第一話 平和なトレランス家
輪廻転生。
何の因果があったのかはわからない。彼女自身、死んだ覚えすらなかった上に、そうそう簡単に死ねる身体でもない。だが、星河 奈々芽と言う少女は確かに、ハイネ・トレランスなる存在として地球ではない世界に生まれ変わったようだ。見慣れない文字、訳のわからない図形としか認識できない地図、さらに刻印術なる超能力……。それらを見せられれば、リアリストだった彼女も異世界に転生したと認めざるを得ない。雷と同じ速さで動ける人間――彼女の父親のことだが――を見れば、奈々芽の強固に培われた常識も粉々になろうというものだ。
彼女が転生したのはトレランス家と呼ばれる貴族のような家だった。貴族の家ではなく貴族のような家というのは、爵位や領地こそあるがトレランス家のことを誰も、貴族の家とは認識していないからである。
栄光ある勇者の家。
それこそがトレランス家についての内外一致した認識であった。
窓越しに降り注ぐ日差し。空は晴れ渡って、良く乾燥しているようだ。屋敷を抜けていく風はカラリと心地よく、ハイネは翡翠の髪をなびかせながら眼を細める。時刻は昼下がり。まだ五歳になったばかりのハイネはこの時間、母の膝枕で過ごしていた。安楽椅子に腰かけた母のルーシーは、そんな彼女に眼を細め、温かい視線を注ぐ。
「ハイネ、今日は何を読んでほしい?」
ルーシーはそういうと、背後から何冊かの本を取りだした。カラフルな表紙がずらっとハイネの前に並ぶ。いずれも絵本で、子供への読み聞かせに使う童話のようだ。しかし、ハイネは並べられた本には興味を示さず、部屋の奥の本棚を指差す。
本棚には古びた厚い本の数々が並んでいた。父のラーサーが趣味や仕事の都合で集めている蔵書の一部だ。いずれも戦闘術や刻印術などについて書かれた実用書や大人向けの小説などで、五歳の子供が読むような本ではない。
「母様、あそこの御本を読んで」
「んー、しょうがないわねえ……」
ルーシーはやれやれと息をつくと、横になっているハイネをゆっくりと座らせ、本棚へと向かう。ハイネはそんなルーシーの後ろ姿を、爛々と目を輝かせながら見つめていた。
ハイネは奈々芽であったころから本が好きだった。特に、読んでいると肩がこるような厚い本が大好きだった。それは、碌に外出できなかった彼女が時間をつぶすのに最適だったということもあるし、読み応えのある物語が好きだったということもある。絵本などの短い話も嫌いではなかったが、この世界の絵本は似たような話ばかりですぐに飽きてしまっていた。
加えて、厚い本には絵本などにはないこの世界の情報がたっぷりと含まれていた。時間の数え方、通貨単位、国の名前……何の変哲もない一冊の本に、数え切れないほどの情報が詰まっている。それらの情報を仕入れる重要性を、ハイネはすでに理解していた。おかげさまで、五歳にしてそこそこはこの世界の事情が分かっている。
ルーシーは本棚から『王国の英雄』と書かれた本を持ってきた。これは初代トレランス家の当主をモチーフとした歴史小説の一つである。彼女はイスに腰掛け、ハイネを膝の上に載せると、ゆっくりこの本を開く。
「今から千年ほど前、旧文明崩壊直後のこと。衰退していた人間へ魔族の脅威が……」
耳を愛撫するような、心地よい声が響いて行く。ハイネは眼を細め、母のぬくもりに包まれながら物語の世界に浸る。ハイネにとって、優しい母の膝の上で本を読んでもらうのは至福のひと時だ。前世では母の優しさなどとは無縁だったがゆえに、この瞬間が彼女は大好きだ。
そうしてハイネがゆっくりとした時間を堪能していると、徐々に日が暮れてきた。夕陽が燃えて、部屋が紅に染まり始める。日が傾き少し昏くなってきたので、ルーシーは読み聞かせをやめて、部屋のランプに明かりを灯した。
そうしていると、彼女が居る部屋に二人の男が入ってきた。一人はがっしりとした体格の巌のような男性で、額の皺から察するに年のころは四十前後。そしてもう一人は、身長から言って十歳になるかならないかの少年だ。
年上の男がハイネの父ラーサー・トレランス。少年の方はハイネの兄のカイン・トレランス。二人は汚れた鎧をメイドに預けると、くたびれた様子でハイネたちに近づいてくる。今日も中庭で、二人は勇者としての戦闘訓練に励んでいたようだ。
ハイネの周りはこの上なく平和だが、この世界には魔王なるものが実在する。千年前に旧文明を滅ぼした黒幕であるとされ、その住処である穢れた大地――灰色の森は大陸を飲み込みつつあった。このまま放置しておけば、近いうちに大陸全土が人の住めない死の大地と化してしまう。
トレランス家の男子は、そんな現状を何とかするべく勇者として代々魔王と戦ってきた。残念ながら魔王を倒すまでには至っていないが、人間の暮らせる地域が現在でも確保されているのは彼らの活躍が大きい。そして、その三十一代目に当たるラーサーや、その息子であるカインは魔王と戦うべく日々苛烈極まる訓練を積んでいた。怪我をしてくることなどしょっちゅうで、前には血まみれになって帰ってきたことすらある。今日は体中が汚れてはいたが、まだマシな部類だ。
「おかえりなさい。訓練はどうでした?」
「今日の訓練は凄かったぞ。カインが初めて刻印を使えたんだ!」
「まあ! それはよかったですわ! さっそくごちそうを用意させないと」
どっと笑い合うルーシーとラーサー。カインも誇らしげで、まだ薄い胸板を精いっぱい反らしていた。ルーシーはすぐさまメイドを呼び寄せて、できるだけ夕食を豪華にするようにと言いつける。家の中が祭の支度でもするように、ザワザワとし始めた。それだけラーサーの「刻印を使えた」という言葉は重要な意味を持っているのだ。
刻印。
それは超能力を発生させるための器官のようなものだ。胸や手など身体の一部に蒼い痣が浮かび上がり、それに魔力を通すことで刻印術と呼ばれる力を行使することができる。行使できる力はできた刻印の形状や複雑さなどによって強さや性質が異なるものの、そのどれもが人知を超越するものだ。たとえばラーサーは雷を示す刻印を持っており、雷に等しい速度と雷撃を操る力を持つ。
この刻印こそ、トレランス家が勇者の家と呼ばれる根拠だ。刻印は基本的にトレランス家の人間にしか発現しない。人工的に刻印を刻む技術もあるにはあるが、トレランス家の人間が持つ『天性の刻印』には大きく劣る。ゆえにトレランス家の人間は初代から三十一代目の現在まで、千年にも渡り勇者として認識され、また自分たちのことを勇者と自認していた。
ただし、トレランス家の人間が全て刻印を発現するというわけではなかった。ラーサーの兄のグートという人物も、刻印を発現しなかったためトレランス家を継ぐことができず、モルガンと言う中流貴族に体よく婿養子に出されている。ハイネも刻印を発現するのならばそろそろなのだが、未だ刻印は現れていなかった。
もし刻印が現れれば、自分も戦うことになるのだろうか?
ハイネは思わず、白銀の剣を手に巨大な怪物へと立ち向かう自身の姿を夢想しようとした。だが、すぐに彼女は首を横に振る。勇者となって戦うなど一般人だった彼女に出来るはずもなかろうし、そうするつもりもなかった。このまま順調に行けば、父や兄が魔王など倒してくれるはずなのだ。彼女はトレランス家を出て、適当な貴族と結婚するか何か商売でも始めて身を立てればいい。わざわざ好き好んで戦う必要など彼女にはないのである。
もっともそれはこれから順調に行きさえすれば、の話であったが――。