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岩石砂漠

作者: 宗谷薄暮

 私は砂漠にいた。訳があって砂漠にいたはずだが、その訳とやらはあまり覚えていなかった。とにかく私は砂漠にいて、とても困っていた。砂漠と言っても一面の砂の海を想起するような砂砂漠すなさばくではなく、地理学的な定義として年間降雨量が250mm以下の地域を指す砂漠の方で、もっと言えば私のいる砂漠は見渡す限り鈍い土色の岩肌の岩石砂漠だった。

 砂だろうが岩石だろうが砂漠に居るのは困る。私は砂漠にたった一人で、水も食料も持っていない。着慣れたTシャツと半パンにボロボロのスニーカーのみである。財布には日本円が僅かばかりあるが、ここでは何の役にも立たない。周りには街も人影もないし、丈の低い植物がまばらに生えてはいるが、動物の気配はない。このままだと確実な死を迎えることだろう。

 こんな時どうすればいいのだろうか? 全く検討もつかない。何と言っても私は典型的なインドア体質で、体はひ弱だしサバイバル知識もない。普段家で仕事をしているから、用事がなければ家にこもりきりである。そのせいで、医者から運動不足と体重不足を指摘されていた。

 それに、どこから来たのかはっきりしない。というのも、日本でないことは確かなこの砂漠がどこなのかすら分からない。今、太陽が頭の真上にあるから、回帰線の内側にいるのだろうが、経度までは分からない。今までに感じたことのないひどい暑さで、まだここに放り出されてから10分と経っていないのに、すでに弱々しくて白い肌に焼けるような痛みを感じ始めている。確実な死が私を歓迎しているようだった。

 どうしようもないこの状況を理解しきれてはいなかったが、このまま手を拱いていても仕方がないことは明らかなので、とりあえず一番近くに見える、膨らんだ餅のような奇妙な形をした小高い岩山を目指すことにした。一番近くと言っても、比較できるものがないので、10キロかそれ以上だろうか、正確な距離感までは分からなかった。何しろ今いるところは小さな岩の転がっている平野になっていたからだ。だが、その岩山は少なくとも百メートルぐらいの高さにはなるだろうから、そこから何か見えるかもしれないし、こちらからは隠れて見えないだけで何かあるかもしれない。あの岩山を目指す以外に解決策はないだろう。そう判断して私はゆっくりと歩き始めた。


 それから二時間ほどは、休み無く歩き続けた。暑い、疲れた、喉が渇いた。この三つの感覚だけが頭の中でぐるぐると渦巻き、増幅されて、脳が体に警告を発し続けた。その訴えを退ける理性はまだ残っていたが、絶望が汗とともに溢れ出ていた。喉の渇きを訴える口は、全身から絶え間なく吹き出す汗を再び体に取り戻そうとしたが、汗はすぐに蒸発して肌の表面に白い結晶が残るのみだった。

 それにしても一向に景色が変わらない。いや、それは流石に誇張表現であったが、実際のところ予想していた以上に目的地は遠かった。景色が変わらないのは代わり映えのしない岩場のせいでもあったし、やはり生き物の気配を感じられなかったからでもある。あの岩山まであとどのくらい歩けばいいのだろうか? 私の体はあそこにたどり着くまで持つのだろうか? そういった不安が何度も何度も姿を現そうとする度に拳を強く握った。手入れのなっていない爪を、親指の付け根辺りに食い込ませて正気を保とうとした。

 それから、道中に生えている名前のわからない草から、なんとか水分が取れないか試そうか考えた。幾つか採って手に持って歩いていると、触れていた部分が僅か数分でひどく赤く腫れ上がり、強い痛みを感じ始めた。どうやらこの種の植物を口に入れることは賢明でないようだ。今まで歩いた範囲ではその危険な植物しか見当たらなかったが、あの岩山の近くの植物の色が、この辺の緑より少し濃いことを発見した。あの植物が食べられるかは別にして、たどり着いても何も無いかもしれないという不安だけは消えた。同じペースで行けば三時間も歩けば着くだろう。今度の予測には何となく確信があった。しかし、その三時間という予測がもし正しいとしても、体力の限界が来ているのだから寧ろ絶望の方が大きかった。


 それから五時間、休み休み歩き続けた。同じペースで三時間という予測は間違っていなかったが、もうとっくに体力の限界を迎えていたため、歩みがひどく遅かった。靴擦れがひどく、一歩歩くのも必死だ。相変わらず頭の真上から太陽が覗き込んでいたが、七時間も太陽の位置の変わらないその不自然さに気がつく余裕もなかった。休憩のために腰を下ろすと、そのまま死んでしまってもいいや、と諦めたい願望が何度も湧き上がった。その願望が湧き上がるたびに跳ね除けたが、最後にはそのまま寝転んだままになった。そして、ほとんど諦めたようになって意味のない考えを巡らせた。

 そういえば私の人生は、この砂漠に来る前から本当はないようなものであった。飯を食うために働き、生きるために飯を食ったが、何のためにも生きていなかった。私の人生は、ここに来てしまえばどんな形をしていても何か変わるわけではなかった。あの膨らんだ餅のような形をした岩山が他のどんな形だったとしても、私があれを目指したのと同じことだ。そうして目指したところで生き残ることはできないというのに。

 私でなくとも、屈強なスポーツ選手だったとしても、莫大な富を持つ政治家だったとしても、大学の偉い教授だったとしても、ここで生き残る術は何もない。それは私が人間であり、ここは人間が生きるのに適さない環境であり、身一つでは人間の叡智など何の役にも立たない。その程度のことだ。

 しかし、どうして砂漠はありとあらゆる事象を無意味に変えてしまう怪物となるのだろうか。

 ここでは水という恵みは人を見捨て、人間性を奪った。

 ここでは太陽という道しるべは真上に居座って責任を放棄し、人の価値を奪った。

 ここでは植物は他の生物を追い払い、人を食わんと襲いかかった。

 砂漠で人は、存在していないも同然だった。

 そう言うことになればあの岩を目指すも目指さないも変わらないのだから、私は歩みを止めた。ゴツゴツとした岩の上に、横たわって空を見上げた。相変わらず太陽が頭上高くから見下ろしていたので、眩しくて目を閉じた。瞼で目を覆ってもまだ眩しかったので、腕で太陽の光を遮った。この世界の拒絶を受け入れると、さっきまで滞りなく湧き上がっていた憤りや絶望感、苦痛、死への恐怖が消えた。いや、消えたというのは語弊があって、それらを認めつつも再び自分自身について向き合う余裕が生じた。社会から完全に隔離されたこの瞬間に、私には私しか居なくなった。孤独から新しい孤独が連鎖的に生まれ、無限に広がっていった。

 それからようやく、何かに思い当たって瞼の裏を眺めてみた。すると、鈍く青白い光や、真白い円環が、ピカリと瞬いては消えるのが映った。目を瞑ってしまえば何も見えないはずの瞼の裏に、それとは違う現象を目にしていることに狼狽えた。それからもっと意識を向け、目を凝らすと、形容し難い影の世界がそこにあった。形はないが、()()が確かに存在していた。目をゴシゴシと擦っても、大きく見開いても、その影の世界は消えなかった。二つの目は太陽を遮る腕を確かに見ていたのだが、同時に影の世界も確かに見ていた。そして、最初から見えていたはずのこの影の世界が、現実の世界を見るために今まで消えてしまっていたのだということを悟った。今では気持ち悪いほど見えている()()は、考えてもいなかったために存在していなかった。私の意識的盲目が私の影の世界を奪っていたことを、今になって知った。

 それから腕をどけて、やおら立ち上がった。さっきまで寝ていた地面を振り返ると、私の影がピッタリ重なっていた。再び歩き始めた。歩くための体力はとうの昔に力尽きていたはずだったが、どうにかして歩いた。そして、あの餅の形をした小高い岩山を目前に迎えた。

 結局そこには何もなかった。登らなくても何も見えないことが明らかだった。この岩山以外、この砂漠には何もなかった。違う種類だと思った植物も、全く同じ種類のもので、違う色に見えたのはただの錯覚だった。それらの事実だけを見れば、現状を打開することができないと明らかだった。私はそれが重要なこととは考えず、そのまま岩山の麓で眠った。次に目が覚めることは無いはずだった。


 私が覚えているのはここまでで、目覚めた時には、私はあの砂漠ではなく、見慣れた、小汚く、とっ散らかった四畳半の部屋にいた。つまり、それまで砂漠にとって私は何者でもなかったが、最終的に砂漠が私の存在を認めたらしいということだった。

 こうして私は私のために起き上がり、寝間着を脱ぐよりも先に、錆びついた窓を開け放った。外の空気が颯爽と吹き込むと、忌々しい杉の花粉が流れ込むのが分かった。春らしい香りが微かに感じられた。

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― 新着の感想 ―
[良い点] とても面白かったです。 砂漠というのが、社会や現実世界の暴力性のメタファーなんですかね? とても印象に残る作品です。
[良い点] 世界観がリアルで主人公の行動、主人公におこる現象もひじょうに細かく描かれていました。 比喩表現な砂漠描写も人間世界の裏側を描いているようでどこか暗い感じではありますが幻想的でもあります。そ…
[良い点] 安部公房的な世界観。とても面白かったです。砂漠という無慈悲な存在の前でこそ、自己がむき出しになって現れるのかもしれない。考えさせられる作品でした。
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