速していく。アンナとモニカはこれから異国の街でのお買い物にうきうきして中尉の隣ではしゃいでいた。

 フランツの目の前のマリアは、耳元までざっくりとあの(あで)やかな長い金髪を惜しげもなく切ってしまってショートカットにまとめあげている。麻地の縦じまラインの入っている水色のシャツとワーゲンと同じデザートカラーの男物のような七分丈のパンツルックである。サスペンダーに挟まれたようになっているバストがやけに強調されて、フランツの視線はどうしてもそこに集中してしまうのだった。

 マリアもその彼のいやらしい視線を盲目ながらも微妙に感じてか両手で胸元を隠すようにして

「何、見てんだよ!このスケベ。『ユースフ』の分際でぇ」と、タータンチェックのソックスが垣間見えている、くるぶしまでの高さがあるごつい編み上げの軍靴で、フランツの向こう脛を蹴った。

「ユースフ……?オルフェウス側からの介添え人はたしかフランツ・ヴァノックとかいう兵曹と聞いてきたが……」ジーナはバックミラーを覗いてマリアの彼氏と思しきフランツという青年の顔をまじまじと見ながら問うたつもりが、マリアが代わりに

「いいんです。こいつはしばらくこの綽名(あだな)で呼ぶことにしています。彼の実家の一番マヌケな牧羊犬の名前なんです。…はい」と、自分の左隣にすわる男子の頭を手馴れた感じでぺちぺちと叩いた。

「へーぇ、もう互いの実家の話をするほどの仲なんだねぇ……。若いのにやるもんだね、あんたも」と、ジーナはマリアに言ったつもりだったが

「い、いやっオレもこう見えて、やるときはやる男なんすよ」こうフランツがドヤ顔で勝手に答えたので、マリアは”お前じゃない”と言わんばかりに彼の顔の方に手を伸ばし、耳を何とかさぐり当てて引っつかんで”ぐいぐい”してから、そこを手始めにフランツの顔を触診し始めた。

「良し!ヒゲは剃ってあるね。シャワーも浴びたようね……石鹸のいい匂いがする。艦長さんとヤンさんはちゃんと戻ってる?殴られたりしていない?」

「問題ない。コヴァルスキ少佐とレヴァンドフスキィ大尉の両名はすでに解放してある。君の証言が功を奏した結果だ」代わりに答えたのはジーナだった。

 その後、フランツはマリアに潜水艦の修理は完了、食料、真水の補給も終わったことを普通に告げてから、わざと恋人っぽく彼女の耳元に愛の言葉をささやくようにして

「フィリプからだ……今朝早くに、『エニグマ』が完成したそうだ。あいつは艦に帰ってから不眠不休だったらしい。艦長室を使わせてもらって作業が安定したせいもある」

「……そう。よくやったと褒めてあげなきゃ」

「みんな、あいつは凄いって言ってたよ。普通の集中力じゃねえってな」

「ええ!一度、”スイッチ”が入るとあの子は他が全く見えなくなるの。……まるで精巧な機械のように没頭してしまうの」

 2人の(はた)から見れば恋人どうしがいちゃついているとしか見えない様子にも、ジーナ・ラディッシュ中尉はバック・ミラー越しに目を油断なく光らせ、彼女らの唇の動きをつぶさに追っていた。

 キューベル・ワーゲンは幌をたたんだオープンカー状態で夏の名残の涼しくなってきた風を受けながら、基地のゲートを抜けて周囲が良く見渡せるゆるやかな石畳の登り坂を疾走していく。エストニアの首都であるタリンの中心街は沿岸部の港湾区域から数キロ離れた小高い丘陵地帯にあった。その地は中世から堅牢さを誇る城壁に囲まれていて、ワーゲンがその城門の一つスール・ランナ門の近くまで来ると、渋滞に巻き込まれた。

「見てぇ、モニカ。でっかいお船が見えるよ」と、アンナが後部座席の方に体ごと向けて、マリアたちのさらにむこう、今自分たちが出発してきたタリンの港の景色をみて声をあげた。

 ジーナとマリア以外のフランツとモニカはアンナと同じタリン港の遠景を見渡した。自分たちから見える位置からすると、右手側のバルト海に面する方向の桟橋に確かに大型の汽船が停泊している。3本煙突の貨客船だ。喫水線上の船体は黒で甲板より上の船室デッキは白色にまとめられている。

 モニカがしきりに何かをその眺望の中から探そうしていたが、自分が抱いている懸念をアンナに手話ですばやく送った。

「モニカがねえ、オルフェウスはどこにあるか?だって、フランツ兄ちゃん」と、手話を読み取ったアンナが通訳すると、フランツが今度は反対側、左手側の内陸側の一画を指差して

「あそこ。ロールケーキみたいな屋根が三つ見えるだろう。修理用ドックだ。あそこに今、オレ達のオルフェウスが入っているんだ。……しっかし、こいつはずい分内陸側の出にくい所につめ込まれたもんだぜ。こうして見ると初めてわかる」フランツは首を捻じ曲げた格好のままで自分の所見を述べると

「みんなは、どうしてる?」と、訊ねてきたのはマリア。

「元気だよ!ドック隣にある管理棟で風呂を借りて、ヒゲも剃ったし今日は朝から全員総出で水兵服の洗濯だよ。みんなパンツ一丁でな『マリアはどうしてる?アンナとモニカはちゃんと食べてるか?』って心配して口々に言っていたよ」こういった後に更にフランツは

「レオンとフィリプが自分たちのといっしょに君らの肌着も洗濯してちゃんと干していたよ。オルフェウス号の潜望鏡マストにね。褒めてあげなよ」と、付け加えるとマリアがまた顔を真っ赤にして

「あいつらーっ干すなら目立たない所に干せっての!」これにはモニカも頬を染めて何回も頷いている。

「ちょうど、マリアのパンツがマストの一番高い所にあってな、皆がそれを見てオレ達のオルフェウス号のシンボルにしようかって笑ってたっけ」フランツはその光景を思い出したのかヘラヘラと呑気に笑い出した。

 すると今度は顔を真っ青にさせたマリアがフランツの襟首をいきなりつかんだかと思うと

「ユースフッ!何でそのままにしてきたのよ。回収しなさいよ!この駄犬!おバカァ」と、今度は彼の頭を叩き始めたのだ。

 なんだか仲むつまじい二人をバックミラー越しに見ながらジーナ・ラディッシュ中尉は隣に座しているモニカとアンナに小声で

「マリアはさぁ……あんなボーっとした(あん)ちゃんのどこが好いわけ?」と聞いてみたが、二人はこの問いに、両の手を上に向けて首と肩を(すぼ)めて見せて”さあねぇ”のジェスチャーをシンクロさせて首を振り振りさせている。その答えにジーナも2人と同様に(かぶり)を振りながら

「……目がみえないって……やっぱり罪だわよ」と、呟いてからは、何度か後部座席でじゃれている二人に分かるように何度か咳払いしてから

「本当なら、君たちはもう出港していてもおかしくは無いんだがね。『ルシュ・タラッサ』号、アンナちゃんが見つけたあの3本煙突の船の連中が抗議してきた所為(せい)で、こうしてタリン観光とお買い物ができるようになったのよ」ワーゲンのハンドルを握りながら彼女は、(かたわ)らのアンナの肘に手を伸ばしてちゃんと座るようにうながしながらいった。

「抗議……!?オレ達が何をしたって言うんです?」フランツがジーナにやや不快気に問う。

「いいか、『ルシュ・タラッサ』号はドイツ船籍だ。むこうの船長の言い分ではな、復讐に燃えたポーランドの潜水艦が自分たちを領海の外で待ちうけて魚雷をぶっ放してくるかもしれない……。故にだ、『我々の船が完全に行方(ゆくえ)(くら)ませるまで潜水艦を繋ぎ止めておいてくれないと困る!国際問題にするぞ』ってこんな具合になってるのさ!」こうなった顛末(てんまつ)をジーナが語って聞かせても、なお憤懣やるかたないフランツに背を向けたままでいるうちに渋滞の列が少し動き始めた。

「”こくさいせーじ”ってのはむつかしいのですよ」と、アンナがさも分かったような口ぶりで腕組みしてフランツに解説しているのをジーナは、「そうその通り」と言う代わりに彼女の肩をハンドルを握っている反対側の腕でぎゅっと抱いた。

 ジーナは本心からこの三人姉妹のような関係の子供たちがかわいくて仕方ないのだった。この市場に繰り出す事を中佐に提案して半ば強引に許可を取り付けたのも彼女からであった。

 ワーゲンはまた快調に走り出した。石造りの荘重な門を抜ければ、昔から変わらない赤屋根とレンガの中世の町並みが広がっているはずである。そこを抜ける寸前にフランツは、先刻自分が後にした丸屋根の施設に向っていく兵員輸送用の軍用トラック2台が遠望の中にチラリと垣間見たのだったが。

「……どうしたの?」彼が思わず発した驚きに似た不穏な声を耳にしたマリアが問うと

「…いや、なんでもない」フランツの視界はここで市街区を取り囲む高い城壁に(さえぎ)られてしまった。

 ジーナ・ラディッシュ中尉はバック・ミラーでフランツの表情を読み取ってから、チラリと自分の腕時計で時間を確認すると、うすら笑みを浮かべながらハンドルをまた(せわ)しく回し始めた。


フランツが港の外から遠望して、ロールケーキのような屋根と表現したドック施設の周囲には、ワイヤーが張られていて、水兵たちの制服やら下着の類までがそこかしこに吊り下げられて秋の晴天の中で揺れていた。修理担当と航法関連以外の水兵と兵曹連中は呑気にも自分たちの本日の成果を下着姿で眺めて日向ぼっこに興じていたのだった。

 銘々が煙草をふかしたり、寝棚のシートを引っ張り出しては日向においてその上に寝そべっては甲羅干ししたりしていたが、彼らは徐々に近づいてくるトラックの騒々しい轟音に午後ののんびりできるひと時を破られた。

 オルフェウスの乗組員たちは日中の出港予定が急遽、深夜過ぎに変更になったと艦長よりの通達を信じていて油断しきって全く警戒心を解いてしまっていた。

 誰も彼も自分たちの潜水艦を守ろうと小銃を取りに行く者とてなく、兵員輸送用のトラックからわらわらと降車して殺到してくるライフル銃で武装している一個中隊を阻止できずに、無様に取り囲まれてしまったのだった。

 輸送トラックから最後に降り立った、将校が腰のピストルを抜きながらほぼ裸の潜水艦乗りたちに近づいてきて

「責任者はどこか?」と誰何(すいか)した。

その間にも兵隊たちはどかどかと遠慮なくドック施設内で停泊中のオルフェウス号に、ポーランド海軍関係者の許可なく乗り込んでいく。

「何事だ!貴様らすぐに艦を降りろぉ!」掌帆長(しょうはんちょう)のヴォイチェフ・グラジンスキィが甲板上で仁王立ちになって乗り込んできたエストニア海軍の臨検隊の前に立ちはだかった。

「基地司令官のロスコフ中佐はどこだ?」と、彼の背後からは艦長であるアレクサンデル・コヴァルスキ少佐が現われて下っ端どもを睨みつけて、彼は数時間前に会談した例の太った海軍中佐を呼び出してくるようにキツイ調子で訴えたのだ。そしてライフルと自動小銃で武装している一団を一歩も船内に通す訳には行かぬとクマが二本足で立っているかのような大男と肩を並べた。

「失礼します!自分は抑留監査隊の指揮を任されております、クラクスキィ中尉であります。通達であります!」これは今まで外にいて水兵相手に指揮官の居所を問い質していた将校だった。

 将校は彼らの前で一度敬礼してから、徐に自分の胸ポケットから一通の紙片を取り出して、オルフェウス側2名の前にかざして見せてから、その内容を読み上げた。

 それは、エストニアをはじめとするバルト三国は、9月上旬に調印された協定にしたがって、三国の領海内で発見されたあらゆる海軍の潜水艦または軍艦を武装解除し抑留(よくりゅう)する権利を有しているとの一方的な見解を突きつけられたのだった。

 アレクサンデルにはこれが、オルフェウス号がタリン港に到着してからのでっち上げであるとの直感を得ていた。彼はその将校に向って

「君たちの司令官、ロスコフ海軍中佐との会見した際にはそのような新たな状況に関しての警告を受けてはいないぞ!」と、抗議したが、将校は口の端に小バカにしたような笑みを彼に向けて

「我々は、タリン軍管区の陸海軍総監ジノヴィエフ准将の命令で動いております!直筆のサインもあります。抵抗はなさらない方が賢明ですぞ」将校はそう言うと、武装兵士たちを船内へ突入させたのだった。

 ソ連邦の衛星国に甘んじてもなお主権を有する独立国であろうとするエストニア共和国は、大国ソビエト連邦はもとよりもう一方の軍事大国ナチス第三帝国との板挟みという難しい外交上の選択を余儀なくされていたのであった。吹けば飛ぶような小国の独立なぞは、東と西の独裁者の気持ち一つで如何様にもされてしまうのがこの第二次世界大戦(ヒットラー・ウォー)が勃発してしまった現在のヨーロッパ諸国の切実な現況である。

 エストニアの政府及び、その兵課を現場で預かる軍上層部はポーランドという中欧の大国の惨状を(かんが)みて、自国の国益を最優先させる選択を行なったのは当然であろう。オルフェウス号がいかに中立国への開戦当事国の権利を主張してみても、大国の巨大な理不尽な戦斧の前では所詮は蟷螂の斧(とうろうのおの)でしかないのだった。

 アレクサンデルとヴォイチェフの脇をエストニアの陸戦隊が通り過ぎて、艦内は騒然としていった。彼らは血が滲むほど唇を噛み、手が真っ白になるまで拳を握りしめているほか手がなかった。


「クソッ!せっかく艦長が『アンナたちにうまい物食わせてやれ。あの女中尉にいい顔ばかりさせるなよ』ってもたせてくれた10万ズロチもする大金が……あの両替屋め。『もう紙くずだ』って言いやがった!ルーブルじゃまともに交換できないからってコペイカだぞ。コペイカって言ったらソ連の小銭扱いじゃねえかよぉー」フランツはタリンの市場の端で営業している外国人観光客向けのおしゃれなカフェ、そのオープンテラスのテーブルをマリアと2人で占めていた。彼は(ひさし)の下の丸いテーブルに突っ伏したままでマリア相手に愚痴をこぼしていた。

「はいはい、分かりましたよ。……少なからず私もショックだわ。戦争に負けているって……こういうことなんだって思い知らされてる感じがしているのよ」マリアは顔は真正面を向いたままで手だけで彼の頭部をさぐり当てると、自分の飼い犬を愛でる様に彼の金色の髪を優しく撫でては慰めていた。

 フランツ・ヴァノック一等兵曹がオルフェウス号を後にする時に、コヴァルスキ艦長が艦長室の金庫から用立ててくれたお金、ポーランドのズロチ紙幣はこの市場内の両替商に持ち込んだ際に、正当な為替レートでソ連邦のルーブル紙幣に交換できずに、その店主から投げるようにしてコペイカ貨幣を渡されたことにこの青年は声を大にして嘆いているのだった。

 結局、潜水艦に乗り込む女の子達にとって航海に必要なあれこれを買い求めるにも、ジーナ・ラディッシュ中尉の好意に甘える他なかった。その内訳は先ずは清潔な肌着類。衛生管理中隊の隊長が選んだ手持ち用で女の子専用の石鹸、生理用品など生活全般に必要な物品があれもこれもと買い込まれたのだった。

「こくさいじょーせぇーはたいへんなんですよ。ねぇティロピーちゃん!」マリアとフランツがどんよりとした陰鬱な雰囲気を醸し出している隣の丸テーブルにはアンナとモニカが座を占めていた。テーブル上には本日の買出しの戦利品がいくつも紙袋に詰められていたのだが、二人にはこれらとは別にジーナから記念の土産(みやげ)として、アンナはピンク色したクマのぬいぐるみティロピーちゃんを、モニカは子供向けの化粧ポーチセットを買ってもらいご満悦で、すこぶる機嫌が良い。

 マリアは着替えの肌着と大人向けの化粧用具と、何枚かの普段着を年上の女中尉から送られたのである。

「こんなにしてもらって、申し訳ないです」マリアがすまなそうに言うと、ジーナは鷹揚(おうよう)に構えては

「いいのよ!給金入ったっていっつも仕事着は軍服だし、クソ忙しくって金使ってるヒマもない。いい機会だわ。ぶあーっとお金使いたかったのよ。ホントに」と、快活に笑ってはマリアの気持ちを大いに宥めてくれたのだった。

 そのジーナ・ラディッシュ中尉はオープンテラスを店内から望めるカウンターにいて、今日の自分の連れたちの様子を窺っていた。

「はい、『ゴロワーズ』。二つね」カウンターの向こう側からのっぽでメガネ、白髪が目立つダンディな店主が愛想よく彼女が買い求めたフランス産の煙草を差し出した。薄い水色で古のヴァイキング戦士が被っていたようなヘルメットに天使の羽があしらわれている独特なデザインパッケージの小箱が二つ。その間には四つ折りにされた紙片が挟まっていた。

 ジーナは店主から煙草のお代を聞いて

「また、値上がりかよぉ勘弁してくれぇ」とわざとらしく大げさに言ってから、紙片を取り出した。

「……モスクワからです。最新情報です」店主は目を伏せたままで小声で呟くようにいった。

「煙草はやっぱり洋物がいいねぇ……と」ジーナはカウンター上においてあったマッチと粗雑な造りのアルミ製の灰皿を手繰り寄せると、新品の煙草の封を切ってから一度、鼻を寄せてその香りを満喫してから一本取り出し火を付けた。そして紙片の内容を素早く読み取ってから、紫煙を吐き出しつつマッチの残り火を使って紙片を焼却処分した。一時的に灰皿上で炎が上がってはすぐに収まっていった。

「同志ベリヤ委員からだったよ……。路線変更になるようだ……簡単に言ってくれるよ」

「いかにも急ですな……」

「……”われらの偉大な兄弟”のご意向……だと。」

「やはり、同志スターリンは二ェーメッツ(ドイツ人のこと)とはいずれは縁を切るつもりですな……同志中尉」

 ジーナ・ラディッシュ中尉はあくまで洋物の煙草を(たしな)むような格好で、店主とは目も合わさずにまた紫煙を吹き出して

「あまり大っぴらに同志書記長の名を出すな!せめて”我らのコーヴァ”とでも言え。あと”二ェーメッツ”よりこの辺りでは”フリッツ”を使え!ロシア人とばれると厄介だ」と。店主にややドスを利かせて注意した。

「なぁ、独裁者っていう人種が、真っ先に疑うタイプの人間ってどんな奴だと思うね?」このジーナの質問にダンディな店主は小首を傾げながら

「……まぁ、秘密警察(チェーカー)の逮捕リストに名を連ねている不穏分子どもでしょう……な」この答えにジーナは店主とはあくまで目を合わせないようにして、小声で「ハハッ」と笑ってから

「……違うね!たった今『わたしはあなたの味方です』と言って面と向って握手した人間を真っ先に疑うのが独裁者の性なのさ」と、言ってから店主と目を合わせた。錐のようにとがった視線が彼の顔を射抜くと店主はぶるっと身震いさせた。

「連絡員からです……。エストニアの臨検隊が例の潜水艦へ乗り込みました。あと……」店主の脇に近づいてきた彼の女房面をしている頭巾姿の女中が、ジーナのそばでカウンターを雑巾で拭きながら

「Uボートの連中と駐在武官がここいらをうろついているとの情報も……注意を」と、女性エージェントは小声で呪文を唱えるようにして彼女の耳に情報を入れてきた。

 ジーナは聞いていない風を装い、オープンテラスからこっちに無邪気に、クマのぬいぐるみを抱っこして手をふっているアンナに笑顔を返しつつ

「ご苦労でした!そろそろ基地に戻るとしよう。しかしジノヴィエフ准将め……面倒だな。まったくせっかちなジジイだ」ジーナは何食わぬ顔のままで煙草をもみ消すと、自分の足下に置いてあった追加で購入するつもりでいた或る品を店内用買い物カゴごとカウンターに上げてから、わざと周囲にわかるように

「オヤジさん、これもお願い」やけにはつらつとした大きな声をあげた。

 これが合図となってソ連内務人民委員NKVDの局員としての顔は鳴りを潜めて二人は普通の客と店主の間柄に態度をシフトしていく。

「おやっ中尉さん、デートかね?」店主がメガネの奥の目を細めて、カゴの中身を取り出してレジに値段を打ち込んでから、他の紙袋とは別なピンクの紙袋にそれを詰めていく。

「ええ!いやっ私じゃなくってあっちのお若い二人に贈り物さね。特にあの兄ちゃんへの(はなむけ)だぁね。……あ、それと”アレ”置いてある?」ジーナは店主になにやら耳打ちすると、店主は更に目を細めていかにも楽しげに相好をくずしながら

「あーるーよぉーっ」と、言いつつカウンターはレジ下の引き出しから小箱を一つ取り出すと同じ紙袋に詰めてから「サービスしとくから」と、付け加えてから更に嬉しそうに肩を上下に揺らせた。

 ジーナ・ラディッシュ中尉はピンクの紙袋を携えて外のオープンテラスへと歩を進める途中で、一度立ち止まりレジの店主に

「やっぱりこの煙草(ゴロワーズ)、ちょっと高いぞ!何とかしてくれよ」と、少し文句を言ってやった。


「まことに結構です!このご協力にはリッペンドロップ外相はもとより総統閣下もお喜びになるでしょう」ドイツ国防軍の制服姿のエストニア駐在武官が話すのを、その隣で聞いていたシュテルンベルガーは武装SS大尉の周囲を圧する制服姿ではなく背広姿にソフト帽を被ったどこにでも居るビジネスマンの格好に営業スマイルを添えてほくそ笑んでいた。

 この執務室内のボスであるジノヴィエフ准将は、応接用ソファに腰かけて相対している二人の客人、特に顔合わせした事のある駐在武官ではなく、悠然とかまえている新参の若造の方を睨みつけていた。

 自分の(せがれ)ほどの年齢の若者が、すでに故国の看板を背負っているような尊大で傲慢な態度が鼻についているようであった。

「ここにもモスクワの犬は入り込んでいる。こちらからの連絡なしでの訪問は遠慮していただきたいものだがね……」この揶揄(やゆ)は駐在武官より隣のスーツ姿の若造、シュテルンベルガーへのあてつけだったが、当の本人はにこりともせずにソフト帽の(ひさし)の陰から、碧い瞳の視線を准将の顔に向けるのみ。

「その上でのご配慮には感謝しておる次第です。……で。首尾は?」と、申し訳なさそうに准将に聞いてきたのは駐在武官のほう。

「押収品は既に階下の備品倉庫に集めてある!」はき捨てるように答える老将に向って

「……我々はいずれ、ボルシェヴィキを貴国から……いえバルト三国全体から駆逐するでしょう。その時に今回のご協力が功を奏すことになるのです。閣下」表情一つ崩さずに、もはや決定された事柄を述べるように中立国の今後の命運を予見してみせるシュテルンベルガーを准将はわざと無視して

「今、案内の者をよぶ!」と、だけ答えた。

 ジノヴィエフ准将に呼びつけられて案内役を申し付かったロスコフ中佐が太った体躯をふうふう言わせながら、備品倉庫の鍵を開けて中に二人を通した。

 その押収品が集められている室内の一画を眺め見たシュテルンベルガーは怒りを顕わにさせて

「ガラクタばかりではないか!」と、いった。


 


 

 


 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ