第3話 蜂蜜の朝
眠りに落ちるのは一瞬だったが、起きるのには時間がかかった。ノーラが最初に気づいたのは、耳鳴りがしていたことだ。
昨日の疲れは少しも取れておらず、眠ったというより、気絶していた時間が終わっただけのような感覚だ。
「おはよう」
喉の渇きと、肌に張り付く毛布に不快感を感じていると、エルシアの声が聞こえてくる。
「まだ寝ててもいいのよ」
「んー。……いや、寝れないだろうし、起きるよ」
ノーラが立ち上がったあと、毛布には握り拳ほどの大きさの血痕が残されていた。
「シア。包帯変えるの手伝って」
まとわりつく服が邪魔だとばかりに床に放り投げる。
「ちょっと……。寝てるとはいえ、レオもいるんだから」
「この子は起きるのが遅いから大丈夫。一度寝たら絶対起きないし」
それでも、エルシアは不満げだ。
レオがこの時間に起きないのは分かっている。リスクなどないのに、恐れる必要があるのだろうか。
「まあいいわよ。体はどう?」
「絶好調、かな?」
「なんで疑問符が付いているのよ?」
ノーラは、当たり前のように嘘をつく。
この程度の傷で他人に心配をかけるなど、あってはならない。
「その傷で絶好調なわけないでしょうに……」
エルシアはどす黒く染まった包帯を魔法の火で燃やした。冷え切った遺跡の床に、灰が零れ落ちる。
「紅茶、まだ残ってるはずだから待ってて」
汚れた手を水で洗うと、エルシアはポットに火を点ける。
「シアって、冒涜的だよね」
祭壇の台座をテーブル代わりに、湯を沸かす。なんとも罰当たりな休息だ。
「あなたほどじゃないわよ」
「この蜂蜜、美味しくないね」
甘いものを食べられると喜び、紅茶を口にしたノーラが肩を落とす。
「昨日狩りをしたときに、レオが採ってきてくれたんだけど……」
強烈な薬草の苦味を含んでいる。正直言って、飲めたものじゃない。
「お残ししてもいい?」
ノーラが上目遣いでエルシアを見つめる。
「……今回だけよ」
「はーい!」
エルシアは苦笑いをして本を取り出す。ページを捲る音と、レオの寝息。そして耳鳴り。
入口から忍び込んだ朝日が、遺跡の床に落ちる影を徐々に後退させていく。やがてレオが光に包まれ、ひとつ寝返りを打った。
「ふわ~。……おはよ」
寝ぼけまなこを擦りながら、レオが挨拶をする。
ノーラの手には、既に半分になって小さくなったパンが握られていた。
「おはよう。レオの準備ができたら、琥珀都へ出発するわよ」
背教者一行がこの街にいることは知れ渡っている。
本当は昨日のうちに出発したほうが良かった。ノーラの中に、無茶をした自分を責める感情が浮かんでくる。
深手を負わなければ、仲間に迷惑をかけることもなかった。
「よし。いつでも出発できるぞ!」
若者は元気で羨ましい。
ノーラが日常で大きな声を出したのは、最後にいつだっただろうか。
「じゃあ出発しよう」
ノーラはレオにまで大丈夫かと聞かれたくなくて、三人の中で最初に立ち上がる。
外に出ると、肺を満たしていた澱んだ石と埃の臭いが、むせ返るような濃密な緑の匂いへと塗り替わる。
鳥のさえずりと風が枝葉を揺らす音で満たされて、耳鳴りも和らいだように思えた。
「琥珀都に着いたら、美味しい蜂蜜を買いたいな」
「もしかして、昨日俺が採った蜂蜜、不味かった?」
「薬草を噛んでるみたいだった」
ノーラの率直な意見に、レオが気を落とす。
「せっかく頑張って採ったのに」
「竜人の肌は硬いんだから、蜂に刺されないでしょ?」
「そうだけど。蜂にまとわりつかれたくはないだろ?」
二人の何気ない会話を、エルシアは微笑みを浮かべながら眺めている。日差しを浴びた金髪が、高級な蜂蜜のように見えた。
「レオってさ、本当に武闘大会に参加するの?」
ノーラが、昨夜寝る前に疑問に思ったことを口にする。
「レオは肌が硬いから、人間じゃないってバレちゃわない?」
「あっ」
どうやら、そこまでは考えが至っていなかったらしい。
「……攻撃を全部避ければ問題ない」
「ふふっ」
レオの子供じみたセリフに、エルシアが思わず吹き出す。
「はっきり言って、無理だと思うよ?」
「っ……。絶対あれだろ。自分が参加できないからって、俺の参加を阻止しようとしてるだろ!?」
「半分はね」
レオが、凄い形相で睨んでくる。
半分はレオのことを思っての発言だったのだが。
「エルシア!魔法でなんとかならない?」
「うーん。……魔法では無理だけど、薬なら可能かもしれない」
エルシアの言葉に、レオが顔を輝かせる。
「乾燥や加齢で、皮膚が硬くなるでしょ?そういったときに使われる薬があるの」
「……ほんとにそれ大丈夫?俺の皮膚はすごく硬いよ」
「薬効を強めれば、なんとか……」
最後の方は、小声になっていた。
「ま、まぁ……。あんまり期待せずに待っているよ」
「そう言って期待しちゃうんでしょ?」
ノーラが茶化すと、レオは「うるさい」と言って目を逸らした。
「レオが武闘大会に出れませんよーに」
「なんてこと言うんだよ!!」
ノーラの抑揚のない言葉に、レオがすかさずツッコミを入れる。
「ふふっ。冗談だよ」
三人の笑い声が、森の中に溶けていく。
その温かな音色は、ノーラの頭の芯で鳴っていた耳鳴りを、優しく塗り替えていった。




