弐 御館様 その1
年の瀬が迫るころ、ようやく俺は包帯から解放された。力を入れるとまだ少し痛みがあるが、ものを持つくらいなら大丈夫だ。もちろん、箸も使える。
奉行所勤めもそろそろ再開だ。だが、その前にどうしても行かなければならない事態になり、足を運ぶこととなった。寒風に晒されながら、俺は奉行所へと急いだ。
「一体、何があったのですか」
誰もいない牢屋の前で、俺は佐々木殿に問いかけた。
「おまえには言わなかったが、与謝野はここに来てから、飲まず食わずでな。おしらべだけじゃなく、一切何も口にしようとしなかった」
与謝野は崎前藩の屋敷には戻らず、ここに残ることを選択した。藩士ではない。というのが理由だ。
そんなはずはないのだが、本人はそう断言したきり、口を噤んだ。
与謝野と初めて戦い、完敗した本試合から二年……いやもう、二年半になるか。あれは御前試合の予備選だった。あいつはそのまま本戦に臨んだ。そして見事優勝したのだ。
そもそもこの御前試合が催されたのにはワケがある。あの頃の江戸城には三つの流派の指南役がしのぎを削っていた。
だが、誰が考えても指南役など一派で十分。無駄に争いは起きるし、三派も必要ない。経費削減だとの声が上がり、それならどこが一番強いか決着をつけようとなった。
三つの流派だけでやりゃあいいものを、誰が言い出したのか、名のある剣士の腕もみたいと日に日に派手になっていった。
俺たち八丁堀なんかは、巻き添えを食ったようなものだが、ほかにも各有力大名のお抱え剣士も出場していた。
結局、本戦である御前試合に挑めたのは、与謝野と三派のうちのもう一つの代表剣士。そこで与謝野が勝ったわけだから、当然、彼の流派が指南役として残るはずだった。少なくとも俺はそう思っていた。
だが、そうじゃなかったらしい。一体どういうわけで与謝野は江戸城を出て、崎前藩の若殿の用心棒になったのか。
不自由なく歩けるようになってから、俺は暇に飽かして懸案だった二つのことを調べていた。その一つがこれだ。
御前試合の担当だった事務方に会いに行ったり、裏事情をよく知る長行の同業者から話を聞いた。何故与謝野の流派が指南役とならなかったか。与謝野は試合ではないところで負けていたようだ。
御前試合の直後、彼らと敵対していた流派が、試合は八百長だと主張した。証拠は何もなかったし、あり得ないことだ。
それなのに、何故か主張が受け入れられ、与謝野の流派は江戸城から追放され、解散に追いやられた。
根も葉もない嘘が認められたのは、買収があったからだと言われている。指南役を奪った流派は幕府との繋がりも深いうえに、組織も最大で資金力が勝った。
江戸城では何かにつけて賄賂の影が付いて回る。現老中の悪政の賜物だった。
――――勝負は最初から、付いてたってわけか……。
江戸城から追い出された与謝野たちは、散り散りになったという。彼らの流派は俺や長行が感じた通り、奥州で生まれた独特なものだった。
珍しもの好きの前将軍が招いたらしく、江戸には縁もゆかりも薄かった。そのため職もなく浪人のままの者もいるようで、与謝野に思うところがあったとしても、崎前藩に拾われたのは幸運だったのかもしれない。
「それでは、辻斬りの件は何も言わずに」
俺が独り言のように呟くと、佐々木殿は大きなため息を吐いた。
「そうだ。朝、ここで倒れていた与謝野に、与力殿が帯刀したまま近寄ったのだ。油断したのだろうなあ。さっきまで意識朦朧としていたとは信じられないほどの素早さで御立殿の脇差を抜くと、自らの首を切り裂いた」
恐らく腹を切るほどの力はなかったのだろう。首にある大きな血脈を斬れば、たちどころに死に至る。それとも自分には切腹をする資格はないとでも思ったのか。
「私に……何か言い残してはいなかったでしょうか」
そんなこと、あるはずがない。だが、聞かずにはおれなかった。あの時、与謝野を倒せたのは本当に俺の力だったのか。
あの瞬間、何故与謝野に隙が出来たのか。それは偶然でも油断でもなかった。そんな気がしていた。
菱元屋で襖越しに感じた殺気。まさかとは思うが、あの時から与謝野は自分の行く末を予感していたのかもしれない。
「さあ……それは聞いていないが。牢番にでも聞いてみるといい。だが、ここに入ってから、与謝野は一言も発してないと思うぞ」
「そう……ですか。ありがとうございました」
俺は一礼をして、その場を去った。牢番にも声をかけたが、望んだ答えを得ることはなかった。




