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重力

作者: もみ

 その日の空は何時もより高い気がした。

 湿った風を胸一杯に吸い込み、潮の匂いが鼻腔を突き抜けていく感覚に目蓋を閉じる。うんと冷たいレモン・ソーダを飲み干した時に似た爽快感が、体中に染みる様だった。潮の香りを乗せた風が、髪を掻き上げて吹き抜けて行く。

 ゆっくりと目を開き、そこに大海原が広がっているのを認めてから、私は胸ポケットの中身を上から握り締めた。


 その日、私の乗った客船は、波間を滑る様に目的地の小さな島へと向かっていた。たった一人の海外旅行は、此処が最後になる予定だった。

 違和感を覚えるほどに澄み渡った空は、私を迎え入れようとしている風にも、愚弄している風にも見えた。けれど、生憎私に翼は無かったし、私の体はあまりにも重かった。だから心配は要らないよ、と、流れて行く雲を心の中で諭す。

 雲は何も答えない。暫く見つめていると、直ぐに形を変え、その内私の視界から姿を眩ました。


 私の体は重たい。少しばかり余計な重力が働き過ぎているのだ。誰かがその意地の悪い意思でもって、私を深い暗いところへと引きずり込もうとしているのだろう。

 それならば、逆らう事は馬鹿げている気がした。


「綺麗ですね。」

 後ろから掛けられた声が、私を現実に引き戻した。振り向くと、そこに立っていたのは老いた日本人女性で、彼女は微笑みながら私に会釈した。私も軽く会釈を返す。日本人観光客の少ないこの船での老婦人との接触に、私は驚きを隠せなかった。

 上手く返事を返せずに困惑する私に、彼女は微笑を浮かべたまま、下から覗き込む様にして私の目を見据えた。

「御旅行、ですか。」

「えぇ……まぁ。」

 曖昧な答えを返し、婦人の瞳から目を逸らす。婦人は私の隣に立ち、遠い水平線に目をやった。ふと、そうしていると彼女には海の向こうが見えているのかも知れないな、と、くだらない考えが脳裏を過る。何か尊いものを見ている様な、重々しい沈黙を持った彼女の眼差しは、それ程に透き通ったものだった。

「こうして、海を眺めるのが好きなの。」

 嗄れた声がそう呟く。

 落ち着き払ったその言葉に対し、果して何と言えばいいのかと考える間、婦人の顔をまじまじと見つめてしまった。口元に笑みの形を描く様に深く刻み込まれた皺が、彼女が今までの年月を微笑の中に生きてきたことを物語っていた。

「はぁ……そうなんですか。」

 結局、何と答えて良いかは解らずに、そう気のない返事を返す。婦人はそんなことには構わない様子で、海ばかり見つめて話を続けた。

「ええ。主人の生前は、良くこうして二人並んで海を眺めたものでした。」

 私も婦人の見つめる海に目をやった。婦人の発した言葉が、潮に濡れた風と共にしっとりと胸に染み入ってくる。

「御主人、亡くなられたんですか。」

 半ば無意識の内に出てしまった言葉だった。

 キョトンとした表情の婦人を見て、やっと自分のあまりの無礼さに気づき、慌てる。

「あ、その……すみません。つい……」

 たどたどしく謝罪を述べる私に、婦人は不思議そうに瞬きをして、柔和な笑みを浮かべた。優しげな目尻の皺がはっきりと浮かび上がる。

「良いのよ。気にしないで。」

 安堵すると同時に、彼女の気品の漂う微笑に思わず見とれていると、婦人は再び海の向こうへ視線を戻した。

「そう、死んでしまったの。もう、何年になるでしょうね。それ程、昔ではないけれどね、私からしたら。」

 そうして、婦人は目を細めた。終始微笑は絶やさぬまま、瞳に浮かぶ表情だけがうっすらと変化していく。

 彼女の色素の薄い瞳は、酷く寂しそうにしていた。そこにあるのは決して悲しみではない。この老婦人が大切に胸に抱えているのは、まるで深雪に覆われたかの様に静まり返り、凍てついた感情であるのだろうとは、麻痺した様な頭にもぼんやりと理解できた。その得も言われぬ色は、表現の仕様の無いもので、私は発するべき言葉を失う。

 開いたままの口の中は、あっという間に乾いていく。声が出ない感覚をその所為にするのは卑怯だと、自分を叱り付けた。

「私を遺して、一人で……。」

 老婦人は、その寂しい目をそっと伏せた。

「本当は、一緒にあの世に召されたら幸せだったのでしょうね。私だって、もう先は長くないのだしね。」

「素敵だと思います。」

 乾いた唇を嘗めて、掠れた声でそう言うと、婦人は私の方をちらりと見て、すぐに水平線に視線を戻した。

 深い孤独な感情を孕みながらも、決して崩されない微笑に、寧ろ婦人はがんじがらめに縛り付けられている様に見えた。

「有難う。けれど、叶わなかったのだから、褒めて頂く権利はありません。」

 婦人はごく小さな声でそう言って、綺麗に畳まれたハンカチで目尻を押さえた。

 彼女は悔やんでいるのだろう。詳しい事情は全く解らなかったが、彼女の痛切な程の慚愧の念と喪失感は、手に取る様に分かる。

 分からない筈がなかった。

 だから私は首を横に振った。ここ最近では何時になく感情が高ぶっているのを感じていた。

「それでも素敵です。例え叶わなくても、きっと御主人も、幸せだったでしょうね。」

 そう呟いた言葉は自分のものには思えなかった。こんな事を自分が言ったなんて、到底信じられない。孤独な老婦人の姿は、何故だか私にはとても美しいものに思えた。

 美しい人は私をじっと見つめて、それからいきなり泣き崩れた。表情がくしゃりと歪む瞬間、微笑みは霧散した。激情を押し込めていた深い物言わぬ寂寥は、もうすっかり溶けたのだろうか、と、婦人の泣き顔に思う。

「有難う。どうも、有難う。」

 涙混じりの嗄れ声がそう何度も繰り返すのを、私は黙ったままただ聞いていた。彼女の泣く姿は、それでも矢張り神々しい程に美しく、一種神聖なものを纏っている様に見えた。

 ひたすらに感謝の言葉を発しているのは自分自身であるかの様な、良く分からない錯覚に囚われる。

 胸ポケットがずしりと重かった。



 甲板から部屋に帰って、私はごろりとベッドに転がった。

 泣き止んだ婦人は、何度も深く頭を下げながら何処かへ行ってしまった。恐らく、部屋に帰ったのだろう。その頃にはもう、彼女の表情には柔和そのものの微笑が戻っていた。

 弱ったなぁ。

 胸ポケットから壊れた万年筆を取り出して、天井の方へ翳してみる。私の恋人が、生前愛用していたものだ。不意に目頭が熱くなった。

 貴方が死んだら、私も死ぬからね。

 いつかの自分の涙声が脳裏に木霊する。事故に逢い、瀕死状態に陥った彼の手を握って、私は涙ながらにそう誓ったのだった。

 彼は何と言ったのだろう。あの時、あまりの悲しみに半ば錯乱状態にあったからか、もう覚えては居ない。

 とにかく彼は、そのまま私の目の前で息を引き取った。その誓いが、私が彼に言った最後の言葉になった。

 本当に彼はそれを望んでいるんだろうか、という、もうとうに答えは出た筈の問いかけが浮上してきて、激しく自己嫌悪する。

 そもそもこの船には、その決心のもと乗ったのだった。重力に引かれるままに沈んだ先、闇を湛える海原の底に、私は彼の幻を見た。

 彼も海を眺めるのが好きだった。私たち二人も、良く海の見える場所に出かけたものだった。


 結局、私の感じたあの婦人の美しさなど、私が作り出したものに過ぎなかったのかもしれない。自分自身を擁護するために、まず似た境遇の彼女を慰め、固定された微笑を崩してしまった。

 もしかすると、私は取り返しのつかない無責任なことをしてしまったのかも知れない。

 私にお礼を言われる権利など無いのだ。あの老婦人はそんな事は知る由もないのだろうが。だからこそ、悶々とした気持ちを掻き消す事は出来なかった。

 私自身の発した言葉が、私を縛り付けていた。

 どうやら、予定は大幅に狂うことになりそうだ。この船は私を乗せたまま島に着くだろうし、私は日本まで無事に帰るだろう。あの婦人はそう遠くない未来、愛する旦那さんの元へ旅立つのだろうが、私じゃあきっとそうは行かない。

 海の底深くに沈むはずだったこの重い体は、地べたを這いずり続けるのだ。

 そう考えると気が滅入ったけれど、同時に得体の知れない笑いが溢れてきて、私は困惑した。困惑し、しかしどうすることも出来ずに、只こみ上げる感情に身を任せ、私は微笑した。

 笑っている筈なのに、息が詰った。

 もしかすると私の微笑みは、幾分か凍てついたものになっていたかも知れない。だが、そんなことはどうでも良いことだった。


 万年筆が手から滑り落ち、私の枕元に転がる。

 ほら、矢張り、重力が強すぎる。これだから嫌だと言うのだ。彼もこうして深い闇に引きずり込まれてしまったのだ。

 私は万年筆を拾い上げて、丁重に胸に抱いた。そのまま、何時の間にか寝入ってしまったようだった。



 次の朝私が目覚めると、船の中は大騒ぎになっていた。何でも、昨夜の内に乗客が一人亡くなったらしい。

 亡くなったのは老婆だと聞いて、私はハッと息を飲んだ。騒いでいる乗客達の中に、あの老婦人は見あたらなかった。

 反射的に胸ポケットに手を伸ばす。大きくなった鼓動と一緒に万年筆が揺れる。

 私を縛り付けていた何かが音を立てて崩れていくのが、手に取る様に解った。

 何故だか飛び込むのは酷く恐ろしい気がした。否、元々怖かったのに、目を逸らしていただけなのかも知れない。

 私は途方に暮れて、只水平線を見つめることしか出来なかった。


 頬を撫でる潮風は冷たい。何の前触れもなく涙が零れ落ちた。

 今目を凝らしたら、歪んだ視界の中に、海の向こうが見えそうな気がした。

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