第7話 約束
誰の温もりも残っていない朝。
冷たい空気が肺を満たす中、どこかよそよそしい鐘の音が、今日という日の始まりを淡々と告げていた。
「それじゃあレオ。ノーラの手綱をしっかりと握っておくように」
「おう!絶対に無茶はさせない」
ノーラはわざと大きな欠伸をして音を立てる。頭はまだ覚めきっていない。
「じゃあ、また後で会いましょう」
そう言い残すと、エルシアは肌を柔らかくする薬の材料を求めて去っていく。深くかぶった紺色のフードが、朝の薄暗闇に溶けていく。
「私、もう怪我は治ってるんだけどな」
「琥珀都は敵地だろ?戦闘になる可能性だってある」
戦闘をするたびに傷を負うと思っているのだろうか。……まぁ、事実ではあるが。
ノーラは腰に差した剣に目をやる。元々は真っ黒だった剣だ。
黒と深紅が溶け合う柄の色合いは、これまでノーラが流した血がそのまま染み込んで凝り固まったかのような、とても力強い色をしていた。
血そのものが、剣にこびりついているわけではない。
「……もし戦いになっても、なるべく怪我をしないようにするよ」
「約束だからな」
言葉にするだけでは不安だったのだろう。レオはノーラの目の前に小指を差し出した。
指切りなんて、と笑い飛ばすことは簡単だった。
けれど、レオの瞳があまりに真剣で、ノーラは観念したように自分の指を絡ませた。罪悪感とともに。
「じゃあ、武闘大会の応募に行こう!」
「……そうだね」
レオは満足したように頷くと、回廊を歩き出す。
東の空が朝焼けに染まり、差し込んだ光から逃れるように、ノーラは影へと潜り込んだ。
「せっかくの美食の街なのに朝食抜きなんて、貧乏は辛いよね」
路地裏から挽きたてのコーヒー豆の香りが運ばれてくる。この苦い匂いが今のノーラには心地良い。
「だな。俺もだいぶ慣れたけど、旅に加わった頃は辛かったなぁ」
「レオは育ち盛りだもんね」
お腹いっぱい食べさせてあげたいけど、なかなか難しい。
昔、ノーラが料理を担当するたびに、自分の盛り付けを減らしてレオに分けていたことがあったが、今ではしていない。
それが露見して、レオが三日間口を聞いてくれなかったからだ。
エルシアからも怒られたが、ノーラは未だに理由が分かっていない。なにが駄目だったのだろう。
「おっ!あの建物じゃないか?」
レオの声に導かれるように視線を向けると、胡散臭げな魔法使いや、身の丈ほどの斧を担いだ大男たちが、闘技場の前で長蛇の列を作っているのが見えた。
「試験に合格しなきゃいけないんだっけ?レオなら余裕だろうけど」
「強そうな奴らも結構いる!楽しみだなぁ……」
「私も参加したいんだけどな」
レオに聞こえないように小さく呟く。
レオのように戦闘を楽しんでいるわけではないが、純粋に技術を磨きたいと思っている。そのために多くの強敵と戦いたい。
「うおおおおおおお!!」
「うわっ。うるさっ」
突然の野太い歓声に、ノーラが思わず吐いた言葉も掻き消されていく。周りの戦士たちの視線は、すべて一人の男に吸い寄せられていた。
「ベネディクト!ベネディクト!」
戦士たちが狂喜乱舞する中、ベネディクトは白く眩しい歯を見せて笑いながら、大衆に向かって手を振っていた。
「約束されたチャンピオンのお出ましだね」
レオにしか聞こえないよう、声を潜めて話しかける。
「カース家だっけ?その一族の当主が、必ず武闘大会で優勝するんだろ?」
「そう。自分よりも強い相手でも、そこが武闘大会であれば運命が味方して勝っちゃうんだ」
「……狂った世界だよな」
終わりの訪れない世界。言い換えれば、変化の訪れない世界。
すべてが予定調和だ。
「優勝できないのは確定だけど、それでも大会に参加するの?」
ノーラがレオに問いかけると、彼は瞼を強く閉じてしばらく口を閉ざした。
「……参加する。優勝できないと分かっていても、優勝するつもりで戦う」
「そっか」
「それに、決勝戦以外は真剣勝負だから、参加する価値はある」
レオは周囲の大会参加者たちを順々に見つめている。ノーラも周りを見渡すと、なんとなく強そうだなと感じる人を何人か見かけた。
彼らは闘技場の奥へと入るベネディクトの後ろ姿を、目に焼き付けるように凝視していた。その瞳に炎が宿っているように見える。
彼らにとっては、ベネディクトは『最強』であり、超えるべき壁なのだろう。
「知らないって幸せだね」
ノーラは小さく笑うと、ぱんぱんに膨らんだポケットから本を取り出す。文字を読み、時々レオと雑談をしては、少しだけ足を動かす。
ちょうど章が変わるタイミングで、二人は列の先頭へと到達した。
「次でお待ちの方、どうぞ」
石造りの円形闘技場の奥から、男性の声が聞こえてくる。恐らく試験官のものだろう。
いつの間にかレオが歩き出していて、ノーラも慌てて動き出す。
「応援してるから、頑張ってね」
「ありがとな!まぁ、戦闘はないんだけど」
レオの背中に向かって応援を投げると、ノーラは観客席へと向かう。すると、観客席の中央で腕を組んで堂々と座っているベネディクトを捉えた。
相変わらず、自信満々の表情だ。
生まれた時点で栄光が約束されている、運命に愛された男。
ノーラはいつの間にか止まっていた足を動かすと、ベネディクトへと近づいて、こう尋ねた。
「隣、座ってもいいかな?」




