第2話 琥珀都へ
木漏れ日が差し込む美しい森だったが、ノーラが通り過ぎる場所だけは汚されていた。
胸から滴る血が、苔むした岩を黒く染め変えていく。
「痛いなぁ……」
地面を濡らす血の量が、ノーラの死を宣告していた。だが、その身に宿る加護が、その宣告を拒絶する。
肉体が悲鳴を上げ、脳が機能停止を訴えても、魂がそれを許さなかった。
視界が霞みながらも、ゆっくりと足を進める。しばらくして、木々の隙間から、苔むした灰色の石組みが姿を現す。
「やっと着いた」
もう歩かなくていい。その事実だけが、切れかけた意識を繋ぎ止める。
ノーラは招かれるように、崩壊した石壁の内側へと吸い込まれていく。カビと乾いた土の匂いが鼻をつく。
「おかえり。……また無茶をして」
古い石畳に降り立つ、ほっそりとした影。エルフの長い耳と、透き通るような金の髪。
エルシアの、鈴の音のように涼やかな声が響く。
淡い光が傷口を覆うと、焼けるような激痛がスッと引いていく。致命的な傷は塞がったが、傷口はまだ熱を持っている。
「ありがと。シア」
ノーラが感謝の言葉を口にすると、エルシアは怒鳴りつけたいのか、それとも抱きしめたいのか、本人さえ分かっていないような表情を浮かべた。
この表情は、何度も見てきた。怪我をして帰ってくるたびに、向けられる顔だ。
「……えっと、とりあえず着替えたら?俺は出ていくから」
気まずい沈黙が続く前に、レオの咳払いが聞こえてくる。髪の間から突き出た竜の角はまだ短く、小指の先ほどの丸みを帯びている。
ノーラが包帯を巻き、着替えを終えると、レオを交えて報告会を行う。
あの街の神性を指輪に吸収できたこと、領主を殺してしまったこと、傷を負った経緯を話した。
「とまぁ、以上かな。無事、この街での任務は達成したよ」
ノーラは笑顔を浮かべているが、エルシアはため息を吐き、レオは首を振っている。
「やっぱり、私たちも一緒に行くべきだった」
「狩りなんてしてる場合じゃなかったな」
人間……短命の種族の街では、買い物をすることすら難しい。彼らは戦争の神の信者なのだ。
「目標は達成したんだからいいじゃん。私は死なないんだし」
エルシアは口を開くが、言い聞かせても無駄だと悟り、言葉を飲み込む。でも、それに気づかないほど、ノーラも鈍くはない。
ノーラはいつもと同じ言い訳を始める。
「物事に終焉を与える神、テレスフィアは、優しくも慈悲深くもなかった。けど、確実に争いを終わらせた」
その時代を知らないのに、エルシアはそう言いたげな顔だ。構わずノーラは続ける。
「今では争いは終わらない。争いの元凶が死んでも、すぐに別の統率者が現れる」
「資源を断って戦争を継続できなくしても、木の根やネズミを喰らい、素手で争いを続ける、だろ?」
レオがノーラの言葉を奪う。
「私のセリフ……」
「楽園ではなかった。でも、あの神がいたから、終わることができた」
エルシアが噛み締めるように言う。三人の中で、ただ一人だけ『終わりのある時代』を生きていた。
「でしょ?だから、テレスフィアを復活させるために、多少の犠牲は仕方がない」
ノーラが毎度お馴染みの結びをする。
「多少じゃないんだけどな……」
レオの呟きは、ノーラには届かなかった。
エルシアは小さくため息をこぼすと、次の行動について相談を始める。
「この街での目的は達成したし、移動しましょう。同じ場所に居続けるのはリスクが高い」
「テレスフィアに縁のある場所で近い場所だと、琥珀都かフィクサだけど、ノーラはどっちがいい?」
レオが勝手に目的地を選定する。他にも選択肢はあるというのに、安全な場所しか候補に挙げていない。
二人に守られているんだな、と感じる。
「うーん。じゃあ、琥珀都にしようかな。美食の街だし」
こそこそ活動する必要があるのは変わらないが、あそこには昔からの協力者もいる。
それに、たまには羽を伸ばすのもいいだろう。
失血による倦怠感には慣れたものだが、それでも、ノーラの精神に影響を与えないわけではない。
「それじゃあ、明日出発しましょう。ノーラ、今日はもう休みなさい。死なないからって、無理しないで」
「はーい」
ノーラの間の抜けた返事に、エルシアとレオは目を見合わせている。
「……そういえばさ、琥珀都って武闘大会が毎年開かれてるよな?」
「そうね。参加したいの?」
「ああ。俺はまだ子供だから、頭になにか被れば人間って誤魔化せるかなって」
レオは小さな角を指差している。竜人として武に重きを置いていて、強敵を見ると突っ込んでいく。
それなりの付き合いを経て、レオの人となりは理解しているが、それでも困った癖だと思う。
「私も参加したい」
「駄目よ」
エルシアに釘を刺され、ノーラが唇を尖らせる。
「怪我人なんだから、大人しくしてなさい」
「仕方ないかぁ。じゃあ、美食と芸術で満足するよ」
そう言うと、ノーラは床に敷かれていた毛布に体を滑り込ませて、ミノムシのように背を丸める。
そのささやかな動きだけで、胸の傷口が焼けつくように熱を持った。思わず漏れそうになった呻き声を、歯を食い締めて抑える。
「おやすみー」
それを悟られていないか不安になって、たまにしかしない寝る前の挨拶を口にする。
二人の声が、わずかな間を置いてノーラの鼓膜を震わせた。
立場も寿命も違う。それでも、同じ場所に立つと決めた仲間だ。信用はしてる。頼りにもしている。
でも、心配はかけたくなかった。




