-6- 鈍色の神さま
丁丸は小さな町の片隅で、膝に顔を埋め考え込んでいた。
瓦屋根に積もる雪がそこで低い壁を築いている。
頬に張り付いた涙の筋に冷気を孕んだ風が触れても、彼に声を掛けるものは周りにいなかった。
ほんの数分前まで賑わう町並みを元気に歩いていたが、遣いを終え家に帰った丁丸にその家の者はみな乱暴だった。
手酷く扱われても彼には何を言うこともできない。
自然災害で両親と妹を亡くして4年、奉公という名目ではあれど身寄りのない丁丸を迎えたその家は、隣のそのまた隣町にまで覇権を轟かせるほどの資産家であった。
当時、その家を知る大衆は彼ら一族を陰では金剛分限者と呼び、そして恐れ、正誤や善悪の見境がなくなろうとも対立を避けた。
そんな彼らがなぜ丁丸を迎えたのか。
それは偏に肉親を失った憐れな子どもを養うだけの器量と金銭的余裕を見せつけるためだろう。
少なくとも丁丸は、彼らをそんな風に見ていた。
彼はいつも孤独に苛まれ、いつも体の至る所に痣や傷を作っていた。
救ってくれるものなど、どこにもいない。
彼の出した結論が、その小さな身の内で確固たる軸として存在し続けることになったとしても、何ら不思議ではない。
当時まだ神威信仰が強く根付いていた時代、同時期に死之神も存在しているとされていた。
本来であれば死之神は、ただ死者の魂を導く役割しか持たないのだが、彼にしてみれば死之神は大切な家族を奪った相手だ。
その結果、自分の環境を劣悪なものにまでされてしまい、彼が死之神を憎むようになるのは必然だった。
丁丸は、死之神という目に見えない存在にしか、自分の感情を向ける術を持たなかった。
帰る家はあってもそこへ足が向かない体は、これから吹雪を齎そうとする冷たい強風に煽られ、丁丸は眠そうに瞼をこすった。
温度や気象の寒さは感じなくなっており、代わりに全身を巡る脱力感と共に、彼は意識をも手放そうとしている。
丁丸は瞼を閉じた。
目先の角を曲がればそこに在る町の雑踏も、今の彼には遥か遠い場所のものに聞こえる。
薄弱していく意識のなか、かろうじて呼吸し微かに上下していた胸部も、次第に動きが小さくなっていく。
彼はその死を悟った。
けれど、今の彼に未練などは微塵もない。
浮かぶ姿は、既に死に別れた両親と妹のみ。
唯一の懸念があるとすれば、このまま死ぬことになり、その際死者を導くという死之神に出会うという点だ。
迎えにきて欲しくないわけではないが、家族を奪ったも同然の相手が死んで最初に会う相手なんてことを、丁丸の中では到底甘受できるはずもなかった。
せめて、一番はじめに妹と会いたい。
毎日満面の笑みで出迎えてくれた妹の姿は、今や瓦礫の下に埋もれ泥と傷だらけの細い腕に変わっている。
目に焼き付いて離れない小さくて可愛い存在が、もう一度自分に笑いかけてくれる姿に戻したかった。
幸せだった記憶だけに浸れるのなら、他には何も要らないーーーー。
彼が開かなくなった唇の隙間から漏らした、最期の声だった。
**
雪の中に埋もれ凍りついた丁丸の体にはじめて近付いたものは、彼の望むべくもない死之神と呼ばれる存在。
死神という種として生きてきた彼らの役目は、死者の魂が彷徨うことのないよう、正しい道へと導くこと。
命を扱う上で不要な個々人の意思を持つことはない彼ら。
だが、そんな死神たちの中には稀に、自意識を持って生まれるもの、或いは人の魂と関わっていくうちに人と似通った感情を抱き始めるものがいた。
死神が導く人の魂のなかには、選ばれて神界へ誘われる場合もある。
しかし丁丸はその境遇以外、取り立てて目立つ要素を備えてはいない。
偶然その場に居合わせたのが、役割とは関係のない情を持ち合わせる変異質の死神でなければ、丁丸を神界へ導くことはしなかっただろう。
せめて、楽しい記憶だけを思い出せるよう、その死神は丁丸の疚しくて穢れた記憶に封をした。
**
丁丸は気がつくと、色のない部屋にいた。
そこには他の人間も多くいる。
1人の男が彼に話しかけた。
「見たところ、童は、死んでおるな」
「どうして?」
丁丸は尋ねた。
周囲を見回しても、死んだのだと分かるような者は見当たらなかったからだ。
ならば何故、自分だけにその言葉が向けられたのか、ただただ疑問だった。
首を傾げた丁丸を見下ろす目は決して冷たいものではなかったが、だからといって温もりを感じるほど如何なる情緒も見受けられない。
「ここにいるものは、みな死んでおる」
「始めから分かっていたのに、意地悪ですね」
会話の意図を探るまでもなく、相手は自分を揶揄うために話しかけたのだと丁丸は結論付ける。
「童が自身の死を知らぬような面立ちをしていたせいだな」
「そんなの、見た目では分からないでしょう?」
「分かる。ここにいるものは皆、はじめは気付かぬ。自身にあったはずの傷や痛みが消えていることにな」
そういうことか。
真面目な顔で、至極当然のことを言ったまでだと宣う相手を前に、丁丸は苛立ちを顕にするでもなく納得した。
「そういう貴方は、やはり意地の悪いお人なのでしょうね」
「そうとも言えるし、そうでないとも言える」
「どういう意味で?」
「さあな。して童よ、ここから出ようとは思わぬか」
「出口があるんですね」
物や人の影すらも見当たらない純白が、くすみも取っ手もない同色のドアを隠してしまっているのだろう。
相手との会話で察しをつける彼に、その男は自分のあとをついて来るよう視線で促した。
丁丸は、相手の男が真っ直ぐ歩き、見境がつかないこの部屋から姿を消すさまを見届ける。
そうして今度はゆったりと体の力を抜き、深く息を吸っては吐き出すことを繰り返しながら、男が消えた方向を一心に見つめる。
自分は死に、ここは死者が集まる場所。
更には話しかけてきた、この部屋の中で唯一異質だった男は部屋から去った。
この場所にいる死者はみな、ただ命を落としたというよりも、停滞を体現し留まりたがっているように見える。
ならば自分はここへ留まりたいのかと自問すれば、返ってくる答えは否だ。
穢れを知らない色に覆われたその部屋の壁は、丁丸の小さな体をすんなりと呆気なく受け入れた。
何もない、ただ死者がひしめくだけの部屋から出た彼は、ここに来てから始めて色を感じる。
「あの色のない部屋と違い、ここは凄く彩りが鮮やかですね」
「話し言葉は多彩なようだが、あまり学はないようだ」
「どういう意味で?」
「あの部屋は白かった、ということだな。ただ白く、限りの見えない構造をした、ひどく開放的な空間。そこに儂らはいたのだ」
「どうして、あれが白だと?」
「何故だろうな? 儂が生まれる前から、あの色をみながそう呼んでいた。その理由もいずれ、神道を学ぶ上で知ることだろう」
これが今の神ヒノトマルと、その前代との出会いだった。
**
「師よ。あなたは、こうなることを知っておられたのですか?」
今では自分が神であるため、代変わりで消失した前代の神に会うことはできない。
それらは死神の長たち数人によって執行されるということを、代変わりの時になって漸く知ったヒノトマルの心境は穏やかではなかった。
神として突出した才覚を発揮するものの中には、後代となる神を連れ立って神界へ現れるものもいる。
戦乱が戦乱を呼び下界が荒れ狂う時代が続くも、自分の師は他の神たちより長く平和を保ったものとして、その名を残すことが出来た。
そんな師のことだ。
自分が神になる以前、先代の神と共にその傍らで勉学に励む間も、師は自身が消失することをこの丁丸の存在が認められた時点で悟っていたのだろう。
そのことが、より一層ヒノトマルを苦しめる。
辞退を口にすることも、自分自身を責めることも、神という立場に就いたあとでは到底許されるはずがなかった。
それほどまでに、死神の決定権と執行力は強固だったのだ。
(まだ、わたしはまだ、あなた様にご教授いただきたいことが山程あるのです)
鈍色に染まる眼下の庭園を眺めながら、ヒノトマルは更に視線を鋭くする。
ーーーー神を選別するのは死神の役割である。
師を神の座から下ろしたことを怨み、自分を後代として選んだことを恨んだ。
だからこそ、ヒノトマルは死神を赦せなかった。
師から神という立場を奪ったように、いつか自分からをも神という立場を奪わんとすることを。
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