-5- 神を愛した花
その者は、異なる気配を察して内心動揺した。
神殿の執務室になぞらえた自宅の書斎で、彼は生者でない2人の異質な存在がいることに気付いた。
震えて落ちたデューの花冠がついた花ペンを拾う彼は、自分以外にいない家でやけに煩い息遣いを耳にしたが、それは自身のからだから捻出していたものだった。
呼吸という感覚は彼にとって久しく、わずかに懐かしい心地を孕んでいる。
彼が人の生を終え、神が住むと言われている神界へ導かれた時から、その身体は人としての凡ゆる機能を停止している。
だから彼は幾千年ぶりに、《肺》で酸素系の循環を行った。
彼、ヒノトマルは人であった。
そして、現在の神であるーーーー。
執務中は厳しく整える髪も今はおろされ、肩甲骨まで届く襟足がふわりと風に揺れる。
ベランダから臨める広大な庭では、神の花と呼ばれるデューが一面を灰色に染めていた。
細いながらもしっかりと立つ茎は白く、枯れずに生え変わり続ける花弁は《繁栄》《繁盛》の印として、天神人たちの間で親しまれている。
しかし、そこは神と神に仕える者が住む場所。
そこに咲く花は、見る者によって色を変える性質を持っている。
情熱的な者には紅く、優しい者には蒼く、賢い者には翠、正直な者には白く、貴き者には紫。
これらは美質の色と呼ばれ、この場所に住む多くの者は花をこれらの色で認識している。
しかし、中には別の色で見える者もいた。
企てが上手い者には銀、金勘定が好きな者には金色、悪戯を愉しむ者には漆黒。
そして神ならざる者、神界に相応しくない者には鈍色に映るのだ。
花に背を向け眉を顰めるヒノトマルは、目をギラつかせ口の端をきつく噛み、湧き立つ衝動をこらえる。
その表情はこの場所でいちばん慈愛深くあるものに似つかわしくない、何かを怨みに思うもののそれだった。
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かつて、ここ神界は混沌のなかにあった。
気性の激しい神々は日々を娯楽と争いに興じ、それぞれが自由奔放に過ごしていた。
そんな時代を憂いたとある神がいた。
その神は非常に慈悲深く、慈愛があり、博愛者で、博学者で、他のどんな神よりも平穏を切望していた。
「うぬは、いつもいつもそんなところで、他の神の邪魔をする。そのような草地を愛でる変わりものは、ここには相応しくない」
そんな蔑む言葉をかけられても、その神は無言で微笑むだけだった。
そんな彼だったがある日、人間界を眺めていて、ふと人の地に降り立ってみたくなった。
彼が見ていた土地では農業が盛んだったが、豊作をもたらす神が争いに興じ不在の今頃、不作の年が続いても食糧を分け与えるなど互いに足りないものを補い合い、そして助け合って生きていた。
その土地に住む人々が古くから信仰している社が、近くの山手に存在している。
そこに住む神は非常に穏やかな気性で、神や人、善人や悪人など関係なく無差別に、無分別に慈悲を与えるほど朗らかな心根を持っているものであった。
しかしその神も、今や混沌の気配に飲まれてしまい、既に元の柔らかい表情から一転、眉間には縦皺が濃く刻まれ、垂れ目がちに曲線を描いていた目元も鋭く尖っている。
他のものを射殺す勢いがある眼光は、やはり平穏を望む神の考えに賛同してはくれなかった。
土地は痩せこけたというのに、そこに住む人間は社への参拝をやめたことがない。
この神はその理由が大変気にかかり、人の姿に化け尋ねた。
「なぜ、役割を放棄したものを崇め、奉る?そなたらの願いを聞き入れる様子など、一片もないと思うが?」
すると、参拝者は答えた。
「その社に御坐すは、変化を司る神。変化とは生まれると共に滅び、廃れと共に栄えるもの。そこに咲くは種、発芽、茎、それから花冠、散る間際でさえもその無垢な色を汚さぬ、永遠を示す花と言われております。この花がここに咲く限り、この花がここを見捨てぬ限り、わたくし共はここを離れません」
独特の抑揚をつけて話す人間に、彼はわずかな逡巡をはさみ問いかける。
「この花は、いつからここに?」
「存じ得ませぬ。わたくしの曽祖父の、そのまた曽祖父が乳母車に揺られている時分には、もうここに咲いていたそうです」
「そなたが今しがた話したことは、誰の説法か」
「白髪にまみれたわたくしでも、その先人は存じ得ぬこと。この身が朽ちるその時まで、それは明かされぬことでしょう」
「左様か。一つ忠告しておく。そなたらの崇めた神は、自尊を失いつつある。戻ってきたところで、以前と同じとは思うな」
「それも人の身では及ばぬこと。誰そ神のお導きにお任せしまする」
「そなたらの言う変化、今がその兆しとは思わんか」
「変化の神の下で咲き誇るこの花が、ここに留まる限りは」
「そこまで強い信仰ならば、これ以上は何も言うまい」
「あなた様も神を信ずる一人であるなら、どうか愛でるお気持ちを棄てることなきよう、心からお頼み申し上げまする」
社から立ち去る直前、その参拝者はふかく、ふかく頭を下げた。
「わたくし共が慕うは、その花が神を愛するが故。信仰より脆く、慈しみ深く、趣きのあるご厚情でございまする」
去り際で告げられた言葉に、彼はそれからずっと考え事に耽る。
そうして、よし、と社の縁側から腰を上げると、その神は自身の故郷へ帰っていった。
人間界から戻った彼を迎えたのは、争い事で賑わう神々の喧騒などではなかった。
以前のように耳障りな享楽の声も聞こえてこず、あるのはたった一人の神の哮りだけだ。
「わた、しはっ、……違えぬっ! けしてっ! 神の道を違えてなどいないぞ……っ! あはははははははははっ!」
神とは名ばかりの、情けなくも英賢機知の欠片すら見当たらない、無慈悲に豪胆で強靭なだけの存在がそこにはあった。
ただの神は、かつて友と呼び損ねた土地神を見上げる。
変化を司る神は、凡ゆる変動が起ころうとも事象に統一性を保たせるため、小さな兆しから大きな結果までを纏めなければならない。
この役割を持つ神が変化を心から望んだ時、それは世界が一つ、まるごと変革してしまうということ。
雄叫びをあげて暴れるその神は、ここ天上界に変化をもたらしたのだ。
ーーーー破壊という形で。
それまで闇雲に暴れていた神の動きがとまる。
見れば、相手の視線がこちらへ戻った彼の腰さしに注がれている。
衣を締めるだけの腰に巻かれた紐に、それは差し込まれていた。
(これは…………人の花を見ているのか。自身が放棄した社に咲く、この花を)
口には出さず思うだけで、彼はそのまま黙ってその場に立っていた。
すると一回りほど大きいその神は近付き、彼と目線を同じくする。
「それを、どこで……」
「人の世に、そなたの社に咲いていたのだ」
「…………変わらず、咲き続けているのだな」
「わたしは、これから新たに始まるこの世界に、この花を植えようと思う」
「素晴らしい。その花はわたしが人にやったのだ。人である女にやったのだ。美しく可憐なものに見合うと、天上界から持ち寄った」
「どうりで見たことがあると思っていた。元はこちらで咲く花。人の世では特性が変わっていたが、これの花びらは幾度も生え変わる。永遠を示すには十分と言えよう?」
「ああ、まったくだな」
「この世界にも新たな名をやろう。神界では不服か?」
「気に入ったぞ。ならば、花にも新たな特性を加えよう」
そう言うと元の朗らかな表情に戻りつつある神は、花を手のひらに包み息吹をかける。
「見るものの心情に合わせ、花冠の色を変える。こうすれば花を愛でる気持ちは少しでも生じることだろう」
「そなた、どんな色に見えておるのだ?」
「微かな鈍色だよ」
「そうか。わたしは蒼だ。心を癒すような優しい蒼が見える」
そうして人の世では1年という周期が過ぎた頃、花は6つに増えていた。
半年で3つに増えた株を更に植えただけだが、出来栄えとしては上々だった。
この花を受け取った人の女は、同じく愛しい神への捧げものとしてあの社に植えたのだと、日を改めて行ったあの土地の人間は話した。
愛しいものに贈った花が民の深い愛と信仰をよび、花に捧げられた人の心があの神の破壊をやめさせたのだ。
他の神がどれだけ小馬鹿にしようとも、優しい神はこの花をこう呼ぶ。
ーーーー神を愛した花。
***
この花は、デューというのだよーーーー。
神界へ誘われたヒノトマルは、先代の神がそう柔らかく呟く声を思い返していた。
この世界が神界とされた時から幾万年経ったか。そう呼ぶのだと自分も先代から教わったのだーーーー。
そう言葉をもらす表情には、どこか物憂げな哀愁が漂っていたことを今でも覚えている。
わたしには、これは翠に見えるーーーー。
そなたの目には、どんな花に映っておるのだろうかーーーー。
ヒノトマルはその時、答えなかった。
先代の神が言う色であれば、素直に喜び打ち明けただろう。けれど、彼が見た花は、美質の色と呼ばれるそのどれとも異なっていた。
「先代。わたしの下では鈍色が、忌々しく穢らわしい色の花が咲いております」
ヒノトマルは、やはり慈愛深くある神には相応しくない、苦々しくも鋭い眼光を、こちらに近付かんとする2人の存在を感じた方へと向けた。
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