-9- ヒノトマル
丁丸をあの白い部屋とされる場所から抜けるよう誘った男は、のちに神となる彼の2代前──つまり先先代の神さまの傍らで音も立てずに控えていた。
神の執務室とされる部屋に入り、丁丸は背筋をピンと伸ばす。
当時の神は厳格な表情をしていたが、穏やかな気性も持ち合わせていた。
緊張した面持ちで接する小さな存在に、その神は微笑みこそしなかったが優しく声をかけた。
「畏れることはない。君もゆくゆくはこの席につくことになるやも知れん」
そう言われても、丁丸にその実感はまるでない。
次の神になるなら、現神の隣に立つ男だろうと思っていたし、自分が神になれるなどと世迷い言を口にできるほど、彼は自身のことを好いてはいなかった。
自分をこの場へ連れてきた男は、休むことなく隣で執務をこなす神の手元を学び、術を覚え、務めを記す。
手元とは神の力の振るい方、術とは神に果たせる物事、務めとは神である自覚。
つまりは力を学び、何を成せるかを覚え、行った所業を形に残す行為であり、そして同時に自身への戒めとして自他共に確認させるための事務仕事である。
3つの学びを総合し、神界ではこれを神の学と呼ぶ。
後代の務めは、現神のもとで、神の学を担うことであった。
後代は疲れる様子もなくひたすら筆を動かす。
神の学を熟す彼の手は、剣を握ったこともないような傷一つない真っさらな肌ではあったが、筆を置く指の関節に出来た山と、筆がすっぽりとおさまる窪みの硬さがその実直さを物語る。
しかし、永く筆を握ってきたであろう当代の固い手に比べると、後代から放たれるある種の剣呑さはまだ未熟であった。
こと現神においては、神界のなかにあっても威光を纏っている。
そんな2人とは比較対象にもならない己に、神の椅子に座ろうという気概はない。
ヒノトマルは、そう思考の片隅で感じつつ、壁の際に寄り添い執務が終わるのを待った。
当代が自身の席を譲渡する可能性を示唆したのは、丁丸に自覚を持たせるためではない。
どのようなものが自身の退いた後、神の椅子に座るのかは、当代の神ですら知り得ないことなのだ。
後代の神様というものは、何かに誘われるように当代のもとへやってくる。
しかし稀に、自身の後継を連れてやってくる後代がいる。
そのとき丁丸を連れ出したものは、その後先代の跡を継ぎ、その後に丁丸が神様となる運命にあった。
だが、これら三つの存在はそのことを知るよしもない。
当代は後代を、後代は丁丸を、ただの後継者候補としてしか見ることができない。
神に選ばれるのは適正でも能力でもなく、純然たる神の学への従事の結果だとされているからだ。
事務仕事を黙々と、ただ清流のように滑らかに、そして自身に残酷なほど淡々と熟せるものに、代々、神は椅子を譲ってきた。
こうして稀なことが重なり、神界では3人の存在が確認されるようになる。
先先代がまだ単なる候補であった頃、そしてそれ以前に神であったものたちは皆が、自身と先代という1対1でのやりとりを経験している。
後代候補が後継を連れてくるという前例がないこともないのだが、神の学に関して言えば単身用という規定も特にない。
そのため神界で確認される存在が変則的に増加したとしても、意を唱えるものはいなかった。
神界の最も遠く深くにある神殿は、基本的に神が他から気を削がれることのない静寂性を維持するため、当代以外の出入りは許されない。
だが例外はもちろんある。
後代としてやってきたものを、案内を兼ねて神殿に立ち入らせる場合。
そして、その後継と見定められた丁丸の存在がそれだ。
当代の神は、後代──つまりは丁丸の先代に当たる者──ではなく、丁丸のほうを自身の後継として認めていた。
だがしかし、自身が後代に対してそうであるように、のちのち後代が神になる可能性を考え、そのものが丁丸を導くことができるよう育てる必要がある。
それ故に、丁丸を連れて現れたその男を、当代の神は快く神殿に迎えたのだ。
けれど後に丁丸の先代となるものは、自身を導く存在が真に求めるものを薄々察していた。
彼は神からより多くのものを学び知り、そして丁丸に一層研磨された教えを説くことを視野に入れていたのだ。
結果、そのものは丁丸の良き導き手となり、丁丸もそのものをよくよく慕った。
このことが後になって丁丸に灰色の花を見せることになろうとは、誰も想像さえしていない。
先代への憧憬を濃くするあまり、丁丸は身の内に神とするには穢れた情念を宿してしまった。
──ある日。
自身の後代とその後継を連れて、現神は庭一面を見渡せる高台に立った。
そこでは神の花とされるデューの群れが、風に煽られた湖面のように波打っている。
「見るものによって色を変えると謳われておるが、わしはそうは思わん。花が変わるのではない。あれは変わらない。だから神を愛した花とされている」
「では何故、色が違って見えるのでしょう?」
現神の隣で、後代は首を傾げた。
彼らの後ろで控える丁丸も、同様の疑問に頭をひねる。
「曇りのある眼では真実を見抜けないのと同じこと。見るものの性質が、花を異なる色にさせるのじゃろう」
「わたしには、翠に見えます」
「それは賢しいものに与えた色じゃな。好ましいことだ」
「あなたには、どんな色が見えているのでしょう?」
「わしに見えるのは、仄かな紫を孕んだ白い花じゃよ」
神殿から張り出した露台に並ぶ2つの背中を、ヒノトマルはいつまでも見ていたいと思っていた。
それこそ、自分がこの場所を去る間際まで。
ヒノトマルは、自身が神になることは考えていない。
現神と自分をここへ誘った男が神の役割を果たし終えたら、神界に残る理由はないとさえ思っていた。
「お前には、どんな色が見えているのだろうね。ヒノトマル」
自身が連れてきた後継が、この場所に残るつもりがないことなど想像もしていない後代は、ヒノトマルに問う。
当代はとうに執務室へ戻り、後代とヒノトマルを2人きりにしてくれていた。
庭で揺れる花にしばらく目を向け、やがて彼は首を振り答える。
「…………。神になるべくもない自分に、花は見えませぬ……」
**
ヒノトマルは庭を埋め尽くす、自分の胸の内を見透かすような鈍色を眺めて、暫しの感傷に浸る。
彼が見ているデューの花は、美質の色とは程遠い。
実際のところ、神界へやってきた当初、ヒノトマルに花の色は判らなかった。
デューの花は、神の心ほど明確な色を映す。
単色なら単色、複合色でも何色が混ざって出来た色であるのか、はっきりと分かるものだ。
しかし彼が初めてデューの花を目にした時、神になるかどうかも曖昧な存在であったために、ヒノトマルの性質が決まらず色を定めることができなかった。
だが、今は違う。
ヒノトマルが現神となった今、花で埋め尽くされた庭は周囲の壮大かつ厳格な景色さえくすませる。
そう、ヒノトマルの目には映っている。
いつから、そんな色が自身を映し始めたのか、彼に自覚はなかった。
その一方で、胸中を占める激しい感情がどんなものであるかを、ヒノトマルはよく理解していた。
後代が神となる直前、先先代は消失した。
その瞬間を、ヒノトマルは知らない。
けれど自身の先代にあたる現神は、それから、憂いた様子で庭を眺めることが多くなった。
ヒノトマルが神となった今、隣に立つものは1人もいない。
以前にも、こうして露台から庭を眺めた記憶はあるが、隣に何があったのかを彼は思い出すことができなかった。
デューの花を眼下に、誰かと言葉を交えたことは覚えている。
しかし、ヒノトマルは、先代の顔を微塵も脳裏に浮かべることができない。
関わり、話し、自身を神界へ導いた相手なのにだ。
先代が憂いていたのは、きっと、これと同じことなのだろう。
ヒノトマルは【死】それ自体にさほど興味はない。
魂を導くとされる死之神に対しても、ほとんど無関心であった。
契機がヒノトマルのもとを訪れたのは、彼が現神になったあとのことである。
このとき生者が活動を営む世界では、丁丸が神界へ来てから2,000年は経っていた。
彼の先代にあたる神が、稀にみるほどの才を発揮し、永く永く神の世界と外界は平穏に包まれていたのだ。
しかし、ヒノトマルに現神の代が与えられようという瞬間、死之神が彼の──そして務めを終えようという当代の目の前に突如として現れる。
神として尽くしてきたものが、どのようにして代変わりするのか。
それを知ってしまったヒノトマルは、瞬間的に激しい怒りを覚える。
己の師であった先代を、死之神が黒く大ぶりの鎌で狩るのを目の当たりにしても尚、ヒノトマルはどうにか激情を鎮め、代変わりは必ず訪れるものだと意識を改めた。
自身も、記録だけの存在となってしまった先代たちに倣い、神としての務めを立派に果たそう。
このときまでが、彼を神たらしめる最期の一線となっていた。
だが、それは果たされない。
彼にとっての境界線を、死之神が越えてしまったのだ。
死之神は生者である頃の欲を抜き出すため、人らしい感情を呼び起こす記憶はすべて抜き取る。
ヒノトマルは、死之神の務めを見物していたとき、自身もわずかながら記憶を奪われていることに気付いた。
人であった頃の欲もなく、誰かに抱いていたはずの愛情もなく、何かを喪ったことへの悲哀も湧かない。
ただ完全には切り離されなかった感情と呼べるものは、自身を、そして身の回りのものを奪取する相手へ向かう怒りと憎しみだけである。
生きていた頃には無縁だったそれらのみ、ヒノトマルのなかに残されていた。
──神にそぐわぬ色を湛えた庭に、ヒノトマルはこれから刑罰を下すような冷徹な眼差しを向ける。
死之神に、記憶まで奪われた。家族だけでなく、自身の命だけでなく、すべてだ。
彼が神になり初めて抱いた感情は、神を愛した花を鈍色に見せる。
現神の中には、邪な怒りしかなかった。
そうしてヒノトマルは、死神が住む島の周りを膜で囲んだ。
島から出られないように、こちら側へ来ることがないように。
ヒノトマルが神になり初めて大きく振るった力は、神の務めからは外れた個人的な動機によるものだった。