第三話 崩壊は突然に
ラーサーが旅立ってよりちょうど一年。その節目の日は酷く天気が荒れていた。朝から雷鳴が轟き、風は唸りをあげて、空は見渡す限り一面の鉛色。陽光は厚い雲にさえぎられてほとんど地上に注いでおらず、トレランス家では昼からランプを付けていた。硝子がミシミシと軋みを上げ、遠雷が屋敷の強固な石壁をも揺るがす中、ハイネは肩を使って器用に耳をふさぎつつ本を読んでいた。
「……気持ち悪い」
ハイネはぼそりとつぶやくと、本を閉じ、部屋を出た。酷く胸がつかえるような気がして、息苦しくてたまらない。こんなことはここにきてからは始めてだった。転生する前はよくこのような症状に見舞われたハイネであったが、それはどれだけ調べても原因不明。しかも、いつも決まって悪いことの前に起きていた。今回も何か、悪事の前触れなのだろうか。不安にかられたハイネは、母のいる部屋を目指して廊下を足早に進む。
そうしていくと、前方から同じように早足で進んでくる少年の姿があった。カインだ。彼は細い顎に手を当てて、秀麗な眉をひそめている。背もやや丸まっており、彼もまた何か考え込んでいるようだった。
「兄さん?」
「ハイネじゃないか。珍しいな、部屋で本を読んでるんじゃないのか?」
ハイネが昼間、自室以外の場所を歩いているのはかなり珍しかった。カインが驚くのも無理はない。一方、ハイネの方は至って冷静に返事を返す。
「いえ、ちょっと母さんに会いたくなりまして。兄さんもですか?」
「ああ。ちょっと嫌な予感がしてな」
「私もです」
ハイネとカインは横に並ぶと、ルーシーのいる一階東側の部屋と向かった。彼女はそこで安楽椅子に腰かけ、編み物をしているのが日課だった。イスにユラユラと揺られながら、トロンと眼を細め、ゆっくりゆっくりといろいろな服を編むのだ。そうしてできあがる毛糸の服を、ハイネはどんなドレスより大切にしまっていた。
足並みをそろえて歩くハイネとカイン。二人は一階へとたどり着いた。そして、母のいる部屋の扉へと手をかける。飴色の厚い扉が、軋みを上げながら開いていった。
「お母さん?」
返事はなかった。部屋の中は暗く、ランプが付けられていない。いつもならば手元を明るくするために、曇りや雨の日は必ずランプを付けているのに。ハイネは胸のざわめきを感じつつ、部屋の奥へと視線を走らせた。するとルーシーは、いつもと変わらず安楽椅子に座っているように見える。彼女はほっとすると、母のもとへと向かった。しかし――
「えっ?」
横から覗き込んだルーシーの顔は、蒼白であった。もともと抜けるように白い肌をしていた彼女であったが、今はそこに病的な蒼が加わっている。眼は虚ろで光がなく、全身が弛緩して手がだらしなく垂れ下がっていた。生気をすべて吸い取られてしまった抜けがら――ハイネの眼には今のルーシーがそのように見えた。
似ている――!
ハイネが奈々芽だったころ。彼女の母は常にこのような状態であった。自分の娘が『ある種の異常者』であることを認められず、心が内向きになって全てを拒絶した奈々芽の母。一日中イスに座り、虚ろな目で娘が正常だったころを夢見続ける廃人だった彼女の姿と、眼の前のルーシーの姿が重なる。思い出したくもない、生前のおぞましい記憶がパックリと口を開けた。古傷が疼くように、ハイネの胸が締め付けられ始める。
一体どうしたというのか。彼女に何があったのか。昨夜まで、ルーシーはハイネたちに元気な姿を見せていた。それがなにゆえに、このような姿にならねばならないのか。ハイネは思わずその手にしがみつくと、執拗に声をかける。
「母さん! 母さん!」
身体を揺さぶっても、耳元で叫んでもルーシーは薄い反応しか示さない。ハイネは狂ったように叫び、母の手を引き続ける。その声は絶叫と化していて、ハイネの鳶色の瞳は血走っていた。
そうして妹が半狂乱となっているとなりで、カインは小さな紙が落ちているのを見つけた。拾ってみると、紙にはポツポツと黒い点が周期的に打たれている。
「ハイネ、これ」
「ッ!」
ハイネは差し出された紙を奪うようにひったくった。わかる。彼女にはこの黒い点が周期的に刻まれた紙が何なのか、すぐに分かった。魔報――地球で言うところの電信――だ。この世界では割とポピュラーな通信手段で、緊急の場合によく用いられる。ハイネはその符牒の読み方などを本で見て、すでに知っていた。
討伐軍壊滅。トレランス卿ハ魔王側ニ寝返リ、現在ノ状況及ビ生死ハ不明。至急、王都マデ来ラレタシ。
ハイネは頭上から、無慈悲な雷が落ちたような気がした――。