癒えない傷
「くそっ!どうやってあんな所まで、しかもたった一人で。モーターを緊急停止!副長を呼べ」ヤンが艦橋から伝声管を使って階下へ号令をとばした。すぐさま応答があって、モーター音が止み、聞こえる音といえば潜水艦の舷側をたたく波の音だけになった。
時刻は深夜を回っていた。今夜もしっかりと月が昇っていてはいたが夜空に浮かぶ雲がその姿をうっすらと包みこみ、その薄明かりが波間にゆれる船体を暗い水面から浮き出させていた。
夜勤当直にあったヤン・レヴァンドフスキィ大尉の周囲には何事かと集まってきた水兵たちがこぞって、オルフェウス号の船首方向に視線を集中させていた。ただでさえ狭い艦橋に5,6人がひしめき合っているのだ。そのすぐ下の司令塔にも、外の様子を窺いたい野次馬連中であふれ返っていた。誰もが、つい先刻に艦内で響き渡った自分たちが”お嬢”と呼んでいた盲目の少女の叫び声に、「すわ何事か!」と跳ね起きたのだった。
マリアは夜間勤務中は、兵員が配置されていない無人の前部魚雷発射管室から「どいて!向こうへ行けっ!」と声の限りの恐慌した喚き声を上げつつ、手で通路脇の配管類を手で探りながら、目が見えないながらも既に慣れた足の動きで士官室と電気室の間天井部にある、船首側の甲板に通じる水密ハッチを勝手に開けて外に、髪を振り乱したマリアは昇降梯子を昇って、月明かりしか無い甲板へと出てしまったのだった。
その際に彼女の姿を見た水兵の一人はその場で固まってしまった。女の子のブラウスの前ボタンは無惨に跳ね飛んでしまって、見た目の年齢よりはずい分と成熟した乳房が顕わにされていたからだ。
「ちくしょうーっ!もう知らない!アンナーッ!私のリュックを持ってきなぁーっ!」マリアの尋常じゃない声色に、飛び起きて顔を真っ青にさせたアンナはただ言われるままに、彼女の後を追ってマリアがこのオルフェウス号に乗り組んできた際に携帯していたリュックを背負い、開け放しの水密扉を抜けて甲板にでた。
ほんの数分の出来事で、誰も二人を止める事は出来なかった。
マリアは船首付近まで、上甲板の手摺りを伝ってそれが先細りになって終わるところでしゃがみ込んでしまっていた。彼女の行き着く先は、潜水艦の船首上甲板に設置されている防潜ワイヤーを回避、切断するためのジャンピングワイヤーという三角状に組まれた鋼鉄製の装備しかない。
一歩足を踏み違えば暗い波間に身を投じてしまう恐れがあった。もしそうなってしまえば最後、この夜間では捜索はかなり困難であろうことは想像に難くない。さらに水温は9月中旬でも充分冷たくなってきている。落ちればそう長くは保たない。
アンナはリュックを背負ったままでマリアの前に立ちすくんでしまっていた。こんなにも盲いた目を光らせ追い込まれた獣のように周囲を威嚇して神経を尖らせている姉代わりのマリアを見たことがなかったからだ。全身を小刻みに震わせて、いつもは優しく自分に微笑んでくれる口元が、今はまるで凶暴な野良犬のように歪ませて敵意むき出しの白い歯をみせている。
「わたしのエニグマを!」左手で、はだけた胸元を隠しながら、右手を伸ばすマリアにアンナは震えながらリュックを渡そうとすると、それを引ったくるようにしてから自分の胸元に抱え込んで
「下がりなぁ!」と、小さな妹分にはき捨てるようにいった。
アンナはそんなマリアの豹変ぶりに成すすべなく、立ったままその場で泣きはじめた。
深夜のバルト海で、幼い少女のか細い泣き声だけが夜空に吸い込まれていく。やがて上甲板には水兵、兵曹が集まってきたが、皆は恐る恐る遠巻きにしているばかりで
「そのままでいろ……なぁ、お嬢」とか「落ちるなよ。動くな座ってろよ」あるいは「誰だぁ!マリアに酷いことした奴はぁ!」と、口々に言い始めた。
「どうした?マリア、落ち着け何があった?」泣きつづけるアンナのすぐ後ろで、副長のアレクサンデル・コヴァルスキ少佐が立っていたが、すぐにその場でアンナやマリアと同じ目線に来るようにしゃがみ込んだ。アンナは「父ちゃん」と、いってアレクサンデルの腕にしがみ付いた。
マリアはそれを音だけで感知していて
「チーフ・オレク、その子をお願いします。わたしはもう無理です……」と、それだけ言うと膝を抱え込むようにしてうつむいてしまった。しばらくそのままですすり泣くマリア。
アレクサンデルはパニック状態の彼女に無理に近づくのは危険であると判断して、自分も甲板にどっかりと座り込んだ。……今はただ彼女の話に耳を傾けるしかないと腹に決めた彼は傍のアンナに「フランツの兄ちゃんを呼んでこい」と促してその場を離れさせた。マリアの身に何が起きたのか、それをあまりに幼いアンナに聞かせたくはなかったからだ。
「見てよぉ副長。お偉い士官様、少佐殿ぉ!あんたの部下がぁやったんだぁ!あたしを……トイレから出たら乱暴に押さえ込まれて口封じされてさぁ、あの冷たい鉄の塊ばっかりの部屋に引っ張られてぇ……ちくしょう!もうおまえらなんざ船ごと沈んでしまえばいいんだ!」マリアはアンナがいなくなったと同時に感情を再度爆発させて、その場で膝立ちになって両手を広げて自分の傷つけられた胸元をさらけだした。白い肌のふくよかな乳房には何者かによって付けられた幾状もの引っかいたような爪あと、それと歯型らしき痕跡もあった。
「誰がやったのか、わかることだけでいい。教えてくれないか?軍紀にてらして…」
「軍紀だぁ!そういって”いたずら”はご法度だとか面倒くさそうに言って、飯を何回か抜いて反省文書かせて、はいそれでお終いだろう?」マリアは髪を振り乱し怒りを隠そうともしないで、アレクサンデルににじり寄った。
「”いたずら”だとぉ……ふっざけんなぁ!やるほうは遊び半分でも、やられた方は一生の傷になるんだぞ!思い出すんだよぉ何回も。クソ共がぁ!」
マリアの訴えにアレクサンデルは息を呑むようにして頷いてやるしかなかった。まるで深い森の中で悪霊に魅入られ、魂を抜かれんとする哀れな農夫の如くに。マリアは一度大きく息をつくと
「あたしを押し倒した奴はねぇ、短髪でね細面さ。鼻は低くて眉毛が一本線みたいに薄いんだよ。あたしはそいつを油断させるために身体を好きにさせた。頃合いを見計らってそいつの右の耳に噛み付いてやったよ。引きちぎってやるつもりだった。今でも耳から血を流しているはずさ。それとあたしの身体をまさぐった汚らしい手には両手に一個ずつ指輪をしているんだ」と、大声で夜空に向って吼えた。
すぐさま艦橋にいたヤンと、アレクサンデルは身振りと目配せして”捜せ”と周囲の水兵に指示。マリアの声を頼りに水兵たちが周りの乗組員仲間の状態を探りあうと、階下の船内からドタドタ物音がしてから
「いたぞ!セルゲイの若造だ。セルゲイ・ブファーノフ二等水兵です」との報告が上がってきた。
取り押さえられたセルゲイ・ブファーノフは最初は抵抗していたが、掌帆長の鉄拳制裁をくらうとすぐに泣きが入り、どうせ死ぬんだから女を抱いてみたかったんだと告白してからやや”ヤケクソ”気味に
「いいじゃねえかよぉ!それぐらいぃ。今まで飯食わせてきたんだからよぉ!相手してくれたってよぉ」と、未だに10代で水兵になり立てのこの若者は見苦しく喚きたて、その声はマリアの耳にも届いたのだ。
マリアの表情が一瞬で凍りついたように無表情になってから、そのまますうっと立ち上がり、座っているアレクサンデルの方に自分の荷物、ドイツ軍の暗号解読機”エニグマ”の精巧なコピー品、その最終段階のパーツが入っているリュックを投げて寄こした。
「チーフ・オレクゥ……あたしのキーワード『火の物語』は昨日の夕方にフィリプに授けました。彼は間違いなく、その最後のパーツを使ってエニグマを完成させるでしょう。でも……それだけじゃ……ダメなんです」マリアはそう言うとゆっくり自分の左手をアレクサンデルの眼前にかざして見せた。
アレクサンデルは、マリアの左手の手の平に消えてしまわないように、わざと原始的なタトゥーの要領で刻印されているアルファベットと数字の羅列を見た。そこには”4WG17-A666”と刻印されていた。
「なんて記されているんですか?チーフ・オレク……。これをあたしに刻み込んだトマス・ハックスリーさんも上手いこと考えてくれましたよ。それがどんな意味を持っていようとあたしには絶対見えないんだから!機密を保持したままイギリスのブレッチェリー・パークという所にあるって聞かされた暗号解読の専門機関『GC&CS』の局員しか用を成さない数字なんです、これは。わたしたちはエニグマの完成品とこの数字を持って初めて任務を達成したことになります。そうでないと私たちはイギリスの情報機関に身柄の安全を保障してもらえないの。そう聞かされたわ!」
「それは……何を意味するんだ」アレクサンデルの脳裏に例のトマス・ハックスリー氏のメモが甦った。あのドイツ軍に鹵獲された際の子供たちに対する非情な処置とその最後にマリアの左手を回収せよとの不気味な示唆の答えがそこにあった。
「『ボンバ』です。エニグマに入力した暗号はそれ単体では解析できないそうです。このエニグマを基に同じ機種を6機作成してから、それらを連結作動させて電算情報解析機として併用することで初めて解読器としての機能を発揮するという話です。それが”爆弾”の意味を持つ『ボンバ』なんです。あたしの手に記されたこの数字はハックスリーさんがワルシャワの研究機関を脱出する以前にその『ボンバ』の設計図と情報部が手に入れたドイツ軍が暗号を組む際に必要な初期設定のコード表を記載した書類データ集を送付した、スイスにあるチューリッヒ銀行の個人金庫の番号なんです……。これが無ければ誰もその金庫を開く事はできないの。彼個人か……あるいはあたしのこの手にある情報でしか。ハックスリーさんはもうこの世の人ではないでしょうから…恐らくもうこれしかないはず」
「なんてことだ!どうしてそんな事を引き受けた?」
「だって生きていたいじゃないですか。いけないですか?あたしは自分から手を差し出したの。あたしの体がそっくり最高機密ってことですものね。すべてあたしが彼にお願いしたの。最優先で脱出するには子供たちだけで逃げ果せることだって、そうすればドイツ軍の目を欺けるって言って、彼も焦っていたのよ……。それで私の手に針にインクを付けて、情報を記入したの。痛かったけど我慢したわ」ここまで一気に捲くし立てたあと、マリアは力なく夜空を仰いでから
「でも、もうどうでもよくなった。どうせ盲の私が生きていたって無駄ですよ。いつでもどこでもこんな酷い目にあってぇ!このまま海に飛び込んでしまってもいいよねぇ!アンナのお父さんや、ハックスリーさんはこの機械が戦争の行く末を決めると言っていたけど……。ドイツ海軍Uボートの暗号情報が判れば戦争はいち早く終わるだろうって。でももういい!戦争なんて終わらなければいい!10年も20年も続いて世界中から人間がいなくなるまで続ければいいんだぁ……。助ける価値も無い人間たちさ。一つ教えてあげる。ハックスリーさんを撃ったのは、ドイツ軍でもドイツに加担した武装民兵でもないの」と、いった。
「……」無言でアレクサンデルはマリアの言葉を聞き入っていたが、背後にアンナとモニカ、そしてフランツが到着すると、そのまま待機して座るように手だけで指示した。マリアの恐慌状態は未だに治まらない。今は彼女のしたい様にさせるしかなかった。
「みーんな、顔見知りでしたよ。同じ教会区にいたご近所の人たちだった。あたしたちにトラックの迎えが来ると、『そんなガキ共なんざ降ろしてオレ達を乗せろ!』ってね。みんなが殺到して来たのよ。みんなどうかしていた!あたしは髪を引っ張られて落ちそうになった所を、神父様とハックスリーさんが撃ったの!撃ち合いになってハックスリーさんは重傷を負ったのよ」
「アンナ、知らないもん!見てないもん!」アンナが突然割って入ってきた。
「先生が、あんたのお母さんが目と耳をしっかり塞いでって”石みたいになって”ってみんなはその言いつけを守ったからよ。あたしは全部聞いていた。二つの鳴り止まない銃声、周りの人たちの怒声、泣き叫ぶ声、助けを求める声、声、声!」マリアは耳を塞いでまたその場でしゃがみ込んでしまった。
マリアは大声でしゃべり続けて疲れたのか、少し呆けたようになって目を宙に泳がせている。そしてうわ言のようにまた話し始めた。
「……ねぇフランツゥ、あんたそこにいるでしょ?足音であたし判るんだよ。ねぇ、聞いてよねぇ、思い出しちゃったんだ。あたしこういう事、初めてじゃないんだわぁ……ハハハッ。あの野郎が言っていた『今まで飯食わせてきたんだからよぉ!』っておんなじようなこと言われたことあるんだぁ」
「おい、止せ!」フランツが一歩前に出ようとして、アレクサンデルに制された。
「もうっいいんだよぉ!自分の母親にも言えなかったことさ。アンナやモニカにも話したことなかった。もう最後だからぶちまけてやる!12歳の時だよ。グダンスク市の学校に移る前、ポズナニの母の実家で暮らしていた最後の頃、ある晩にあたしの……あたしのベッドにさぁ……あのじじいがさあーっいやがるあたしを押さえ込んで、下着を引き裂いてから『今まで面倒みてきたんだから、少しの間我慢してろ』って……あたしの足の間にさぁぁ!……」
「もういい!止めろぉ」フランツは叫ぶと同時に副長の制止を振り切ってマリアに突進した。
マリアはフランツの足音に敏感に反応して手摺の下をくぐるようにして海へ身を投げ出そうとしたが、彼女の腰にフランツがタックルして甲板からすべり落ちるのを何とか防いだ。
「はなせぇ!もういやだぁーっどうとでもなっちまえ!みんな死んじゃえぇー」フランツの手を逃れようとしてマリアはそのまま抱きかかえようとする彼の肩口に思いっきり噛み付いた。噛みながらなお、呻り声を上げて狂った獣のように暴れた。
フランツはその尋常じゃない痛みに耐えて、なお腕の力をゆるめようとはしなかった。マリアの上半身を正面から抱きかかえて甲板に腰を下ろしたまま
「いいぞ!思いっきりやれよ。……痛ぇけどな、悪かったよ!肝心な時に守ってやれなかった……。オレが悪い!全部オレが悪い」そういいながら彼はマリアの頭を何回も撫でてやった。
何分もの間、そうしていただろうか。泣き声とも呻り声ともつかぬ声を上げつつ肩口に喰らいついてフランツの背中を何度も何度も殴り続けるマリア。
「ごめんなぁ。怖かったろうに。すぐに駆けつけなくってゴメン!オレはマリアの騎士様失格だよな」と、言いながら背中をさすっているフランツにマリアが肩から口を放して
「あたりまえだぁ!あいつに体をいじられている間、あんたの名前を泣きながら何回呼んだと思う?下僕に降格だ!いやっ犬!駄犬だぁお前はぁ」それからマリアは火がついたみたいに大声で”うわんうわん”と泣き続けたのだ。
「うん!駄犬でもいいぞ!そのままで聞いてくれ……。あのなぁオレ決めたでなぁ!最後までお前らに付いていってやる!おまえらが船を降ろされても、オレが必ずその…なんちゃらパークまで連れてってやる!マリアは俺の肘につかまって歩けばいいんだぁ!聞いてるかぁ」
「そんなことしたら……あんた海軍をクビになるんだぞ。処罰されるんぞ!」
「うるせえ!自分で決めたんだよ。オレはバカ犬だからな!決めた事しかわからん!見えんのだわぁ」フランツはいっそう強い力でマリアの身体を抱きしめた。
「副長!オレ、こいつらをエストニアで降ろすなら、オレもこの艦を降りますでぇ!『卑怯者』、『裏切り者』言われても構わんですけぇのぉ!」普段は上官に対しては決して使わないお国訛りでフランツは自分の決意を言ってのけた。そのままマリアを自分の胸の中で泣かせ続けた。
アレクサンデルは抱き合う二人の傍に歩み寄り
「マリア…。この船を預かる者として約束する事が二つある。まず一つは君に危害を加えたあの男は次の寄港地タリンで現地の官憲に引き渡す。不名誉除隊処分として法の裁きを受けさせる。それと後一つは私自身、たった今決めたことだ。私は君たちをイギリス本土まで連れていくと決めた!必ずな。最高機密なんてもうどうでもいい!」と、いったアレクサンデルは更に自分の胸を親指で突いて
「私のここがそうしろって言うんだよ。絶対に君たちを手放すなってな!」彼は二人をゆっくりと立たせてからこうも言ったのだ。
「マリア、今一度オレ達にチャンスをくれないか?私はこのオルフェウスの乗組員全員に君たちの任務というより重荷、あのエニグマについての話をするつもりだ。全てを明かして皆の協力を仰ごうと思う!それでいいか?」
「……チーフ・オレク……はい、お願いします」泣きじゃくりながらもマリアはこれだけははっきりと彼に伝え、そしてフランツに抱えられながら艦内に戻ったのだった。
* * *
「私からのお話は以上です。最後まで聞いてくださってありがとうございます。くり返しますが、私、マリア・フォン・シュペングラーと私の連れである四人がいる限り、ドイツ軍は執拗にこのオルフェウス号を追ってくることでしょう。そのことをよくお考えの上で採決してください。私は皆さんの決定にしたがいます」マリアは発令所で、マイクを片手にたった今、自分たちがこれまで携わってきた機密事項、暗号解読機エニグマの存在とそれを輸送しなければならない任務についての説明を、艦内放送を使って終えたばかりであった。
マリアは今、大きめの海軍士官用の外套をかけてもらっていた。それでも彼女は見えなくなっているはずの着衣の乱れを気にして少しもじもじしていた。
マリアの周りにはモニカ、フィリプ、レオンが発令所に集まった士官、下士官、水兵たちの視線を集めて佇んでいた。只一人、アンナはアレクサンデルの腕に抱きかかえられて、目を必死に開けようとしているが、無事にマリア姉が戻ってきたことで安心したのか、ぶり返してきた睡魔と闘っている真っ最中。
「全員、各部署についているな。これから5分間考えろ。強制はしない。各乗組員は自分の意見を部署の班長に言ってくれ。そのあと班長は艦内通話で賛成か、反対かを答えてくれ。以上だ。始めろ」
艦内は異様なくらいに静まりかえっていた。ひそひそ声すらマリアの敏感な耳にも届かない。それでもこの艦内では、乗組員全員が今後の身の振り方の意志決定をすべく語り合っていたはずである。
たった5分のこと。しかしマリアとアレクサンデルには数十分にも感じていた。そして、発令所の通話装置のランプが赤く灯った。送信は前部魚雷発射管室からだった。
マリアはその部署のメンバーが採決した決定に耳を傾けた。向こう側の送信スイッチが入り、しばらく無言でノイズだけが流れていたがやがて
「……こちらは、魚雷発射管室!……賛成です。全員一致で決めました」との、返答が発令所内で響きわたった。そして、これを皮切りに
「兵員室です。行こうぜ!イギリスへ。おれらがしっかり送ってやるからな!大丈夫」
「機関区!エンジンが直ればすぐだ!ドイツのUボートなんざ振り切ってやる」
「電気室です。バッテリーは万全!世界の果てまでだって行けるさ!」
と、次々と賛成、イギリスのポーランド亡命政府に合流しようとの意思決定がなされた。中にはどさくさに紛れて
「マリアちゃーん、ロンドンで俺とデートしてぇー」と、いった変なリクエストをするふざけた輩もいたりした。
マリアはまた今度は全く別の意味で目を潤ませて声を震わせて
「皆さん、ありがとう。ありがとう!」と艦内通話用のマイクを握りしめたのだった。
アレクサンデルはマイクをマリアから受け取ると
「これで決まった!我々は中立国エストニアのタリンで交戦国の権利として補給、修理を受けてバルト海を脱出するぞ!必ず5人の子供たちを送り届ける、いいな!」こう結ぶと、今度は艦内通話なしで、艦内のあちこちから一斉に”ウラァッ!ウラァッ!ウラァッー!”と頼もしい万歳三唱の雄叫びがあがった。そして皆が拍手して気勢を上げる中でどこからか、何ともこの場には似つかわしくない間の抜けた音が艦内通話用のスピーカーから艦内全部に渡って流れ始めた。
”くぉーっ、くかぁーっ”と、アンナがアレクサンデルこと父ちゃんに抱きかかえられながら遂に寝入ってしまいいびきを掻いていたのだった。口からよだれまで流して。
「アンナちゃんは『大物』だぁ」この誰かの声で一斉に笑いがあたりに木霊するように伝わっていく。みんな笑顔だ。
「よし、通常シフトに戻れ!非番はあと少し寝ていいぞぉ」ヤン次席士官のこの号令で皆はそれぞれの持ち場へ半数は兵員室へと消えていった。アレクサンデルはアンナを寝かしつけるために士官室へ。
「ヴァノック一等兵曹、お前とジターノフ、アルゼルスキィがこの時間帯の見張り当直だが、他の二名は日中でのタリンへの入港準備がある。イレギュラーのシフトになるから、あと数時間は貴様一人の担当となる。できるな」このヤン・レヴァンドフスキィ大尉の指示にフランツは敬礼で了解の意を示した。
彼が司令塔への昇降梯子に手をかけた時、傍にマリアが寄ってきて”自分も上にあげろ”と言ってきた。マリアは外の空気がすいたいと言うのだ。フランツは彼女のリクエスト通り、先にマリアの手を梯子に置いて先に行かせて自分は後から、艦橋へと上がった。二人の姿をモニカだけが追っていた。
「何だよぉ。もう朝じゃねえか」フランツの第一声が、艦橋の縁に手を置くマリアに届くと
「寒いね……」と、マリアが返す。外套の襟の中に首をすぼめた。
「10月に入ると、もう冬みたいに風も水も冷たくなる……」フランツはマリアの腕をつかんだ。
「大丈夫!飛び降りたりしないから……ありがとう。でも、すべて許してあげたわけじゃないからね。あんたはまだ執行猶予中なんだからねぇ」くすくす笑うマリアにフランツは唇を尖らせて
「まだ、駄犬のままですかぁ姫様ぁ」と、言うとマリアは嬉しそうに自分の背中をフランツの胸にあずけてから
「あのね……あたし、あの野郎に全部奪われたわけじゃないから。”最後の一線”は守り抜いたよ。誰があんな奴の子供なんか孕むかってえのぉ!『潰しのマリア』の意地を見せてやったわよ」マリアのこの言に思わずフランツは背中に冷たい感覚が走って僅かに身震いした。
「ねえ、フランツの実家の農場ではさぁ牧羊犬って何匹もいたでしょ?」と、いきなり話題を変えてきたマリアに問われたフランツはただ「ああ、いたなぁ」とだけ答えた。
「その中で一番、賢かった犬は何て名前?」
「イワンだよ」
「じゃあ一番、おバカでマヌケは?」
「えーっと。ユースフだぁ……。思い出したぁあのバカ、何日も牧場脱走したと思ったらよぉ泥だらけで帰って来て口にさぁでっかい亀を捕まえてきやがったんだ。それを羊小屋の中で放しやがって亀は走り回る。羊どもは騒ぐわで大変だった」
マリアは明るくけらけらっと笑ってから
「じゃあ、あんたはしばらくの間、ユースフって呼ぶことにしたから」と、自分の視線をフランツの声がする頭の方向に振り向ける。彼はしばらくぶすーっとしていた。
艦の周囲には僅かな朝もやが波間から昇り、少し前に水平線から顔をだしたばかりの朝日までが眠そうで、ぼんやりとしたやわらかな光であたりを照らし始めていた。
その階下の発令所、昇降梯子の根元ではモニカが腕を組んで両足をぐっと開いた仁王立ちでふんばっていた。上にいるカップルのために自主的な番を買って出ているのだった。そこにレオンがだらしなく伸びた髪を掻きながら近づいてきた。しきりに掻くのでフケが床におちる。
「モニカ、オレは今夜のフランツ兄やんを見直したぜ!ちょっとカッコ良かったよな」と言って破顔して見せた。これに対して声の出せないモニカは、”その通り”との意味合いで、いつもの親指をぐっと立てて見せた。
「んで、おまえそこで何やってんの?二人は上か?」このレオンの問いにモニカは今度はレオンの顔の前で人差し指一本を立てて”チッチッチッ”と降ってみせてからメガネの奥の目を細めてにっこりと笑って見せた。その顔はこう言っているかのようだった。
”野暮なことは言いっこなしだぜぇ!”と。