その香りを残して幸せは崩れていった。
ある夜、急患診察に行った父様が、帰って来なかった。
三日三晩、町中を探した。
見つかったのは、傷一つない父様の時計だけだった。
その時計は、二時三十六分五十秒で止まっていた。
母様は私達に、家から出ないよう言った。
夜は何度も戸締りを確認し、人との接触を避けた。
父様が消えた一週間後、母様は手紙を一枚だけ残し、姿を消してしまった。
手紙を読んだのは、姉様だけだった。
姉様も変わってしまった。
物音に過敏になり、特に夜は私の側を離れなかった。
母様が消えた二日後、姉様は全ての患者さんを家に帰し、家に火を放った。
燃えている……。
私にはその光景を見ることしか出来なかった。
「姉様?」
「ごめんね。行かなくちゃ。」
自分では気づいていないみたいだったけど、姉様は一雫の涙を流していた。
その後すぐ、姉様に手を引かれ、私は家を出た。
姉様は余裕がないのか、ただ黙って歩き続けた。
ただ一度、私が熱で倒れた時だけは立ち止まり、静かに治癒の光を当ててくれた。
その時、香っていた桜の花の甘い香りは、今も忘れられない。
気がつくと、そこは洞穴の中だった。
隣には、姉様が青白い顔で横たわっていた。
姉様を起こそうとした私を、知らない男の子が制した。
「まだ寝かせてあげて。無理をして疲れてるんだよ。」
私はびっくりして、近くの石を男の子に投げてしまった。
それでも男の子は怒らず微笑んだ。
それは、以前の姉様の笑顔に似ていて、私を安心させてくれた。
男の子に導かれ、私は洞穴の外に出た。
外の空気は澄んでいて、空は青かった。
そこは山の中の、少し開けた場所だった。
薪や焚き火跡があり、人の暮らしを感じさせた。
「私の名は怜燈。月夜 怜燈。」
男の子は、静かな声でそう言った。
歳は十歳で、私の六つ上、姉様の二つ上だった。
「五歳の頃から、一人旅をしてるんだ。」
怜燈さんは、少し悲しそうに笑った。
金色の髪に紅の髪紐が映え、綺麗だった。
だけど、私を見る目に同情の色はなかった。
怜燈さんはいくつかの草を持ってきてくれた。
それは薬草だった。
見覚えのあるものが多かった。
「怜燈さん。それ少しでいいからください。」
「いいよ。最初からそのつもりで持ってきたんだ。」
私は怜燈さんに頼んで貰った。
姉様にあげよう。
そうしたら、きっと姉様は元気になる。
そう信じた。
薬草をすり潰していると、姉様が慌てて洞穴から出てきた。
「大丈夫?」と聞くと、姉様は朱のさした笑顔で優しく「ありがとう」と言い、腕を広げてくれた。
私は思わず姉様に飛びついた。
そして今までの想いを押し流すように、声が枯れるまで泣き続けた。
しばらく経って、怜燈さんが私達の様子を見計らい、そっと話しかけてきた。
「私と一緒に行かない?」
私達は顔を見合わせた。
私は状況がよくわからなかった。
けれど、二人だけでいるよりきっといい。
そう思い、頷いた。
姉様も似たような事を考えたらしく、首を縦に振っていた。
私達は怜燈さんと一緒に旅をすることにした。
ただ、すぐには体力が戻らないと判断した怜燈さんは、出発を少し遅らせてくれた。
洞穴の中は雨の匂いがした。
「姉様!温かいね!」
嬉しそうな私とは対照的に、姉様はどこか不安そうだった。
怒らない人は、いい人。
水をくれる人は、いい人。
じゃあ怜燈さんは、いい人だ。
多分?ううん。あってるはず!
そう思った。
私は怜燈さんに頼んで、姉様と話をしてもらった。
そう頼んだ時の怜燈さんの目は、笑っていたけど、何も映っていないように見えた。
その後、姉様はまた笑ってくれるようになった。
桜色の道ができる頃、私達の旅はゆっくりと始まった。




