一つの破綻
(あっ)
そう心の中で呟いた私は、しかし声には出さず、静かに今降りてきたばかりの階段を駆け上がり、非常扉の陰に身を隠した。
もう何度目だろうか。私が校舎に入ってもう十分は経った。その間ずっとこんな鬼ごっこじみた事をしている。楽しい遊びだと思うだろうか? 高校生にもなって鬼ごっこなんてと呆れるだろうか? そんな考えは実際に追われる身になってみればきれいさっぱり消え去るだろう。そもそも私は自分から鬼ごっこを始めた訳ではない。やむなく逃げているのだ。何せこれは、ただの鬼ごっこではない。
―――捕まれば殺される。
……私の通っている私立錯線学園にはこんな噂がある。昔、この学校が建てられて十年も経たないであろう頃、一人の女子生徒が屋上から投身自殺をした。大学入試を目前にひかえた高校三年生だった。その生徒はいじめを受けていたと後に分かり、思い悩んだ末の自殺だったのだろうと言われている。その一ヶ月後、一人の生徒が幽霊を見たそうだ。その後、何人もの生徒が幽霊らしき影を見たらしい。当時の生徒達は表面的には幽霊なんかいやしないと鼻で笑っていても、本心では死んだ女子生徒の怨霊ではないかと戦々恐々としていた。女子生徒の影は卒業の日まで元クラスメイト達の前に現れ続けていたが、結局皆何事もなく卒業することができた。クラスメイト達は幽霊なんてやっぱりまやかしだと口を揃えていい、自分は始めからビビってなどいなかったと桜の木の下で延々と言い合っていた。まるで、誰かに指図でもされているかのように全員が一様にそのことを口にしていた。しかし、平和だったのは卒業式までだった。卒業式直後から元クラスメイト達に次々と事件が発生し、死者もその都度増えていき、その二年後に行われる予定だった同窓会が行われることはなかった。二十歳になることなく、皆何らかの理由でこの世を去っていたのだった……。
足音が遠ざかっていく。階段は降りず、まっすぐ進んだらしい。少しほっとして力が抜けた私は階下に注意を払いながらもこれまでの経緯に思いを馳せる。……全ては、二時間前のあの出来事から始まったのだ。
* * *
四時間目の授業は音楽だった。三時間目は自習で、私はファッションやアクセサリーの話をクラスメイトとして盛り上がっていた。ちょうど昨日駅前でいい髪留めを見つけたので自慢したかったのだ。ふと気付くと、親友であるリズが教室にいなかった。しかし、彼女はマイペースなところがあるので、いつものように図書室にでも行っているのだろうと思い特に気にも留めず、次の授業のある音楽室へ向かった。
しかし、私はそこで彼女を探しに行くべきだったのである。
音楽の授業の半ばまで、リズは音楽室に来なかった。今日は試験で、皆それぞれ順に楽器や歌などを披露していた。担当の教師はなかなか厳しい人で、今日のような日は遅刻なら問答無用で点数をゼロにした。当然のように、リズの点数はゼロとなった。授業開始三十分後に入室し、その場で教師から冷たくその旨を宣告され、絶望に染まった顔で、助けを求めるような瞳を投げかけてくる彼女を私は直視できず、目を逸らしてしまった。彼女の持っているフルートと、私の机の上にある同じ型のフルートが、やけに寂しげに見えた。
もしあの時私が彼女を探しに行っていたなら、彼女の点数がゼロになることもなかっただろう。彼女の点数は私のせいでゼロになったのだ。彼女は私を恨んでいるに違いない。そう思うと私は、彼女と話すのが怖くなった。そして、彼女がいつも昼食を食堂で食べるのをいいことに、彼女と話さず、視線もあわさなかった。しかし私は見てしまったのだ。
彼女が刃物のような鋭く光る物を握っているところを。
彼女はすぐに物陰に隠れてしまったが、私には『彼女が刃物を持っていた』という事実だけで十分だった。彼女は私を殺そうとしているのだ。きっとそうだ。そうに違いない。
その後私は次の授業の体育のため体操着に着替え、体育館に向かった。授業が始まって十分程経っても、リズは現れなかった。教師は、いつまでも彼女が来ないので、私に探しに行くように言った。なぜ私が探すように言われたのかというと、リズと一番仲がいいから……というのもあるかもしれないが、明らかな理由として私が髪留めをつけていたからである。普段は派手でなければ何も言われないのだが、私の買った髪留めには鈴がついていて、運動すると大きな音を出してしまうことをすっかり忘れてしまっていた。その髪留めを教室に置いてくるついでにリズを探すように指示され、私は了承した。確かに殺される危険はあったが、弁解する機会も得られるのではないかという淡い期待もあった。何より、私が原因でこのようなことになったのである。私が解決しなければならない。
そんな事を思いながら、私は彼女を探しに、まず図書室へ向かった。そこが最も彼女が行きそうな場所だと見当をつけたのである。体育館から図書室のある特別教室棟に向かうには、旧校舎を通るのが一番近い。ということで私は旧校舎へと向かった。
旧校舎には電気が通っていない。その上、今日は昼過ぎから急に曇りだし、昼休みが終わる頃には土砂降りとなっていて、外は夜かと思われるほど真っ暗である。
私は旧校舎に足を踏み入れた。中は外にも増して暗く、目を慣らすのに数秒を要した。少し空気が冷えた気がして、ぞくりとした。しかしそんなことは関係ない。早くリズを探さなくては。
私は歩き始めた。図書室へ向かうには旧校舎の二階の奥にある渡り廊下を通る必要がある。そのため、私はまず一階の奥まで進んだ。その時、何かの気配がして私は後ろを振り向いた。そこは刃物を持ったリズがいた。
私は確信した。
彼女は私を許す気などないと。
彼女がこっちに走ってきた。
まずい、逃げなければ。
私はそう判断し、急いで階段を三階まで駆け上がった。しばらくじっとしていたが、足音は聞こえてこなかった。そうだ、彼女は足が遅く、体力もないのだった。私は少し安堵しつつ後ろを振り向いた。
そこに彼女がいた。
なぜ、どうやって。
そんなことを考える余裕はない。
両者の間は数メートルしかない。
私は一目散に階段を駆け下り、二階を端まで走った。
彼女はまだ追いかけてくる。
私は止まることなく一気に四階まで駆け上がった。
さらに走り、この階の中央にあった段ボール箱の山に身を隠した。そのまま息を整えていたが、彼女がやってくる気配はない。ホッとしつつ奥の階段に向かい、身を乗り出して下を確認すると、丁度彼女が三階に上がってきた所だった。私はそっと後ろへ下がったが、彼女もこちらに気づいたようで、四階まで上がってくる。私は早足で後ろへ下がり、彼女が完全に登りきると走って反対側の階段まで行き後ろも振り返らずに階段を駆け降りた。こんなことを何回か続けて、冒頭の場面に戻る。
* * *
今私の頭に髪留めはついていない。音でリズに気づかれてしまう危険があるからだ。ただ今のリズにはあまり効果は出ていないようだが。さて、回想に耽っているような時間はない。周りを見ると、窓の向こうに図書室が見えた。そうだ、私は最初、図書室へ向かおうとしていたのだった。しかし、今となってはその必要もなくなった。そのまま窓の外を見つめつつ考える。
彼女がこんな事をしているのは私が原因だ。それは間違いない。それ故に私はこの旧校舎まで来たの
だ。そして足を踏み入れ、今こうして彼女に追いかけられている。心優しいリズがこんな事をするなんてありえないと今でもどこかで考えている。彼女が私を殺そうとするのには相当な理由が必要なはず。そしてその理由は明白。それを考えると胸が締め付けられるように痛い。殺されて当然なのではないかとも思えてくる。しかし、この状況の原因が私なら、彼女を元に戻せるのも私なのだ。
そう考えると、幾分か気が楽になった。この状況を打開できるのは私しかいない。そのためにはまず、彼女に話を聞いてもらわなければならない。しかし、今の彼女には何を言っても聞こえないだろう。だから、当面の目標は彼女に冷静になってもらうことだ。冷静になってもらうには、彼女から刃物を取り上げる事が必要条件である。だから、まず彼女を後ろから取り押さえ、それから刃物を取り上げる。だが今の彼女は神出鬼没。とても後ろを取ることなんてできない。
そんなことを考えていると、急に物音がして後ろを振り返った。そこにはリズがいた。私は急いで走って、奥の階段までたどり着き、三階まで降りてすぐに反対側まで走った。階段のそばで後ろを見ると、彼女はやっと階段を下りてきた所だった。そうだ、彼女を取り押さえるのだった、そう考えた私は階段を駆け上がって再び四階にたどり着いた。
そこにリズはいた。しかしもう何十分にわたってこの追いかけっこをしている私からしてみると、そこまで驚くようなことではない。やはり駄目だったか、そう考えつつ急いで階段を三階まで駆け下り、奥まで走った。そこで息を整えながら周りを窺っていたが、彼女がやってくる気配はない。
ふと気付くと、そこには監視カメラがあった。確かもう今は使われてないものだ。その時私はひらめいた。今は使われてないとはいえ、何かあった時のために簡単に動かせるようになっていたはずだ。私の記憶によると監視カメラを起動し、その映像をみることのできるモニター室は特別教室棟の五階にある。一応生徒は立ち入り禁止になっているが、立ち入り禁止と書かれた看板が置いてあるだけだ、入ろうと思えば入れるだろう。隣の校舎に入るには二階にある渡り廊下を渡らなければならない。が、渡り廊下は二階の奥、つまりこのすぐ下だ。そう考え、私は階段を下りた。
振り返ると、向こうにはリズがいた。こちらに向かって走ってきた。しかし、今の私に迷う余地はない。渡り廊下を渡り近くにあった階段を駆け上がった。
特別教室棟は旧校舎の次に人が少ない場所だ。ましてや今は授業中、廊下を歩いている人間などいない。
足音が聞こえてこない。彼女はこの特別教室棟には来ていないようだ。少し安心しつつ私は校舎の奥を見た。
彼女がいた、刃物を持って、彼我の距離は二メートルもない。
何かを考える余裕はもうない。
急ぎ階段を駆け上がった。
早くモニター室に駆け込まなくては。
四階についた。
彼女はまだ追いかけてくる。
目の前に立ち入り禁止と書かれた看板。
迷わず駆け上がった。
五階。
奥にモニター室が見える。
すぐ後ろにはリズ。
モニター室へと走る。
この数十メートルがとても長く感じられる。
リズが手に持ったナイフを構える。
彼我の距離、一メートルほど。
手を伸ばせば届きそうだ。
……どちらが、とは言わない。
ついにモニター室の扉に手をかけた。
彼女が腕を伸ばしてくる。
扉を開ける。
ナイフが背中に触れる。
体を滑り込ませて扉を閉める。
ナイフが扉に挟まれて落ちる。
ナイフを蹴りだして、扉に鍵をかける。
これで彼女は入ってこられない。
助かった。
私は画面の並ぶモニター室内部に視線を移した。
モニターの前の椅子に座っていたのは、リズだった。
チリン、チリン、と渇いた音を立てながら、鈴が堕ちた。
三年前に書いた小説を改稿して投稿しました。
一年半前に書いた続きもあります。
ホラー調なのはBad Startだけだと想います。