漆 その2
「おい、そこの男」
藩士の一人が声をかけた。ぴくりと肩を揺らして立ち止まるユメ。うまいな。使い手というのがバレないよう、背中を丸めている。
「なんでございましょう……お侍様方」
不安そうな表情で(と言っても暗くてよく見えないが)、ユメは振り向いた。あいつが手に持っているのは提灯だけだ。俺は柄を握る。全身に嫌な汗が滲む。
ざっ。と、砂を蹴る音がして、藩士たちがユメの周りを取り囲んだ。そうか、こうやって逃げ場をなくしてから斬るつもりか。なんて奴らだ。それでも武士かよ。
「物騒だぞ。こんな夜道に一人歩きは」
「じょ、冗談はよしてください」
取り囲んだ四人の藩士が柄に手をやると、ユメの真ん前に立つ若殿が勿体ぶるようなしぐさで刀を抜いた。与謝野はまだ動かない。だが、もう限界だ。
「安心しろ。切れ味鋭い刀だ。痛みも感じまい」
てめえの腕はどうなんだよ。いや、突っ込んでる場合じゃない。若殿は不格好に刀を振り上げる。
ひええっ! と、ユメが後ろに下がった。後ろの連中が刀を抜くことはあり得ない。もし、主よりも先に獲物を傷つけでもしたら、間違いなく自分が代わりに斬られる羽目になる。それを見越しての動きだろう。
連中の下卑た笑い声が聞こえてくる。ユメが背中を刀の柄で小突かれた。俺はそこでブチ切れた。
「待ちやがれ!」
俺は叫び、土を蹴った。だが、若殿は気にもせず振り上げた刀を今まさに振り落とそうとしている。その無防備に開け放たれた懐、素早く黒い影が侵入した。
「げっ!」
醜い蛙が潰れたような声がした。若殿の腹にユメの膝が入る。と同時に、下ろし損ねた刀はユメの手にあった。
「えっ!」
「おいっ! なんだ貴様は」
目にも止まらぬ速さに一同は驚き、一斉に一歩後ずさる。若殿、加納重義も何が起こったかわかっていない。腹を痛そうに抑え、目の前の町人を驚いた表情で見上げていた。
「おいたが過ぎるや、お侍様。町人を斬るなんざ、趣味が悪いよ。ねえ、旦那方」
駆け付けた俺と佐々木殿に、笑みを浮かべてユメが言う。あんな蝿が停まるような腕に、おまえが傷つけられるとは思ってないが心臓に悪いわ。
「馬鹿野郎! なんで大人しく……」
そう言いかけた途端、与謝野が刀を抜いた。
「囮か……気付かないとは、私も焼きが回ったな」
その場にいた全員が刀を抜く。それと同時に、背後で伝八と与市が力いっぱい笛を吹いた。
「町方が! くそっ」
「おまえたち、何を唖然としてるんだ。与謝野っ。こいつら全部、たたっ斬れ!」
ユメに打ち刀を奪われた加納重義はようやく体を起こし、笛に驚いて動けない部下や与謝野に命令した。悪いが斬られるわけにはいかねえよ。
「佐々木殿、ユメ、連中は頼んだ。与謝野……てめえは俺と勝負だ」
「なんだと……私を知っているのか」
「あんたは覚えてないだろうけどな」
俺は与謝野の眼光を睨みつけながら刀を抜く。ゆっくりと間合いを取り、呼吸を整えた。
「覚えてないな」
ふっ、と息を吐いたと同時に切っ先が目の前で光る。
「忠親様!」
「黙ってろ、気が散る!」
叫んでんじゃねえよ、馬鹿やろ。俺はとにかく集中しなければならないんだ。おまえはそっちで雑魚の相手でもしてろ。
切っ先を寸でのところで躱した俺は与謝野に向けて刀を叩きつける。難なくそれを受ける与謝野。
ギリギリと詰め寄ると間近に相手の表情まで見えてくる。俺の心臓は今にも飛び出しそうなのに、全く動じない様子で俺を見てやがる。
あの頃と同じように自信に溢れている。だが、何かが違う。当時はもっとまっすぐに俺を見ていた。相手を突き刺すような視線は変わらないが、どこか屈折した自虐めいたものを感じるのは俺の勝手な想像か。
「その程度では、おまえ、死ぬぞ」
「てめえも黙ってろ」
さっと離れ、お互い一定の距離を保ちながら円を描くように足を運ぶ。飛び込む隙を見計らう。呼吸を整えたいのに、心臓が逸って難しくさせる。おまけに周囲の音が俺を冷静から遠ざけた。
ユメと佐々木殿、それに佐之助が加わり砂を蹴る音が聞こえてくる。奴らの腕から考えて、間違いないとは思うが、奇声が上がるたびにぴくりとしてしまう。だから出て来るなと言ったのに。
「気が散ってるのか。命取りになるぞ」
「ご親切に」
言葉を吐いてる余裕なんかあるわけない。だが、全身に入り過ぎていた力がすっと抜けた。
俺は振り上げていた刀を中段までに下げていく。できれば殺したくない。あれほどの人物が、何故ここに行きついたのか、知りたくもあった。
与謝野が利き足を踏み込む。その一歩前の動きを読み、俺も前へ出た。再び乾いた金属音が夜空に響く。一太刀が重い。
だが、死ぬぞと言われて、はいそうですかと殺されるわけにはいかねえ。ユメの前で死ねるかっ。再び弾けるように離れた。




