襲撃
雪の降る日のことである。吹く風は白い粉を運んでいくとともに周囲の熱も奪っていく。大地にはうっすら白みがかかっていて、まもなく積もったともいえそうな勢いだった。雪が降っているのに周囲の空気はからりと乾燥していて、満月には程遠い月明りでも十分に先が見通せるほど澄み渡った世界だった。
シッドはそんな銀の世界になりそうな山の中腹を一歩一歩と進んでいく。向かい風とも追い風ともいえぬ風があちらこちらから吹きつけるたびに自分の体は震え上がり、心臓まで凍ってしまいそうな寒さだった。
少年と青年の間くらいの彼にとってここまでの寒さは初めての経験だった。吐く息は当然白く、もほや指先の感覚はなくなっていた。
太陽の国と呼ばれるこの国でも冬となれば当然のように寒くなる。特に内陸部は年間の気温差が激しく、そして彼がいるのも内陸部だった。今日のように雪が降るというのはめずらしいが、気温が氷点下を下回り、霜が降りることもあれば、軒先に氷柱ができることもある。
シッドがこんな寒空の夜を歩いているのには無論理由があった。1つは目的地である都市オデロトに明日の朝までにつく必要があったこと。もうひとつは乗り合いの馬車や鉄道を利用する金がなかったことだった。
それでもシッドの瞳の表情にさほど疲れは見えない。そこには新天地への期待があったからだ。
これまでは、魔物がひしめく最前線でほとんど休む間もなく戦ってきた。ある時は剣を、ある時は槌を、またある時は木の棒を、ひどい時はかつて仲間だったものの一部を武器として振った。それでも戦況がよくなることはなく、戦いと睡眠を繰り返すだけの日々の中で、仲間の顔ぶれだけがしきりに変わった。まさにこの世の地獄ともいえるような場所で暮らしてきた。
そんな激戦区の中をただ一人生き延びたことを評価されたのか、シッドは重要な職位に任命されることとなった。その職位とはオデロトに着任する新たな賢者の護衛である。
人類の世界を魔から守る七人の賢者はその叡智と奇跡の力でこれまでの幾度となく人類存亡の危機を乗り越えてきたとされている。その結果、ついに魔の者たちも先に賢者を始末しようと方針を変え、十数年前に賢者が殺害されるという事件が起こった。
それ以来賢者には『剣剣』とよばれる護衛が付けられる最低一人つけられるようになった。
今回シッドが呼ばれたのは新任の賢者の就任と同時に他の賢者付だった剣が引退を望んだからだった。オデロトにつけば『剣』としての仕事をある程度の引継ぎ期間の後に引き継ぐ手はずとなっていた。
決して楽な仕事ではないのだろうが、それでも以前の暮らしに比べたらはるかにマシであることはまぎれもなかった。魔物の肉があったから食うに困ったことはそこまでないが、眠りにつくたびにもう目覚めることはないかもしれないという恐怖が常に心の片隅にあった。
しかし、その恐れは剣といつ大役を引け受けることを決めた理由ではなかった。その理由は、その任命が半ば強制的な任命であったことと、そして、首都オデロトであれば魔物の肉よりもおいしいものが食べられるかもしれないという、ひどくお粗末な理由からだった。長く戦場にいた彼にはもはや自分の命に対する執着はそれほど残っていなかった。
そしてその誘いからちょうど一月。今に至る。
パタリとシッドの足が止まる。
視線の先のずっと向こうの景色に月明り以外の微かな明かりがあった。シッドは目を凝らす。光の正体は炎だった。この世界で炎を照明として利用する生物は人だけであり、それが意味するのは町の存在である。
シッドの凍りつきそうだった心臓が熱を取り戻す。あと半刻とすこしも歩けば町にたどり着ける。そう認識したとたん足が嘘のように軽くなった。
「こんばんは」
「っ‼︎」
シッドは声の聞こえたほうから咄嗟に距離を取って、そして顔を上げる。しかし、シッドの視界の中には降る雪と積もる雪だけだった。
「こっちですよ」
身の毛のよだつ邪悪な声が今度は背後から聞こえた。
シッドは振り返ることもできず、殆ど反射的に身を前へと投げだして再び敵の間合いから離脱しようとする。今度は邪悪な気配を見失わないように注意を払いつつも、背中の大剣へと手をかける。
「誰だ!?」
今度は追ってこなかった。振り切ったというよりは見逃してもらえたといった様子だった。シッドの体がじわりと嫌な汗をかく。
「そんなに怯えなくてもいいんですよ。私は今気分がいいですから」
明らかなほどに「魔」としての邪悪な気配を放つ人型の存在。それは魔人と呼ばれ、魔物や害獣とは異なりおおよそ人間の力だけでは打倒できない超自然的生物であり、この世界の半分をたった12体で支配する魔族の頂点の内の1体である。
そしてその災害とも例えられる魔人の強さは角の本数に比例する。今シッドの目の前にいる敵の角は2本。いまのシッドには一本の魔人でも手に余る。そのことをかつて魔人と相対したことのあるシッドも自覚していた。
「楽に殺して差し上げましょう!」
魔人が手を前に突き出すと、暗い紫の魔法陣が現れる。直後黒い炎が陣からシッドがいるところを目掛けて噴出する。
しかし、そこにすでにシッドの姿はない。陣が展開された直後には剣を抜いて走り出していたからだ。熱線の射線から抜けると最短距離で魔人へと詰め寄る。
「おお! 速い!」
魔人は間合いに入られたにも関わらず感嘆している。シッドはその慢心を逃さんとばかりに全力で大剣を振り下ろす。いくら魔人であっても生物である以上首を落とせばこちらの勝利だ。衝撃音の後、シッドは愕然とする。
「でも、所詮は人間。目で追えますよ」
シッドの奇襲の狙った一撃は魔人の素手によって受け止められていた。
「くっそ!」
シッドは反撃を恐れて、横転の要領で距離をとる。すぐに反撃は来ないが、この回避もどこまで意味があるのかわからない。敵の射程はほぼ無限といってもいいほどの広さであり、上空に逃げられたらおしまいだった。ゆえに、シッドは魔人が地上にいる間に倒すか痛手を与えて撤退させる必要があった。
「今度はこっちの番です!」
次の魔法陣からは人よりも一回り大きい犬の形をした黒いの炎の塊が数体現れた。その黒炎の犬というべきものたちは魔法陣からうまれおちるや否やシッドに向かって駆け出した。どの個体もシッドと同じほどの体躯の上に、なによりも闇夜のなかでは視認も困難だった。
それでも地面に積もった雪のおかげでまったく見えないということもなかった。シッドは波打つように襲ってくる犬たちを切り伏せ、叩き伏せながらも魔人の追撃を警戒する。すでに新たな魔法陣が出来上がっていた。
その警戒が功を奏し、すんでのところで得体のしれない高速の黒炎の飛来物を回避する。最後の一体の犬を仕留めつつ、飛来物を探すも姿は見えない。直後に頭上から空気をつんざくような音が聞こえた。
とっさに前に跳ぶと、直前まで地点が爆発した。その爆風にあおられ地面に数度叩きつけられるも直撃を避けられただけで御の字だった。高速の飛来物の正体は黒炎で象られたカラスだった。
「おお、いまのも避けますか」
「一体、なにが目的だ!?」
「目的?」
シッドの肺はすでに悲鳴を上げ、肩が呼吸のたびに持ち上がっていた。人間が活動するには外気はあまりにも冷たく、長時間その冷気にさらされたシッドの体は急な戦闘についてくることができていなかった。
「ククッ、人殺しに理由などありませんよ。あなた方も鹿や猪を狩ることを楽しむでしょう? それと同じですよ」
「……俺はお前のお遊びのために殺されるのか?」
シッドの頭の中は怒りよりも困惑の方が大きかった。人を遊びで殺す。その感覚が到底理解できそうにないからだった。
「ええ、誇りにおもっていただいていいですよ。人間が魔人の役に立てるのですから。これ以上に光栄なことなどないでしょう?」
「ふざけるな!」
いくら生に執着のないシッドとはいえど、決して進んで死にたいと望んでいるわけではなく、理不尽な暴力によって自分の命が奪われることは許せなかった。
シッドは魔力を全開放し、ありったけの加護と魔法での強化をその身に施す。
「『神の恵みを』」
最後の加護を己に振りまき、大きく息を吸う。刹那、シッドの体は魔人の懐へと入り込んでいた。まさに超高速のシッドの詰め寄りに、魔人はまだ気づいてすらいないようだった。
「『エル・メホール』」
全身全霊を込めた必殺の一撃。これまで多くの魔物を屠ってきた最後の切り札だった。首をとらえて最後まで振り切れた。手ごたえもあった。しかし、それは普段の半分ほどで、けっして致命傷を与えたときのようなものではなかった。
カランと、折れた剣先が地面に落ちる音がした。
シッドは折れた剣を一目見た後、敵の首を見る。首筋に枝が引っかかったできたかのような小さな切り傷があった。そこからはわずかに青い血がツーッと滴り落ちていた。
「……よくも、よくもこの俺に傷を!」
激高した魔人は無数の魔法陣を展開する。見たこともないような数に、大きさの魔法陣に悪い夢でも見ているのかと現実から身を背けたくなる。それでも、シッドは一縷の望みに掛け、近くの崖に向かって走り出した。
「死ねぇ!」
いつ死んでも構わない。頭ではそう思うのに、体はいつだって最後の最後まで生きようとする。自分はいったい何を求めて、まだ生きようというのだろうか。
背後で爆音が響き、徐々にその音が近づいてくる。決死の逃亡もあえなく、シッドは魔法による爆撃に巻き込まれ、崩れた崖とともに落ちていった。
薄れていく意識の中でシッドは精霊を呪った。攻撃の瞬間、それまでは力を貸してくれた精霊が途端に力の供給を止めたのだ。理由はわからないが、もし力を貸してくれ続けていれば奴の首を切り落とすこともできたかもしれない。もしくは、武器がもっといいものであれば、結果は違ったかもしれない。
ふと、こんな時にまで戦いのことを考えていることに気づいて、己をあざ笑う。結局自分には、剣を振ることしか能がなく、最後の瞬間に至っても誰かを、なにかを殺すことしか考えられないのだと。
シッドは願う。遠く輝くオデロトの光に希望を寄せて。
願わくは戦い以外が心を埋めてくれる来世が訪れることを。
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