参 桜花の遺したもの その1
老中水谷が八丁堀の屋敷に姿を表してから五日。落ち着かない日々が過ぎた。何より、与謝野が自死した報せには驚いた。
だが、いつまでも決めあぐねているわけにはいかない。いや、答えはもう決まっていた。知らせるかどうかは俺に任せると老中は言ったが、自分のためにも文字にしようと思う。そうだ。俺の決心のためだ。
筆を持つ手がかじかんできた。その手に息を吹きかけていると、襖の向こうから声がした。
「忠親様。入ってもいい?」
ユメだ。夜中ってわけじゃないが、何の用だ。俺は手早く書き記しているものを隠した。
「構わねえが。何の用だ」
「寒いね」
俺の問いに答えず、ユメが襖をあけて入ってきた。髪を下ろし、綿入りの上着の下はすでに寝間着姿だ。背中を丸めて、長火鉢の前に手をかざした。
「あれ。忠親様、なんだってこんな夜に書き物してんだよ。昼間も暇持て余してるくせに」
「うるせえな。書きたいときに書くんだよ」
ふうん。と、鼻を鳴らしたユメは、中庭に臨む腰窓を少し開けた。途端に凍り付くような冷たい空気が部屋に入ってくる。
「寒いじゃないか。何開けてんだ」
「雪だよ。ほら、もう積もり始めているだろ」
「雪?」
窓辺によると、確かに音もなく雪が降り積もり、庭の木々も白くなってきている。冷えるはずだ。
「雪か……ったく、嫌な季節だぜ」
俺はユメが手を置いてるのも無視して、障子窓を閉めた。
「寒がりだな。忠親様は」
「なんだ。おまえは雪が嬉しいのか。まさかそれを言いにここに来たのか」
「雪は、好きだよ」
「子供か」
窓際は冷える。俺が長火鉢で手をかざしていると、ユメもそこにやってきて同じようにして両手をこすった。
白くて長い指が、炭火に照らされて朱に染まっている。何気ない仕草に色気がある。俺は逃げるように目をそむけた。
「雪になるとさ。客が来なくなるんだ。だから、俺らにとって、天からの恵みだった」
ユメが陰間茶屋にいたころ、客は毎晩のようにやってきたのだろうか。それが、大雨や雪の日は客の入りが悪い。店は上がったりだろうが、陰間にとっては心休まる日だったのかもしれない。
「俺や桜花が客を取り始めたころ、雪が降ると中庭で走り回ってはしゃいでさ。雪投げをしたり、だるまを作ったり。金剛たちに怒られるまで遊んでた。
俺はさ、客を取ると言っても、御館様以外はお遊びだけだった。けど、桜花たちは違った。だから、客が来ない日は、本当にありがたかったんだと思う。誰も、あんなこと、したくないから」
抑揚を抑えて、ユメが語りだす。雪の積もった中庭で、まだ幼い陰間や見習いたちが雪遊びをする様。俺の脳裏に浮かんで消えた。
市村で会った修行中の陰間たちも、みなまだ子供だった。幼い彼らが、どうしてこんなえぐい目に会っているのか。因果だとしても、胸糞が悪くなる。
「ユメ。どうしてそんな思い出話をする? 何を話しにきたんだ」
ユメがこんな時間に俺の部屋を訪ねてきたのは、雪の話のためじゃない。そんなことはわかっていた。ただ、きっかけが欲しかったのだろう。
「気づいたんだろう? 忠親様」
「なんの話だ」
その一言であいつの言いたいことはわかったが、とぼけてみた。
「とぼけるんだな。意外と、意地が悪い……。桜花の、事件。真実は一つじゃないって話だよ」
疑ってはいた。そして今、確信した。老中水谷が自分の御館様と知れ、ユメも覚悟したのか。
「俺が知ってるのは……録治は金魚を飼っていて、それが事件の前日に死んじまったことかな」
最後に『市村』を尋ねた時、勘左衛門が教えてくれた。彼もまた何かに気付いたのかもしれないが、まるで世間話をするように。そう言えば、先日お尋ねの……と。
『先日お尋ねの金魚のことですが、録治は飼っていたようですね。宿舎の隣に住む女中が知っていました。
ただ、あの事件の前日、死んでしまったようで墓を作っていたそうです。何かお役に立ちましたでしょうか?』
俺は何も言えず、『そうか』と相槌を打っただけだった。
「ああ……そうなんだ。金魚はお祭りで桜花がもらったんだよ。それを録治に分けてた。あの、録治の部屋にあった金魚鉢に入れて」
録治の部屋で俺が見つけたガラスの器。金魚はそこで思いのほか長生きした。
「あの事件の少し前、桜花の金魚が死んじまったんだ。その時、自分のはまだ生きてるからあげようかと、録治が言ってたのを思い出した。
だけど、結局桜花はもらわなかったし、その後どうなったかは俺も知らなかったんだ」
「じゃあ何故、太一郎の罪を軽くするよう、御館様に願ったんだ。おまえだろう? 死罪であるはずのあいつを、島流しにしたのは」
「え……そんなことは……俺にだってできない。それは誤解だ。ただ……」
「ただ?」
「録治が、薬を毒だと気づいていたかもしれない。桜花だけに飲むように言ったのかもしれない。その可能性もあると……」
「御館様、いや、水谷にご注進したのか。あの、寺の木の枝に文を結んで」
「あ……やっぱり、わかってたんだ。隠し事できないね、忠親様には」
俺がつけていったあの寺院は、水谷家の菩提寺でもある。あいつはそこの決まった場所に文を括り付けていた。
それが、市村を出てからの連絡方法だった。俺が尾行したあの日は、さしずめ銘刀を貸してほしいと書いたんだろう。
あの老中殿。ユメの頼みならなんでも叶えそうだ。『俺にだってできない』、だと。どの口が言ってんだ。
「録治が桜花に惚れてたのなんて、俺じゃなくてもみんな知ってることだった。あいつはそれでも、桜花を自分のものにできないことも、自由にすることすらできないこともわかってた筈なんだ。
だから、まさか身請けをさせないように殺してしまうなんて、とっても信じられることじゃなかった」
子供のように育てていても行く末は暗い。だから、幸せを掴むのを願わない金剛などいない。佐之助が言ってたな。あの世界で生きていた者なら、そう考えるのは当たり前だ。




