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オルフェウス号の伝説  作者: 梶 一誠
10/22

消えゆく祖国

 「彼らが一番安全だと思っていたんだがな……」浮上したU-X09の甲板上で、こう苦々しげにつぶやいたのはアルベルト・キュヒナー艦長であった。ドイツ海軍の潜水艦Uボートの司令塔の付け根付近には、不慮の事態により鬼籍(きせき)に入ってしまった士官と水兵の遺体が四体、横一列に並べられていた。

 辺りはすっかり夕闇がせまる時刻になって、太陽が西の水平線を鮮烈なオレンジに染めて海と空の境界線を直視できないほどに輝かせていた。司令塔がつくった影の中にすっぽりと包まれた後方デッキの遺体の周りに、乗組員たちが順々に寄り添い、最後の別れを告げていた。

 深海での追撃を行い、撃滅せんとしていたポーランド海軍の潜水艦オルフェウス号からの思わぬ反撃を受けて、一度は海上に避退したU-X09であったが、その時点ではオルフェウス号はバルト海の深淵に身を潜めて行方をくらませてしまっった後であった。

 彼らは再度の追跡行に入る前に、やむなく海上に残してきたはずの、もう一隻のポーランド海軍の潜水艦レイス号に乗り込んでいた臨検隊を回収すべく捜索を行なったが、彼らがレイス号脱出の際に乗り込んでいたボートは影も形も無く、救命胴衣をつけたままの4人の遺体が発見されたのだった。

 先任士官のハルトマン中尉の見解では、オルフェウス号が最後に放った機雷攻撃の爆発に巻き込まれたのであろうとの事だった。

 負水圧型という船舶が攪拌(かくはん)する水流で発生する微妙な水圧の変化に反応して点火するタイプの機雷は、オルフェウスから射出されてから僅かな時間でセンサーのスイッチが入り、Uボートが発生させる水圧のズレを見事にとらえて次々と自爆したのだった。都合12回に及ぶ一発でも直撃すれば大型タンカーをも(ほふ)るくらいの威力を持つ爆発がU-X09の下面を含む周囲200メートルの範囲内で起き、何度も潜水艦は突き上げられ浮上してからも全速力でその海域を脱出せざるを得なかったのだ。

 辛くも一発の直撃も受けなかったことが幸いと言えたが、そのどれかの水中爆発の水柱に彼らのボートは巻き込まれ、破壊的な水圧の犠牲となってしまったようである。

 もの言わぬ遺体がその威力を物語っていた。彼らの遺体は外見上は大した損傷は受けていないように見受けられたが触ってみると、胸の部位が見事に潰れていたのだ。ほぼ即死と思われた。

 キュヒナー艦長は亡くなった臨検隊の一人、一見して未だ10代と思しき若い水兵の脇に佇み

「こいつは……リヒャルト、リヒャルト・ヴェーゼマン。俺の従兄弟(いとこ)だ。まだ19歳だった……。ドレスデンにいるコイツのお袋さんにオレはこのことをどう伝えたらいい?……」と、悔しげに拳を真っ白になるまで固く握りしめていた。

「ズーデルマン少尉もこんな死に方をするなんて思っていなかったでしょうな……」艦長の後ろについて、つい昨日までは生きていたはずの、いや今でも死んでいるようには見えない同胞の遺体を前にシュテルンベルガーも神妙に構えている。彼は親衛隊独特の制帽を脱ぎ死者に対して頭をたれた。

「シュテルンベルガー君よ、これで俺の腹は決まった!当初は適当な寄港地で君を降ろして、任務から離れて、本来の大西洋作戦に向うつもりだったが、オレはオルフェウスを追うぞ!乗組員の仲間を4人も殺された。もう後には退けんのだ。最後まで付き合おう」とキュヒナーはギラギラした復讐に燃える目を彼に向けた。

 武装SS大尉は静かに頷き、制帽を被り直した。

 「みんな、別れはすんだか?では、中尉始めろ!」キュヒナーがUボートの8.8インチ装備砲より先、船首に近い甲板に整列させ、小銃を構えさせていた一隊に合図を送ると、彼らは海軍式の水葬の礼に(のっと)り空砲を3回夕焼けの空にむけて放った。

 甲板にいる士官、水兵は一斉に敬礼をする中、係の人間が遺体を一人ずつていねいに波間に浮かべていく。四つの真新しい遺体は波間に揺れ、それぞれが海神に招かれるようにゆっくりと沈んでいった。

 シュテルンベルガーも敬礼するが、周囲の水兵は首を傾げている。本来なら親衛隊の彼は、ナチス式の肘を曲げずに片手を高々と掲げる敬礼をするはずであるが、そうではなく海軍式の敬礼をしていたからだった。

「……いいのかい?」キュヒナーがSS大尉に尋ねると

「……”郷に入ったら郷に従え”ですよ。Uボートではナチス式敬礼は似合いませんし、わたしも同じ釜の飯を食った同胞に敬意を表したいのです」と、シュテルンべルガーはあくまで海軍式敬礼を解こうとしなかった。それを見ていたキュヒナー艦長は

「そうか……。ありがとう」と、だけ言った。

 *                *                 *

 「レイス号が……撃沈された!?」オルフェウス号艦長クナイゼル中佐は、もはや、自力で発令所まで足を運ぶ事も叶わず、艦長室まで副長と次席士官を呼び寄せてからこれまでの経過報告を受けて、その結果に愕然としてしまった。

 艦長は自分専用の寝棚に腰をかけて、ナイトガウンをはおるようにして艦長専用のコート型の上着を肩からかけて、ぜいぜいと息をするのにも苦しそうなのが、二人の直属の部下から見てもはっきりとわかった。

「艦長、もはやストックホルムへの寄港は断念すべきかと小官は判断いたします」アレクサンデルが気を付けの姿勢で正面から目を逸らさないままで、意見具申した。

「何を根拠に?レイス号は不覚を取ったかもしれんが、未だにセプ(ハゲワシ)号、ツピク(ヤマネコ)号は健在であろう。彼らとの連携を考慮せよ……」ここまでいうと、艦長はまた咳き込み始めた。

「中佐殿、これはつい二時間前に傍受したスウェーデン政府の公式発表です。スウェーデン海軍は領海内に潜伏していた不審な潜水艦を拿捕、拘留したと……これが恐らくはセプ号かと思われます」

「バカな!何の権限があって中立国がそこまでするのか!?」

「レイス号に限らず、我々も公海上ではドイツ空軍に追われて、バルト海対岸のスウェーデン近海まで来ると、彼らは必ず海防艦、コルベット艦を出動させ攻撃を仕掛けてきています。表立った同盟は表明してはいませんが、そうとうドイツには気を使っているように見受けられるのです」

 史実としてセプ号は、ドイツ空軍の空襲を受けたあと、ほうほうの態で中立国の領海に入るや否や、今度はスウェーデン海軍によってストックホルムにて艦と乗員の身柄は拘束されて、戦後に解放されるといった事例もあった。

「かの国での寄港はそのまま有無を言わさぬ抑留という事態を招きかねません。二度とこのオルフェウスが海に出ることは不可能になるでしょう」と、アレクサンデルは結んだ。

 前述のように対岸の火事の余波を迷惑と考えたこのスカンジナヴィアの王国は自分たちの領海近くに迷いこんだ艦船を、指揮系統が機能していない怪しい不審船、もしくは海賊まがいの連中として拿捕(だほ)したのだった。もちろんそんな事はおくびにも出さない。自国のシーレーン防衛と安全のための当然の行為といえばそれまでなのであるが。……これが、オルフェウスとポーランド海軍における彷徨(さまよ)える艦隊のいつわざる現実であった。

「……それと、クナイゼル中佐殿、この書類にサインを頂けないでしょうか?」続いて副長アレクサンデル・コヴァルスキィ少佐は艦長の目の前に頭を垂れて、うやうやしく一通の紙片を彼に手渡した。それを一読すると

「こ、これは反乱だ!」艦長は憤然と立ち上がった。

 アレクサンデルが艦長に手渡した書類は、指揮権移譲手続きの委任状であった。その書面には艦長が重病のためこれ以上の艦長としての責務を履行するは不可能であるが故に、速やかに副長に権限を移譲する旨の内容がタイプ打ちされて、連名としてアレクサンデル・コヴァルスキィ少佐を初めとする士官と下士官の署名があった。あとは艦長であるアレクセイ・クナイゼル中佐本人の署名が成されれば、手続きは完了。指揮権は副長に移り、アレクサンデル・コヴァルスキィ艦長が誕生することとなる。

「艦長、もはやそのお体の状態では艦の指揮を執るのは無理です。次の寄港地で下船され、陸上での療養が必要と考えます」と、言ったのは副長ではなく、艦の№3である次席士官のヤン・レヴァンドフスキィ大尉であった。彼は艦長の背中に手を回して病人を座らせた。

 信じられないといった顔でヤンを見るクナイゼル中佐にヤンは艦長を(なだ)めながら

「私もサインしました。副長の判断に従うべきと考えます。これ以降は全て我々にお任せ下さい」と、諭されると艦長は、これまでか、と首を振り

「やむを得んか」と、言ってからアレクサンデルに向けて

「子供たちはどうする?」……この質問には二人の部下は押し黙ってしまったが副長のほうが意を決するようにして

「あの子達は、我々と共にこのまま航海を続けます」と、彼なりの意見を述べると、また艦長は気持ちを(たか)ぶらせて

「あの”(めしい)の魔女”に(たぶら)かされおって!貴官はこの船を沈めるつもりか!」と、アレクサンデルを怒鳴りつけたが、そうするとまた胸の病魔が暴れ始めてもはや議論をつづけることも叶わなくなった。アレクサンデルは艦長室のすぐ後ろが子供たちが寝起きする士官室であることを気に掛けながら

「”(めしい)の魔女”とは、とんでもない!もうあの子達はこのオルフェウスの一員なんです」声のトーンが高くならないように注意しながら話した。

「ばかげておる!目を覚ます事だ!副長。あの子達が持っている物が何であるか私も知っている。あれが有る限りドイツ軍は執拗に追ってくるぞ!最悪の場合、子供たちはこの艦と共に深海に呑まれてしまうぞ。このことを私が考えていないと思ったか!彼らが生き残れる選択肢を(せば)めてはならない。あの子達は早期にこの船から降ろす事だ……彼らのためだ」

*                *                 *

 「気にすんなよ、お嬢。魔女だなんて誰も思ってないからな」こう言って、隣の艦長室から洩れ聞こえてきた中佐の言に、(うつむ)いてしまったマリアを励ましたのはこの船の下士官であり水兵の元締め役であるヴォイチェフ・グラジンスキィであった。

 士官室、”室”とはいってもそこにあるのは、折りたたみ式の簡易テーブルと寝棚併用のイスがあるだけで、造りは兵員室と大した変わりは無い。狭い艦内通路を挟んで反対側もやはり交代勤務用の寝棚が二段式に用意されているだけである。

 子供たちはいつも、仕事がない時、食事を採るときはいつもその簡易テーブルを囲んで寄り添って過ごしていた。このときも彼女たちは食事の片付けのあと、掌帆長が持ってきてくれたデザートのオレンジを受け取り、だいぶ痛んで、カビが生えてしまっている箇所をマリアとモニカが器用にナイフで削ぎ落としてから、皆に回していた。せっかちなレオン少年などは、自分の分のオレンジを手でカビを掻き落としては口に運んでいた。

「油臭ぇ……」レオンがぼそりといった。

 艦長の罵声にいたく傷ついて、手を止めてしまったマリアをよそに、一番年下の少女アンナは嬉々としていた。隣の大人たちの話だと、この女の子にとって一番の心配事であったストックホルム行きはどうやら無くなったらしかったからだ。

「ヴォイチェフのおじちゃん、アンナたちはまだこの”すいせんかん”に乗ってて好いんだよね?」と、訊ねるとグラジンスキィ掌帆長は破顔しながら

「潜水艦……な」と訂正してから、

「まぁしばらくはな。次の寄港地も決めなきゃならんしなぁ……。そろそろ補給も検討せにゃぁ」腕組みしながら天井を仰いだ。

 9月1日にドイツ軍の奇襲を受けて母港から脱出を果たしたオルフェウス号ではあったが、すでに出航してから2週間が過ぎようとしていた。

 クマ親父の愛称で呼ばれる彼がその巨体で上を向くと、その鼻先が狭い潜水艦内の天井部に走るパイプ類に鼻がくっつきそうだ。

「ほらよ!ガキ共。最後のパンケーキだ。ありがたく食え!」と、何の前触れもなく彼の背後から現われた水兵ヤコブ・マズゥールが家畜にエサをやるようにして、アルミ製の大皿を乱暴にテーブルの上に放ってよこした。ガシャンという音とともに主計長のイノシシ親父ことダミアン・ヴィチェクが残り少なくなってきた材料を工面して、作ってくれた2、3枚のせんべいのような薄いパンケーキが、皿からこぼれ落ちてしまった。

 マリアが声のする方向を睨みつけた。とは言え彼女にはヤコブという人間の顔つきを判別することは叶わないことでもあった。

「なんだよ!おれはなぁお前らの召使いじゃねえんだ!役立たずどもに”おやつ”なんざ贅沢(ぜいたく)だぜ」と、子供たちに向って悪口をはき捨てた。さらにヤコブは近寄ってきてマリアの金髪の端を手に取ると

「おい、今まで何人の”お相手”してきた?フランツの手ほどきは済ませたんだろうが?」と、にやにやしながら彼女の髪の先をまさぐり自分の指先にからめはじめた。

 マリアは無言のまま、彼の手につかまれている自分の髪を引っ張り戻してそっぽを向いてしまった。

「マリアちゃんさあ、次の予約は誰なんだよ……ひっ!」ヤコブは自分の後頭部がやおら威圧的に鷲づかみにされて口をつぐんだが、時既に遅し……である。

「お前、おれの前でよくそんな事言えるよなあー!貴様みたいな奴を海軍の面汚しって言うんだよぉ!」と、グラジンスキィ掌帆長が強烈な平手打ちをヤコブの顔面に見舞い、彼は数メートル先の電気室の冷たい床に転がってから

「ちくしょう!戦う船に女なんか乗せるのは”(げん)”が悪いんだよ」と、昔からの迷信じみた捨て台詞を残して消えた。

その卑劣漢の背中に向けてアンナとモニカが一斉に”アッカンべー”をして、レオンはそいつに左手の中指を立ててやった。

「マリア……気を悪くしないでくれ!アイツは俺が締めておく!俺をはじめほとんどの連中は君がUボートからこの艦を救ってくれたと、魔女なんかじゃない!幸運の女神様が来たと思っている。…ホントだ」このグラジンスキィ掌帆長の言葉にもマリアは目を伏せたままかすかに頷くのみ。

「ヴォイチェフさん、あの野郎をタコ殴りにする時は、オレも混ざっていい?」レオンが言うのをクマ親父は首を振って身振りで”関わるな”と示した時、また彼の背後から

「おい!二代目と番頭に報せてくれ!左舷側エンジンを止めなきゃならん!忌々(ゆゆ)しき事態が出来(しゅったい)したぞ」と、ここに飛び込んできたのは、機関長のヤロスロフ・ハスハーゲンだった。

 「昨日の海底への軟着陸が原因かはわからんが、とにかく左舷側のエンジンとモーターの連結部が完全にいかれた!一度、どこぞの港に入って分解修理が必要だ」この報告には、発令所に集った士官たちは困惑顔を付き合わせることしかできなかった。

 代表でアレクサンデルが対応策を聞くと、機関長の提案ではとにかく寄港地を捜してドック入りすることが先決。それまでは昼間も夜も右舷側エンジンをフル稼働させて、バッテリーへの充電を行なう事、夜間での浮上航行ではモーターのみ使用するしかないとの事だった。

 アレクサンデルと航海長のレフ・パイセッキーは航海図を覗き込み、自分たちの推定位置を割り出しては一番最寄の寄港地を探し出すのに目を皿のようにしていた。9月13日午後におけるオルフェウス号の現在位置は、ストックホルムの東の海上約120海里にあって針路をヨーロッパ大陸の方角に向けていた。とにかくスウェーデンの領海から離れることを念頭においた避退コースを採っていたのだ。

 この時点においては未だにドイツのUボートの追跡を完全に振り切ったという確証があるわけではない。

 寄港するにしても艦長を下船させて療養させる事が絶対条件であり、加えて今度は十分な修理施設をもった港に入港させねばならないのだ。しかも昼間は潜航して海底に潜み、日が暮れた頃に浮き上がり片肺のエンジンで充電しつつモーター航走で、微々たる距離をかせぐ事しかできない。

「ハーグ協定を盾にとって、交戦国同士の権限を活用して中立国での協力を得るしかない……。と、なると行き先は、ここしかないわけだ」アレクサンデルが海図上のある一点を指し示した。

 1939年においてはソ連邦の衛星国となっているエストニア共和国の首都タリンであった。バルト三国の最も北に位置してフィンランド湾を挟んで反対側には、森と湖の国フィンランドの首都ヘルシンキがあり、その湾内の一番奥にはソビエト連邦、第二の都市レニングラード(現サンクト・ペテルブルグ)が(いにしえ)のモスクワ大公国時代からの威容を誇っていた。

 このタリンという港湾都市はレーニンとボルシェビキによる革命前まではロシア帝国下でレーウェリとも呼ばれていた。第一次世界大戦時には、ロシア帝国の海軍基地があり旧式の装備ではあったが、潜水戦隊も配属されていた。当然ながら、大国ロシアの玄関口の役目を担うこの都市にはヨーロッパ各国の領事館、オランダ、イギリスといった海運業に携わる造船企業の事務所も19世紀から多数存在していた。

「現時点で、タリンまでどれくらいかかるか?」この副長の問いに

「正直、到着予定日としては18日以降になるな……」と、機関長。

「真水と食料は?」

「いっぱいいっぱいって所です……」これは航海長で補給担当も兼ねるパイセッキー中尉。

 兵員と子供たちの食料が限界ギリギリでの寄港となる。この事実にアレクサンデルとヤンは深い溜め息をついた。

 それでもかの地に向うしかなかった。選択の余地がないのは誰もが承知していた。

 「エストニアだってよ……。ロシア、いやソビエトだっけな、レニングラードって言う大都会が目と鼻の先なんだぜ」

いつもの聴音室にあってマリアの隣に座しているフランツが膝を抱えながら楽しげに語りかけている。彼もストックホルムで、マリアと別れずにすむこととなって少々浮かれている様子だった。夕刻の6時をまわり、マリアは日中の当直を終え、フランツとの勤務交代を控えていた。本来ならこの場では担当者同士が仕事の引継ぎと連絡事項を取り合う時間であるはずなのであるが、若い二人、とりわけ18歳のフランツにしてみればちょっとしたデート気分を味わえる瞬間でもあったのだが

「……発令所へ。全方位異常なし」マリアはフランツの存在なぞ無いかのように振舞い、素っ気無い定時報告を発令所へ送った。

「何だよぉつんけんするなよ」もうこの艦内で誰よりもマリアと近しい関係を持ったと自負していたこの少年は、彼女にすり寄り、方位ハンドルを握るマリアの手に自分のそれをさも当然であるかのように重ねた。

「いやっ!」すげなく彼の手を払いのけて、身を隔壁の奥へと逃げるように下がるマリア。

「アンナとモニカが待ってるから……ゴメン」スッと立ち上がりもう自分の近辺の部署の位置関係を把握しているマリアは誰の手も借りずにフランツの前を通り抜けようとした。

 フランツはいきなり彼女の手を引っ張り、自分の膝の上に抱き寄せてあの時と同じ事をしようとした。

「止めてっ!大声出すよっ」

「どうしたんだよぉ……あれは嘘かよ!」二人は狭い部署の中で、互いに周囲に気を配りながら(ささや)きあってから、マリアは彼の視線を肌で感じて視界をズラすが、それに構わずフランツは頬を寄せてきた。

「イヤだったら!あたしは誰の相手もしない!あんたの手ほどきなんかしていない!」マリアはそう言うとフランツを乱暴に突き放して通路側へ逃れた。

「何だァ?それっ……面倒くせぇなぁ……いいよもうっ!」フランツのこの言を最後に二人は言葉を交わすことなく、それぞれの持ち場に帰ったのだった。マリアは兄妹たちの下へ。フランツは彼女の背中に当てつける様に大声で

「ヴァノック一等兵曹、当直に就きます!」と、発令所に交代を告げた。

 その後の数日は二人は会話らしい会話を交わすことなく過ごしたのだ。そしてオルフェウス号は運命の9月17日を洋上で迎える事となった。

 その日の早朝、オルフェウス号はモーターをフルに稼動させてエストニアのタリンへ向けて、浮上したままで航行中であった。何とかだましだましで10ノットを維持しながら夜通し白波を舳先から立てながら航走を続けてきた結果、あと1日で目的の寄港地タリンに入港できる距離まで来てから、通信士がドイツ軍に攻囲されているワルシャワから流れてくるラジオ放送の傍受に成功したのだ。

 ドイツ軍による侵攻を受けてから、イグナツィ・モシチツキ大統領率いるポーランド政府の閣僚陣とシミグウィ元帥のポーランド軍最高司令部は首都ワルシャワを離れて東南部の要衝、ブジェシチ市を中心にドイツ軍への長期防衛戦の準備に取り掛かっていた。

 9月17日の時点ではポーランド軍の当初に計画された防衛線はすでに西部方面においては崩壊の一途をたどった。政府閣僚と軍上層部の唯一の望みはルーマニア橋頭堡と呼ばれた東南部まで全軍を後退させて態勢を立て直すことにあったが、その望みはこの日突然に断たれることとなった。

 ポーランドと東の国境を接するソ連、ソヴィエト社会主義共和国連邦の赤軍が兵力80万を擁して、コヴァリョフ将軍旗下のベラルーシ(白ロシア)方面軍とティモシェンコ将軍率いるウクライナ方面軍が2方向から非戦闘区域であった東部国境地帯に侵攻を開始したのであった。

 この驚愕の事実に対してワルシャワ放送局のアナウンスはソ連を舌鋒(ぜっぽう)鋭く非難して、声も高々に東部方面での抗戦をも断固行なうべしとの声明を発表したが、発言の端々には悲壮感が漂い、聞く者の心中には絶望感が頭をもたげて、焦燥感ばかりが(つの)るのみであった。

 ソ連はポーランドへの出兵の理由を、ポーランドに支配されている西ウクライナ地方とベラルーシの人民を解放するためであると表明したが、その実は独ソ不可侵条約に付記された秘密協定に基づいた、(あらかじ)めドイツ側とのポーランドを東西に分割統治しようとの共同侵攻計画であった。

 西のヒトラーと東のスターリン(鉄の男を意味する俗称)、20世紀に登場した二人の独裁者による共同謀議によって、中欧の大国の運命は決したと言えた。ポーランドという国は10月を待たずして、歴史上何度目かの地図上から姿を消してしまう事態を迎える事となるのである。

「オレ達が連中に何をしたって言うんだよ!」と、言ってから自分の制帽を憤懣(ふんまん)やるかたなく通信士の前の無線機に叩きつけたのはヤン・レヴァンドフスキィ大尉だった。それを合図にしたかのように今まで押し黙ってラジオ放送を聞き及んでいた、士官、下士官、水兵らが発令所を初め、艦内各所で騒ぎ始めた。

「もういい!おれたちの戦争は終わったんだ」、「オレは故郷へ帰りたい……。どうせ死ぬなら」、

「降伏しよう。タリンで武装解除して保護を求めよう」との声が上がる一方で

「まだ、終わったわけじゃない!徹底抗戦しろ」、「イギリス本土では亡命ポーランド政府が樹立される見込みだ!合流しよう」、「死ぬのはまだ早い。ドイツとロシア人どもを追っ払って祖国を取り戻せ!黙ったら本当の負けだぞ」と、気勢を上げる連中もいた。

 兵員食堂、兵員室、発令所等では今後の自分たちの身の振り方についての議論が巻き起こっていた。ほぼ降伏派と逃亡抗戦派の勢力はほぼ拮抗(きっこう)して艦内を二分してしまっていたのである。

 この喧騒の中にあっても、子供たちが詰めている士官室だけは蚊帳(かや)の外におかれていた。

「マリア姉さん……。みんなどうしたの?怖い顔して何を話してるの?」と、アンナがマリアの膝の上に抱っこされたままで目だけを泳がせて遠くを見ているようにしている姉代わりの少女の顔を下から覗き込んだ。

「東のソ連邦って言う国の軍隊もドイツと一緒になってポーランドに攻めてきたのよ。それで海軍さんたちはこれからどうしたものか迷ってるの」マリアはアンナの頭を撫でながら判りやすく説明してあげたがアンナは

「戦争って……みんながよってたかって意地悪なことばっかりしてるね。バカみたいだ」と、言うのみ。

「そうね…アンナが一番わかってるね……」マリアはそう言うとアンナのおでこにキスをした。傍にいるモニカが手話でアンナにあることを伝えてから、マリアに訊ねろと促した。

「……モニカがね、私たちはタリンでこの船を降ろされちゃうのかって。あと、モニカはフィリプに自分の物語を教えてあげたんだって」

「どうだろう?私にもまだわからないのよ。モニカ。あなたはどうしたいの?」

モニカは自分の胸の前で手を忙しく動かしてはマリアには直接は伝わらないボディランゲージをアンナに伝えた。

「モニカもアンナといっしょでイギリスに行きたいんだってぇ」と、手話通訳のアンナが言うと

「そう……でもイギリスに行っても、天国みたいに素敵な場所じゃないんだろうけど……戦争はどこまでも追ってくる。結局、アンナのお父様やハックスリーさんはあの機械が戦争を止められるかもしれないって言ったけど間に合わなかった……。モニカはフィリプにキーワードを伝えたのね…じゃあ残りは私の『火の物語』をあの子に(さず)けるだけね」

「父ちゃんと母ちゃんはもう向こうに着いたのかなぁ?」アンナはそう言うと、マリアのふくよかなバストに顔を埋めてしばらく動かなくなった。

「大丈夫よ。ちゃんと会えるから……」ずっしりとした6歳の幼女の体重を膝に感じながら、14歳の姉というより母親代わりになってしまっているマリアは、アンナの背中を優しく擦ってやった。やがてアンナはまだ寝たりなかったのか、そのまま”くーくー”寝息を立て始めた。

「会えると……いいのだけれど」マリアはアンナの黒髪に頬を摺り寄せて呪文のようにつぶやきそっと目を閉じた。

*                *                 *

「全員、聞け!今後どうするかはともかく、先ずはタリンへの寄港が最優先だ!艦長を無事に療養所へ送り、この船の修理を完成させることに集中しろ!他のことは今は考えるな」

 議論百出し、収拾がつかなくなってきたこの状況に副長のアレクサンデルは部下達に目の前の仕事にのみ集中させて冷静に今後の事態の推移を見守ることに意識を振り分けさせることとした。

 降伏にせよ、抗戦にせよ艦体そのものに不調があって満足に動けないのでは行動の選択肢に無理が出てしまう。これは当然の選択であると言えよう。

「皆、不安で落ち着かないんだ!ここは方針をビシッと明らかにしてやるほうがいいんじゃないかと思うんだが」こう副長に苦言を呈してきたのは、次席士官のヤンである。

「分ってる!ああわかってるさぁ!」アレクサンデルが珍しく声を荒げるやいなや親友の制服の胸倉をつかんだ。ヤンはその手を掴み返して乱暴に振り払うと

「さあ、どうだかなぁ!お前はいざ決断せにゃならん時にはいつも煮え切らない態度をとる!」負けじとヤンも挑むように彼に詰め寄った。

 発令所のみならず、リーダー格である二人の対立に水密扉の向こう側でも空気がピンと張り詰めている様子が狭い艦内にムラ無く伝わっていった。

「お二人、今すぐ最善の策を……といっても情報も少ない。誰も彼も普通じゃいられんさ。まあここは落ち着こう……な」と、いって二人の間に入ったのはヴォイチェフ・グラジンスキィだった。

「おれたちの国が、故郷が消えようとしてんだぞぉ!正気でいられるかよぉーっ!」今度はグラジンスキィに食って掛かるヤン。どうにも歯止めが利かなくなってしまっている若い士官に他の乗組員も戸惑い、中には自分も暴れたくってしょうがない連中も発令所に押しかけてきた。

 まさに艦内で乱闘騒ぎになるかと思われた時にアレクサンデルが

「ヤン……、下を見ろ。みっともないぜ、なぁ」と、いいその場でしゃがみこんだ。

ヤンは自分の制服の端をつかんでいるアンナの存在に気がついた。彼女は涙をぽろぽろ流し、鼻水まで垂れ流したまま右手でヤンの制服を、左手でアレクサンデルの制服の端っこをしっかりと握って、かすかに”ひゃーひゃー”と鼻と喉を鳴らして佇んでいたのだった。

 アンナは首を振り振り、鼻水をすすり上げながら二人を交互に見上げていた。ヤンは気まずそうに制帽を脱ぎ頭をかきながら

「……悪かったよ」と、言った後にアレクサンデルに抱き上げられた彼女の背中に軽く手を添えた。

「アンナは…喧嘩はいやです。父ちゃん……父ちゃんは怒鳴っちゃダメです……」

 アンナは大好きなアレクサンデルの事を”父ちゃん”と呼び始めてから首っ玉にしがみついた。

「大丈夫。喧嘩は終わりだよ。アンナ……父ちゃんって…なんで?」と、聞き返すアレクサンデルであったがアンナはいやいやと首を振るばかり。

「良かったな、オレク。君はチーフ・オレクから”父ちゃん”に昇格だ」ヤンがそう言うと、発令所で笑いが起きた。ここに集った乗組員の間の刺々しい雰囲気が、すーっと消えうせていった。

「みんな、持ち場へ戻れ!当直の見張り員は艦橋へ」この号令で、三々五々に皆は自分の部署に戻っていき、いつもの様に航海が始まったように見受けられたが、アレクサンデルの耳には

「冗談じゃねぇ」とか「オレは降りる」といった、誰かが発した不穏な発言も入ってきていた。

 一旦は収まりかけたかに思えた、艦内の不穏な空気と乗組員の動揺、不満は、別の形を採って子供たちにとりわけマリアに降りかかった。

 マリアはその日の晩に何者かに襲われたのだった。



 

 

 


 

 


 

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