伍 その3
「先生、忠親様」
そんな俺の気持ちを見透かしたような、ひんやりとした声が耳に届いた。俺は縫い針で刺されたように肩をピクリと動かした。
「ユメじゃないかっ。どうした。火浦がここにいるとよくわかったな」
この微妙な空気を全く読めない長行が声を張る。ああ、そうか、ユメには最初からわかっていたんだ。
「ううん。まさか道着も道具もないのに、ここにいるとは思わなかった」
「じゃあ、どうして?」
「佐々木様がいらして、先生を怪我させた男は大した手練れのようだからって……」
「佐々木殿が?」
どうして、俺の屋敷になんかいらしたんだろう。しかも、ユメにそんなことを言うなんて。
それとも俺に用があったのか。手持ち無沙汰でユメに余計な話を? いや、ユメのことだ。うまい具合に聞きだしたんだろう。
「だから、まさかとは思ったけど、念のために来てみたんだ」
「ガキじゃあるめえし、余計なお世話だよ」
俺は立ち上がり、道場に向かう。
「着替えてくるから待ってろ」
「怒るこたないだろう。なあ、ユメ」
長行がユメに何かを言っている。俺はそれを背中で無視して道場へと入っていった。
朱に染まっていた空がいつの間にか薄闇に変わっている。俺の後ろを歩くユメの気配を感じながら、家路を急ぐ。激しく動いたから腹も減った。
「佐々木殿は何しに来たんだ」
道場を出てから何も言わないユメに話しかけた。
「どうだろう。いないって言ったら、稽古にでも行ったかなって。自分も同じこと考えてたからって」
そうか。佐々木殿は俺と稽古をしたかったのか。それは悪いことをしたな。佐々木殿の腕は知らないが、何の根拠もなく強そうに思える。
与市に後を付けさせる時、ガタイのいい侍には気を付けろと言っておいたのだが。佐々木殿にも伝わったのだろうか。
「それで、道場に来たんだな、おまえ」
いつの間にか俺の隣に並んでいるユメに尋ねた。
「ああ。先生に怪我させた奴のこと、知ってるようだって言ってたし。もしかしたらと。にしても、こんなにへばるまで打ち合ってるとは思わなかった」
「つい力が入ったんだ。命のやり取りになりそうだしな」
「俺……」
「なんだ?」
ユメは少し言葉を濁す。いつも切り裂くように話すあいつにしては珍しいことだ。
「俺だって、相手になれるよ。わざわざ道場に行かなくても。屋敷にも場所あるし」
いつもは中庭で朝稽古をしているが、我が屋敷にはそれなりの武道場がある。長行の道場に比べれば、半分ほどの小さなものだが。
「おまえじゃまだ力不足だよ」
「なんだよ……先生とやりたかっただけじゃないの?」
とげのある言い方しやがる。俺は前を向いたまま続けた。
「嫌味な言い方だな。それともなんだ、妬いてんのか。おまえ……気付いてたんだろ?」
汗を思い切り掻いたからってわけじゃないだろうが、俺はもういいか、って思った。触れたくない感情だったけれど、もう今更だ。自ら踏み込んだ。
「そうだよ。そう、妬いてるし、気付いてた。言ったろ? 初恋だったんだなって」
ユメの視線を感じ背中がざわざわする。初恋か……そんな甘ったるいもんでもなかったがな。
「今はなんでもない?」
「今も昔も、なんでもねえよ。俺は、自分の気持ちに気付いてなかったんだから」
それは嘘だ。俺は気付かないふりをした。長行への感情は、親友では片づけられないものだった。けど、そんなことはない。あってはならない。そう何度も言い聞かせた。
『火浦、お絹のことどう思ってる? 実は、あいつのこと気になっててさ。それと……これは言いにくいんだが、妹のおしのはおまえのこと好きみたいなんだ。まだガキだが、早めにもらってやってくれないか?』
複雑に絡まっていた俺の感情を、考えてもいなかっただろう長行からそう言われた。俺はどう答えれば良かったんだ。
『お絹さんはいい人だな。でも、おまえの方がお似合いだ。試合でもして勝った方が誘えるってどうだ? いや、冗談だよ。
おしのが俺を? そうかなあ。おまえの見込み違いだろう。そんなふうには見えないし、俺も妹としか思えねえよ』
そのあとすぐ、おまえは俺に試合を申し込んできた。見え見えなんだよ。俺はそれを受けることで、自分の気持ちに決着をつけた。
おしのがまだ嫁に行かないのが、俺には重荷だ。道場から足が遠のいたのはそのせいもあった。
「忠親様」
俺の意識が過去と今を行き来する。今に戻すユメの声がした。
「なんだ」
「今は、俺のこと好きだよね」
もう顔が見えないほど暗くなっている。灯りを持ってこなかったのはしくじったな。てか、おまえが持ってこいよ、ユメ。
「くだらないこと言ってんじゃねえ」
「くだらなくないよ……」
ユメが俺の手に指を絡めてくる。寒さに凍えているのか、冷たい指先は少し震えていた。俺は何故、こんなことをユメに言っちまったのかな。
「帰るぞ。もう、夜になる」
俺はユメの絡めた指をそのままに引っ張った。今はこの凍えた手指を暖めてやりたい。
「うん」
少しは機嫌が直ったのか、明るい返事が聞こえてきた。俺たちはそのまま何も言わず、家路を急いだ。




