-10- かがやく石より明るいもの
かいは一度、島を出ようとしたことがある。
昔。隔離される前はあったらしい空というものが、どんなものであるのか、その概要すら島のモノの殆どは知らない。
もちろん、かいも知らないし、今後知ることができる機会がやってくるとも思えなかった。
あるのは暗闇という空間と、世代が改まるごとに、死神の特性である闇目の力を失いつつあるものたちのため置かれた、小さくて細やかな灯火だけ。
人間界に関する古書ではこう書かれてあるのを、かいは見たことがある。
人の世は明暗で別たれ、明るいときは燦然と輝く太陽や果てしなく続く彼方の色が、暗いときは控えめに煌めく月と宝石を散りばめたような星々を見ることが出来るという。
太陽も月も星も、それから宝石というキラキラと眩いらしい石も、自分たちは知らないだろう。
想像してみても、実際にそれがどんなものなのか、どれほど優れて美しいものなのか、きちんと認識することはできないのだ。
けれど空色という色彩素材もあるようだから、きっとそれはとても良い色をしているのだろう。
それならば、この島を統べる色はたぶん暗黒や漆黒に近いのだろうと、古書にある人間界の色認識の項目を読み終え、かいは思った。
唯一、何か異なる色があるとすれば、己自身でも知っていると言える色があるとすれば、光彩豊かに揺蕩う色だ。
はじめてその色を目にしたとき、かいは密かに喜びで胸が震えた。
色を認識できないわけではなく、色そのものがこの島になかっただけなのだと理解したからだ。
だが、島にいくつかある村の長たちの反応は全くの逆で戸惑い、かいは尋ねたことがある。
なぜ、あれが起こると憂鬱な顔をするのか。
あんなにも綺麗なのに、どうして、と。
そうして、かいは島と外界との関係を知る。
綺麗な色は、本当は醜い証だったのだと。
神さまの代変わりを行うのは死神の長たちの役目であり、そして神さまが自身の役割を放棄し荒ぶる神へと成り果てたとき、ああして代変わりの時期だと知らせてくるのだと。
かいが島を出ようとした理由は、カツやセコのように大仰なことではない。
もっと単純に、──ならば自分が、神さまとやらに伝えてやろう──などと考えていた。
それは、島を出る口実としての意味合いもあった。
ただ実際は、少しだけ異なる。
彼自身が島に出現した日から、島は神さまの作った囲いの中にある。
いまだ健在している最古の死神ですら、神さまが島に対して行った所業のわけを知らない。
かいにとって、島に起こった出来事も神さまの行動も、謎解きであり冒険のきっかけでしかなかったのである。
仕事にも出られず、島の中で過ごすしかなかったかいにとっては、古書館にある数多の本が外を知る術であり、持て余した時間を活かす唯一の楽しみであった。
自分も外へ出て島の状況を、そして神さまがそうするに至った葛藤を紐解いてやろう。
まるで物語の中にある、主人公のように。
かいは、自分でもそれを成せると淡い期待を抱いていた。
しかし直ぐに彼は思い知る。
この島で生まれたものに、死神以外の生も役割も与えられないということを。
かいが島を出ることを諦めたのは、先輩死神が属する長が消失したときだ。
目の前で存在を薄くさせていく長の姿に、かいの先輩は悲痛とも絶望ともつかない愕然とした顔で、ただ立ち尽くしていた。
乾いた砂が風に散るのとは、また違う。
最も近しい表現を強引に作るならば、それは水性に弱い成分で作られた膜が少しずつ水に溶けていく様子のそれだ。
姿形だけでなく、存在さえも霞んでいく恐怖は、消失する当人よりも慕っていたものたちの方が大きかった。
先輩やほかの死神たちは、恐らくこっちだろう。
しかし、かいは別種の怖れを抱いていた。
自分の存在が薄くなる。存在した事実がなくなってしまうのではないかということが、かいには重要な部分であった。
実際のところ、消失したからといってその死神が存在していた記憶がなくなるわけではない。
ただ、死神という種が活動したという事実が残るのみで、どんな名前を冠し、どんな性分あるいは性格をしていたか。
それらのみ忘れ去られる。
もっと単純明快に語るなら、それは記録だ。
これまで培ってきたものが残り、それを行ったものの姿はどこにもない。
島の外へ出ることをやめたあと、カツとセコが新しい死神として出現した。
輪廻か、ただの種としてのサイクルか。
旧い死神が消失し、そして新たな死神が出現する。
これらの循環は、必ず行われていた。
自身のあとに生まれた者たちを、かいは奇妙な心地で静観していた。
後輩たちもまた、いつかは消失する。
それまでの間に、死神としての仕事を全うすることはないだろう。己と同じように島の中で、文字通り彩のない日を送るだけなのだ、と。
カツと同世代の死神は何人かいたが、かいが先輩として担当になったのはカツとセコの2人だけだった。
かいの目から見ても、カツは明らかに異なる質を持っているように見えた。
死神としての役割を超えた、或いはそもそも持ち合わせていないような。
かいは自分の中に、まだ死神としての性分があることを感じる日がある。
それは他の死神も同じで、セコにも似たものはあった。
けれど同じ質問をしても、カツから返ってきたのは邪な迷いなど一切ない、まっすぐな疑問を浮かべた視線だった。
その目に、かいはいつも、己の中に生まれては消す種と神への疑心を思い起こす。
カツと向き合っているとき、かいはあまり良い思いはしなかった。
反対に、常日頃から明るい気質のセコとは、よくよく話す機会を作っていた。
しかし、どうしても一度だけと、かいはカツに話しかけたことがある。
彼は自分より館の蔵書を読み込んでいて、知識も豊富で発想が豊かだ。
苦手な性質の相手ではあるが、死神としての性に準じていないカツなら共感してもらえるだろう、少なくとも同意くらいはしてもらえるだろうと思ったからである。
けれど、カツは考えに耽るように沈黙した。
しばらく間をおいて、その後輩は首をわずかに傾げ言った。
「かいさん。それなら、きっとクラゲのほうが表現として適切です」
「クラゲ?」
「ええ。海洋生物の一種で」
海の生き物は、かいもまだ知らない。
島の周りを囲むのは水辺であるのに、そこに棲む生き物のことは何一つ分からないのだ。
目の前で存在していないものへの知識を深めるには、ただ本を読むより他にない。
そして、かいは海洋学書にはまだ手をつけていなかった。
「海の生き物ってことか?どんな生物なんだ?」
「クラゲは、体のほとんどが水分で出来ているそうです。そのため死に近づくと、体積を保つ水分が体から失われていくため、海の中で溶けてしまうとか。人界で言うオブラートは人工物ですが、こちらは自然の摂理。それに、生の終わりが溶けて消えるというのは、かいさんの話してくれた死神の長の末路に近いのではないかと。クラゲは死神と違って長寿ではないらしいですけどね」
「へえ、カツはどんなことでも知ってるな。おれじゃ、全然かなわないよ」
先輩死神が感嘆しながら褒めると、カツは一度も彼の目を見ず、曖昧に微笑むだけだった。
その姿を、かいは儚げだと思った。
それこそ、今にも消失してしまうのではと心許無くなるほどに。
ただし、カツを親友と呼ぶセコだけは、そんな彼のことを「可愛がり甲斐のないやつでしょ」と揶揄しながらも、誇らしげな笑顔を見せた。
途方もなく続く限りの見えない水平線を前にすると、かいはそれ以上、己の歩を進めることが出来ない。
ただ単純に、恐怖を覚えるのだ。
自分たちの役割が、虹色の揺らめきと共にある。
死神としての生を思い返すほど消失の恐れに怯え、そして島から出ることのない現状に失望する。
自分たちはこのまま、何も成さずに消えるだけなのか、と。
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あれから、かいは自ら岸辺へ行くことはしていなかった。
「まさか、見送るためとはいえ、こんなところまで来ちまうとはな」
遠ざかるカツやセコが乗る小舟を見つめ、胸中に浮かぶ形容しづらい感情が、かいをその場に踏みとどまらせる。
かいは、当時の自分よりも若く溌剌とした2人の背に、そっと目を細めた。
400年後に出現した彼らが見ている先は、かいの目を眩ますほどに明るいものなのだろう。
きっとそれは、夜空に散りばめられた宝石より輝いていると信じて、かいは後輩たちの旅の無事を祈った。




