陸 その2
約束の時刻、菱元屋の屋敷は慌ただしくなった。客が来たのだ。
伝八からは客の人数や風貌の情報は得ている。頭巾を被ってのお出ましだが、若殿と与謝野、それに取り巻き二人の計四人が菱元屋の最も格式の高い応接間に入ってきた。
襖を隔てての逢瀬だから、残念ながら音しかわからない。そのうえこちらの部屋では物音ひとつ立てられない。気配を消さなければ、若殿連中はともかく、与謝野は気付くだろう。俺とユメは息を顰めて聞き耳を立てた。
「ようこそお出でなさいました」
「菱元屋はん。私どものお客様ですが、お名前は伏せさせてもろうてよろしゅうございますね? そちらの売主様もご内密ということですから」
「構いません。被り物の方は……」
「無礼であるぞ。町人ごときに見せる必要はなかろう」
取り巻きの一人が言う。頭巾は取らないつもりらしい。
まあ、構わない。こっちはもう、野良犬のような下品な顔はきっちり拝んである。佐之助が不満げに鼻を鳴らしたのが聞こえた。
「三河の国の名工。小野繁慶の作でございます。お確かめください」
そんなやり取りをさらりと受け流し、惣十郎が畏まった様子で口にする。何かが動く音がしたので、誰かが刀剣を手にしたのだろう。
与謝野伊織は襖の向こうに確かにいるはずなのだが、全く気配がしない。息もしていないのではと思うほどだ。
しかし、ここでの奴の役割は、この会合に相応しくない人物はいないか、自分の主に危害を与えるものはいないか、そして、恐らくは二本差しの鑑定だろう。
「これは……見事だな。伊織、どうだ」
若殿の声は初めて聴いたが、下品な男にしては少し高めでよく通る。
水谷家の逸品だ。悪いわけがない。当然刀袋は外してあるので家紋でそれが知られることはない。
衣擦れの音がわずかにする。打ち刀を与謝野が見分しているようだ。俺とユメは思わず閉じられた襖に向けて身を乗り出した。
――――はっ!
その時だ。身の毛がよだつような殺気が放たれた。一瞬のことだが、ユメも感じたのだろう、咄嗟に俺たちは視線を合わす。
軽く畳を踏み込む音、まるで襖を越えて自分が斬られるような鋭敏な感覚が襲い、俺は隣にいたユメの前にその身を被せた。瞬き一つ分の間もなかったろう。俺たちはそのま凍り付いた。
「間違いございません」
カチリと音が鳴った。刀を納めた音だ。それに続き、感嘆の声がため息とともに流れた。張りつめていた部屋は落ち着きを取り戻した。俺達も胸を撫でおろす。
後で佐之助に聞いたところによると、与謝野は手にしていた半紙をさっと放り投げ、瞬時に刀を振った。
それは触れるか触れないかのところで音もたてずに二つに分かれたという。その切れ味の凄まじさと見事な剣技に思わず声が漏れたのだ。あの殺気は俺達に気づいたのではないと信じたい。
「これほどのものなら、異存はない。箕六屋、後はおまえに任す」
「承知いたしました。お任せを」
どうやら二本差しは気に入ってもらえたようだ。商談はこちらも惣十郎に任せている。三日も猶予があればありがたいと伝えているので、そのようにしてくれるだろう。
刀の受け渡しは当然だが商談成立後、箕六屋が持ち運ぶことになった。今すぐ欲しいと駄々を捏ねられなくて助かったよ。
四人の武士たちは菱元屋を後にした。俺とユメはそれをこっそりとつけていく。万が一にも、心躍って誰かを斬りたくならないとも限らない。
闇に紛れ、一行は月下の町を足早に過ぎていく。何かを狙っているわけではなさそうだが、明らかに周りを気にしている。与謝野は目の中の瞳だけを動かしているのか、首を振る動作は見られなかった。
「忠親様は、あの男、知ってるんだよね。手合わせしたこともありそうだ」
連中が武家屋敷の中へと吸い込まれた後、ユメが俺に尋ねた。
「ああ。しかも本試合だ。防具がなかったら死んでたかもな」
もちろん刀も真剣ではない。だけど、正確に胸を突かれた。もし、胸の防具がなければ死んでただろう。あのあと、息ができなくてそのままぶっ倒れちまったんだから。肋骨が折れてたのもご愛敬だよ。
「そうとう出来そうだよな。で、勝てる? 今度は真剣だよ」
ユメの言葉に俺は答えることができない。ゾッとしないが、本当のことだ。真剣で命がけなんだ。
だが今度は一対一でやる必要はない。捕り物になれば、刀以外にも道具を使うことができる。
「総合力で勝つさ」
「弱気な答えだなあ。俺も加勢してやるよ」
「馬鹿やろっ! ガキは引っ込んでろっ」
何言ってやがる。おまえは家で猫と遊んでりゃいいんだよ。
「なんだよ。俺はガキじゃないよ。ムカつくなぁ」
冷たい風が吹いてくる。背中を丸めて歩く俺を、ユメは不満いっぱいの視線で見送る。じじいみたい。っていう呟きが耳に入った。
「じじいだとっ!」
「聞こえた? 耳はまだいいんだ」
「んだとっ。てめえ、しばくぞ!」
「あははっ! しばいてもらいたいかも。忠親様なら構わないよ」
「な……」
ユメの弾けるような笑顔が月明かりに映える。艶のある肌が白く浮かび上がった。どうしてそんなに俺の心をざわつかせるんだ。
「それに……さっき、嬉しかった」
「なにがだ」
「与謝野が発した刃物のような殺気。忠親様も感じただろう?」
もちろんだ。全身鳥肌が立ったよ。俺は口にすることなく、猫背のまま頷いた。
「俺を守ってくれてたよね」
月下が零した雫のように、妖しく光る瞳。俺は、その妖獣から目を逸らす。
「そりゃ、おまえを守るのは俺の仕事だ。そう言ったろ……おい、なにしやがる」
「寒いんだろ。今夜はもう何も起こらないよ。さっさと帰ろうぜ」
ユメは俺の手を取ると、足早に前へと歩く。俺は思わずつんのめりそうになったが、何とかこらえた。あいつに引きずられながら歩を進める。
さっきまでの妖しが、まるで無垢な子供に変化したようだった。




