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オルフェウス号の伝説  作者: 梶 一誠
1/22

運命の開戦

第二次世界大戦勃発の際に史実としてポーランド海軍の潜水艦オーゼル号が様々な攻撃と妨害を乗り越えてバルト海を脱出、イギリスへ向けて脱出を成功させたエピソードを基にしてオルフェウス号とハンディキャップを負った子供たちの脱出行として構成したオリジナル長編小説です。

第二次世界大戦の時代背景を基に、潜水艦を舞台にした冒険小説として時代に翻弄されながらも逞しく生きていこうとする子供たちと、そんな姿に引込まれ奮闘する潜水艦の大人たちの活躍を余すところなく、ヘタクソでも最後まで書き上げていきたいと思います。お付き合い頂ければこの上ない喜びでございます。どうぞよろしくお願いいたします。

「しかし、見事にやられたものだなぁ……」

アレクサンデル・コヴァルスキ少佐は首から下げている双眼鏡を覗いて、未だに橙色(だいだいいろ)の炎に包まれている内陸部の市街地とその方向から止めどなく流れくる黒煙におおわれているグジニャ港周辺の様子を垣間見てからひとり言を呟いていた。

 グジニャという港町は(いにしえ)のローマ帝国時代から中央ヨーロッパのバルト海沿岸にあって稀有な美しさと荘重な歴史を誇る港湾都市グダンスク(ドイツ名ダンツィヒ)の西方に位置する二〇世紀になってから新に整備された新興の港湾都市である。

 今、彼の視界には、つい昨日までは自分がポーランド海軍に入隊してから第二の故郷として生活し、軍務に精励して、慣れ親しんできた活気に満ちた港町の破壊しつくされた姿があった。

 林立していた起重機群、血管のように港湾内に張り巡らされていた鉄道機関とその車両、海軍基地の司令部が入っていた近代的な三階建てのビルといった基地関連の施設、そして軍用、民間を問わず停泊していた貨物船、燃料用タンカーなどと言った船舶の(ことごと)くが、この日の早朝、突如飛来したドイツ空軍の急降下爆撃機の目標にされた。

「副長、(もや)い解けました。出港準備完了です。……クソッ!とうとうやりやがったな。ドイツ野郎共め!」

 アレクサンデルを副長と呼んだ、彼より少し小柄で体躯の横幅が張っている男が、階下の司令塔から、屋根のない吹き抜けの艦橋に上がってきて、吐き捨てるように空襲した連中を(なじ)った。

「ご苦労。それとヤン、艦長は?」アレクサンデルが双眼鏡を降ろして、細面で金髪、碧い目の容貌を次席士官ヤン・レヴァンドフスキィ大尉に向けた。

「クナイゼル中佐殿は艦長室に。…少し辛そうです。しばらく指揮を頼むと仰ってました」

 ここにいない上官の様子を聞き及んでアレクサンデルは目を伏せた。

「ついてないお人だ。あと二週間もすれば後任が決まって、入院する予定だったのにな……。了解した。07:20(ゼロナナ・フタマル)、オルフェウス号は出港。予定通りグダンスク湾西方のポイントで対ドイツ海軍への哨戒、機雷敷設を行なう。全員への訓示は今回は艦内放送にする」

「了解しました。副長」そう云った敬礼したヤンはアレクサンデルの格好を見てから相好を崩して

「オレク、(ほこり)だらけじゃないかよ」と彼を士官学校時代からの綽名で呼んだヤンは、己が親友と同時に上官でもあるアレクサンデルの身体を、云うが早いか自分の制帽で副長の濃紺色の海軍士官用の制服に(まと)わりついている白っぽい土くれの(かす)を払い落とす。彼の周囲に埃の煙幕が立ち上った。

「ヤン、貴官こそひどいもんだぞ」二人は互いの制帽で、自分たちの潜水艦に乗り組む前、空襲が激しく行なわれている最中に防空壕代わりに退避した貨車の下で(こうむ)った物を払いあった。

 1939年9月1日。ポーランドと西の国境を接する独裁者アドルフ・ヒトラー総統に率いられたナチスドイツは『(ブラウ)作戦』を払暁の4時45分に発動させた。

 全世界を第二次世界大戦という7年間に渡る未曾有(みぞう)の大戦争に巻き込んだナチスは、その緒戦における生け贄として選んだ中欧の大国ポーランドに対しこの日の早朝、国境付近に集結させていたドイツ陸軍の機甲部隊を一斉に各方面から投入した。

 後世に、”電撃戦(ブリッツ・クリーク)”と称され、展開させる自軍の陸上部隊の先駆けとして空軍による支援攻撃を行なうこの戦術は、その成果を現実の物として侵攻するドイツ軍に享受させた。

 ドイツ空軍は各方面に展開するはずであろうポーランド軍の空軍、陸軍基地を始めワルシャワ、クラカウ、ポズナニといった内陸の都市部、そして海軍基地のあるここグジニャにも徹底した爆撃を敢行した。

 現時点から一時間ほど前にグジニャの空にはJu87急降下爆撃機(ユンカース・スツーカ)の数十機が飛来。その腹に抱えてきた有り難くもないお荷物を降り注いでいった。

 更にグジニャと隣接しているグダンスク市(開戦時の段階では、国際連盟保護下の自由都市としてドイツからは切り離されていた。)郊外のヴェステルプラッテにあるポーランド軍施設に対しては、同市の友好訪問を名目に停泊していたドイツ海軍の旧式戦艦シュレスヴィヒ・ホルシュタインが、作戦発動の時刻から主砲による艦砲射撃を行なっていた。

 「いずれはやって来ると覚悟はしていたつもりだったが、いざ起きてみるとこうも(もろ)いものとはな」アレクサンデルがこう云った直後に、自分の位置からは見えない港湾部の奥、市街地に近い区画辺りから、空気を響かせる爆発に伴う大音響が届いた。音のする方角からはまた新たに火炎を伴った黒々としたきのこ雲が、雲ひとつない晴れわたった青空に昇っていく。

「機関長、両舷前進微速。航海長へ、針路左10度!」ヤン・レヴァンドフスキィ大尉が艦橋に備え付けてある伝声管で階下の発令所に向けて下令した。

「最後に残ったのは俺たちだけか……」

「ええ、他の連中も出港できましたよ。ついてましたね。潜水戦隊は基地の一番はずれに係留されてましたから……ドイツ空軍の罰当たり共もここまでは手が回らなかったみたいですな」

「そうともかぎらんぜ。第二波の爆撃は予定されているはずだ。次はオレ達の番になるだろう!早いところ逃げ出すしか今は手がない!」

「……でしょうね。ああ…オレ達のグジニャの街がぁ」とヤンは悔しげに呻くと司令塔の縁を何度も自分の拳でたたいた。

「ヤン、機関員と操舵員以外は全員を乾舷(かんげん)に上げろ。この光景を見せて皆の記憶に焼き付かせておくんだ。これが間違いなく現実だと……戦争が始まっていることを報せておこう」

「賛成です。乗組員全員に腹を(くく)らせましょう」

 ポーランド海軍がオランダに発注した、その海軍が誇る最新鋭艦として建造されたО-19型とほぼ姉妹艦にあたるオーゼル級潜水艦の六番艦であるオルフェウス号は浮上航行で、波一つない穏やかな海面を進んでいく。

 このオーゼル級潜水艦は全部で六隻が就航していた。潜水艦先進国であるドイツのUボートⅦC型、イギリスのS級、フランスのルカン級にも引けをとらない。

 オランダはフェイエノールト・ロッテルダム造船所で建造された第一線級の長期哨戒航行を目的に設計された優秀な艦である。陸軍最優先の国情にあって、ポーランド海軍上層部としては奮発したほうだと言えるだろう。

 姉妹艦はセプ(ハゲワシ)号、ツピク(ヤマネコ)号、レイス(オオヤマネコ)号、ヴィルク(オオカミ)号、オーゼル(ワシ)号である。これらの僚艦はオルフェウス号同様に爆撃の難を逃れ、いち早く担当哨戒海域へ向けて出港していった。

 ポーランド海軍にあって唯一の潜水艦戦隊、その一翼を(にな)うべく竣工されたオルフェウス号。そのダークグレーの軍艦色に彩色されている船体上の前と後にある水密ハッチを開けて、中から水兵、下士官たちが細い乾舷にぞろぞろと姿を現した。

 皆、若い。ほとんどが20代で10代後半の者も中にはいる。今年で32歳の副長アレクサンデル・コヴァルスキ少佐と30歳になったばかりのヤン・レヴァンドフスキィ大尉などは古参に入ってしまうほどである。

 総勢40名に近い人員が、全長80メートル、全幅7メートルの潜水艦オルフェウス号の上空から見れば鉛筆のように細長い船体の上部構造物に居並んだ。

 全員が無言で自分たちの街が無惨に焼かれているのを目の当たりにしていた。消防車両と救急車のサイレンが引っ切り無しに黒々とした煙が幾状も立ち上っている街中からここまでも聞こえてくる。

 港湾内では大型の貨客船、タンカー等の民間用船舶が右や左に大きく傾き、火炎と黒煙を上げながらもなんとか沈没はさせまいと消火活動に必死になっている船員たちの姿もあちこちで見受けられた。

「おい!あれを!」集っている水兵、兵曹の誰かが水面に浮かぶ麻袋みたいな貨物船から(こぼ)れ落ちた積荷らしき物を指差している。それは微速航行中のオルフェウス号の近くまで流れきていた。

 それは人間だった。こと切れてしまった不運な船員と思しき男性の遺体がうつ伏せの状態で浮かんでいたのだった。よく目が慣れてくると同じような状態の遺体が幾つも……。

 皆は息を呑みやがて誰が始めた訳でもなく、被っている略帽を脱いで、頭を垂れる者。目をつむり、しきりに自分の顔の前で十字を切る者もいる。

「俺たちの空軍は何やっていやがるんだ!」乗組員の誰かが憤懣(ふんまん)やるかたなく、目の前の惨状と煙と炎に包まれていっこうに火の手が治まる様子のない光景に苛立って声を挙げた。

 この日、オルフェウス号は二週間に及ぶバルト海におけるポーランド領海内の哨戒任務に就く予定であった。

 何事も無ければ今頃は全員がグジニャ港の桟橋に整列して、艦長の訓示やら、基地司令官からの激励等の型式ばった出港の手順を踏んで、軍楽隊による(おごそ)かな国歌の伴奏と見送りの市民たち、その大半は水兵たちへの義理と営業で顔を出してくれた”お店の女の子達”が花を投げてくれるはずであったのに、どうであろうか。今、彼らを送り出してくれているのは、軍楽隊の音楽の代わりに市街地と港湾内部から挙がっている火の手と何度となく繰り返される爆発音であり、女たちが投げて寄こしてくれる(かぐわ)しい花の香りの代わりに、沖合いに向けて航走する潜水艦にまで到達してくる油臭い黒煙と鼻の周りにまとわりつく白っぽい埃のみである。

「全員、間に合ったのか?掌帆長!」アレクサンデルが船体の中央に位置する一段高い司令塔上から、下のデッキに(たむろ)している水兵達の中で、がっしりした体型が目を引く人物に呼びかけた。

 水兵の訓練と指揮全般に責任を持つ掌帆長(しょうはんちょう)と言う役職にある下士官、ヴォイチェフ・グラジンスキィは、水兵と兵曹連中から”クマ親父”と呼ばれている。

 その体型を揶揄(やゆ)されているのでは無い。うっそうとした深い森の中で圧倒的な力を持ち、地上における最強の生物に属する陸の王者を標榜しての物で、水兵を束ねる親分的存在のグラジンスキィ掌帆長(しょうはんちょう)に逆らえる水兵なぞこの艦にはいないのだ。

 (なるほど、クマが二本足で立って、海軍の制服を着るとああいう風に見えるのかな)アレクサンデルはこの頼もしい下士官が意外にもキビキビとした動きで応対するのを見るのが好きだった。

「いえ、三名の水兵が確認できておりません。残念ながら……、あの中に」グラジンスキィは目線を遠ざかりつつある陸地の方を見やった。出港に間に合わなかったその三名は逃亡、怠惰による任務不履行と言うわけではなく、空襲によって怪我を負ったか、あるいは鬼籍に入ってしまったことは想像に難くない。

 直立不動の姿勢のまま司令塔を見上げている掌帆長に”了解”の意味で手を上げて答えた副長は脇に控えている次席士官に首を振り

「未帰還三名か…。痛いな」と呟いた。

 これからは戦時任務となると一人でも多くの人手がいる。早くもシフトに空いた穴の調整に腐心しなければならなかった。だが、ヤン・レヴァンドフスキィ大尉が

「大丈夫!何とかなる」と少し心配性ですぐ暗い顔をするヨーロッパ系でほりの深い顔つきのアレクサンデルに、アジア系によく見られる丸顔に屈託の無い笑顔を向けた。

 アレクサンデルも彼につられて笑顔を返した。ヤンは陸地の沿岸地域を背にして、司令塔の縁に体を預けている。更にその遠方に見える青々とした山並の上空に”チカッ”と何かが光ったようにアレクサンデルは感じて、ほぼ反射的に双眼鏡をその方向に向けた。

警報(アラートッ)ーッ!」出し抜けにアレクサンデルは腹の底からの大声を上げた。

 いつもの訓練の賜物か。この号令を聞いた乗組員全員が一斉に行動を開始、皆が飛び降りようにしてハッチ内に消えていく。

「急げぇ!潜航用意!モーター切り替え、両舷前進全速ッ!」警報の号令を受けたヤンが司令塔上の艦橋の伝声管に(わめ)く。船体上に残っている水兵たちが残り数名になった時に、オルフェウス号の頭上から”ダガガガッ!”と連続する機銃音が鳴り響いて、潜水艦の進行方向に沿って勢いよく水柱が幾つも挙がった。その後に航空機のエンジン音が辺りの空気を切り裂くように伝播し、艦橋に残っている士官二人の頭上を一機の戦闘機が飛び退(すさ)った。先刻、空襲に来たユンカース・スツーカ爆撃機ではない。

 それは空襲の第二波に向けての偵察に来た、引込み脚式の流麗な機体を(ひるがえ)らせている、全金属製、低翼単葉型のBf-109(メッサーシュミット)E型単座戦闘機であった。第一波は港湾部の重要施設を中心に。そしてこれから行なわれる第二波の空襲では、取りこぼした艦艇群に対しての攻撃が予定されていた。このメッサーは目ぼしい獲物が残っているか事前に確認しに来たらしかった。

 オルフェウス号の司令塔からは淡いライトブルーで塗装された機体の下面とそして主翼下部の両端には白地に黒の鉄十字マークが見える。

 戦闘機は一度、大きく旋回してから今一度、銃撃を加えんと接近して来る。コクピット内のパイロットの表情まで読み取れそうだ。

「クソッタレがぁー。墜ちろぉ!バッカ野郎」ヤンが拳を振り上げて、戦闘機相手に喧嘩を売っている。それに応えて、Bf-109は再度、機銃掃射をお見舞いしてきた。シルエットの細い潜水艦相手では勝手が違うのか、今度の射撃もオルフェウス周辺の海面を叩いただけだった。

「ヤーン!構うなぁ。来い!潜航するぞ」アレクサンデルは興奮しているヤンの首根っこを引っ掴んで、自分の足下にある司令塔に通ずる水密ハッチに押し込み、

「済まない!必ず戻ってくるぞ。仇は取ってやるからな!急速潜航!」水密ハッチの蓋に手を掛けながらアレクサンデル・コヴァルスキ少佐は燃え盛る自分の街を一瞥してこう云ってから、自分も足から下に向けて飛び込んだ。

「深度20へ。針路、取り舵45度」頭上のハッチを閉じながら号令するアレクサンデル。

「とーりかーじ。45度よーそろー」操舵員が復唱。

「両舷前進半速。」

「舵中央、よーそろー」

 ポーランド海軍の潜水艦オルフェウス号はグダンスク湾内に向けて針路を取り、その姿を海中に潜ませた。三度目の機銃掃射を加えようとしたメッサーシュミットは目標をロストすると機首を廻らせて内陸部の方へ消えていった。


 全世界が驚愕し、ある者は”やはりやったか!”と膝を打ち、ある者は”(おそ)れ多い。神をも恐れぬか”と己が眉間に皺を寄せ、ドイツ軍による攻勢が現実となり恐怖と不安に多くの人々が(おのの)いたこの日。

 その早朝から表敬訪問の形式で客人としてまねかれていたはずの軍艦から砲撃を受け、戦争勃発の洗礼を一身に受ける形となった国際連盟保護下の自由都市ダンツィヒことグダンスク市では、夜半になっても混乱が続いていた。

 奸智(かんち)に長けたドイツ軍は、この日に向けて同市に秘かに潜入させていた親衛隊武装SSと旧式戦艦シュレスヴィヒ・ホルシュタインの海軍陸戦隊を上陸させグダンスク市を制圧した。これに対してポーランドの守備隊はわずかな手勢で郊外のヴェステルプラッテにある郵便局の頑強な建物に篭城(ろうじょう)。抵抗を開始したが艦砲射撃とドイツ軍の物量には勝てず、7日間の激闘の末弾薬と医療品がつきたため降伏するに到るのだが、この夜半にはいまだ抵抗を続けていた。

 深夜にかかろうかとする時刻だと言うのにグダンスク市街を内陸の郊外へ抜け出る主だった街道には、脱出しようとする民間人が(あふ)れていた。皆、徒歩である。中には手押し車に目一杯の家財道具をつめ込んで押し歩く一家の姿や、着の身着のままでとぼとぼと歩く老夫妻、小さい子供の手を引いて途方に暮れた表情で歩いていく母親。これら逃亡を余儀なくされた民間人には共通する条件があった。その全てが非ドイツ系住民であるという事である。ポーランド系、カシューブ民族系、そしてユダヤ系住民たちはこの侵攻作戦が発動される以前から活動していたナチスに協力的な民族主義の傾向が著しい民兵組織と侵攻部隊からの迫害を逃れるためには、もはや、難民になる以外の選択肢はなかった。

 そんな難民たちが逼塞(ひっそく)している街道筋から少し離れて、海側の人気のない倉庫街の一画では、小銃を携えた民兵組織の一団が、二人の男を追いつめて身柄を拘束していた。

 拘束された男たちはつい先刻まで、錆付きすっかり色の()せたトラックで、民兵達が操縦する黒塗りのメルセデスから執拗(しつよう)に逃げ回っていたのだが、倉庫街まで来たところで遂に至近距離からの銃撃と進路を妨害されて、トラックはあえなく一段高くなっている歩道に乗り上げて自力走行できない状態になってしまった。それでも追跡を逃れんとしたのだが、それもはたせず彼らは、捕虜の兵隊のように自分の後頭部に両手を握らされ常に腕を上げている格好で古風な赤レンガの倉庫の壁を背に立たされていた。

 武装民兵は服装こそは地味で茶色か暗い灰色のジャケットに麻のシャツ、上着と同系色のパンツ姿で揃えてあるが、銃を構えて周囲を警戒する立ち姿や、徹底して訓練されたと思しきその無駄のない動きからは民兵という枠を飛び越えた”プロ”である事を(うかが)わせていた。民兵は全部で四人。

 その一団に立たされている二人の男の内、一人は細身で初老に見えるが毅然(きぜん)として民兵らしき連中と対峙している。もう一人は肌の浅黒いトルコ系のがっしりした体型、ヒゲ面の中年男だが、こちらは初老の人物とは対照的に目をふせて民兵達と目を合わせないようにしながら呆れるくらいおどおどして落ち着きがない。

「この人はもういいじゃないか。解放してあげなさい。運転手をたのんだけだよ」初老の男が一歩前に出て、隣のヒゲ面の男を(かば)うようにして民兵らの前で大きく両腕を広げていった。

「誰が手を下ろして好いといったぁ!」民兵の一人が声を荒げた。その声に素早く反応した民兵の二人が手持ちの小銃の銃把の部分で思いっきり初老の男の腹を強打した。

 声も無く打ちすえられた方は膝からその場に崩れ落ちる。中年男はかすかに悲鳴を上げて両の手を自分の後頭部辺りでしっかりにぎりなおした。

「神父様、協力願えませんか?夜もふけてまいりましたし、こんな荒事は私どもの本意でもありません。……立たせろ!」

 声をだして詰問しているのは民兵側ではただ一人。彼はピンと背筋を伸ばし手を後ろに組んで、轟然と足下に転がっている人間を見つめている。表情一つ変えずに。

 彼の後ろでは焚き火が起こされていて、手があいている一人があたっている。瓦礫の木材を利用して周囲を(はばか)らずに勢いのついた炎を背にしているこの男の表情はその影になって尋問される側からはよく見えない。

「もう分別のつく年だろうにあんな”ならず者共”に加担するとは。情けない若造だ!」神父と呼ばれた初老の男は両脇を抱えられながら立ち上がり、なおも顔から抵抗の色が失せないままでいた。

「もう一度聞きます。”彼”をどこに逃がしました?どこで(かくま)っている?それと……君の家族と生徒さんたちも一緒なんでしょう?”荷”は彼らが持っているのか?」

 無言の神父。

「ふむ……。仕方ないですねぇ……おい、それ取ってぇ」リーダー格の若者が後ろで焚き火に当たっている男に声をかけた。

 男は焚き火にくべてあった鉄の棒を炎の中から引っ張りだして、若者に”熱いっすよ”と一言注意してさして熱くない方を手渡しで握らせた。

「まだ九月なのに、夜になるとけっこう寒いんだものなぁ……。焚き火の世話になるとは、私の故郷ではまだ蛍がとんでいますよ」と若者は言ってから赤熱している鉄棒の先をじっと見つめた。

 そのほのかな灯りを受けて若者の顔が(うかが)いしれるようになった。年の頃なら24、5歳で金髪で端正な顔立ち。歓楽街を歩けば、何人もの女が営業ばかりでなく、自分の興味で寄ってきて取り合うになるくらいのいい男だ。身長はゆうに180センチを越えているようで、細身だがよく鍛えられているらしく肩幅はがっしりしている。まさにナチス党の言う優良なアーリア人種の見本のような男性であった。

「ユダヤ人の神父様がだんまりだから、止む無く彼に聞くとしますか…」民兵のリーダー格の若者はトルコ系の中年男に火箸を持って歩みよる。中年男は目をむいて火箸と若者の顔を交互に見ては首を激しく振るばかり。

「止めたまえ!彼は何も知らないんだぞ」神父が叫んだ。

「え?イヤですよぉ。ヨブ・コヴァルチェク神父様、我々アーリア人種は文明人ですよ……」こう云うと彼はあいている左手でジャケットの胸ポケットから煙草を取り出し、一本(くわ)えて火箸の先を使って火をつけた。

「まあ、君も一服つけたまえよ。手はそのままでな」若者は紫煙を吐き出しながら、中年男にも一本銜えさせると同じように火をつけてやった。

 トルコ系の中年男は手を後頭部で結んだまま、安心したように大きく煙草を吸って、勢いよく煙を吐き出した。これを合図にコヴァルチェク神父を除いた男たちが代わる代わる火箸をまわして一服つけ始めた。

「いや、あのさぁ、我々も仕事でやってるわけでね。”上”に報告入れなきゃならんのよ。拷問じみた真似なんか文明的じゃないし、本当はさぁこんな事したくはないのよ。やる方だってけっこうキツイのよ」若者は冷徹さをにじませたキリッとした顔立ちから一転、目を細めて地元の悪友達とつるんでる時みたいに目前の中年男に笑いかけてから、(しばら)く月明かりの夜空に紫煙を何度もはき出した。

「……これ以上暴力に訴えてもなぁ……効果なさそうだし。そうだ、こうしよう。どこで神父様の客人と家族を降ろしたかそれだけで好いぜ。後は他の部署の奴らにまかせてしまえばいいんだし。そうすれば解放するとしよう。大丈夫、約束だ」と云ったあと若者は

「コヴァルチェク神父にはまだお付き合い願いますがね。君はちゃんと仕事した訳で、もう義理は無いだろう?何処まで行ってきたんだい?」とトルコ系の中年男の顔をのぞき込む。

 ヒゲ面の男は若者の視線から逃れるように顔全体をそらせてから

「ア、アルメだよ……。親衛隊の旦那。トラックの荷台に怪我をしている男と子供五人、それと神父様の奥さんを乗せて昼頃に街を出たんだ……」と、神父の方を申し訳無さそうにチラチラ見ながら話しはじめた。

「バカ!止せ。解放するなんて話、真に受けるな!クリム!」初老の神父は忠告したがクリムと呼ばれた中年男の方は怯えきった目と表情だけを彼に向けて侘びを入れている。

「オーッ感謝(ダンケ)感謝(ダンケ)!物分りの好い人間は好きだよ!」というと若者は中年男の肩をポンポン叩いた。そしてさらに

「できればさぁ、何でここにわざわざ戻ってきたか。わけ聞かせてくれないか?」と訊ねた。

「船の手配がつかなかったんだ。だからオレが向こうに行っている間に神父様が話をつけてから、オレがまたアルメに送り届けることにしてあったんでさぁ……オレ、知ってるのここまでなんだ。ホントだよ旦那。勘弁してくださいやぁ」とここまで捲くし立てると首をうなだれてしまった。

 民兵のリーダー格と思しき若者はにこやかに何度も頷いてから

大丈夫だ(アレス・クラー)。帰っていいぜ、お疲れさんだ」と云って中年男の背中を軽く叩いてから立たせていた赤レンガの壁際から道路の方へ歩かせた。

「最後にさぁ、何でオレ達が親衛隊って分かった?」すれちがい様に若者は中年男に不気味な冷笑を浮かべながら聞いた。

「指輪ですよ。煙草をもらった時に見えたんですよ。銀製の髑髏(どくろ)の指輪は有名だから」そう言って中年男は海とは反対方向に歩き始めた。

「ほう。そりゃ大した観察眼だな……気をつけないといかんなぁ」そういうと若者は煙草を投げ捨てて、(おもむろ)にジャケットの内側に手を突っ込んだ。

「クリム!走れぇー。逃げろ」

 神父が叫んだと同時に、若者は焚き火の灯りで鈍色(にびいろ)に耀くモーゼル軍用拳銃をかまえ、

じゃあな(アウフヴィーダーゼン)!劣等人種」銃口を中年男の後頭部に向け顔をにや付かせながら引き金を引いた。乾いた火薬の破裂音というより、大型の(いしゆみ)を放った時のような”ドウンッ”という重低音が周囲の空気を振動させた。狙いは正確で後頭部を無惨に飛び散らせて中年男は声もあげずに前のめりに倒れた。

「余計な事を言うからだ!こういうのを同盟国である日本の(ことわざ)で、”(きじ)も鳴かずば撃たれまい”って云うんだそうですよ……さてユダヤの神父様、あなたにはチャーターした船名でも聞くとしましょうか」

「……そうやって国中を地獄に変えていくつもりかね?ナチス親衛隊の若造!」

「世界の新秩序と我ら民族の王道楽土を構築して……いや、止めましょう。あなたに講義なぞ無駄でしょうからね。さっさと聞きたいことだけ聞いて終わりにしましょう。おーい、車にアレあったでしょう。使ってみようよ、持ってきてくれるかなぁ…あと地図で『アルメ』ってどこだか調べておいてぇ」先程、火箸を持ってきた男に親衛隊の若者はにこやかに声をかけた。

「ハイ、大尉殿」男は小走りで自分たちが乗ってきたメルセデスのトランクから、銀色に光る筆箱程の大きさの金属製のケースを持ってきて、大尉殿に手渡した。そのあと男は一緒に抱えてきた地図を焚き火にかざしながらバルト海沿岸にあるであろう”アルメ”という地名の捜索を始めた。

「あ!…しまった。撃つ前にアルメってどこら辺かって聞けば良かったな……」そう云いながら私服姿の親衛隊SS大尉はトルコ系の中年男を撃ったときと同じ冷笑を絶えず浮かべながら、ケースから一本の注射器を取り出した。

「どれほどの物かね?これは……自白剤って聞いてきたけど。」

 SS大尉は両脇を抱えられている初老の神父の白髪まじりの黒髪をむんずとつかむと、彼の首筋がよく見えるように(ねじ)りあげた。

「ユダヤ人が神父様で、自分の教会区でドイツ人相手に偉そうに説教垂れるなんて、胸くそ悪いたりゃありゃしない!ユダヤ人は金勘定でもしていればいいのさ。聖書のみならず、本を手に子供らに先生面することなど大間違いだ!」彼はそういうとアイスピックで氷塊を叩き割るように注射器を初老の神父の首と肩の付け根あたりに針の根元まで勢いよく突きたてた。

 深夜の人気のない倉庫街の辻に悲鳴が木霊(こだま)する。

「聖書?…本を手に……先生面だと!私が貴様らの事が許せないのはな、いまだいたいけない少年達を焚付(たきつ)けてベルリンで堂々と”焚書(ふんしょ)”をやらせた事だ!次の世代をになう少年少女たちに嬉々として人類の叡智の結集である本を、その成果を炎の中に投げ入れさせたな!」痛みをこらえ、汗を額から噴出させながらも神父は大尉を睨みつけた。

「新たな文明と新世界には不必要なゴミですよ」

「……ある高名な哲学者が言ったそうだよ……。”本を焼くような人間はいずれ平気で人を焼くようになる”とな……。覚えておけ!優秀なアーリア人の若造……」この後、神父は目が虚ろで正気を失いただただ呆然として呻き声をあげ始めた。

「効きはじめましたね。さてと、質問する前に訂正を一つ。神父様がいわれた”本を焼く”云々(うんぬん)の談話を残したのは、我がドイツの詩人ハイネですよ!」

 初老のユダヤ人神父は呻く言葉の内容も、「アンナ……。ワーニャ…」と自分の家族と思しき個人名しか呟けなくなっていった。

 彼らの頭上にある下弦の月は、後世の歴史に開戦初日とし記述されたこの日の幕引きを、眼下の世界を(あまね)く平等に煌々(こうこう)と青白く照らすのみであった。

 

 

 

 


 

 

 

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