壱 花形陰間由夢乃丞 その1
奉行所の板張りが冷たく感じる。中庭の庭木も色づいてきた。暑いのも嫌だが、寒いのはもっと苦手だ。秋が深まるこの時期は、俺を憂鬱にさせていた。
俺は北町奉行所の廻り方同心、火浦忠親。急逝した親父の後を継いで三年めの若輩者だ。
だが、十手を握ることは母親の腹の中にいる時から決まっていた。その日のためと、剣の腕だけは磨いてきたので覚えはある。
御影一刀流の免許皆伝。ま、捕り物はゴロツキ相手ばかりだから、披露する場はないけどな。
「おい、火浦。ちょっと来い」
なんだ。上司の御立与力殿が俺を呼んでいる。何か事件でも起こったんだろうか。
「あのな、ちょっと訳ありの事件なんだが、行ってくれないか」
傍まで行くと、耳打ちしてきた。なんだろう。いつもえばり腐っている御立殿がどうしたことか。俺なんかにえらく遠慮がちに物を言ってる。
「もちろんでございます。ご命令とあれば」
「しっ! 大声出すな」
怒られた。マジで訳ありのようだ。
「おまえに芳町の陰間茶屋に行って欲しいんだ」
陰間茶屋? 昨晩、蕎麦屋の店主と話したばかりだ。なんだ、呼び水にでもなったんだろうか。だけど何故俺が? あそこは俺達の管轄じゃねえ。
「それは……構いませんが。なんでまた。あそこは……」
「ああ、わかっている。従来なら、中のことは中で済ませてもらうのがしきたりだ。だがな、今度ばかりはそうもいかねえんだよ」
御立与力は顔がくっつかんばかりに近寄って話をする。めったにべらんめえは出ない方なのに、そんなに切羽詰まっているのか。
「おまえ、菱元屋を知ってるか?」
「はい、それは。江戸で知らないものはいないでしょう」
菱元屋。江戸で五本の指に入る豪商だ。城下町一の大店を市中に持ち、手広く商売をしている。
「そこの若旦那が今度の事件に絡んでるんだよ」
与力の御立殿は、神妙な顔つきのまま事の次第を話し始めた。
菱元屋の若旦那は、高級陰間茶屋、『市村』の常連客だった。俺が蕎麦を食ってたあの夜も、彼は贔屓にしていた陰間に会いに来ていた。
「その陰間、桜花が殺されたんだ」
声はさらに低まる。陰間、つまり男娼だ。殺されたのは気の毒だが、殺しなど、江戸の街では珍しくもない。ましてやそんな売春宿ならよくある話じゃないか。
「現場の状況から、犯人は菱元屋の若旦那、惣兵衛と疑われているのだが、当然ながら本人は否認している。けどな、このまま茶屋街に任せてたら、惣兵衛が犯人とされるのも時間の問題だ」
ははあ、なるほど。そこでようやく合点がいった。与力殿は菱元屋と繋がってるわけですね。で、若旦那を助けてくれと、親に泣きつかれた。じゃあ、自分で行けばいいじゃねえか。と、俺の心の声。
「私は表立って動けんのだよ。わかるだろ? それにあの場所は火浦のような若くて男前の方が歓迎される。それを見越してのことなんだ」
あんたの気持ちはわかるけどわかりたくない。変なよいしょされたって、あんまり嬉しくねえな。どうせ与力殿はこれを『貸し』とか思わねえだろうし。でもまあ、乗ってやってもいいか。このところ、大した事件もない。
「承知しました。ですがもし、若旦那が真犯人なら仕方なしでよろしいですね?」
「それは承知している。おまえに任すよ。だけど、私も若旦那のことはよく知っている。人殺しなんてできる男じゃないんだ。しっかり調べてくれ。おまえは顔だけじゃなく頭も切れる。だから頼んでるんだ」
「はあ……」
俺は曖昧な返事をしてその場を立ち去った。
――――陰間茶屋か。実は一度行ってみたかったんだ。噂の美少年を見たくてね。
俺が面倒そうなこの事件を引き受けたのはそのためだ。ただの興味と言われたらそれまでだが、生きてるうちに拝めるものなら拝んでみたい。そんな軽い気持ちだった。今にして思えば、とんだ出来心だったな。
番屋で岡っ引きの伝八を拾い、俺は陰間茶屋街に乗り込んだ。
昨夜寄った屋台はこの時間にはまだいない。角を曲がると、黒塗りの大門が見えてきた。こいつがこの世とあちらを分けている。この門をくぐれば、そこは文字通り別世界だ。
少々派手めな宿屋のような陰間茶屋が、大小合わせて数十軒、道沿いに並んでいる。
かつては芝居小屋に併設されていた売春宿で、売れない役者が舞台に立つ代わりに体を売った。だが、今はもう芝居をする場所もないし役者もいない。女形の恰好をする者も少ないという。
つまり、普通に男が男に春を売るだけの場所だ。今はまだお天道様の明るい時分。普通の宿屋街と変わらなく見えるが、日が沈み空が暗くなるころには、全く違う顔を見せるのだろう。
「お役人様。ご苦労様でございます。私は市村の店主、市村勘左衛門と申します」
事件のあった高級陰間茶屋(吉原で言えば大見世にあたる)、『市村』に行くと、いきなり店の主人が出てきた。
恰幅のいい商人風の男で、売春宿の店主にしては品が良い。やはりこの殺人事件は、彼らにとっても大事のようだ。
市村はここいらで最も大きく立派な造りの大店。普段ならこの上り口に陰間たちが並んで客を待っているのだろうが、今は閑散とし、帳場の前に一人の番頭らしき男が座っているだけだ。
「ああ、野暮は承知で出張ってきた。よろしく頼む」
「存じております。どうぞ、しっかりとお調べください。このままでは桜花が浮かばれません」




