天使ラファエルからの二択
「……涼ちゃん、久しぶり」
おかあが言う。おかあがいた。
「おかあ!」
一目散に走って、おかあに抱きつく。
「おかあ! おかあ!」
涙は洪水の様に出て、おかあのトレーナーの肩を濡らす。
「涼ちゃんごめんね……」
「ほら、嘘じゃなかったら?」
ラファエルが言う。見た目も名前も外国人なのに、こいつは日本語を喋る。
「ほんとやった……」
放心状態の私のおでこを、ラファエルは羽根で飛びながら小突く。
「で、どう? 結論は出そう?」
「待てし、まだ後二日あるんでしょ?」
「そうだけんど、後二日しかねえんだからはんでかんがえてもらわなきゃ」
昨日来た時はこうじゃなかったのに、私の真似をしてかラファエルは完全に甲州弁を習得していやがる。
「分かってるけんど、ほんな大事なことこの三日じゃ決められん」
「じゃあ、今まで通りでいいじゃんけ?」
「待てし! 後二日でちゃんと考えるから……」
「じゃあ、よろしくたのんごいす」
そう言ってラファエルは、昨日突然我が家に現れた時と同様に、眩い黄色の光の中にさっと消えてしまった。
甲州弁、間違えてるじゃん。あいつ私が色々してる間にうちのテレビで山梨ローカルの番組ばっかり見てたに違いねえ。現にさっき出てくるなり「小遊三は天才だな!」とか言っていた。それは私も同感だけど。いやいや、そんなこと考えてる場合じゃねぇ、後二日しかねえんだから。そう思い直しても、私は何からどう考えれば良いかさっぱり分からん。
そもそもこんなこと、今すぐ結論出る訳ねえ。後二日あるんだから、まずは明日何話すかちゃんと考えよう。今日は感情のままに喋っちゃったから。
「おかあ、なんで私のこと置いて行っちゃったの?」
「涼ちゃんごめんね、ごめんね……」
このやり取りをもう十回以上はしている。
「ごめんねばっかじゃ分からんよ、おかあ」
「せやね、ごめんね、あまた、言っちゃった」
そう言っておかあは切なく笑う。これは私の好きなおかあの笑い方と違う。私の好きなおかあは、もっと太っちょな腹から目一杯ガッハッハって笑て、太陽みたいに家族を元気にする笑い方をする。
「やっぱりおとうのこと?」
おかあは申し訳無さそうに、下を向いて両手を擦り合わせている。
「あんなの、おとうが全部わりいよ」
おかあは今度は私の顔を見て、大きい目に涙をいっぱいためて真っ赤になってる。
私はおかあを泣かせたい訳じゃねえ。
「……おかあ寝転んで」
「え?」
「前みたいに肘ついて寝転がってテレビ観ろし」
おかあはこんな時に? という顔をしながらゆっくり寝転がる。最後に見た寝ているおかあは、花を両脇に敷き詰められていた。
戸惑いながら寝転ぶおかあの足元を枕にして、私も寝転ぶ。テレビをつけると、昼の下世話なワイドショーをやってる。
『甲斐性のない旦那なんかね、あたしとっくに追い出してやったわ!』
「こうやってよく一緒にテレビ見てしょうもねえ話したよね。私この時が一番幸せだった」
おかあはテレビ見ながら泣いてる。私はおかあの顔を見ない様にして、ゆっくりおかあの腹まで移動して、それを背もたれにして座る体勢に変える。昔ほどじゃないけど、おかあの腹は出っぱっててゆっくり上下に動く。その動きを自分の背中で感じると、私はいつだって眠れた。
「おかあ、ちゃんと生きてるなあ」
おかあは返事をしなかった。
ラファエルが突然来て急に三日後とか言われて私は焦ってるけど、これを口実に少しの間学校に行かんでも良いのは正直助かってる。
みんなは上靴を下駄箱に置いて帰るけど、私は毎日絶対持って帰って朝それを袋から出すのが習慣だった。二日前、それを久しぶりに履いた。
一週間ぶりに教室のドアを開けると、私の机には教室でみんなで飼ってる亀が置いてあった。亀も突然水槽から出されてかなり戸惑っている様で、甲羅に顔や手足を引っ込めたり、机から片足落ちかけてパニックになったりしている。
「あ! 臭田が来たぞ!」
西村が叫ぶ。私は何でも無いように亀の甲羅を掴んで教室の後ろに置いた水槽に入れてやる。亀はやっと息ができたというような顔で、首をぐいっと出しじっと私の顔を見つめている。
「うわ! 臭田、亀を素手で掴んだぞ! 余計に臭くなるぞ!」
今度は佐藤が叫ぶ。西村がさっきまで亀のいた私の机の端を触り、松田さんにタッチする。
「げっ 最悪! 臭田菌が移るずら!」
そう言って赤井さんにタッチする。赤井さんは佐藤にタッチし、それを延々繰り返して遊んでいる。全員が、私が泣き出すのをじっと見て待ってる。
私は彼らを横目に、トイレに手を洗いに行く。亀は確かに臭い。でも生き物はよく見れば全部可愛い。そうおかあが教えてくれた。
教室に戻ると、あいつらのタッチゲームは終わっていた。
少し遅れてきた江口が鼻の穴をパンパンに膨らまして、右手の空間に女を見立て、肩に手を回す素振りをした。私はそれまで彼らを見んようにしていたけど、さすがに江口の方を向いちゃった。
「臭田の父ちゃんが、あの柴田通の『ローズプラザ』に女連れて入ってくところ〜」
「江口のヤツ、また真似してる! ウケるー! 臭田の父ちゃんエロ〜!」
教室中が笑いに包まれる。私は絶対に泣かん。泣いたら負け。これはおとうが言うてた。
家帰ってずっとコタツにうっぷして泣いてたら、突然窓がピカって光った。雷! そう思ってうっすら開けても目を開けられんぐらいの黄色い光。
天使姿のラファエルが登場した。『フランダースの犬』の再放送の最終回で見たみたいに、金髪で背中に羽を生やしてる。白い装束を着て、身長は五十センチぐらい、目は青い。
「そんなに不幸そうなあなたに、高名なラファエル様がチャンスを持って参りました!」
いやいやお前誰、と私が口に出す前に、ラファエルは喋り出した。
「今あなた泣いてましたね? 何があったんですか?」
「……いや、あんた誰」
「あんた、とは頂けませんね! 私は天使界の中でも高名な天使、そう天使オブ天使、ラファエル様です!」
私は泣き疲れて馬鹿な夢を見ているのだと思って、自分の頬を思いっきり引っ張ってみた。頬はヒリヒリした。
「ほらほら、これ以上自分を痛めつけてないで。このラファエル様にお悩みを話してごらんなさい」
「……天使なんている訳ねえ。ひどい夢を見てるだよ」
「まあ、最初はそう仰るのも無理はありません。何せ、天使を見たことがあるのは人間でもほんの数人なんですから。天使は世界中でも、本当に不幸な人の所にしかやって来ませんから」
私はクラクラ目眩がしてきた。でも一番えれえのは、初対面の奴に「本当に不幸な人」と言われたことだ。
「さあ、あなたの一番の悩みを話してごらんなさい」
もうこれが夢なら抵抗せず相手のペースに従う方が楽そうだと、私は切り替えた。
「……おかあが死んだこと」
「やはりそうですね! あなたのお母様、草田春子さんは、一週間前交通事故で亡くなられました。お母様は相当あなたを可愛がってくれましたら、それはそれはお辛かったことでしょう」
私は無言のまま目を丸くした。何で初対面のこいつがそんなこと知ってるだよ。やっぱお前誰じゃん。そんな私に構わず、ラファエルは話し続ける。
「それでも大丈夫! この高名な天使、ラファエル様が、貴方とお母様をお会いできるように致しましょう!」
「嘘つけ」
心の声が思わず漏れてしまった。
「嘘なんかじゃありませんよ! 明日、必ず貴方はお母様にお会いすることが出来ます‼︎」
いくら夢だから向こうのペースに従うと言っても、いよいよえらくなってきた。
「そんなん出来る訳ねえ! おかあはもう死いだの!」
私の予想外の急な大声に、ラファエルの羽が一瞬ピクッと動いた。冬の終わりの窓ガラスもピキッと音を立てた気がする。ラファエルは落ち着きを取り戻すため深呼吸をする。
「そう。貴方のお母様は亡くなられました。でも貴方があの世に行けば、お母様にお会いすることが出来ます」
「あの世って……私も死ぬってこと?」
「いえいえ、その必要は全くございませんよ。今はお試し期間ですから」
「お試し期間?」
「そう。明日から三日間、貴方はあの世に行ってお母様にお会いすることが出来ます。 そしてある決断を貴方がして頂ければ、ほぼ恒久的にあなたはお母様にお会いすることが出来ます」
「ある決断?」
「明日から三日間、貴方はお母様と自由に時間を過ごせます。その中でもっと一緒に居たいと思ったら、貴方が死んだ後、あの世でお母様とまた一緒にいることが出来ます」
「はあ、それならほれでいいじゃん」
「ただし!」
ラファエルは急にやたらと語意を強くする。
「それはつまり、『あなたはこの世でもあの世でも生きなければいけない』という事を意味します」
「……」
「あなたは此の所、早く死にたいと、そればかり考えていますね?」
おっかねえ。夢に出てきたヘンテコ天使にしては、私の事を知りすぎてる。
「お父様はお母様の他に女性を作って出て行かれてしまった。その上その女に刺されて心中させられた。それに貴方は学校で虐められている。謂れもなく草田なのに臭田と呼ばれ黒板の日直の欄にもそう書かれたりして、今日だって亀を机に置かれたりお父様のことでからかわれたり。それに上乗せしてお母様が交通事故というより自殺を……」
「うるせえ‼︎」
私はさっきの大声よりもっと大声を出した。ラファエルは明らかに身体を仰け反って驚いている。やり過ぎかもしれないと思ったが、その時にはもう私は涙を流していた。
「落ち着いてください。まずあの世は、貴方にとっては信じられないかも知れませんが、この世と同じ様な世界です。学校があります。会社もあります。そしてお母様は、今の貴方と同じ、団地に住んでいます」
もう訳が分からなんだ。何を訊き返せば良いのかも分からん。
「だから、あの世で生きていくという事は、この世で生きていくという事と同じように、苦労が伴います。虐めもあれば、クビもあるし、自殺もあります。最も、自殺してもあの世ですから、これ以上行くところが無くて死ねないのですけど」
クックック……とラファエルは肩を揺らして笑う。日本一、いや世界一笑えないブラックジョークだ。
でも恐らく彼がそう思っているように、私は究極の二択を突きつけられてる。おかあが死んでから、私はずっと死ぎてえと思ってた。そして死ぬことは、全て今抱える感情も含めて苦しい事から解放されることであって、あの世の存在なんて私は考えたことも無かった。ゴールを求めて死にたいと願ったのに、そのゴール自体無くなるなんてそんなの一番の地獄じゃねえずらか。仮に来世があっても、私は感情をきっと持たんもの、例えば石ころとかになりてえと思ってた。
「ですから、あなたは二つの選択肢から選ぶ必要があります。あなたがあの世へ行った時、お母様と再会する事を選ぶか、それでも辛いことはきっと山ほどあるしあの世でも生きるのは御免だと、あの世へ行かないことを決めるか」
「死んだ人があの世へ行かんなんて事出来るの?」
「出来ます。その代わり魂ごと全て消えてしまいますので、二度と生まれ変わる事はありません」
「……じゃあ、私があの世へ行ったら?」
「あなたとお母様の魂が次に転生するまで、一緒に暮らす事が出来ます。そうですね、一つの魂が転生するまで平均百年はかかりますので、この世で予定していた以上に貴方はお母様と一緒にいる事が出来ます。ただし学校へ通い、就職し、という、この世と同じ事をして頂きます」
「あの世ってだっちもねえ場所じゃん……」
「だっちもねえ、とは?」
「つまらない」
「そ、そんなことありませんよ! 次にこの世で前より上手く生きられるよう、訓練する場所でもあるのですから!」
ラファエルの顔には、口には出さなかったものの、無礼者! と書いてある気がした。
「つまり、貴方が最初に言った一番の悲しみであるお母様との生活を取り戻す代わりに虐めなどがまた起こりうる可能性も含めてあの世で生きていくのか、ずっと終わりなく生きていくという貴方にとっては絶望を捨てるのかの、二者択一です」
「それって、私が死ぬまではこの世で今のまま生きて行かなきゃ駄目ってことけ?」
「そうです。貴方はお母様のご親族から生活費を頂く代わりに、学校に通い続けなかればなりません。そしてこの広い団地に、お一人で住み続けるのです」
「それは……」
言いかけたところで私は彼の選択肢に少し穴がある事に気付いた。
「あ! 今自殺を考えたでしょう? 条件があって、現世で自殺なさった方はあの世へは行けません」
私は舌打ちしながら答える。
「でも、おかあは自殺したのにあの世にいるんずら?」
「それは僕たち天使の修行としてこの世でとても可哀想な人を救う訓練をしていて、その対象にあなたが選ばれたので特例でお母様をあの世で蘇らせたまでです。ちなみにお母様は、あなたと会える理由については娘のこの世での善行の為、としか知りません」
特例とか条件とか訳が分からんくなってきた。コタツに入っていることもあり眠くなってきてる。
「ああ、眠る前に! この選択の期日はお試し期間の最終日、つまり三日後にはあなた自身で結論を出して頂きますからね!」
何だかすごく大事なこん言われた気もするが、もう別に何でもいい。どうせ全部わりい夢なのだから。コタツで眠ってももう誰にも怒られん。そうして私は本当に眠っちゃった。
翌朝起きると、まだあの天使がいた。
「おはようございます! さあ、お待ちしていました。それでは早速あの世に行ってらっしゃい!」
そうして私は黄色の眩い光の中に吸い込まれる。そうして一日目、次に私が目を覚ますと、いつもの団地で寝てた。でもいつもと違ったのは、おかあが死ぬ前と同じ様に私の隣で母ちゃんが寝てた事だ。おかあは先に布団から出て、いつもの朝ごはんを作ってくれてた。その後は、再会に泣き合って後は一緒にテレビを見ただけ。夜になればラファエルがまた私をこの世に戻しに来た。
そんなお試し期間一日目、また夢のような事を思い出してると、私はまた十分な作戦も考えずコタツで眠りについてしまった。
「おはようごいす! 調子はどうけ? ほら二日目さよぉ! はんで起きて、おかあに会いに行かなきゃ! 明日がタイムリミットなんだから!」
ラファエルの甲州弁は私よりキツいかもしれん。そう考えているうちにはまた眩い光に吸い込まれる。
「おはよう、涼ちゃん」
二日目も確かにおかあがいて、また朝ごはんを作ってくれてた。いつものトーストに目玉焼き、りんごと人参ジュースだ。
「おかあ、買い物行ったの?」
「うん、昨日涼ちゃんがいなくなってから、近くのイオンに」
「今日は一緒に買い物行かだぁ!」
「いいの? ただのスーパーなのに」
「うん、最近おかあとスーパー行けてなかったから、母ちゃんとスーパー行きてえ」
本当はスーパーに行く時間は前からあったのだけど、そのスーパーにはゲーセンとかもあって、学校の奴等に会うのが嫌でいつも避けていた。今日は平日の昼間に行けば、みんなは学校に行ってるから誰にも会うことねえ。ていうけそもそもこの世界の学校には西村や佐藤や松田や赤井はいねえか、死んでねえから。でもどうせ、嫌な奴はどこにでもいる。
私とおかあは久しぶりにイオンに行った。それが本当に嬉しかった。今日はラファエルが迎えに来る前に早めに晩ごはんを食べるとして、カレーの材料を買った。おかあは私が好きな肉屋のコロッケも買ってくれた。昼はイオンの中にあるマック。全てがおかあが死んだ時に思い出した風景。私は何度もツンと目が痛くなったけど、今日は泣かんと思って必死にこらえた。
帰り、細い柴田通との交差点に差し掛かった車道側を歩く私の目の端に、見慣れたものが見えた気がした。おかあは気づいてない。普段なら絶対しん。普段なら絶対にしんけど。
「……おかあ、ちょっと待ってて」
えっと驚くおかあに買い物袋を持たせ、私は急に走り出した。
「おい、待てし!」
目の前は「ローズプラザ」というラブホ。
「……涼子」
男は明らかに狼狽えている。赤いハイヒールを履いた若い女が叫ぶ。
「え? 貴方奥さんって同い年ぐらいって言ってなかった? 中学生じゃねえ! まさかロリコン? うわ萎えるー」
無視して、私は男の髪と腕を掴み柴田通から引っ張り出す。
「痛い痛いやめろ涼子!」
男は必死に抵抗するが元々細いせいか成人男性の癖に力が弱い。というより、普段なら負けていたかもしらんけれど、私は気迫で勝っていた。
交差点で待つおかあの顔は引き攣っていた。顔を背けている。私は弱々しいその男を道路に放り投げる。
「謝れ! 土下座しろ!」
私は男が抵抗しない様に、白髪混じりの頭を自分の靴で踏んづけてやった。
「やめて涼ちゃん!」
母が私を必死に引き剥がす。
「こいつが他に女作って出て行ったから、おかあ死いださよぉ!」
「春子は……死いだのか? ……俺のせいで?」
「そうじゃボケ! 早よ謝れし!」
柴田通の遠くの方で、さっきの若い女が動けず立ち尽くしている。
「す……すまなんだ」
おとうは素直に土下座した。母ちゃんの目は魚みたいに右往左往に泳ぐ。
「今日はカレーじゃボケ! 黙って着いてこんけえ!」
私はヤクザよろしくの口調で、おとうとおかあを団地に連れて来た。気まずいようで、まだ十四時なのにおかあは黙って台所でカレーを作り始め、おとうは居間のコタツの左側、おとうの定位置で亀の様に背中を丸くして黙って座ってる。
私はおかあと久しぶりにカレーを作るつもりだったけど、何も訊けないおかあの代わりにおとうを問い詰めることにした。意外にも、口火を切ったのはおとうだった。
「……涼子は何でこけぇいるんか。お前も死いだのか」
「私は死んでねえ。何だかよう分からんけど、天使が急に来てお試し期間とか言いっておかあに会わせてもらってる。明日までで、今夜は一旦この世に帰る」
「……そうけ」
今の説明でほんまに分かったんけ?
「なんで家出てっただ」
「……ほんの一瞬、気の迷いだ。それであの女が急に俺を刺すとは思わなんだ」
「気の迷いてなんなんじゃん。そんなん言い訳になるけ! うちらは家族で買い物行ったり、旅行行ったり、ゲームしたり、仲良くしてたじゃん!」
これはおとうが死んだ時に思い出したものばかり。我慢していた涙が、遂に下睫毛で堰きとめられんかった。
「……おとうな、仕事クビになっちゃって。これまで頑張ったのにもう家族は支えられんと思ったらむしゃくしゃして、女に逃げた」
「馬鹿なこと言っちょ! そんな言い訳通じんよ。新しい仕事探したのかよ。それにそんな時は家族みんなで助け合うんじゃねえのか。私だって、新聞配達ぐらい出来たら」
「……すまなんだ」
おとうはやっと一筋の涙を流した。重い沈黙が家中を覆う。
「……カレー、もう出来ちゃった」
台所からおかあが皿を持ったまま覗きに来て、情けない顔で立ち尽くしていた。
「早いけど、じゃあ食わだぁ」
私はおかあのカレーとご飯を皿に掬って、スプーンと一緒にコタツ机の上に並べる。本当は昼のマックでまだ腹いっぱいだったけど、今これを食わなきゃだめな気がした。
「……いただきます」
私が食べ始めると、おかあ、そしておとうの順で食べ始めた。咀嚼音以外、沈黙が流れる。
「……春子のカレーじゃ」
「ただのバーモントだ」
「なんていうけ、水っぽい」
おかあはいつも大ざっぱでいつも目分量で何でもするから、誰でも失敗しないバーモントカレーをしょっちゅう失敗する。
その瞬間、小さくみんなが笑う。
食後、おとうはコタツのある居間を出て、襖の奥、和室に篭ってしまった。
「ごめんおかあ、勝手なことして」
「ううん、ありがとう」
「おかあは、おとうに言い足りんことねえの」
「全部、涼ちゃんが言うてくれたから」
「……おとうが生きてる間に今日みたいに謝ってくれたら、おかあは死なんかった?」
昨日と同じ体勢でテレビを眺めながめていた。
「……どうずらねえ」
「じゃあ、原因はおとう以外にもあるってこと? 何? 私?」
「そんな、涼ちゃんな訳ねえじゃねえの。涼ちゃんはうちらには勿体ない位良い子よ」
「じゃあ、なに?」
昨日と同じ質問を繰り返す。おかあはまた黙っていたが、十秒後位に口を開いた。
「……おかあは、おかあのせいで、死いだのよ」
「どういう事?」
「……涼ちゃんはいつでも、今日みたいに、家族を守ってくれる。なのに、おかあは何もできなんだ」
「ほんなこんねえよ、おかあがいつも明るく笑ってくれてたから、私は家族好きだったんじゃん」
「でも」
おかあは言葉を詰まらす。おかあのたっぷりとした腹が小刻みに震えるのが、私の背中にも伝わってくる。
「でも、おとうが出てった時も、涼ちゃんが虐められた時も、おかあは怖くて何も出来なんだ」
絶句する。
「……おかあ、私が虐められてるの知ってたけ?」
「うん。毎日上履き持って帰ってくるのもおかしかったし、体操服が一回泥塗れやっただったずら? 涼ちゃんは転んだって言ったけど、お腹も背中も泥んこで、足跡もついてるし、これはただ転んだ訳じゃねえなって」
急に叫びだしたくなる。それだけは、おかあに知られたくなかったのに。
「なのに、私おとうの事も涼ちゃんの事も本当に好きなのに、何もしてあげられんで、そんな自分が嫌で、気づいたら道路に寝転がってた……ただ逃げただけだった。本当にごめんね」
私のせいだ。私が虐められたからおかあを悩ませた。おとうのせいだとばかり思ってた自分を、心から殴りたかった。和室からもせせり泣く声が聞こえる。
「は〜い、じゃあ今日の涼子さんのお試しは、以上だ〜!」
かなりのタイミングの悪さで、ラファエルが居間に現れた。そして私は眩い光に吸い込まれていく。
「おかあ、私明日来るの遅くなるかも!」
おかあは頷きながら慌てて私に、残っていた肉屋のコロッケを渡す。
その夜おとうとおかあを二人きりにしてしまったことが心許なかった。
「どうけ? 二日目は?」
コロッケを食べながら私は答える。
「……ラファエル、明日のお迎え、遅らせてもらえる?」
「わしは別にええけど、せっかくのお試し期間勿体ねえよ? 明日で終わりなんに」
「いいの、二時間で片つけるから」
翌日私はこの世で学校に行った。母の忌引後一日来て二日休んだ私はもう登校拒否になったと思われたらしく、廊下を歩いているだけでヒソヒソ声が聞こえる。
自分の教室のドアを勢い良く開ける。
「うわ! 臭田が来たぞ!」
西村が叫ぶ。今日も亀は水槽から出されて、私の机を怯えながら歩いている。
全部、どうでもなっちゃえ。
私は亀の甲羅を掴む。教室を飛び出す。学校の裏の川を目指し上靴のまま走る。野次馬が走って追いかけてくる。着いて、ゆっくり亀を放した。さっきまで机の上にいたのが嘘の様に、亀は勢い良く川を泳いでいく。
みんな、生きられる場所を探せばいい。
「うわ! 臭田のヤツ、亀を放した! 先生に怒られるぞ!」
遠くの野次馬が叫ぶ。私は走って教室に戻る。
私の凶行は既に教室中で既に騒ぎになっていた。犯罪者! と口々に叫び出す。私は無視して教室の奥にある、亀の水槽を両手で掴んだ。
奴らが勢いに驚いている隙に、私はその水をぶっかけてやった。西村と佐藤と江口と松田と赤井だ。彼らは一瞬で、亀臭くなった。
「おい! 何するだよ!」
「……本当に腐った奴らを、臭くして何が悪い!」
そう言って私は自分の団地にまた走る。ラファエルが言う。
「もう、二分遅刻さよぉ」
あの世の団地では、おかあ一人だった。おかあは黙々と昼ご飯を作る。ほうとうを作っている。
「良かった涼ちゃん来てくれて。これ好きやったずら?」
おかあのほうとうはこれまたお店のより煮込み過ぎている。でも美味い。
私は無言で食べ始めた。でも身体が震え出した。
「涼ちゃん、どうしたの? うまくねえ?」
「……おかあ、私、虐めてきたヤツに仕返ししてきた」
「……」
「だから、安心して。私おかあに助けてもらわんでも、やってけるから」
おかあは口に味噌のついたままの私を、勢いよく抱きしめた。
「あんたは偉い子だ、おかあの自慢の子だ」
私の顔は味噌と涙でグチャグチャになる。
「ただいま」
それはおとうやった。
「酷い顔だなあ。今日もカレーじゃ。今日は久しぶりに草田家三人で作ろう。もう失敗しんよ」
おかあが嬉しそうに笑う。
「で、どうしーすけ?」
最終日。私は真っ直ぐ彼を見つめ返す。
「生きるよ、このまま」
「ほーけー」
「ほれで、あの世で家族と暮らす」
「気持ちに変わりないけ? 自殺はダメなんさよぉ?」
「うん、分かってる」
「本当の本当に?」
「しつこいな。ほれでいいよ。人生えれえけど、あの世で家族に会えると思ったら頑張れる。今日もそうだったもん」
ラファエルは暫く宙で上下に動きながら浮いている。
「てっ!!!!!!!!!!!! あんたは本当に偉い!!」
ラファエルのこれまでで最大音量の大声に、窓が割れはしないが確実に大きくパリッと鳴った。
「あんたは本当に偉い。今までのわしの修行だと、もう生きるの諦めるヤツか、わしに泣きついて『お前が殺してあの世連れてってくれ』っていうヤツばっかだった! それにあんたの今までの諸々、陰ながら見させてもらったよ。あんたは本当に偉いヤツだ。気に入った!」
「はあ」
「じゃあ、この世続行、あの世でも生き続ける、で受理さしてもらいます」
「はい」
「あとあんた気に入ったから、オマケもあげるわ」
「へ?」
そう言うとラファエルは何やらブツブツと小声で唱え出した。次第にこれまでと違って、青や赤や緑、色んな色の光が私と彼を包む。
「じゃあ、明日をお楽しみにー!」
「ねえ、ちょっと待って」
「何け?」
「どうしてラファエルは急に甲州弁になったの?」
「そりゃあの、なんていいますか、好きなヤツとは皆話し方似てくるのよ。ほら、モノマネ芸人も、自分がファンの人のモノマネから入る言うら?」
ラファエルは真っ白い頬を林檎のように赤く染めた。それはあまりにも可愛かった。
「私そこまで甲州弁強くねえけど……まあ、私もあんた気に入った」
私は親指を立てグーサインをする。
「ありがとごんす!」
そう言って、ラファエルはグーサインしながら眩しい黄色い光の中に消えていった。
次の日は本当に憂鬱だった。だってあそこまで酷いことしたのだから。もう私の机も持ち物も全て無くなってしまっているかもしれねえ。
ゆっくり力なく教室のドアを開けると、今までにない静寂だった。私の机はちゃんとあるし、苛めっ子の西村などの面々は誰もいない。
じきに担任が入って来る。
「えーみんなおはよう。突然やけど、西村、佐藤、江口、松田、赤井は暫く学校に来ません。昨日誰かに水槽の水かけられた後、学校抜け出して服屋で万引きしてる所が見つかって、停学処分になりました」
教室が一斉にザワザワする。自然と、私に視線が注がれる。
「静かに! 代わりに、と言うのもなんだけんど、新しく転校生が来ました。おい田村、入ってこい」
新しい転校生は、呼ばれた苗字と見た目の雰囲気がまるで違った。でも違和感は苗字だけじゃない。
「田村ラファエル、言うだよ。わしはハーフ、いやいや、今の時代はダブルって言うんじゃん。ほな、よろしくたのんごいす」
皆が呆気に取られる中、私だけが笑う。
初春の日差しが教室の窓から入り、ラファエルの金髪はキラキラと光っていた。
空では小さな雲が二つ繋がって、ゆっくりと流れていった。