弐 その2
「与謝野、自死したんだってね」
暗い表情のまま八丁堀に戻った俺に、ユメが寄ってきた。今日は随分と冷える。夜には雪が舞っても不思議じゃない寒さだ。
「ああ、相変わらず耳が早いな」
ユメは寂しそうな笑みを浮かべ、俺の背中を押すようにして屋敷の中へと入っていった。玄関で草履を脱ぎ、廊下を歩く。足袋の下の床が冷たい。
「あの人、佐々木様に縛られたとき、とても悲しそうな表情をしてたんだ。その時、もう決めていたのかもしれないな」
台所から、いい匂いがしてくる。おまつ達が夕飯の準備をしているのだろう。ユメが俺をちらちらと見ながら、部屋へと入っていく。
「わかったような口きくんじゃねえよ」
二本差しをユメに渡し、俺は着替えを始める。長火鉢の中にはもう火が入っていた。おかげで部屋の中は随分と温かい。
その暖を求めてか、俺の座布団の上に三毛がちゃっかり丸くなっている。
与謝野は恥じていたのだろう。辻斬りなどという愚行を止められなかった自分を。あの男には高潔さがあったと記憶する。試合に至るまでの所作、勝利した後の静けさも、只者ではなかった。
それが、あんな卑劣な犯罪に加担していたのだ。どんな理由があったにせよ、ずっと自分を許せなかったのだと俺は勝手に解釈してみる。
だから、あの日あの場面で、与謝野は一瞬の隙を見せた。そう納得するしかない。与謝野は何も言わずに死んでしまった。もう、誰も教えてはくれないのだ。
「お茶を入れるよ」
「ああ、頼むわ」
俺は中綿の入った上着を羽織り、三毛を膝の上に乗せて座布団に座った。
「お、あったけえ」
不服そうに俺を見上げる三毛。その目つきは怒った時のユメに似ている。なんだか俺はおかしくなった。
「何がおかしいのさ」
あいつは少しムッとして長火鉢の上に茶を置いた。俺の考えてたことがわかったんだろうか。
ユメは藍色の着物に紺地の帯を締めている。もちろん男着物だが、女が男装しているようにも見える。要するに無駄に色気がある。無駄と思うかどうかは人によるだろうが。
「いや、三毛が不服そうな顔をしたんでね」
「まさか。おまえは忠親様の膝に乗れてうれしいよねえ」
言いながら、俺の膝で丸くなる三毛の頭をなでる。ユメの長い黒髪から、いつもの花のような香りがしてくる。愛しさと同時に胸苦しさを感じた。
夕餉の後、俺は行燈の灯を頼りに書をしたためていた。ようやく筆を動かすのに不自由がなくなったからだ。
送り先はやんごとなきお方。江戸幕府老中、水谷盛之。ユメの元情夫、御館様だ。手紙の内容は簡単なこと。あの男に聞かれた問いに答えるだけだ。
俺が調べていたもう一つの懸念事項。それは言わずもがな、ユメのことだ。
『あの二本差しを借りた水谷家のことなんだが』
十日ほど前になるか。店主惣十郎の代理で八丁堀の屋敷にやってきた菱元屋の若旦那、惣兵衛に俺は問いただした。
本当に菱元屋は水谷家と関係があるのかと。俺はまだ疑っていた。与謝野すら唸らせるほどの銘刀を、いくら借りがあるからと言って、商人ごときに貸し出すだろうか。ものがモノだ。使い道を聞かないわけもない。
「やはり、それをお尋ねでしたか」
惣兵衛は少しだけ身構えたが、すぐにそれを解き、俺に全てを教えてくれた。
「確かに、貸しはあります。あの方の散財は火浦様も耳にされたでしょう。ご自分では贅沢三昧をしながら庶民には節約を強いる。悪名高い御仁ではございましたが、菱元屋にとってはお得意様でしたから」
それでも昨今は、その浪費も目立って減っていたという。散財を尽くしたころは、ほとんどの商家が水谷に湯水のように金を使わせたらしい。価値のないものでも倍以上の値で吹っ掛けた。
だが菱元屋はお得意様であっても、無理な商売はせず、良心的に商いをしていた。ま、本人が言うんでどこまで本当かはわからないが。そのため、浪費をやめた今でも、取引があるのは菱元屋だけだと惣兵衛は言った。
「それでも、あのような高価で希少な二本差しを貸し出して頂けるとは考えにくい。もちろん、こちらも保証金を支払ってはおりましたが」
「そうだな」
「父は何も申しませんが、由夢之新様が店に来られてから話が進んだのは間違いないと思っています。火浦様はこのことはご存じでしたか?」
「いや、まさか。俺に言わずに行ったんだろうよ。ユメのやろう……」
俺が危惧していたことは、思い過ごしではなかったようだ。
「で、それはいつのことだ?」
「箕六屋さんが最初に来られた、翌日だったかと」
やはりそうか。あの日、佐之助の自慢気な報告を聞いた後のことを俺は思い出す。
『うまくいったみたいだね』
『おまえの出番はないって言ったろ?』
『別にいいさ。うまくいってんなら』
何もかもが繋がった。ユメは俺の策で、必ず現物の銘刀が必要になると考えたんだ。翌日、その当てがあると菱元屋の惣十郎に伝えに行ったのだろう。
市村に出向いて答え合わせをする必要もなかったが、時間のある俺は、再び陰間茶屋街の大門をくぐった。
俺の問いに勘左衛門は、もう隠すこともないと思ったのか、あっさりと白状した。
「さすが火浦様でございますね。そうです。ユメの元情夫。私どもが御館様とお呼びしていたお方は、水谷盛之様でございます」
俺がそうであってくれるなと願ったことは、いとも容易く覆されてしまった。
水谷盛之が、権力の中枢に登り詰めてから五年経つ。ユメを見初めたのが六年前の話だから、あいつを囲ってすぐに老中に任命されたことになる。その地位も買収によって勝ち得たものだとよく言われたものだ。
任についてからは、私欲を太らすことに懸命で政は庶民に我慢を強いる政策を打つばかり。総じて不人気の的だった。
だが一概にはそうとも言い切れない。私腹を肥やしていたにしては、まともな政策や結果を残してるのは事実だ。川や長屋の整備などに力を注ぎ、それにより景気も上向いてきている。あの噂は彼の政敵によるものかもしれない。
ただ、まっとうな見方が外に出だすと、権力を存続できなくなるらしい。そろそろ退陣という噂もまことしやかに囁かれていた。




