シュテルンベルガーの肖像
シュテルンベルガーは目を白黒させて、自分のために用意された申請書類に釘付けになっていた。ミュンヘン市郊外に近いユダヤ人街の一画、今は無きドイツ帝国時代の面影を残す古びた頑丈一点張りで石造りの住居兼事務所の二階建てビル。その一階部分の客用ソファに腰掛けている彼はその反対側に座してコーヒーをすすっているハゲ頭、メガネで中年のユダヤ人男性に向って
「いいのかよぉ、おれの家系に”フォン”なんて家柄の親戚なんて聞いた事ねえぞ!それにこの”フリードリッヒ”なる貴族っぽい名前はなんだよ大げさじゃないか?代書屋さんよぉ」と、素っ頓狂な声をあげた。
「ああ…それぐらいはね、今どき常識だから…うん平気、平気。親衛隊入隊の申請書類にそれ位の”箔”をつけるくらい、みんな結構やってるのよぉ」と、書式、型式にうるさいお役所の申請用書類を取りまとめることを仕事として成り立つ代書稼業を生業としている中年男性は落ち着きはらってコーヒーの香りを満喫しているのだった。
「カール・フリードリッヒ・フォン・シュテルンベルガー……これが、これからのオレの名前か」と、つぶやく若手の客人に代書屋はズボンのサスペンダーの位置を気にして肩の辺りをしきりにいじりながら
「少し前だったら、親衛隊SSに入隊するには六代前のご先祖まで、自分の家系が正当なアーリア系ゲルマン人であるとの証明が必要だったんだが、そうなるとミュンヘン市内で審査に合格できるのが50人も揃わなかったんだからお笑いさね」と言ってから、歯並びの悪い口を開けて二階の住居部分まで響くくらいの大笑いをしてから
「んでもって、今じゃ二代前までなら合格ってことになってる。実際に役所の戸籍を遡っていったら、兄さんの家系にはドイツ高地氏族系の傍流に縁があることがはっきりしたよ。胸はってフォンを名乗っても問題はないんだぜ。フリードリッヒってのは貴族っぽい名前で登録しておくと割とスンナリ書類審査にパスできるんだよ。これくらいはこの業界じゃ当然のサービスなのさ」
シュテルンベルガーは”ふーん”といちおう納得して見せてからここの店主と同じくコーヒーに口をつけた。
「お代はたっぷりいただいたから気合を入れて代書仕事せてもらったんだが。お若いの本気で親衛隊に?」
「行くさ!家も土地も処分してでも欲しかった、たった一つの夢ですらオレにはもう無いんだよ。それより代書屋さん、あんたここでこんな商売してて大丈夫なのかよ」
「問題なしだ。相手が誰であろうと商売は商売だ。きっちりこなすさ。それにあの演説バカのチョビヒゲ首相だってヒンデンブルク大統領がいるかぎり好き勝手はできんさ。あの野郎が本気で国中から俺らユダヤ人を追い出そうってんならその日のうちにヒトラー政権は崩壊するぜ。賭けてもいい!」
まだこの時代はヒトラーとナチスが単独で半ば強引に政権を奪取する以前のことで、この稀代の独裁者は未だ総統は名乗らず、ワイマール政権下、ヒンデンブルグ大統領の足下にあった。故にユダヤ人たちの間では、これより数年先におこる未曾有の民族存亡の危機を予見できず多くの者が、シュテルンベルガーを相手にしている代書屋と同じ見解を有していたのだった。
だが破滅の足音は確実に近づきつつあった。確実に……。
「……まだ、オレの予算、残ってるよな。代書屋さんに頼むのは筋違いかもしれないが、これもお願いしたい」封建領主と言うよりかは近隣の農家の世話を焼く組合長のような存在であった豪農。その長男坊として生を受けたカール・シュテルンベルガー青年は、地味なグレー色のジャケットのポケットから小箱を取り出し、二人の間にある、様々なカタログが山積みされているテーブルの上に置いた。
「どれ、拝見するよ……。おい兄さん、シュテルンベルガーさんだったね……本当にいいのかい?」小箱を開いた代書屋の店主はこれからナチス親衛隊の入隊審査を受けようとしている眼前の若者の夢が何であったのかを瞬時に悟ったのだ。
そこには大小1セットで整列している結婚指輪が入っていた。故に店主は遠慮がちに若者に尋ねたのだった。
「……もう…用が無くなったんだ。構わない!頼めるかい」
「そうかい……。やってくれって言うなら、冶金やら鋳直し、彫金はオレ達ユダヤ人にはお手の物さ。で、どんな風に鋳直すんだい?」この問いにシュテルンベルガー青年は、テーブルの上の彫金向けカタログからあるデザインを選び出した。彼が指差しているのは親衛隊用にあつらえることが許されている髑髏の指輪であった。
「……おうっ!」シュテルンベルガーはここで夢から現実に引き戻された。体全体、というより腰の辺りにずっしりとした重量を感じたせいだ。
(ずいぶん昔の事を鮮明に思い出す夢なんて……なんか変な気分だ)こう彼はぼーっとする頭で思考しながらゆっくり目を開けると、真っ先に目に飛び込んできたのはたおやかな二つの乳房だった。乳輪が少し大きめで、やや褐色を帯びているように見えるのは室内の淡いオレンジ色の照明のせいかもしれない。視線を少し上の方にずらすと、ソバカス顔に濃い茶色のウェーブが掛かった髪を耳辺りで切り揃えている娘がそのブラウンの瞳でじっとこちらを見つめていた。
二人は生まれたままの姿で、この娘の船室と同時にいわゆる仕事部屋での愛の交歓を楽しんだ後であった。時刻は未だ深夜に入ったばかり。
これより数時間前にシュテルンベルガーの乗るUX-09は補給のために、海軍司令部からの指示でドイツ船籍の貨客船『ルシュ・タラッサ』と、エストニアはタリン港内での邂逅を果たした。Uボートは潜航したままで秘かにタリン湾内へと入り、姿を晒さぬようにしてドイツ海軍が各方面に派遣した、情報収集、及び潜水艦の補給艦としての役目を担わせるために徴発した1万トン級の輸送貨客船の影に隠れるように接舷したのだった。
Uボートは司令塔の部分だけをブイのように水面から突き出させたまま、先ずキュヒナー艦長と次席士官のハルトマン中尉、及び武装SS大尉であるシュテルンベルガーと数名の下士官が『ルシュ・タラッサ』に乗り込み、挨拶もそこそこに乗組員たちはその広いゲスト・デッキにて潜水艦の中では味わえない、豪勢な料理と故郷の美酒を振舞われた。受け入れてくれた貨客船の船長や船員たちは慣れたもので、客人たちをこれでもかともてなしてくれたのだった。そして、宴も酣になった頃合いに、そこに煌びやかで、扇情的なドレスに身を包んだお嬢さん方がゲスト・デッキに通された。士官たちがあぶれない様に、プロの女の子達は一人一人の若いUボート士官の腕を取り酌をし、料理を取り分けたりしてサービスをする。そして、その後は女の子に宛がわれた船室へ…お決まりのコースだ。
「シュテルンベルガーさん…やねぇ?あたいの事覚えとる?」今、彼と同衾している娘はそう言うなり、真っ先にシュテルンベルガーの腕を取ったのだった。
娘はいわゆる騎上位の態で男の腰の上にまたがって両腕で枕元を押さえつけるようにしてのしかかっていた。美人というより少し田舎臭いが素朴でかわいげの有る顔をしている。ただ彼女はなにやら不満気にむくれているいるよう見える。シュテルンベルガーは自分の両の手でその娘の頬をやさしく撫でながら
「どうした?、オレ、なにか気に障ることした?」と、訊くと彼女のほうから顔をぐいっと鼻先がくっつくあたりまで寄せて来て
「悔しいやんかぁ……あんた、あたいを抱きながらずーっとレイチェル姐さんのこと、考えてたやろ?」体はすっかり大人であるのにこの娘の声は未だ十代のように甲高くはぎれが良い。少し涙目になっていて唇をきゅっと結んで拗ねている。
シュテルンベルガーは言葉には出さないが、口の動きだけで”そんなことない”と言ってから目を細めてから首を振ってみせ
「……笑って、アリス……」とささやくと娘は今度は本気で怒ったようになって、噛み付くようにして彼の唇を一度激しく吸うと
「ニーナだぁ、あたいの名前はぁ!アリスは源氏名。ベッドに入る前にちゃーんと教えたやんかぁ。さっきのはなぁ”仕事”抜きなんでぇ。今だってそうだぁ」娘はシュテルンベルガーの首っ玉にかじりつくと体を返し、上下を逆にして自分の足を彼の腰にからめた。もう一度抱けと言うのだ。
「さっきの”歓迎会”でカールゥ、あんたを見つけたときどんだけ嬉しかったか……わかる?今回の客はUボートの乗組員って聞いてがっかりしてん。あいつら風呂入らんやろぉ匂いきっついねん……。でもそん中にあんたがおった!」ニーナは体を起こすとシュテルンベルガーの正座している膝の上に乗っかり、対面座位のまま、また彼の首筋に遠慮なく吸い付いてくる。
「レイチェル姐さんにはまだあたいが駆け出しの頃、優しくしてもろうて世話焼いてくれてどんだけ助けてもらったか感謝しとる、今でも大好きな姐さんや。……でも、やっぱりあんたが欲しい!抱いてやぁカール。あんたの中の姐さんを吸出したる!掻き出す!もうあんたはあたいの”いい男”になってもらうんだから」
こうまで言われて引き下がっては男の沽券にかかわろうというもの。シュテルンベルガーはニーナの求めに応じ、暫しのあいだ二人で”愛の刻”を重ねた。
……今一度、目覚めた。今度は過去の夢は見なかった。ニーナと名乗った娼婦は隣で彼に背中を向けている。二人で同じ毛布にくるまって……。
「朝が来よる。いつもやったら早く朝になって、客からお代を受け取ってからシャワーを浴びたい!仕事のこと忘れたいって思うんやけんど、……今日だけは別や。こうしている間だけはあんたと夫婦でいられる……」
船室の丸い舷窓からはほのかに白い東雲の光が差し込んでいる。室内の緩い照明はもう用を成さなくなっていた。
シュテルンベルガーはニーナの小さな背を抱え込むようにして抱き、自分の体をピタッと寄せて
「あいつも君と同じことを言ってたよ……そして別れ際に泣くんだ」彼女の耳元でささやくとそのまま肩にキッスする。
「なあ、話してんか?姐さんのこと……あたいには親切にしてくれたんけんど、自分のことはあんまり教えてはくれなかったから……」ニーナは体をくるりと返す。小柄で痩せ型の割には豊満なバストを男性の厚い胸板に押し付け背中に手をまわした。
「……あんまり、思い出したくない話なんだがなぁ」シュテルンベルガーはそう言うと、彼女のおしゃれに手入れされた細い眉を指の甲でなぞった。
* * *
「だから、眉毛いじんなやぁー。お兄ぃはわたしが気にしているの知っててわざとそうするぅー」男女の睦みあいを終えると、シュテルンベルガーはいつもこうして恋人の顔をいじるのだった。
「男みたいに太い眉毛はわたし、嫌いだぁ」彼の記憶の中にしか存在しないこの娘は黒くしっかり顔のまん中で自己主張している眉毛を両の拳でごしごし擦る。
「ヘタに剃ったりして、形変えるなよ。オレは今のレイチェルが一番かわいい……と思う」
「なんだぁ!その思うってぇ。カール兄ぃめぇ」レイチェルは仕返しにと、彼の頬を両手でつかむと思いっきり横に引っ張る。マヌケなカエルのようになった彼氏の顔を見て、レイチェルは辺りを憚ることなく大声でケラケラと笑った。
周囲は膝の丈ほどの青々とした草に囲まれた湧き水でできた泉のほとり。故郷の村からは数キロ、山あいに入った所にある。二人は示し合わせてはここで逢い引きを重ねていた。レイチェルが用意した弁当を持って、い草で編んだシートを敷いて二人で裸で抱き合った。二人きりのとても愛おしい時間を楽しんだのだ。
これはカールが16、7歳で、彼にとって初めての女性であったレイチェル・ワイズマンは15歳の頃であったろう。二人して、ミュンヘン市の南部地方、山間の小村で生を受けた。物心が付くころからカールの隣に女の子はいた。シュテルンベルガーの生家は小作農家をいくつも抱える豪農であり、ワイズマンの一家もその中の一つであった。だが子供時代から2人は兄妹のように育った。
「お兄ぃーっ、カール兄ぃ、わたしも連れていけぇ」が幼少からのレイチェルの口癖。カールがいっつも振り返ると黒髪をお下げにしていて、おでこが広く、太い眉毛がかわいらしい女の子が追いかけてきた。二人して鼻水を垂らしてほっぺを赤くしていた冬も。どろんこ遊びに興じて体中泥だらけで轍ばかりの村の農道を裸足で歩いて家路をたどった夏の日も。村の行事、お祭りごとにもいつもいっしょだった。喧嘩もしたし、それと同じ数だけ仲直りもした。仕方がないから折れて女の子の家に母親が焼いてくれたお菓子を持っていくのはカール少年の方と決まっていた。
年頃になれば、いつの間にか互いを意識しあい、普通に繋いでいた手も挨拶ていどに交わしていたキッスも次第に熱をおびて全く別の意味を持ち始めた。そして当然の如くに男女の深い仲になった。
何もなかったら……そう、何もなかったらこの若い二人は何処にでもいる普通の夫婦となり、子供を得て、稼業を継いで老いるまでこの小村で暮らし、生涯を終えたのであろうが……。
「なぁ、お兄ぃ。わたしはユダヤ人なん?」レイチェルはカールに問う。裸の二人は手を繋いで仰向けで青い空を見ていた。どこからか小鳥のさえずりが聞こえる。
「そう……らしいなぁ」
「じゃあ、この国から追い出されるン?……何でなぁ、なんにも悪い事してないでぇ」
「心配すなぁ!街中じゃあ騒いどるバカ共がおるけんどこの村までは来ねぇよ。今まで誰も気にしたことすら無かったのに、迷惑な与太話さね。うちの村でも近在の村でもユダヤ人なんていっぱい昔っから住んでるのにみんな追い出しちまったらどうやってこれから作物つくるんだよ?牛の乳は誰が搾って納めるんだよ」こう横臥したまま捲くし立てたカールは最後に
「大丈夫。ほんとにいざとなったら、お前を連れてドイツを抜け出したってかまわないから、オレは」と、言うとレイチェルは黙ってカールに抱きついて彼の胸の上で頷いた。カールは彼女のおでこに何回もキスしてあげていると、今度は彼女の手が青年のへその下にある物をまさぐりはじめて
「…もう一つ気になる事あるん、なぁお兄ぃ大学いっとる間にむこうで別の女こさえたら、わたし怒るでなぁ」レイチェルはきつめにそれを握りしめてくる。
その責めにカールは苦悶しながらも、口の端に笑みを浮かべつつ”わかりました”とクビを縦にすることしかできない。彼女は自分の愛しい人の様子を楽しみながら
「お兄ぃ、もっとあちょぼうよ!」甘えた声で彼の唇に吸い付いた。
この様子を見ていたのは泉に喉をうるおしに山から降りてきた子狐一匹。そいつは草むらの上からひょっこり顔を出して水辺を占領している、人間の番が重なりあっているのを見つめていたが、その番がそこから離れる様子が全く無いので、他の水辺を捜しに飛び跳ねるようにして踵を返すと草むらの中に消えた。
シュテルンベルガーの淡くて故郷の風土に育まれていた優しい記憶はここまでであった。
「オレはベルリンから故郷に帰らざるを得なくなった。当然、大学は中退したよ!村の畑のジャガイモが伝染病で全滅したんだ……。それだけならまだいい!その後は風評被害でオレとレイチェルの故郷は完全に立ち行かなくなった……。作物の全て、牛乳、バター、チーズまでもが伝染病で汚染されているという噂がたってな。市場からは完全に閉め出されたよ!」カールは早朝の光が差し込む船室のベッドでニーナの髪を指先で絡めていじりながら辛酸を舐めさせられた過去を語った。
「……ウチの近在の村でも似たような話があったよ!不作でさ立ち行かなくなった農家に高利でユダヤ人商会の連中が金貸し付けてさ、利息払うだけでもキツいんだ。結局……あたいみたいな娘が買われたんだよ。いっぱいね……」
「オレが、オヤジと村の風評被害をなんとかしようとミュンヘンの市役所やら組合やら廻ったけど、何の力も無いって思い知らされただけだ。村の小作たちは結局破産して夜逃げしてしまうか、娘をとられた。レイチェルも……ミュンヘンに連れて行かれた。借金のカタだ」
「……『銀の鯨亭』。業突張りのユダヤ人一家が経営する娼館。あたいはそこでお客を取らされたよ……。14歳だった。レイチェル姐さんとはそこで出会ったんだ。お客を満足させなかったりすると、そこの若い衆に殴られたよ!いっつも姐さんが庇ってくれて、いっしょに泣いてくれた……」
* * *
もう何回、この娼婦の館に足を運んだろうか?ミュンヘン市内で繁華街から数キロ離れた、良識派というレッテルを自慢げに貼っているインテリを自称する連中からすれば、同じ共同体の中に存在するだけでも眉をひそめる地区にそれはあった。一見すれば場末の安宿といった地味な佇まいのレンガ造りの洋館。その一階の待合いの間でシュテルンベルガー青年は指名した娼婦を待った。
店を任されている若い衆も、彼の顔を見れば誰を御指名かは知れていた。黙ってソファを進めて愛想の良い営業スマイルを浮かべている。その中に田舎者を蔑視する意味合いも込めながら……。
やがて自分の持ち場の部屋から彼の目当て、レイチェル嬢が精一杯のつくり笑顔で立場上、お客としてかつての恋人を迎え入れた。彼女の出で立ちはいつも赤紫色のドレス、艶やかな黒髪に派手な髪飾りをしていた。シュテルンベルガーはその姿からいつも目を逸らすようにしていた。
自分の愛した、妹のように暮らしてきた少女が自分がいない時にこの格好で客を取らされているかと思うと、居たたまれないのであった。
二人きりになると、彼女は言葉少なくいつも目に涙を浮かべて彼の腕に抱かれた。そして男女の営みをする前に必ず、シュテルンベルガーはレイチェルに村で暮らしていた頃と同じ田舎臭い格好をさせた。
レイチェルは村娘の格好になると、「お兄ぃ、お兄ぃ」と彼の腕の中で甘えて日々の暮らしの辛さを訴えては「帰りたい、わたしらの村に帰りたい」と言っては、泣いたのだった。
カール・シュテルンベルガー青年も、レイチェルを”身請け”して、二人でこのミュンヘンで新しい暮らしを始められるなら、どんな苦労もいとわないとの覚悟で自分の父親から土地と財産の相続分を担保に借金してレイチェルを迎えに行こうとしたが、それでも足りない……。彼はミュンヘン市内での日雇い労働をしながら日々を過ごした。そして、こうして少ない給金を工面しては、この『銀の鯨亭』に今でも将来の嫁と心に決めた女の下に通い詰めた。
「レイチェルは、朝方になるといつも『朝なんて来なけりゃいい。朝にはカール兄ぃが行ってしまう。このまま二人で夫婦のままでいたい』って言って泣くんだよ……。泣くんだ」
ニーナはカールの眼からおちる涙を両の手を使って優しく何度も拭ってやった。
「姐さんが、嬉しそうにしてたのは、カールあんたと一夜を過ごした後と決まってた。でも……その日の夕暮れになると、見てられんくらい落ち込むんや。……意に沿わぬ相手とは……なぁ、姐さんやっぱり辛かったんやろなぁ。その内、店のマネージャーがな、『気分が落ち着く。楽になるぞ』ってヤバイ薬を飲ませるようになってぇ……」今度はニーナがシュテルンベルガーの首っ玉に抱き付き嗚咽を上げ始めた。
「辛いなら、もう止せよ」
「あの雨の日にレイチェル姐さん、あたいに置手紙して部屋で首……首吊ってしもうた!手紙には『今まで仲好くしてくれてありがとう』って。んでなぁ最後になぁ…『カール兄ぃゴメン』って書いてあってん!」娼婦のニーナは彼の裸の胸に取り縋るようにして泣き、今度は怒りを顕わに「殺されたも同じやんか!あいつら働きが悪いからって薬使って半分意識が朦朧となってた姐さんに一晩に何人もの客、宛がってさぁーっ!」と、声を震わせたのだった。
カール・シュテルンベルガー青年はレイチェルの亡骸に別れを告げる事すら出来なかった。脳裏に残っているのは、恋人の遺体を生ゴミのように追い出した「借金を踏み倒された。大損だ」と憤慨する娼館を経営するユダヤ商人の青白い顔。将来の妻となる筈であった彼女を最終的に火葬場に送るような処置をとった官憲の面倒くさそうで冷淡な態度とユダヤ人の娘を蔑むような目付き。それと火葬場でその日に発生した事故、事件等で亡くなってしまった無縁仏の亡骸を荼毘にふした後に生まれてしまう、火葬場の一画に設けられた無造作に積まれた灰の山しか記憶には無かったのだ。
カールはそれこそ灰塗れになってレイチェルの残がいを捜した。声を上げ泣きながら、泣きながら、恋人の名を何度も呼びながら……。この姿を不憫に思った灰を穴埋めする役目の人足が、どこからか適当な小瓶を捜しあててそこに灰を詰めて、泣き伏している若者に「これもって帰りな!死んじまったもんはどうしようもねえ」と、いってこの場を引き取らせたのだ。
その後はどこをどう彷徨ったのか、覚えがない。微かに脳裏に残っているのはミュンヘン市郊外の小さな児童公園の遊具に腰を下ろして、雨に打たれていたこと。手にはしっかりと今もお守りとして携帯しているあの小瓶を大事そうに抱えていたのだと言う。その時、ニーナは傘を持ってシュテルンベルガー青年に近づいて声を掛けたらしいのだが、当の本人には全く記憶がないのだった。ニーナはレイチェルの常連であったこの青年を見知ってはいたが、彼から直接声をかけてもらった事は無かったが。
「今でも、あたい覚えてるんよ。カール、あんたなぁ『オレとレイチェルが何をした!ただ二人で静かに暮らしていければそれで良かったのに……。この国はそんな事も許してはくれないのか!』って酷く興奮していたよ!怖いくらいだった。それから『もうなにも要らない!何も夢見ない!みんな灰にする!』ってね。本当に覚えていないんかいな?」ニーナは顎をカールの胸の上において、顔をのぞき込むようにして話して聞かせても、当のカールは当時を思いおこしてみても
「……?覚えていないなぁ。ただ、これだけは言える。オレが抱いていた夢、真面目にやっていれば世間並みの幸せぐらいはちゃんと得られるなんて、クソみたいな幻想だったってことはあの日に気付かされたよ。力、力が無ければ何にも守れない!おれが失った夢はもう二度とは得られない。ならば全て焼くのさ!焼いて殺して屍の山を国中、世界中に積み上げてやる。ナチス党が言っているアーリア民族にのみ約束された東方圏での千年帝国なんぞどうでもいいんだよ。オレは、その過程でこのどうしようもない怒りと恨みを果たすのみだ」と、横臥したままで船室の天井にむかって声を張り上げる。
「それ、もう止めるわけにはいかんの?あんたぁ……親衛隊に入ったせいか体、あの頃よりずい分大きくなったけんど、鍛えられて、扱かれて生まれ変わったつもりかも知れんけど……レイチェル姐さんのことずーっと愛しとるやん。ずーっとカール兄ぃのまんまやろ……くっ!!」
ニーナがふいに口にした”カール兄ぃ”の言葉を聞いた途端に、朴訥としたかつてのシュテルンベルガー青年は、鳴りを潜めて武装SS大尉であるカール・フリードリッヒ・フォン・シュテルンベルガーの冷徹で残忍な一面が彼の意識を猛然と支配した。彼はニーナの小ぶりな身体に圧し掛かり首を絞め始めた。
「その名でオレを呼ぶな!娼婦風情がぁ何様のつもりか!いいか、良く聞けよ。ニーナちゃんとやら、オレはな君が思ってるような人間的な部分はもう持ち合わせてはいないんだよ!機械だよ!オレがこれから話してやることは本当のことだ!オレが命じそうさせた事なんだ」
ニーナは彼のもう一つの、血塗られた記憶を忌まわしい惨劇を聞かされた。それはカール・フリードリッヒ・フォン・シュテルンベルガーなる過去と訣別した男が武装SSの准尉として任官して、後輩のSS隊員たちの教導士官としてユダヤ人の住む小さな農村に部隊を引き連れて乗り込んだときのことであった。
シュテルンベルガーの小隊は他に出動している部隊と共にその小村をくまなく捜索を行い、ユダヤ人を見つけては銃で脅し彼らに黄色の星型の目印を付けて、ゲットー行きのトラックに強制的に放り込むか、家を焼き、家畜を殺しながら家々から徒歩で老人、幼い子供分け隔てなく延々と歩かせた。彼らを追い立てるために軍用犬、ジャーマンシェパード、ドーベルマンといった獰猛なオオカミのように飼育されてきた獣たちが率いられていた。
シュテルンベルガー隊長の意図は今回は、特に任務を忠実にこなすことも当然ではあるが、自分の預かる後輩隊員にもっと精神的にタフになるよう度胸をつけさせたいと考えていた。彼は雑草ばかり生えているあぜ道のような農道をとぼとぼ歩く連中の中に、目立たないように地味な老婆のような格好をさせられている一人の娘を目ざとく発見した。彼はその娘の髪をいきなり掴んで、乱暴に連行するユダヤ人の列から引っ張りだした。娘は泣き叫ぶ。その子の祖父、祖母らしき老夫婦がシュテルンベルガーに跪いて助けを請うが、彼はそんな話しなぞに頓着せずに娘の衣服を引きちぎり、若い新兵たちの前に放り出した。
娘は泣きながら男たちに嬲られた。草の上で何度も、何人もの男が細身の少女の上に圧し掛かり足を無理やり開かせ、その両親代わりであったろう老夫婦の眼前で年の頃なら15、6歳の娘を慰み者にしたのだ。若い兵士とシュテルンベルガーは笑いながらその行為を楽しんだ。あらかた満足した彼らは素裸で泣いているか細く白い娘の背中をにやにや眺めていたが、隊長のシュテルンベルガーは
「全員、楽しんだか?では今度は我らの戦友の番だな」と言うと、合図を送り軍用犬を放った。当然、血の狂宴に花を添え、生贄を捧げるためだ。
数頭のジャーマンシェパードとドーベルマンが待ちかねたとばかりに、その娘に殺到していく。その姿に恐怖した娘は素裸のまま草むらを泣きながら逃げ回ったが、すぐに大型犬たちに食いつかれた。
老夫婦は彼女の名を叫んでは、どうか犬を離して欲しいと地べたに頭を擦り付けるが、襲わせているシュテルンベルガーは無表情で犬達の有り様を眺めてるばかり。
良く晴れた春の一日であった。その晴天に向って、おぞましい号泣とも雄叫びともつかぬ少女の悲痛な叫びが放たれた。その娘は生きながらにして犬共のエサにされた。さっきまで笑っていた後輩のSS隊員たちもその光景には戦慄してその場で固まっていた。何度も何度も娘は両親の名を呼び助けを請い、泣き叫ぶ。泣くというより恐怖と猛烈な痛みに耐えかねて常軌を逸して喚き散らすような声であった。
その叫ぶ人間を襲うように訓練され、血の匂いで本来の野獣の性を存分に放出させている軍用犬たちはさらに容赦なく柔らかな娘の身体に牙を立て、喰らいつき、身体を捻っては生きたまま肉を引き千切っていく。やがて娘は動かなくなっていった。犬共は鼻と口の周囲を真っ赤にしている。ある一匹は引きちぎった娘の腕を銜えてきて隊員と震える老夫婦の前で悠然と食事を続けている。骨を砕く音が”ポキッ、コキッ”と草原だらけの農道に響く。
後輩隊員の一人が堪らず、その場でしゃがみ込んで胃の中の物を戻してしまった。シュテルンベルガーはその後輩に近づき、無言でそいつの腹を蹴った。新兵は泣きながら砂埃に塗れて転げまわる。
「何をしている。見ろぉ!」彼は一喝すると、その後輩の襟首を引っつかんで立たせて、娘の無惨な亡骸の所へと引き摺っていった。娘は光と生気を亡失した目と口を半開きにして無表情な人形のようにして天を仰いでいた。肌の色はやけに無機質な白に変わってしまっている。彼女の首は皮一枚で胴体と繋がっているだけ。小さな胸のふくらみは見事に食い散らかされて、ドス黒くなった血液にまみれた胴体からは白いあばら骨が垣間見える。内臓まで食い破られていて周囲は凄い異臭が立ち込めている。犬どもはその臭いにも興奮しているようだった。
後輩の一人はそんな無惨な骸と化してしまった娘をまともに見ることが出来ずに下を見て震えるのみ。その情けない姿に感情を苛立たせたシュテルンベルガーは、わざと彼を拳でぶん殴り彼の顔が娘の遺骸と対面するように、地面に伏し倒してから背中を踏みつけた。後輩は草むらにうつ伏せたまま、震えている。
「見ろぉーっ!いいか。我らはこれを世界中、赴く全ての戦場で容赦なく徹底的に行なうことになる!躊躇するな!これを見て情けなく泣くのは今日までとしろ」と、言うと最後の後始末として、残された老夫婦に一発ずつ銃弾を見舞った。
シュテルンベルガーは怯えて声の無い自分の小隊連中に3人、いや2人と食い散らかし半分の遺体を埋めるための穴を掘らせた。それを眺める間に、彼は軍用犬を放った担当の兵曹を呼びつけて、この兵曹も青い顔をしていたが彼はお構いなしに
「あのさぁ……お願いがあるんだけども」こう言うと、辺りに満足気で身体を農道の草むらにこすりつけて毛づくろいしている軍用犬たちをぐるりと見ておいてから相手の兵曹に
「もう少し、きれいに食わせるようにしてくんないかなぁ……。”お残し”はなるべくさせないでよ。後片付けするのも大変だよ」と、兵曹の肩をぽんぽんと叩いた。
* * *
ニーナはシュテルンベルガーに首を締め上げられながらも抵抗せずに、じーっと目を閉じていた。彼はそんな捨て身で好い様にされている娼婦に毒気を抜かれたようになってしまい、「ふん!」と鼻を鳴らして彼女の横に身体を投げ出した。そしてこうも言ったのだった。
「いいか!今のオレが本当のオレさ。戦争の所為だとか、ナチスから強制されたなんて”逃げ”を打つ気はさらさらない!全てオレの意志だ。記憶も全てオレ自身の物だ!……。オレが望んだ闘争さ!人も都市も文明でさえ焼き尽くすまでオレは止めない!覚えておけ。それが分かったらもうオレに近づくな」
ニーナはゆっくり目を開けると、変わらず彼に笑顔を振り向けて
「……無理やわぁ。あたい、アホやんかぁ難しいこと判らんでぇ。分かっていることと言えば、そんな一途なあんたが好きでたまらんってことだけや……」と、いった。
シュテルンベルガーはもう、どうでもいいとばかりに両の手を頭の下に組んで大きく溜め息をついた。2人の間に沈黙が降り立ったときだった。ふいに源氏名アリス嬢の船室のドアをノックする音がした。
シュテルンベルガーはベッドの周囲に脱ぎ散らかしたバスタオルを拾い上げて、腰に巻きながらドアノブを捻った。
そこには見慣れない若者が立っていた。着ている衣服からすると昨晩、いっしょにこの補給船『ルシュ・タラッサ』に乗り込んだUボートの士官らしかったが……。彼はその人物に「…誰?」と聞いてしまった。
「ウルリッヒ・ハルトマン中尉であります。大尉殿……失礼しました!」ハルトマンと名乗った若者は自分の上官が腰タオルで屹立している様にこう言うしかなかったのだ。彼もやはり一夜の供の部屋で風呂を使いヒゲをきれいに剃り上げていた。Uボートの先任士官として乗り込んでいた昨晩とはうって変わって、ずい分と若々しい。やや少年っぽいつるんとした血色の良い肌の青年にシュテルンベルガーは
「……君かぁ、ヒゲが無いと若いと言うか、少年みたいだな……」と、いった。
「童顔は昔っからなんです。年齢は大尉殿とそう変わりありませんが」ハルトマンは少し顔を赤らめながらも
「大尉殿、……お楽しみの所、申し訳ありませんが、上のデッキへお越し下さい。海軍司令部とベルリンからの電信がいくつか届いております。……それと、先刻ですが、不審者を連行しました……。大尉殿の判断を仰ぐべきとの艦長からの連絡であります」と、キッチリ訪問の用件を告げると、敬礼して「ここでお待ちします」彼は自分からドアを閉めた。
「残念…。お仕事やんねぇ」シュテルンベルガーが振り返ると、ニーナはタオル生地のガウンに身を包んで、ハンガーに掛けてあった彼の親衛隊仕様の黒い制服にブラシを掛けていた。
ニーナは肌着を付け終えた彼に、一般家庭で出勤する夫の世話をかいがいしく焼く妻のようにして白いワイシャツのボタンを留めてやり、ネクタイを締めながら
「……カールゥ、あたいなぁこの出張仕事終わったら、クリスマスの頃にはまたミュンヘンに戻るンよ。あんた馴染みのあの店にまだおるんやわぁ……。一度、来てくれん?」
「『銀の鯨亭』かよ。辛い思い出しかないのは知ってるだろう」
「今は『勝利の宴亭』やで。ユダヤ人一家はゲットー送りになって、ドイツ人経営者に変わってしもた……。ざまあみろって感じやけんど。内装も明るくなって好い雰囲気になってんのやでぇ、なぁ頼むわぁ。もう一回会ってんかぁ」
「……気が向いたらな。約束はできんぞ。いつ死ぬかは本当に分からんようになる、これから」あまり気乗りしないでいるシュテルンベルガーをニーナはベッドに座らせると、一度数歩下がって彼の身なりをチェックして「よっしゃ」と頷き、最後の仕上げである制帽を自分が被ったまま、彼の前にまるで上官のように偉そうに踏ん反りかえって
「かならず出頭しなさい!どんな辛いお話でも聞いてあげます」と、言ってから座ったままの彼の頭を自分のガウン姿の胸に抱きとめて
「いい?これだけは覚えていて。あなたが何処でどんな非道で残忍な事をしても……あたいが許してあげる。世界中が有罪だって、神様がお前は悪魔だといってもあたいはあんたの味方だからね……一人くらいそんな人間がいたって好いってあたいは思う」と、言うニーナに強く抱かれながらシュテルンベルガーは無言のままでいたが、少し間をおいてから「お前、バカだ」そういうと彼女から制帽を取り上げてキッチリと被り直した。
「あと、ここにあたいの”お守り”入れといたから」立ち上がったシュテルンベルガーの制服の胸ポケットをつんつんしながらニーナが微笑んだ。彼が自分の胸ポケットを撫でて首をかしげていると
「東洋じゃ、同盟国の日本ではな戦地に向う愛しい人のために女の人があそこの毛を抜いて、お守り袋に入れて渡すらしいで。”弾除け”なんだって……。あたいもそうしたんだ」と、言うとニーナは少し頬をピンクに染めた。そして最後にと……彼の前に居住まいを正して
「カール・フリードリッヒ・フォン・シュテルンベルガー大尉殿、どうぞご無事で。ご武運お祈り申しあげます」と、制服姿の意中の男性に深々とお辞儀をして見せたのだ。
シュテルンベルガーはそのまま船室を後にしようとドアノブに手を掛けたが、振りかえってガウン姿のニーナをきつく抱きしめた。そして、無言のまま額と、両の眉毛に都合3回のキッスをした。それは、かつての恋人レイチェルと故郷でのデートの最後や娼館を後にする時に交わした”必ずまた会おう”という2人だけのサインであった。
* * *
シュテルンベルガーやUボートの士官たちが素敵な一夜を過ごした船室のすぐ上のデッキは、ガラリと雰囲気が変わっていてまるで軍司令部がそっくり移動してきたようであった。
一端の体育館ほどの広さを持つデッキの中央には、左右10人掛けのテーブルほどの台があり、そこにはバルト海の全景と、ポーランドを含む中欧地帯区域の詳細な地図が設置されていた。ドイツ国防軍の制服にキッチリ身を包んだ担当者が何人も入れ替わり、立ち替わりしてその地図上にある三角の旗があしらわれている手の平サイズのマークを、移動させていく。
男女を含めた各担当者たちが交わす北部ドイツ地方の言葉が引っ切り無しにシュテルンベルガーとハルトマン中尉の周囲を飛び交っている。
三角のマークは青と赤の2種類があって、青の三角マークは地図上のポーランド西部地域の各都市部を中心に、数にして数十本でびっしり埋め尽くされている。
赤マークは数にすれば未だ青の半分以下だが、こちらの方が動きが早くポーランド東部地域から中央部を目指している。ここの職員も先刻から、赤の旗印をしきりに移動させていた。
シュテルンベルガーは一目で、青がドイツ軍の各方面軍の展開状況。赤は17日から侵攻を開始したソ連軍の機甲部隊の動きであると理解した。
「いやはや、壮観……だねぇ」と、彼は自分のすぐ後ろで歩を進める、ハルトマンに声を掛けた。
「あちらで艦長がお待ちです」ハルトマンは彼の感想を意に介せずに、自分たちの進行方向、地図テーブルの突端で職員が動かす旗の位置を見入っている、アルベルト・キュヒナー艦長をウェイターのような手付きで指し示した。
この貨物船を改造した、補給及び情報収集船『ルシュ・タラッサ』は簡易的な移動司令部としての役目も担っていて、その装備は充実していた。外部からの光が差し込んでいる舷窓側にも長テーブルが有り、その上にはモールス信号の受信機が数基、軒を連ねて休み無くカタカタと鳴っている。その反対側の船体中央を走る大廊下の壁には配電盤のような大型電算機が並び、そのすぐ脇にはタイプライター状の機械も数基ずつ鎮座しており、そこにも担当者がお役所仕事しているように張り付き、モールス信号で受信した暗号コードをその機械に打ち込んでいるのであった。
それこそがドイツの暗号解読機『エニグマ』。ベルリンの中央情報局、外務省、総統府、国防軍最高司令部(OKW)とキール軍港、更には現在ポーランドを席巻している各方面軍からの情報連絡がここに集約され、記録保管はもとよりドイツとこの段階では不可侵条約を結んでいるソビエト連邦に対するアンチ・インテリジェンス(欺瞞工作を意図する情報操作)の内容を、エストニア滞在の駐在武官、大使に伝えるの主任務としていた。
「おはよう!シュテルンベルガー君。昨夜は誰と……?」これがキュヒナー艦長が開口一番に訊ねたこと。その後は、銘々が濃厚なサービスをしてくれた女の子たちの品評会さながらの会話となり、三人三様に顔を付き合わせては、年齢相応の若者らしくヘラヘラと笑いあってから
「……さて、小一時間ほど前のことだが、ここの警備担当が、マヌケなネズミを捕まえたんだがな。そいつはここ、この貨客船の下にオレ達のUボートが隠れているのを見抜いた……。そして、自分も潜水艦乗りだと……言い張ってる」キュヒナー艦長はここまで言うと、シュテルンベルガーをじっと見つめた。
「オルフェウスも……タリンにいる……と」
「本当なら天佑だ。そのネズミは詳しいことはオレ達にしか話さないって駄々をこねているらしい」
「我々に接触してきた意図は……何でしょう?」これはハルトマン。
「それも含めて、そいつの檻を訪問しようと誘ったわけだ」キュヒナー艦長は指の動きで”こっちだ”と示して二人を先導、簡易司令部を後にして、同デッキの別室、というより備品倉庫の扉を開けた。
そこは空気全体が埃っぽく、カビ臭かった。だが、常日頃からUボートに添乗している艦長と先任士官は全く気にならない様子で、奥へと歩を進めた。天井の水銀灯が一箇所だけ灯っている。山のように積まれた小麦粉やらコーヒー豆が詰まっている麻袋の間を縫うようにして、灯りの下にたどり着くとパイプ椅子に後ろ手で手錠され拘禁状態の男が一人。
三人が到着する前に警備員にしこたま殴られたらしく、そのネズミは天井の水銀灯の方向にに口をだらしなく開けてのびていた。デッキブラシのような鼻ヒゲ、その下の口内には前歯が2、3本欠けている。
シュテルンベルガーが声を掛けずに、挨拶代わりにその男の向こう脛をつま先で蹴った。
「へへ……。やっと話のわかる連中がきやがったぁ」気のついた男はこういうと、殴られ腫れ上がった顔のままでこう続けた。
「あんたらが捜している『エニグマ』なぁ……もう八割方完成しているんだぜ」
ヤコブ・マズゥールは不敵な笑みを浮かべて見せた。