出逢い
季節は冷たく、厳しい冬の真ん中。ただその日は冬にしてはすこぶる暖かい日であった。雲一つもない広大な青空の下で、凍えて固まっていた水たちがここぞとばかりに動き出し我先にと下へ下へと流れていく。とある先には川、とある先には掘りと、行く末は様々であったが、いずれにせよあるべき場所へとかえっていった。
そんなまるで春の訪れを思わせるような一日であった。
この物語の主人公であるシッドはそんな良き日の昼下がりに目を覚ました。彼の目に飛び込んできたのは見慣れない光景で、瞼をぱちくりと開いては閉じ、それを五回ほど繰り返す。しかし、それでもわかったのは、その空間が自分の知らない場所だということだけであった。
シッドはひとまず、目だけを動かして身の回りにあるものをつぶさに観察することにする。白を基調とした調度品がポツンポツンと置かれている中で、度肝をぬくような桃色が一つ。それは選定された木の枝に咲いているの名の知らぬ花であった。
シッドは不思議に思いながらも、思考をゆっくりと様々な方向へと巡らせていく。取り急ぎ考える必要があるのは自分がなぜここにいるのかだ。
瞳を閉じてこの部屋に来る前の直前の記憶がどのようなものかを確かめる。靄のかかった世界のなかで思い出せることはほんの一握りで、結局オデロトという街に向かって寒空の下を山を越えるべく、歩いていたことまでは思い出せた。
そこまで思いだしてシッドはある仮定を思いつく。それは、すでに自分が死んでしまったという仮定であった。麗らかな日の光の差すこの部屋には、天国と言われても納得のいく穏やかさのようなものがあった。
シッドは死んでしまったのならば仕方ないと割り切り、それとそうとと痛みに耐えながらなんとか体を起こす。死んだというのに、一体どうして体が痛むのだろうか。
どうにか起こし終えると、自分の背後、言い換えれば先程まで頭を置いていた方から声が聞こえた。
「おや、目が覚めたのかい?」
その声は女性らしいどこか甘美な響きを孕みつつもすっと耳に溶け込むような少年のような力強さあるような美しい声だった。少しして、パタリと随分と昔に聞いたことがある音がなった。これは確か本を閉じた時になる音のはずだ。
首だけで振り返るには角度がありすぎたため、手をつき体ごと振り返ろうとすると、再びその美しい声に「動かなくていい」と制止される。
「君はけが人だからね、あまり無理はよくない」
トスンというものを置く音の後に、かすかに椅子が床を引きずる音がして、ゆっくりと気配と足音が近づいてくる。
目が覚めたばかりだったからかその人物が左右のどちらから来るかシッドには判別がつかず、理由もなく右に首を向けるも、そこに人影を見つけることはできなかった。
「こっちだよ」
そちら側に誰もいないことを確認したからか、それとも声に引っ張られたか、とにかくシッドは反対の方を向き、そこで声の主とついに対面することになる、
シッドがその声の主の姿を自分の目でとらえた瞬間、彼は全身の血液が沸き立つような、体中全ての細胞が一気に分裂するかのような、はたまた心臓が砂粒ほどに縮んでしまうかのような、そんな強烈な感覚に襲われた。もはやまばたき一つもできず、息をすることさえも忘れてしまっていた。
「言葉は通じているのかな。ひとまず軽く触診させてもらうよ」
突如、雷に打たれたかのような衝撃に、しっかりと脳みそが動いていないシッドのことなど、つゆほどにも知らぬ彼女は遠慮なくピタリピタリとシッドの額や首筋に触れる。暖かく柔らかな手が触れたところから溶けてしまいそうな気分だった。
「……微熱もありそうだけど、それ以上に脈が速いね。どこか苦しいところは?」
それまでのおだやかだった彼女の雰囲気にわずかな陰りが落ちる。シッドの耳は彼女の言葉を聞き取ることはできても、肝心の脳はいまだに麻痺したままで、この胸の苦しみを言い表せるような言葉は到底浮かんでこない。
「もしかして言葉がわからない?」
より正確な診察をしようと思ったのか少女はシッドに更に顔を近づける。そこには確かに心配の色があった。
シッドは首をなんとか横に振って否定する。
「よかった。なんでもいいから話してみてくれ」
少女は胸を撫でおろしている。一方でシッドは前後も不覚になるほど混乱していた。シッドの脳は衝撃の連発ですでに正常ではなくなっていたからだ。それでも、なんとか返事をしなければと言葉をひねり出す。
「きれいだ」
「ん? 綺麗? 何が綺麗なんだい?」
「君。君が綺麗だ」
「君? つまり、私のことかい?」
気がつけばシッドの手は少女の頬に触れていた。
少女がその手に気を取られているうちに、気がつけばシッドはその少女の唇を奪いかけていた。
間一髪、少女はシッドと自分の間に手を差し込むことでそれを防いだ。
「い、いきなり何をするんだい」
シッドの不意うちからかろうじて逃れることに成功した少女の声には驚愕と焦りが滲んでいた。
「わ、わるい、自分でもなんでこんなことをしたのかわからない」
シッドの視線は右へ左へと動いていた。興奮していた脳みそが、自分のしでかしてしまったことの大きさに気づきようやく正常な働きを取り戻す。しかし、してしまったことは無くならない。なにか言い訳をする必要があった。
「ただ、君があまりにも綺麗だったから」
「だからって、いきなりキスをするのかい?」
それはそうだとシッドは納得する。これまでに美しいと思う女性はそれなりに見てきたが、だからといっていきなりキスをすることも、したいと思うことさえなかった。気が付いたらしていたというのがまぎれもない本心だった。
「だいたい私が綺麗だって?」
少女は少しずつ落ち着きを取り戻しつつあった。焦りと驚愕が薄れるにつれ怒りが湧き上がってきたのかとげとげしい雰囲気が彼女を包んでいた。
一度距離を取った少女が足音をならしながらシッドの近くまで来る。十分な距離まで近づくとシッドの胸倉をつかんで、そして自身の長い黒髪を根元から強引にかき上げた。
「君にはこの傷が見えていないのか?」
黒のベールの先にあったのは少女の顔の左半分を覆い隠すように火傷の跡だった。
シッドはなんとかしてその傷から目を逸らそうとできる限り下へと視線をやった。
「放してくれ」
「ふん、ほらね、やっぱり見るに堪えないだろう? こんな疵を持つ私が綺麗なんて、あるわけが」
「このままじゃ俺は、君を襲ってしまう」
少女の手がパッと襟から離れる。
「な、なにをいって」
「その火傷を含めて綺麗なんだ。君を一目見た瞬間から心も体もいうことを聞いてくれない。まさか、君は天使なのか?」
「て、天使? わ、私が? 人間にきまっているだろう!」
「ならなんで、そんなにかわいいんだ!」
「……そ、そうか、そうか、つまりきみはそういう変態なんだな」
少女の顔は少し青ざめていた。
「変態? かまわないさ! 君に好きだと言えるなら変態でも、悪魔にでもなってやる!」
「ちょっと、趣旨というか、意味が変わってきてはいないかい?」
「いいや、変わってない。俺が言いたいことは最初から君が最高に可愛くて、一目見た瞬間から恋に落ちたってことさ」
「つ、つよきだねぇ。それに恋って......。はぁ、ダメだ。賢者の私でも君の思考にはついていけないよ」
賢者という言葉に聞き覚えがあった。シッドはそれが何だったを一瞬だけ考えて、すぐに思い出す。
「まさか、君が賢者なのか!?」
シッドはベッドから身を乗り出した。
「え、そうだけど、それがどうかした、え...」
賢者を名乗る少女の顔から色がなくなる。
「ま、まさか、君が私の剣なの?」
「これは運命だ! 俺の名はシッド! 命にかえても君のことは守って見せる!」
「嘘でしょ......」
「君の名前は?」
「え、言わなきゃダメ?」
少女は心底嫌そうな顔をしていた。
「もちろん!」
シッドはあまり人の顔色を気にしない人間だった。
「えぇ......はぁ。ハル」
「ハル! 思った通り素敵な名前だな! まるで今日の日みたいに」
「ああもうついていけないんだけど。……でも、あながち間違いでもないか」
ハルは遠い目をして窓の外を見る。冬とは思えないほど温かい日差しとどこか心地よい春の兆し。シッドが遠方出身のハルの国の言葉を知っているはずはない。ただの偶然にすぎなかった。
「これからよろしくな、ハル!」
「ちょっと保留で」
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