プロローグ
チリン――。
ひろい暗闇が、鈴の音だけを木霊させる。
長く閉じていた目をふっと開ければ、神殿の奥にすでに〈ソレ〉はいた。
〈ソレ〉は、ボクが、ずっと拒んでいたモノで、ボクが、ずっと待ち望んでいたモノ。
〈ソレ〉は揺らめきながら、じっとボクを、みつめつづけた。
「ヤシロ、準備はよいな」
ボクの一歩後ろで、村長のかたい声が響いた。震える膝を叱咤し、立ち上がることでそれに応える。
儀式は、すでに始まっている。
ボクはずっと、この日が訪れなければいいと思っていた。けれど、この瞬間、高揚を抑えきれない自分がいることに、ボクは気付いていた。
〈ソレ〉を見つめていると、あの日のことを思い出す。それは神殿籠もりをしていた、三日前のこと。姉さまがふとボクに訊ねたのだ。
「ヤシロ、〈神〉って一体なにかしら」
いつも凛然としている姉さまにしては、覇気のない声だった。
何もかもがおかしくて、ボクは首をかしげた。
「姉さまが、もうすぐなるものでしょ」
それはボクらが、〈神〉と、〈侍童〉でなくなる瞬間にだけ、許される言葉づかいだった。
姉さまは、ふっと物哀しげに笑うと、「そうね。その時になれば、嫌でも分かるわね」と、こたえた。
がらんどうの石造りの神殿に、月明かりが滑りこみ、石床の端に積もる雪が、ぼうっと反射した。
明くる日からは、姉さまには、儀式に向けて常に神官が付き添う。
ボクも、姉さまの侍童として傍らにはいるけど、それでも、ただの双子の姉、弟として二人きりになれるのは、この夜が最後だった。以降、儀式までは、姉さまの周りから人が絶えることはない。
――だって、姉さまは、本物の〈神〉になるのだから。
姉さまは、産声をあげたその時から、〈神〉になることが決まっていた尊い人だった。だから、姉さまは民に神として振舞った。誰とも言葉を交わさず、誰とも目を合わせず、我らカナガナ〈星の民〉を平等に見守る象徴、万人のための存在となった。
それは、「同じ腹から出た身だから」という理由で、姉さまの侍童に選ばれたボクだって、例外ではなかった。
ふたりっきりの時、こうやって双子のようにしていても、姉さまが〈神〉として民の前に立てば、ボクは民といっしょ。姉さまが、自害しろ、といえばその場で腹を切らなければいけない者になる。
ボクらは、双子だ。
けれど、他人の前では、同じ血を持たなくなる、とても奇怪な関係だった。
でも、だからなんだというのだろう。
「人には、生まれたときから、決められた役割というものがあるのだ」
ボクは村長の口癖を口ずさむことで、いつも、複雑に絡もうとする考えをすぐに手放した。
ひとつの柱にもたれかかりながら、ボクらは、雪がちらつく夜空をただ眺めた。
すっと背筋を伸ばした姉さまは、小さく白い息を吐いた。
「ヤシロ。アナタ、〈神〉は必要だと思う?」
ボクはうなずいた。
「だって姉さまが、ヤウシー〈救済神〉となれば、多くの人が救われるから」
「そうじゃないわ」
姉さまは首をゆるゆる横に振った。
「私は皆、ではなく、アナタにとって必要か、を訊いているの」
姉さまの青い目にまっすぐ見つめられ、ボクは思わず下を向く。強ばる膝を抱いたまま「必要に決まっているよ」と小さく言った。
姉さまはおかしなモノをみるように、口元をゆるめた。
「どうして、決まっているの?」
「どうしてって、だって、神様は必要でしょ……」
神が必要であることに、理由など考えたこともなかったボクは戸惑う。
「……ヤウシー〈救済神〉は、僕たち、カナガナ〈星の民〉に力を与え、往くべき道を敷き、悪しきものから守ってくださる。皆が求める尊い神さま、だから必要。それではいけないの?」
「……そう」
姉さまは少し考える素振りをみせてから、ボクの頬を両手で優しく包んだ。
「では、訊き方を変えましょう。ヤシロ、アナタはヤウシー〈救済神〉を心待ちにしている?」
「……皆を救う神を、心待ちにしないわけないじゃないか」
ボクはいい加減、眉をよせた。
「さっきから、姉さまは何が言いたいの?」
「私ね、想像したの」
姉さまは、ボクからふっと目線を外し、続けた。
「私たちは、同じ腹から産まれ、同じ血を分けた双子でしょ。強いて違いをあげれば、生まれた順番があるだけ。なのに、双子の姉だけが〈神〉と化す。それは、崇められなかった弟からみれば、一体どういうものなのかしら。どんな表情で、それを見届けるのかしらって」
ボクは、思わず目を剥いた。
だって、どうして今更……。
それは、ずっとお互いが、お互いに言葉にしてこなかったモノなのに――。
思考がさっと白み、背には汗がつっと伝った。姉さまは、怖々と目を合わせるボクを、値踏みするかのように見つめて、すぐに満足げな表情を浮かべた。そうして、自分の額とボクの額をそっとくっつけ、静かに告げた。
「やっぱり、ヤシロ……アナタは私に食べられたのよ」
「なにを、言って……」
言葉が詰まるボクに、姉さまは怪しい笑みを浮かべた。
「それでね、やっぱり私は、……アナタに食べられるのよ」
その瞬間、嵐のような戦慄が襲いくる。
姉さまが、何を言いたいのか分からないのに、それでもボクは、その、とても恐ろしい響きに吐き気を抱いた。姉さまの手と額が、雪のように急に冷たく感じて、思わず払い除けたくなる。
「だって、村長も言っていたでしょう? 私たちは二つで一つ、だから、ずっと一緒なのだと。間違いなくその通りだわ。二人一緒なら、末がどうあろうとも、何も怖くない、何も怖くなんかないわ……」
「……一緒」
姉さまとボクが? いっしょ?
中身なく繰り返したボクの眼前には、今にも消えそうな、霞のような姉さまの笑みがあった。凛然さなんて欠片もない。そうして、ボクの胸に穴が空くのが分かった。
そっと目を伏せた姉さまは、「……寒いわよね。もう、中に入りましょうか」と言って、震えが止まらないボクから離れた。その真っ白な麻衣の背は、月の光を受けて、柔らかく輝いていた。
ボクがずっと見てきた背中だ。
皆から崇められ、尊ばれ、憧憬される姉さまの、ずっと一番近くで。ああやって美しく輝く背を、ずっと後ろでひかえながら。
二つで一つ。ボクらは双子で、いつでも一緒だ。
でも、ほんの少し違うところがあって、それが二人を大きく分けた。
「……ボクは」
今なら、雪が声を吸いこんでくれる。
ボクは大きく息を吸って、少しずつ吐きだした。
「ボクはね、神を望まないのに、どうしても、神に叶えて欲しい願いがあるんだよ」
遠くなる背を眺めながら、しばらく柱の影で縮こまった。
***
「嗚呼、なんと神々しい……」
村長の声に、意識が浮上する。目の前にあるのは、純白ではなく、深い闇だった。
「早く、早く、その方の手を取るのだ、ヤシロ」
ボクはゆっくりと頷き、すり足でそちらに近付いていった。
チリン、と、鈴の音が、また鳴り響く。
ボクは先導するように〈ソレ〉に手を伸ばし、今にも散りそうな花を前にするよう囁いた。
「ボクには、願いがあります。アナタはきいてくれますか?」
〈ソレ〉が笑った気がした。ボクもつられて微笑んだ。
ねぇ、姉さま。
ボクは今、どんな表情をしているのかな?
ボクは今、何を思っているのだろう。
「ボクは――……」
願いを初めて乗せたその声は、思うよりずっと遠くまで響いた。