番外篇・尓【与え】に尽くす運命(さだめ)~現神/ヒノトマル~
ヒノトマルには、人であった頃の記憶が色濃く残っている。
しかし彼のように、神となったものに生前の記憶が残るのは、極めて稀だ。
神というものは、以前の生が何であったかに拘わらず、その後の永すぎる刻を活かし、神の学に取り組む。
そうして、そのうち、以前の生き様が記憶から薄れていくのである。
神は、神としての生の記憶より他は残さない。
その所以は、神の学の構造にある。
『神の学』
それは神がつくるもの。神が触れ、力の行使、その軌跡を残す書物である。
代々、現神となったものが引き継ぎ、神としての力を具現化するものでもあるため、力の蓄積は必至。
そして、これは幾代にも渡り続いている。先代から後代へ、巡り巡る。
神の学は、いまだ神の力の影響を受け続けているのだ。もたらす影響力が強大なものとなっていても不思議ではない。
よって神の学が引き継がれる以上、後継への力の働きが増す一方であることは避けられない。それは結果として、人であった頃の記憶の消失を促す効果を生んでいた。
だが神となるものに、自身の記憶が失われることを気に留めるものは皆無である。
神となる以上、自らの行いが神の学に則っているか否かが、最たる存在として重要な価値と意義を持つため、どの神にとっても己のことは些事でしかなかったのだ。
しかし、ヒノトマルは違った。
彼は生前の出来事による心身への影響を、つよく引き継いでいる。
神の力に修整されることなく、神の学に軽視されるでもなく、その記憶を保持したまま神となっている。
そしてヒノトマルは、先代の神が遺した言葉を余さず覚えている。消失して個を失うはずの先代たちを、彼は個別に覚えている。
人であった頃、自身が受けた苦渋の味を、死の間際に脳裏で描いた意思を、彼はよくよく覚えていた。
このものが神であり続けるには、あまりにも生きた人の儘だったのである。
彼が鈍色のデューを視るのも、以前と現で気性の境目が曖昧なせいであった。
にんげんであった丁丸。神であるヒノトマル。双方とも、その身の内にいまだ根差しているのだ。
**
ヒノトマルが初めて外界の魂を裁いたとき、先代を失ってから悠に三月半は過ぎていた。
既に鈍色の花の意味を正確に捉えていた彼だが、ついに一度も、先代にすら花の色を明かすことはなかった。
それは自身が異なる存在であると自覚することを避けようとした、いわば自衛でもあるが、何よりヒノトマルの意識にあったのは、己を導いた先代から『否』を突きつけられることへの忌避であった。
それほどまでに先代を慕っていた彼だからこそ、なのだろう。
先代が消滅したとき、現神として代変わりを果たしたヒノトマルは誓った。
己は、けっして後代は受け入れぬ。消滅してなるものか────と。
その身を不自由にする死神を執務室の隅に立たせ、ヒノトマルは逡巡する。
己の脅威になり得る存在か、ではない。
このとき彼の脳裏に浮かんだのは、死神をただの神に祀りあげたときの死神たちの悲痛と辛苦に歪む顔だった。
それさえもが、運命の輪として機能しているとも知らず。
自身の住処に在る死神の存在に、神の使いや天上人が勘付くことはない。神界に入ることが出来るのは、現神が許したものか、先代あるいは後代の神となる魂を持つものだけである。
しかしながら、そのことをいずれ現神に至る彼に懇切丁寧に教えたものは、誰もいない。
それも仕方のないことなのだろう。ヒノトマルの存在そのものが、どんな神も体感したことのない未知の領域だったのだから。
天上人のなかには美質の色を視る素質あるものも少なくない。が、反対に現神となるものに、醜質の色を視るものは一つもない。
ましてや神ならざるもの、神界に相応しくないものが視るとされる色など、先代たちでさえ直に見聞きしたことはないのだ。
そのものたちにとって鈍色とは、デューの花色の一種として神の学に載るだけの色である。
それがまさか後代の、それも真に次の現神となることが約束されたものが連れ歩いて神界へやってくるなど、誰が想像できただろう。
神は万能であるかもしれないが、全能ではない。
与り知らぬことがあれば、知らないまま神としての役目を終えるのもあり得る話なのである。
何より、デューの花が示す色は本人しか知覚できない。
神で在れば、神になるのであれば視るはずのない色を視ていた彼が、神を愛した花が示す性質を隠していたのだから。
ヒノトマルが神に相応しくないなどと、先代たちが知るはずもないことなのだ。
「あの、ひとつ訊いてもいいすか?」
セコの言葉に、現神は無言を返す。
「神さまの庭に花がありますよね? あれって、黄色もあるんすか?」
彼の質問に、ヒノトマルは瞠目した。神を愛した花だと云われるデューの花を知っていることに驚き、同時に畏れたのだ。
目の前の自身より遙かに若く見える、それも死神が何故……と。
しかし現神は胸中を口にすることはなく、デューの花の逸話を知るはずのない死神を見やる。
「花を知っているのか」
セコは、神さまの質問にこそ困惑した。相手の意図を探ろうとして失敗したとでも言いたげに。
「はい。親友も、死神たちも」
「そなたの花は、何色だ」
それは何気ない問いかけであった。
外界のものでも、花を見るものはいない。限りなく少ない。そういう条件を備えているせいで、花を視るというだけで生まれが判明するほどに。
神となったヒノトマルも、花の存在を知ったのは神界にあるデューの花園を目の当たりにしてからである。
「黄色と赤だった気が……」
特に気負う様子もなく、セコは答える。
神には、彼が自身に向かって嘘を吐いているようには見えなかった。
「黄色、だと……」
ヒノトマルの呟きに、目が合った死神はわずかたじろぐ。
相手は、いや死神たちは、どこまで知っているのだろう。
彼は身震いという、人の身でしか得られなかった感覚に久しく襲われた。
島に閉じ込めているあいだに、死神が何を知ったのか。ヒノトマルは、己でも忘れていた恐怖を思い出す。
これは外界で過ごした彼自身の記憶だ。
家族を失い、奉公先で無下にされ続け、果てに凍死した感覚を想起させる。自然に抗えず、身分に翻弄され、生物の摂理に従って死んだ。
人であった頃の丁丸が襲われた恐怖。それが今、目の前に、若い死神の姿形をとって現れた。
神の学とは別に、神を愛した花について記載された書がある。
それは外界のあらゆる情報を閲覧できるが、反対に天上界については何一つ書かれていない。
神が外界を識るためだけに存在する書物だ。分厚い背表紙に彫られた題名を撫で、ヒノトマルは死神セコの扱いに思考を巡らせる。
書物の第4223項めに、彼の興味は掻き立てられた。
この世界に、黄色の花は咲かない。だから神になってからのヒノトマルは、とうにその色の存在を忘れていた。だが、まさに今、捕らえた若い死神からその花の色を視たと聞き、現神は相手を見つめる。
神を愛した花の逸話は、神の学に取り組み始めたとき、最初に知ることだ。その花を視るものの特徴も、ヒノトマルは記憶している。
ある村が重要なのだ。村の住人で、村人の血筋にあることが鍵なのだ。
自身が攫った死神が語る生前の記憶に、現神は花の視せる色を思い返す。
花の色は、数種類ある。
情熱的なものには紅く、優しいものには蒼く、賢いものには翠、正直なものには白く、貴きものには紫。これらは美質の色と呼ばれ、天上界に身を置くものの多くは、花をこれらの色で認識している。
企てに長けたものには銀、金勘定を好むものには金色、悪戯を愉しむものには漆黒。
そして、神ならざるもの、神界に相応しくないものには鈍色に映る。
細いながらもしっかりと立つ茎は白く、枯れずに生え変わり続ける花弁は《繁栄》《繁盛》の印として、天神人たちの間で親しまれている。
自身の性質を映す鏡の役割を持つからこそ、天上界において、神を愛した花デューは重宝されるのである。
しかし今のヒノトマルにとって、神としての真の性質を理解することは、さして重要ではない。
ヒノトマルは表情を変えず、再び相手に問う。
「そなたの、同行者も同じものを視るのか」
彼は敢えて、セコが連れていた同胞をそう呼んだ。
「聞いてないすけど、たぶん視えないすよ」
その言葉も、現神として疑う余地はなかった。
種としての本能が、尚もひとつの真実を神に突きつける。
若い死神の語ることに納得してしまっていることで、彼は自身の運命を悟った。
セコは平然とした顔で口をひらく。
「神様、提案があるんすけど」
**
【死神は、与えられた運命に尽くすため、存在し続ける】
【そして神もまた、与えられた運命のもとで存在する】
【これが運命だというのなら、信じよう】




